これは、2026年2月に開催された「文学フリマ広島」に行った日の記録から、ドキュメント部分をカットし、購入品紹介(書評)とあとがきのみを先に公開するものです。(当日の模様は動画を作る予定)
【注意事項】
甲:著作者の制作意図や文意と異なる解釈をしている可能性を含みます。
乙:書いてるうちに人格が変わるので一人称や語尾が統一されていない箇所があります。漢字も正・略が混ざってますが、そのままにしています。
丙:公式では「出店(出店者)」となっていますが、本記事では「出展(出展者)」としています。
丁:本記事の一部または全部の転載・機械学習行為を禁じます。
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①中澤亞湖『呼吸の記憶』

まづはこれを紹介する。これは私が愛用してるキャンパスノートと同じくらいの大きさで、そこにばっちりと海原の写真が使われている。実物をみるとやはり惹かれるものがあるが、これはジャケ買いだ。しかも今回購入した中で一番好きな表紙だ。とにかくこの海は一目で気に入った。私を惹きつけて止まない力がある。
一応中も見せてもらったけど、本当にキャンパスノートみたいなページがあって、そこだけ文字が手描きされている。びっしりではなく、余白が異様に多い。ほかのページは写真がメインで文章もワープロで打たれたものだが、この演出は何なのかとしばし考える。「呼吸の記憶」という題名。「呼吸」は「生」を意味するので、生きてきた記憶と解釈してみる。その中で個別のビジョン(回想)を切り離した時にふっと出て来るため息のような想いか。
写真は表紙に違わずかなり意識的な芸術度の高さがうかがえた。特に対象を同列的に重ねるような写真はメッセージ性が深まり面白いし、私には撮れないものだ(そういう発想が無い)。
写真(あるいは写真群)には短い文章が添えられているが、どちらかというと写真との関連性は薄めに思えた。だが無作為に配列したものではなく、恐らくは意味づけられているであろうから、そこは語り手(作者)と読者の相違とみることもできるし、視点人物の視ている景色と心象の相違と解すこともできよう。あるいは、記憶と記録の齟齬か。紡がれる言葉はどれも、写真が放つ雰囲気とは逆で重苦しさがある。このギャップが、著者の記憶なのだ。それは最後の一文に端的に示されている。きらめきと苦しさとが綯い交ぜになった記憶なのだと――。しかし著者はそこに温かみを感じてもいる。それが救いである。
私とほぼ同時にもう一人お客があり、私は結局この海が何処なのかは聞きそびれた。
けれどそれで良かったように思う。読み終えて見れば、この海は現実に存在する海というよりも著者の記憶のうちの、半ば心象風景的なイメージと思えたからである。
構図は太陽を大胆にカットし、題名は空に溶け込ませてある。下辺の色味の濃い部分は半透明の帯をつけて淡い感じに滲ませている。これによって視線は中央の海原へ釘付けられ、そこから空へ目を転じたときに薄らと題名が目に入ってくる。
私はこの海原の写真もまた、ほかの多くの掲載写真と同様に対象が二重になっているのだと気付いた。その重ねられた対象とは、光である。この波間の白光、彼方から届く一条の白き大帯、ここにわづかだが何かを感じる――。
龍の気配ではないようだ。気配が曖昧なのは他者の視点・撮影だからというのもある。写真はその撮影者の思念を写すものでもあるからだ。すなわちこの写真が撮られたときの思念が、現実の風景と二重写しになっているとも言える。
本書の題名でありそしてこの写真の題名でもある「呼吸の記憶」、それはここに「呼吸」があったということである。それは誰の呼吸であったか。撮影者は言うまでもない。撮影者とは別に、もう一つの呼吸があったのだ。それは撮影者の横に居た人物かも知れない。この海原自身であるかも知れない。この海原の表紙を手にする私では、恐らくなかろう。
だが、この写真が撮られた時、私はいづこに居たか。私は何故この写真に惹かれたのか。そして私がこの写真(本)を手にした時、海の彼方には作者が居た。私は緊張の面持ちでしばらく見つめた後「これをください」と告げた。中は別として、この表紙の一枚には、其時私の「呼吸の記憶」が確かに刻まれたのだ。この切り取られた海と伴に。
裏表紙も興味深い。本を裏返すと、帯の端に一文がある。つまりこの帯は写真の一部をぼかす効果だけでなく、帯文としての役目も持っている。ここにも「二重性」が看取できる。そしてこの写真の端の部分に注目してほしい。ここの切り端というのが独特で、なんだか焼けているようにも見えるのだが、かといって紙が燃えているようには見えない不思議なデザインなのである。
龍と言えば、本書の終盤に出て来る水面の写真に龍の気配がある。表紙以外では、その暗い水の中から浮かび上がってきたきらめく龍の写真が好きだ。
最後の奥付を見て、気になって居たことがほぼ確信に変わる。
奥付の「製本・印刷」の欄はサークル名になっている。つまり手作りということだ。
少し、ほんの少しなのだが、小口(背表紙の反対側)が不揃いに感じていた。そして写真の合間に、キャンパスノートに手書きした体裁のページが収まって居る不思議も納得した。
しかし俗に「コピー本」と呼ばれるもののイメージとは違って、完成度はかなり高い。用紙は厚紙で平綴じがされ、帯が付いているのも本格的というか、こだわりを感じさせる。
記憶に留めたこの海を、探しに行く旅も悪くはないなと、ふと想った。
②雨宮蒼『マリンブルーの追憶』

次に買ったのは同じく海の写真が表紙に使われた本である。文庫サイズでこぢんまりとしているが、これもまた良い海だ。これは逗子のあたりの海らしい。これも、ジャケ買いである。
神奈川の海で想い出すのは鎌倉よりも城ヶ島だ。否、あそこは海というよりごつごつした海食崖と岬だった。もう一つは由比ガ浜。中世を勉強してた影響もあって処刑場のイメージが強い。そこで目にしたのは黒々とした海砂と、灰色の空。
まだ私の知らないこんな綺麗な海もあるのかと、しみじみ表紙を眺める。
タイトルは小さく目立たないようにして、自身の名前は波打ち際に溶け込ませるように配置してある。小さい波をメインに、日の光は入れず、遠景には島を半分ほど入れる構図である。視線が留まるのはこの島だ。島影の見える海はやはり良い。何か希望のようなものを懐かせるからだ。そう、あそこへ行ってみたらどんなだろうというような。きっとそんな感情が、神々の旅路となり、あるいは禁足地への侵入へ古代の民をいざなったのだろう。
とにかく色味が美しい。この青色のグラデーションを波が大胆に崩している。その小さな波と、更に細かな泡に、生命を感じる。
「追憶」という言葉は趣のある言葉の一つだが、不思議なことに私もその言葉を「靑」と結びつけたことがあった。かつて気まぐれに書いた短い小説に『靑の追憶』という題を冠したことがあった。
「靑」という色彩には特別なものがある。若さ・青春というようなニュアンスと、虚空や海原といった悠久の無限的広がり――、永遠の憂いとでも言うような、声なき慟哭、静かな衝動、揺らぎの季節といったものが内包されている。
梶井基次郎は、雲が湧き立っては消えてゆく青空の中に虚無を観て「白日の闇」と言った。それを覚知するまでの梶井の認識は実に「悲しいまでノスタルヂツク」なものであった。悲しいほどの郷愁が虚無としか感ぜられなくなるというのもまた或種の揺らぎであろう。否、揺らぎの果てと言うべきか。
然るに本書の題名・表紙は、同じブルーでもスカイだけでなく「マリーンブルー」もある。
marineには「海に住む」といった意味がある。写真の比率ではスカイのほうに分があるが、題名はマリンを指名している。
果してその内容や如何に。
結論から述べると、表紙および題名が私に惹起させた感懐は、全体からするとほんのわづかであり、それが少しばかり意外であった。
内容は短歌である。序盤は春の歌。表題のフレーズは中盤の夏の歌の一首に見られる。それから秋、冬の歌へと展開する。
興味深いのは春テーマの部の表題が「かすみたつ」で、初手の歌にて異世界への注意喚起がされている点だ。夢・眠りと半覚醒、夜と夜明、現実と非現実、あるいは意識と無意識の行きつ戻りつが、それこそ波のように展開していく。追憶自体が「現在」から見た「過去」でもあるので、寄せては返す波と、満ちては退いていく潮とが、省みる記憶とリンクしているとも言える。
ところがそれらはまた「季節」すなわち四季の流れの中にあるのが面白い。言うまでもなく季節は一方通行の流れである。循環はすれどもそれは巻き戻しではない。逆行する追憶と、前進する季節――、その狭間で行ったり来たりする波の運動は、物語人物(詠み手)の現実での思考や行動にそのまま現されている。
それはまた生と死の揺らぎという形でも、見え隠れしている。私自身がまさにそうであったが、「死」というモノは波のように不意に寄せてくるのである。普通は濡れないように、そして引き込まれないように逃げるだろう。だが、波打ち際の誘惑は若い時分誰しもが一度や二度は経験する。
夏テーマの部の表題は「ほととぎす」。
藤原実定の詠んだ百人一首を口ずさんでみる。
「ほととぎす 鳴きつるかたを眺むれば ただありあけの 月ぞ残れる」
余韻が良いんですよねえ。
ん?
閑話休題、秋テーマの「をみなえし」を経て、冬テーマの「あわゆきの」と続くが、揺らぎは継続し、最後は寒椿の落花で唐突に締められる。
「曇天のソメイヨシノ」から「冬空の寒椿」、ここに断ち切りの意思を見る。この次々押寄せる揺らぎの容赦ない断ち切りは、小泉八雲の『むじな』をほうふつとさせて、そこはかとない不安感を残す。
八雲の場合はエンドレスの怖さだが、本書の場合は死である。しかしそれは暗示しながらも決定的なものではなく、何処か夢から覚めてしまったかのような不意の覚醒にも似たもので、巻頭の歌に絡めるならば異世界の終焉ということになるだろう。だが、若者にとっては現実もまた、否、現実こそが不安の最たるものでもあるだろう。少なくとも自分はそうであったし、今もまだそうである。
そうであるとすれば、その死というのは、命の絶たれる肉体的な死ではなく、若い精神の死とでも名づくるべきものである。
表題を含む歌には「夢(見)」「溺れる」というワードが出て来る。また冬の部で「死」について直接的に触れた歌もあるが、そこでも深海に溺れるというモチーフが出て来る。
そこで共通するのは「溺れる」ことがどこか楽観的であり、それに附随する原因や結果に悲壮感が希薄だという点である。それは死の軽視ではなく、揺らぎに伴う刹那的な受容であったと見るべきであろう。そう、若者は死に対し幻の美や虚構の永遠を感じて、いとも簡単にその一線を越えようとする。逆説的に言えば、それは現世における生があまりにも穢らわしく醜いのである。死が輝いて見えるほどに。
冒頭の歌にある「異世界」とは何だろうかと改めて考える。
「曇天のソメイヨシノ」についても暗喩ではないかと考えてみる。
梶井に影響されたわけでもないのだが、以前と比べて私は櫻というモノにほとんど魅力を感じなくなっている。元々櫻に対する一番の魅力は「散る桜」であった。一陣の風に吹かれて一斉に枝を離れていくその様に、咲き誇る以上の美を観て止まなかった。あるいは人知れぬ山の水の辺で、里の者以外の目に触れることもなく美を振りまいて年月を重ね、かさかさの表皮に似つかわしくない花実を数多結び、いつしか「姥桜」などと呼ばれ、稀に通り掛かる旅人を驚かす、そんな機織小屋の尼のような櫻だ。
美しい死などというモノは幻想だと人は言うだろう。だが敢えて言えば、それは老成した考えだ。
意識が溌剌と若い人は、死を美的に、魂の輝きの混じりけない燃焼の如く観るものだ。少なくとも私はそうであった。死に、永遠を重ねる日々があった。それは今にして思えば生と死の揺らぎの季節でもあった。
ここでは櫻ではなく「ソメイヨシノ」と、花種が指定されている。染井吉野は江戸時代に人工的に生み出された品種である。それまでの山桜にかわって櫻の代名詞的な扱いをされているが、要は不自然な作り物である。その特徴は同じ遺伝子を持つことにあるから、同じ地域のソメイヨシノは皆一斉に開花し、一斉に散ることとなる。
また「曇天」は晴れでも雨でもない、どっちつかずの空模様である。三寒四温と言うが如く気温も微妙な感じだろう。その下でプロヂュースされた花が咲き誇り、花見と称する乱痴気騒ぎが繰り広げられるのだ。
私に言わせればそれは異世界と言うより虚無である。単にその現場がというだけに非ず、ソメイヨシノには他の植物を寄せ付けない雰囲気がある。造られた美は自然美の中では浮いている。だから同じ春の花である菜の花が似合うのも、ソメイヨシノではなく、山桜だ。もしも似合う場合があったなら、それはきっと配置も生育も人の手で管理されているに違いない。
ピンクというよりも白に近い山桜は、古びたぬいぐるみのような愛しさがある。
ありのままで、誰のためでもなしに、ただ人知れず咲いて散る。そこにあるのは虚無ではなく虚空だ。晩年の釋迦が真実を説いた、あの虚空である。その時その虚空へは、裂けた地底から無量千万億の金色の菩薩が湧出してきたという。
日本人ならその場面をどう表現しただろうか。
うたかたの 憂きて弾けて 寄せ弾け 常世の底より 四方に金龍
③水無瀬みみ『Blue』

続いてこれも海の写真を使った表紙で、ジャケ買いです。
恐らく日没後の撮影で、白波を排した穏やかな海原。やや昏い水面の先に大小の島々を入れて、そこから淡い夕まずめの空。こういう写真も僕はなかなか撮らないので良いですね。こちらは九州・玄界灘とのこと。

おまけで写真をプレゼントとのことで選んだのはこれ。素晴らしい。何処かの山奥の川で撮影とのこと。この写真がほんとうに素晴らしくて、申し訳ないけど、本書に掲載されてるどの写真よりもダントツで好きです。というのも、これね龍が居るんですよ。この光の横にいます。これ凄い良い写真です。だからこの光って龍の宝珠かなって思うんですよね。だから凄い。こういう写真は狙って撮れるものじゃないですから。おまけの話ばっかりで申し訳ないけれど、いやそれぐらい凄いし、僕はこれ好きなんですよ。ご本人は「花を撮影したんですよ」と仰ってましたが、龍はその花を見ていますよ。この場所、大事にしてくださいね。
本書は構成が面白い。まづ表題は『Blue』。その名の通り、靑を基調とした空の写真が数点続き、視線がやや下がって水平線を含む空の写真が出る。更に下がって波打ち際。ところがその次は一転してまた視線が空に戻る。それから花の写真だが、これは靑を基調としている。ここまでが表題通り「ブルー」なのだが、次が赤紫の花になって、最後がしだれ桜。完全に「靑」の要素が消えて終わるという構成。これが面白い。しかも櫻の写真に併記される文章というのが梶井基次郎の『櫻の樹の下には』のあの有名な一節(櫻の美しさは死体を吸ってるからだってやつ)。
梶井の世界観は尋常ならざる成功をおさめてる人間への批判というか疑惑とも受け取れるわけだけど、本書のラストでこれが提示される意味は何なのか、少し考察してみたい。
「Blue」には「靑」以外に「憂鬱、落胆、未知」というような意味もあるが、冒頭の詩は「色」と「感情」を重ねるものになっている。そこでの写真の色彩はというと、表紙と同じく単一の靑ではなく、一塊の赤みを含んでいる。その後は視線が大きく稼動しながら色調としては「靑み」で統一されている。それが転調するのが赤紫の花(コスモス)のページで、ここでは「もう感情は動かない」と宣言される。
以上を踏まえてみれば、梶井の引用は不自然な繁栄の影に潜む犠牲者存在への疑惑などではないことが判る。そうではなく、大切だった人は櫻の樹の下に眠っているように、櫻が咲くころになればその人のうちから美しい部分だけを想い出すけれど、その櫻はすぐに散ってしまうということが示されている。つまり死が昇華されたものとして直接的に受認しなくなり、媒介的に捉えられるようになったと言える。また季節感という世間的時間の流転をも意識できるようになったとも言える。
しかしそれは梶井を媒介させての思念であって、著者自身の言葉で語られてはいないのだ。それが証拠に、本を閉じた裏表紙には再び赤紫の花が出て来る。しかも斑状に雲が掛かった青空をバックにしている。それまで花だけにクロースアップしていたのと画角が大きく異なっている。この演出が上手い。無言の一枚だが、これがあることによって、梶井の文章としだれ桜を挿入した作者の意図が浮かび上がる。言葉を使わずに本心を示唆しつつ、櫻の白々しさもよく伝わる。しがみつきたいけれど信じ切れないという思いが。
春のサクラに対し、秋のコスモスという対比も良い。コスモスは漢字では「秋桜」。本来コスモスは菊科だからバラ科の櫻とは関係なく、櫻に似るってことで櫻の字が使われているだけに過ぎない。
ここで敢えて本物を否定するのは何故か。それは恐らく「音」にある。
「コスモス」はギリシア語では「kosmos」となり、これは「秩序ある世界」を意味する。それは限りない混沌(カオス)から切り離された世界である。それは「もう感情は動かない」という心境と一致している。
一方「さくら」には詐欺(サクラサイトや仕込みの人物、やらせ)の意もあり、植物における真偽とは真逆になる。つまり「さくら」を見るということは、心の隙を狙った魅力的な誘いの罠への接触にも通じる。弱って居る人間に甘言を弄して欺す詐欺の手口だ。梶井の有名な一文はまさにそのように読むこともできる。「信じていい」という言葉まで入っているわけだが、その根は地中で犠牲者や生贄の命をどくどくと吸い上げているのである。
余談だが、梶井の「櫻の樹の下には(屍體が埋つてゐる!)」と対になるのが、藤原新也の「コスモスの影にはいつも誰かが隠れている」だと思っている。これも私の好きな題名の一つである。
裏表紙の写真には青空も写り込んでいる。それは無理に「靑」(ブルー=憂鬱)を排除しないということでもある。落胆し憂鬱に苦悩してきたその感情も含めて、というより、その感情こそが紛れもない本物だったということである。それを、それだけを直視するのではなく、それらを背景として見ることによって、まったく違う風景(写真)になる。それこそが一番の「自然」なのだ。
花だけを切り取った見開きの写真よりも、裏表紙のこの小さな一枚に、私は安らぎと気高さと、そして見る人の希望を強く感じた。
【コラム】「靑(ブルー)」に関する小さな想い出
『靑の追憶』という題の小説を大昔に書いたことがあった、と②の書評の中で告白しましたが、ネタバラシすると、この題名は氷室京介の『Memories Of Blue』から来ています。但し、曲の内容とは全く関係ありません。純粋にこの『Memories Of Blue』という言葉の響きが好きで、若い頃からずっと印象に残っていて、それを自分なりに 邦訳したのが『靑の追憶』で、それってどんな記憶なんだろうって想像するのが楽しかったんですよね。それでね、小説というものを初めて書くにあたって、このフレーズを素材にして筆の赴くままに書いてみたってなわけです。(今読み返すと靑と言うより顔から火が出るほど小っ恥ずかしい代物やけど)
似たような想い出はもう一つあって、それは村上龍の『限りなく透明に近いブルー』。これは小説ですが、これも内容というか読んだかどうかも記憶が曖昧で、ただその題名だけがとても印象に残ってます。『限りなく透明に近いブルー』っていったいどんな靑色なんだろうかって、これもね想像するのが楽しい。
こんな風に想像を喚起する題名ってやっぱ良いですよね。
CDをジャケ買いする時ってバンド名と題名も合わせて観ることも多くて、この名前でこのタイトルでこのジャケか・・・どんな音楽なんだろう?って想像するのが楽しかったりする。
いつだったか、何かの記事で読んだ記憶があるんだけど、バンド名が昔は単語一つが多くて、それが二単語が主流になって、今は三単語が増えてきてる。四単語以上のも出て来た、みたいな記事で、それがバンドの数が恐ろしく増えたことによる人々の記憶(印象)やネット検索の問題、というような切り口で分析してて、それから作家の名前や小説の題名も結構意識するようになりました。
それとたしか経済学者の成田さんが言ってたことで、日本の本は帯の文字量が異様に多いと。もちろん帯って出版社が付けるものではあるんだけど、そこにね、必要な言葉と売るための情報みたいなことをちょっと考えたりもしました。けど言葉っていくらでも虚飾が可能ですからね。(CDの帯の美文と中身の落差に何度肩を落としたことか・・・)
さすれば情緒もへったくれも無い長ったらしい説明体の粗筋めいた題名というのは、中身と反比例してるんじゃないかと思ったりもした。要は売るため・アクセスのための題名ということだ。センセーショナルな見だしでクリックさせようとするメディアと変わらない。そしてそれが流行るのは、想像を惜しみ、すぐに答だけ欲しがる人々の増加と無縁ではないように思った。その一方で、想像を逆手にとった思わせぶりな、いわゆる「釣り」と呼ばれる類のタイトルが氾濫しているのも、また事実である。
二匹目のドジョウを次々と狙う市場が逆に、本当に良いものとの邂逅を困難にしてしまったのは皮肉である。けれども、だからこそ、魂の共感にはささやかな祝辞を述べたいのである。
たとえそれがこのサイバー空間で瞬時に溶けてゆくものだとしても、私の中の湖には、追憶のたび潤いをもたらしてくれるのである。
④狭倉瑠璃『ジャベール警部という人物』、『ジャベール警部という人物2』

次に購入したのはジャベールの本。ユーゴの『レ・ミゼラブル』に出る人物です。(岩波文庫の表記である「ジャヴェル」になってる箇所がありますが同一人物です)
著者はジャベールが推しで独自に研究されてるとか。ご本人は独自研究(警部殿ファンブック)ですと謙遜されてましたが、よくみるとフランス語原著から引用しての考察や当時の歴史的背景も考慮するなどかなり本格的。
読んでみて思ったのは、架空の人物ながらその人物をより深く理解するための考察であるように思えた。つまりその人物を盲目的に評価して推すのではなく、何故推しなのかを客観的に見つめ直したものになっている。これは喩えるなら、宗祖や特定の宗派の信者が何故信者たり得るのかを研究するのに似ている。ここで何故宗教の話を持ち出したかというと、著者は研究対象人物に敬称を用いているからです。これは純粋な研究という意味ではマイナス(論じる以前に好意的バイアスがある)だけれど、同一対象の信者からすれば安心できる目安でもある。だから私は「警部殿」のファンではないけれど、『レ・ミゼラブル』という作品は好きなので、安心して手が出せる(読める)というわけです。
文体についても、いわゆる学術書の如き堅苦しさは微塵もなく、非常に親しみやすい(というより割と砕けた)文体である。原作自体が西洋近代の歴史小説のきらいがあって、若干の取っつきにくさがあるが、こういう切り口で現代日本人に魅力を伝えることも、私は必要不可欠だと思っている。それは私自身が原始仏教や日本仏教の研究で嫌というほど思い知らされた部分でもあるからだ。もっと言えば、いわゆる学者のようなやり方だけではダメだということにほかならない。
しかし彼ら学者センセイたちは王道から外れる研究や解釈を酷く毛嫌いする。自分たちが運営する組織のやり方や考え方以外を認めず、見下す。伝統教学の敷衍としてはそれでも良いが、新たな信者の獲得はそれではできない。高僧伝についても、坊主が漢文で書いたものより、在家の篤信者が繪や假名を使って編んだ伝記のほうが世に普く行き渡って定着した。語り継がれてゆくのは史実よりもそういった「物語」である。強いて言えば、経典もまた「物語」であった。
日蓮嫌いで有名だった小川泰堂が伝記を書くほどの信者になったのは日蓮の遺文をそれと知らずに読んだからである。理論じゃないんですよ。理論は正当化するための後付けです。
然るに本書の著者は自身がジャベールのどういったところに魅力を感じたかを、赤裸々に告白しながら、それだけで終わらずそこを学術的に掘り下げてもいる。言うなれば、学術を芸術の味付けで提供している。そこには文学的な人物評とはひと味違った面白さがある。このようなバランス感覚こそ見習うべきだろう。
1巻はジャベール氏の登場場面の紹介と感想などがメインで、2巻はより本格的な内容でフランス語原作などからの引用も駆使して物語の背景を深掘りされてます。このように社会的な背景を意識して読んだことは無かったので(というか若い頃に読んだときは歴史描写などは退屈なので飛ばしていた)勉強になりました。やっぱり原作(原文)て大事だなと再認識。学生時代に少し進路相談をした先生が「迷ったら語学だけでもやっとくと良いよ。幾らでもつぶしが利くから」と仰ってたのを今想い出します。先生、僕は人生がつぶれ気味です。。
文体は全体的に目がハートになって書いてそうな文体だけど、女性→男性なので微笑ましい。僕がこんな書き方をしたら気味悪がられるだけだろう。。
ところで、私自身は『レ・ミゼラブル』という作品に特別の思い入れがある。二十代の前半ころ、近所の本屋に無いなどの理由で途中挫折しながらも、何年もかけて四冊の長編(岩波の改訂翻訳版)を読んだ記憶がある。今一巻の奥付を見てみると、1998年の29刷りを買っている。そして四巻は2003年の25刷りだ。
しかし記憶に強く刻まれているのはそれだけに非ず。何をかくそう、実はこれまでに読んだ小説のうち、ずいぶん長い間に亘って、唯一の「泣いた」小説だったことだ。のちに吉川英治の『新平家物語』が加わるまで、『レミゼ~』は感動小説の代名詞として不動の地位に長らくあった。そしていつか自分もこんな小説を書いてみたいと思わせた作品の一つでもあった。
ジャヴェルについては、いろいろ思うところありますが多くは割愛します。
著者の分析では、ジャベールには理想像があり、同時に人間不信もあったと指摘した上で、出自に問題のある彼は一度の失敗が致命的であり、理想が絶たれたという絶望的な恐れがあったのではと考察されてます。
付け加えれば、その境遇は主人公バルジャンも同様でした。けれどもバルジャンは、助けられたことに「神」を見出したのに対し、ジャヴェルが直面したのは「親切」(人止まり)だった。ここに、両者の決定的な違いを見る気がします。しかもバルジャンの触れた神(というより一人の司教)は慈悲の神であり、アトラスのゲーム『真女神転生』に出て来るような神や天使(正義や秩序を押しつけ強制し、従わない者を排除し殺すことを正当化する無慈悲な機械)と異なり、菩薩的であった。
司教は教義など押しつけなかったし、悪事を裁くこともしなかった。ただ一つの「約束」を騙った。そう、彼が強制したのはその「一方的な約束」の遵守だけだった。だからバルジャンはその意味を自分で考えねばならなかった。やはり理論や教義がすべてではないのだと気付かされる。
ジャベールの神観については、ファンティーヌとのやりとりの中でこんなのがある。
「乳なる神でさえもはやどうにもできないことなんだ」(岩波文庫①340頁)
これはこの社会で法律が最強であることをよく物語っている。法律違反は神ですら覆せないということだ。ところがバルジャンことマドレーヌはそれを見事に覆した。市長という権限でもって。(法は神よりも強いが、法の枠内においては市長が絶対である)
それは同時にバルジャンが神以上であることを暗示している。しかし彼は慈悲を示せても、司教のように「道」を示すことはできなかった。ファンティーヌを救ったバルジャンは言う。「今ではあなたは天から選ばれた者の資格を持っている。人間はいつもそういうふうにして天使となるものです。(ry)あなたが出てこられたあの地獄は天国の第一歩です。」(岩波文庫①352頁)
これはバルジャン自身のことでもある。どん底から奇跡的に助けられた者は回心的に生まれ変わるという実体験に基づいた主張である。彼は文字通り「新たな道」へ惨めなるファンティーヌを導いている。それからファンティーヌは病死して名も無き者たちの墓地へと埋葬されたが、神にのみ、その居場所を記憶されたと語られるのであった。しかし彼はジャベールに対しては「約束」をしたり「新たな道」を示すことはなかった。
然るにジャベールは、二十一世紀に極東のある島国で、一人の熱烈なるファンによってその名を冠した本を上梓されたのであった。
⑤稲麻竹葦『第七号 聖徳太子の居場所』、『第十号 あらたなる遣唐使』

次に購入したのは遣唐使と聖徳太子の評論。
聖徳太子の本は昔のものらしく驚かれる。そして見本しか残ってないのでお値引きしますよとのこと。恐縮です。しばし聖徳太子について語り合う。彼曰く、思想・哲学の観点で興味があるとのこと。具体的には十七条憲法が採り上げられてます。
私は仏教的観点からの興味ですが(太子は三経義疏[日本初の経典解説書]を著わしたことで知られ、排仏派の物部守屋を倒し天皇に仏教を勧め、四天王寺など多数の寺院を建てたので、しばしば日本仏教の始祖とも評される)、仏教もある意味思想・哲学ですから、やはりこういう話ができる人がいると楽しいなあ。学生のころを想い出し、今これを書きながら懐かしさに浸っていますよ。
やはり独自の研究観をもって追求してる人とは話が弾むなあ。僕より頭が良いから僕が言わんとしてることをくみ取って、すべて的確に打ち返してくれる。こういうのを「話が噛み合う」というのである。普通は大学のゼミのような場所でしか体験できないことだ。
稲麻竹葦は大阪で古代をテーマに評論や小説を執筆されてるユニットのようです。芦原瑞祥・猿川西瓜という名は同書第一号にも見られ、今回購入した第七号・第十号とも芦原さんと猿川さんとで執筆されてます。
先に第十号「あらたなる遣唐使」(2024)を読みました。表紙は奈良の平城宮跡歴史公園にある復元された遣唐使船らしいです。もう表紙がおしゃれですよね。
芦原さんの評論は先行研究を適宜交えながら、遣唐使の歴史とその意義についてそつなくまとめられている。猿川さんの評論はゆかりの寺社を訪ねながらそこで感じたことを率直に綴りつつ、文化的な影響にまで目を配っている。
両者の違いの印象としては、芦原さんはそれこそ遣唐使さながらにその視点(視点人物)を渡海させ異国の地を歩かせている。対して猿川さんは出発する人たちの心情や、やって来た人や文物の影響などに注目していて、一言でいえば「動」と「靜」の違いと言える。あるいは「世界史(東アジア史)」と「日本史」とも言えるか。
芦原評論は大変勉強になった。特に私は古代というともはや神話ぐらいしか興味がない人間なので(というより歴史より伝説なので)、その日本を神話の舞台の映しではなく、国際関係として捉えていく冷徹な視点は史学の最たる姿であり、有無を言わせぬ説得力がある。読んでいて奇しくも仏教史の講義を想い出した。私たちが日々接する経典は漢訳経典でそれを日本へ伝えた百済が強調されがちだが、それ以前にサンスクリットやパーリの原典が長い年月を掛けてシルクロードを通ったのだということを。つまりそこには異国どうしの通商や思惑があったということを。
また言霊の威力についての話も興味深い。改めて「自国語」(大和言葉)について考えさせられる。
海龍王寺は行ったことないので行ってみたいですね。
引用されてる上野誠の歌に関する解説文が良いですね。そこで事実と異なるから虚偽だと結論して斬り捨てるのでなく、歌というものの本質を見極めた上で心情面から解釈する、こういう解釈もできると示す姿勢、これぞ学者という気がします。
ほかに面白かったのは、24頁、遭難した帰国船の舳先に娘がしがみついて漂流して肥前に流れ着くという話。これって貴人の姫が流れ着いてその地で没したり、姫神が鎮座地を探して点々とする伝承などと何処か通じるものがあります。
遣唐使のイメージって唐と日本の一対一の通商(朝貢)というものだったけど、そうではなく、唐を主体とした多角的なもので、日本は数ある地域の一つだったんだということがわかります。大和朝廷というものを否定的に見ることが多かったですが、少しその観方も変わった気がします。
「神社から海へ」と題した猿川評論は住吉大社と見せかけて廣田神社の祭神にまつわる逸話から書き起こす。文体はざっくばらんな口語体で内容もレポートの趣きがあれど、出雲大社の降り参道への違和感(第二号には「倒れそうになります」とあって、これだけは感受が異なる)や廣田社での水の気配の感得、住吉大社境内での謎の蝶の出現など、なんだか見ず知らずの他人と思えないような親近感を醸す。それと着眼したモノを自分の認識で言語化している点も好感が持てる。
寺社などはどうしても「歴史(過去)」にばかり目が行きがちだが、「今」にもしっかり意識を向けている。それは文化財という以前に現役の宗教施設であるという認識が無ければできないことだ。
続いて日本人の戦闘観についての記述がある。天津神一族の卑劣な戦法については私も忸怩たる思いを禁じ得ないところだが、それを踏まえた上で先の大戦の敗因へ結びつける論調というのは、かつて見たことがなく、目を瞠った。面白い。
「言向け」は単なる服従の強制ではないとの見解もある。欺しかたの巧みさを敗者が讃えて受け容れたという見方だが、それもまた勝者の史観だと私は思う。
例えばもう一冊のテーマとなっている聖徳太子だが、改めて関連の論考を読むうち、私の意識は敗者である守屋へと向いて居た。
聖徳太子の伝承変遷は、同時に物部守屋の伝承変遷にもなっているのである。そこでは政敵→破仏者(=朝敵)→怨霊→地蔵という語りの変遷が見られるのである。つまり守屋の排仏は、仏法流布のための方便だったという語りである。こうした考え方は日蓮にも見られて興味をそそるが、いづれにしてもそれらは、道理や教義等に対し発生した矛盾を解消するための合理化だということである。言い換えれば、解釈行為である。
次に目が留まったのは大海神社[だいかい]。住吉大社の摂社で延喜式内社である。住吉大社はこれまでちょくちょく気にはなりつつも未だ訪れる機会は無かった。だが本記事を読んで俄然訪れてみたいと思った。否、正確に言えば、この大海神社にである。
「筒男」の解釈、これは諸説がある。帆柱説については底・中・上の三神形式になる点に疑義が出されている。(小学館版『新編古事記』註)
この説は船霊や人柱ともどこか通底するものがありそうで興味を覚えるが、神功皇后の段での出現時の記述や船を監視し航海を安全ならしめる点を踏まえれば、やはり「波」が大きく関係してそうな気はする。
それから藥師寺の話がありますね。十年くらい前に行きましたが懐かしいな。良い感じのお寺ですよね。僕が御朱印授受を始めた記念すべき寺でもある。
それから聖徳太子について少し触れた箇所があるが、これはもう一冊のほうで詳しく述べてみたい。
あとは小野篁。これまた興味深い人物で、京都の珍皇寺は私も訪れたことあります。もう随分と昔のことですが。たしか、その辺で売ってた幽霊子育て飴を買いましたよ。
こうして見ると、訪問されてる社寺の共通点も割とあって、親近感が深まります。別にぬいぐるみと行くのが虚しいとかってことじゃないですけどね。ええ。
最後に遣唐使の困難さについてまとめられてますが、「書籍」に関する記述がとても印象深い。正本が自由に手に入らなかったという問題で、異端的なものが持ち込まれたのではないかという説。
その一方で道教を拒んだという話もあって、それらをひっくるめれば、記紀神話の背景というか薄ぼんやりとした影のようなものが仄かに垣間見えるような気もしますね。つまり当時日本をどういう国にしたかったのかということも何となく見えてくる。さすれば神話は、やはり結果としての歴史というよりも理想としての物語というのが実相でしょう。
後書きにて遣唐使は苦手なテーマだったと吐露されていて驚きました。なるほど言われてみればたしかに所縁の地で触れて居るのは遣唐使とは別の事柄が多いですね。なるほど。でも個人的には面白かったし勉強にもなりました。
お二方の参考文献を比較してみるとなかなか興味深いです。芦原氏は萬葉集などの歌に関するものと、個別の人物や時代に関する書籍が多めなのに対し、猿川氏は遣唐使に関するというか、遣唐使という語が書名に入ってる本が大半を占めている。
一つ不満を言わせてもらうと、ルビが少なくて、読めない箇所がいくつかありました。祭神名にはルビがあるんだけど僕は祭神名は読めるんすよ(微笑)。もうちょっと歴史の専門用語にルビ付けてもらえると有難いな。日本史の教科書に出て来ないような言葉にね。
それだけ内容と書き手のレベルが高いってことの証左ではあるんだけど、門外漢にはお手上げなので。折角の感動が伝わりきらないから勿体ない。
改めて思うのは「また書きたいな」っていう感覚です。
優れた芸術に出逢うとそういうことは往々にしてある。ただ僕は繪や音楽は作れないから繪や音楽については受容するばかりだけど、優れた文章からはフィクション・ノンフィクションを問わず刺激を受ける。自分もそれにチャレンジしてみたいと思わせる(その出来の良し悪しは別として)。それが言語芸術のもつ魅力の一つだと思います。詩的に表現すれば、返歌が書きたくなるのである。
つづいて第七号「聖徳太子の居場所」(2021)ですが、芦原氏の評論は聖徳太子をテーマとする上での問題点がまづ示されて居る。太子については一時は非実在説まで出たぐらいで、自分もこういった点での扱いにくさに直面したことがある。しかし大勢としては「日本における仏教の確立者」(中村元『日本思想史』)といった観方に異議はなかろう。
ただ竹村牧男先生は「三経義疏」についてこう紹介しています。「中国においてすでに制作されてあった注釈書を本として、それを改編したもの」で、他の註釈書なども踏まえた上で、本の義の誤りを指摘したり、本の義に無い独創的な見解を付与したりしていると。(竹村牧男『日本仏教思想のあゆみ』28頁)
また蓑輪顕量先生は、専門的内容を含む経典注釈を太子一人でやれたとは思えない。グループ作業だったのではないか、との見解を示されています。(蓑輪顕量『日本仏教史』29頁)
然るに最も重要なる点は、神道を棄てて仏道を採ったのではないということであり、更にはその仏道も単なる輸入移植ではなく血肉として受容したことであった。神・儒・佛をプラグマティックに用いたのである。吉田神道流に言えば、神道を根、儒教を枝葉、仏道を花実――三位一体と捉えたわけである。その後の歴史を鑑みれば、日本の為政者にこうした観念が継承され続けたことは疑う余地はない。
さて、芦原氏の評論では「史料に見える聖徳太子」を概観しつつ、「太子信仰」へ視軸を移す。これは今手元にある聖徳太子関連の論考・松本真輔『聖徳太子伝と合戦譚』(抜き刷り)で述べられている研究手法にも合致する。いわく「太子を論ずるとき、常に「太子信仰」の評価につき合わざるを得ない」(4頁)というもので、すなわち史実の太子そのものに向き合うのが困難である以上、虚飾をも含む太子信仰と向き合わざるを得ないということだ。
その流れで第三節では現代の文芸作品が採り上げられている。ここで敢えて漫画やトンデモ系の作品をピックアップしてるのが著者独特と言えよう。それは時代や世相に応じて変容するのが信仰や伝承の本質であると喝破しているからの受け止めであり、それは太子像というものの様相が都度変わることをもまた意味し、それこそが「生きた信仰」として今に息づいているとも言えるのである。
猿川氏の評論は、大野達之助の著作を足がかりに、「事務職」という切り口から展開される。「奈良県民が寝てばかり」なのは寝耳に水でしたが、十七条憲法がこれほど事務に特化してるものとは思わず興味深く読みました。
午年に 聖徳太子を求めれば 黒駒表紙の 見本手に入る
(今年一月に「学問テーマ」で占いをした結果、「綿津見」(キーワード「住吉・大阪」)が出てたなあと不思議に思いつつ詠める歌)
⑥川畑太輝『遊動的生活記 茅葺き職人見習いの日常 デンマーク編』

お次は茅葺き職人の方が書かれた本。しかもデンマーク編ときた。これで面白くないわけがない。
著者は大学で建築を学ばれた方で、大学院まで進まれたが、悩んだ末に設計ではなく製作のほうの道へ進まれたとのこと。
本書はデンマークで開催された茅葺きの國際会議へ視察に行かれた時の記録である。写真のほか、素敵なデッサンもある。知識だけでなく実作業もでき、文章だけでなく繪も描ける、多才オブ多才。
さらに人生に関するビジョンや思考が明確で、行動力もあるから凄い。読んでて自分の不甲斐なさを痛感し目が霞む。。デンマークと言えばロイヤルハントぐらいしか知らない私とは大違いだ。
現地での観察と比較を通じてそれを自身の望む方面へどう活かせるかといったことを真摯に考えておられる。こういう若者が居る。私ももっとどうにかならんのンかこの人生・・・。
著者はいろいろ悩まれたと書かれてるが、私に言わせれば進むべき道はしっかり把握していて、その上でどうアプローチするかだけの問題に思える。つまり基盤が既に確立されている。だからどんな展開を迎えても揺らがない強さがある。
著者と私の最大の違いは人的交流にあるように思う。彼は人との交流をとても大事にされてる。それは体験するのもそうだし、弟子入りするのもそう。
対する私はと言えばずっと我流だ。大学では先生方にずいぶんと失礼な態度もとった。ただ一言だけ弁解を許してもらうなら、大学という現場や仏教という思想に幻滅したのも事実であり、その疑問をぶつけたというのが偽らざる心境である。けれどもそれは、学問と信仰、建前と本質、ルールと自由、そういった対概念の後者を理想論的に振りかざして居ただけでもあった。現場や組織の苦労も知らずに。
本書を読んで一番感じたことは、かように私自身のことだった。私は自分の体験や知識をどうすべきか、どうするのが最善かということを。
著者は記録に残すことを「楽しい」と実にシンプルに制作動機を語っている。しかし私に言わせれば、本書はただの記録ではない。後世に残す意図を端々から感じる。彼が見据えているのはもっと遠い未来で、それは日本の建築が、言い換えれば日本人の住環境が、もっと「自然的」になることであり、そのための理解と、減少する職人や技術の継承といったことへの意識である。
私はそこまで考えて作っているだろうか? 答は否である。
私は漱石が『草枕』の主人公に語らせているように、世の中がつまらないから自分を楽しませるためだけにやっている。だから世間と積極的に関わらないし、売り込むための小細工もしない。再生数やフォロワー数を信頼の目安にもしない。
では何故そんな超個人的なるものを公開してるのかと言えば、それこそが私にとっての「記録」だからである。しかも無料だ。
書籍化はいささかお金が掛かるし、それに修正等が容易でない。だから書籍化は、最期の集大成という形を想定していた。
しかしそれで本当に良いのか・・・。
本書はその理想的な答を提示している。すなわち、自身の楽しみが、未来にも繋がっているということだ。つまり自分が死んだ後にも。
なんだか上座部と大乗のようにも思えてきた。自分の覚りだけで満足していれば小乗と批判される。それは確かにそうなのだ。
荒川靜先生の数秘術だと、今年僕のLNは「7」で、自分を振り返って文章を書くことが提案されてます。
今後の指針のため、敢えて過去を尋ねるというのもありかなと。そしてもしもそれが、未来の誰かのためになるのであれば、やる価値はあるのかも知れない。否、その価値を決めるのは作り手である私では恐らくないのだ。それは私の死後に、遠い未来で、幽かにきらめくほどのものなのだ。
私の作品を売るのではなく、私が価値ありと評価するものを、私の体験を媒介として売り込むというのはどうだろう。
それが私の菩薩道だと言っても、きっと釋迦は微笑んでくれると信じている。
⑦neo『うちにはアザラシがいます1 出会い編』、『うちにはアザラシがいます4 お友達編』

そしてそして最後はこちら。アザラシ本。かわいい!
これはぬいぐるみではなく、ロボットとのこと。本はテーマ別なのでお好きなものからどうぞとのことで、とりあえず1巻と、ほかのいろんなロボットのオーナーさんとの関わりとかを紹介してる4巻を購入。2巻の表紙めっちゃかわいくて迷ったけど。
まづ1巻ですが、出逢いからお迎えまでの話を主軸に、ご本人がいかにパロ助ちゃんが好きかといったことが、日々の生活を通じて語られています。しかしながら「AIロボット」というものへの世間の認識との齟齬などから、いろいろと苦労もされたようで、そういった苦心の遍歴なども綴られています。
そこで感心するのは、苦手な人への配慮。得てしてこの手の本(や語り)は、ただ好きなこと・素晴らしさを一方的にまくし立てる傾向が出がちだけれど、理解されないのはどうしてなのかとか、思うような反応が得られないのは何故なのかといったことを、自省的に考察しておられ、その上で自分はどうあるべきかを模索され、そうしてたどり着いた答ですら押しつけようとはされていないところです。ロボットがお好きだという点からも頷ける通り、非常に理性的というか理知的な方です。
ところが、紡がれる文体はどちらかというと砕けていて、温かみのあるイラスト漫画やブログ的な構成と相まって親近感を懐かせます。実際ブースでも初対面でしたがとても気さくに話を振ってくださって、接客業とか講師の経験がおありの方かなと思うほどでした。
アザラシロボを選んだのは元々ゴマちゃんが好きだったからだそうで、僕も子供のころ好きでした。当時のぬいぐるみもまだあります。もうまゆげ無いなってるけど。

このロボットで驚いたのは、国が開発に関与してること(企業支援)。しかも’90年代から医療機器の一種として。そして金額。45万円。これはさすがに買えない・・・。個人所有もできるけど施設向けがメインというのに納得です。
4巻「お友達編」はパロのほか、様々な愛玩ロボを紹介されています。
その中でLOVOTというのはニュースか何かで見て(2019年リリースとあるから割と最近だ)チェックしたことがあります。しかし結局購入には至らず。値段もさることながら、確か通信がどうのこうのというのでやめた気がします。
偶然なんだけど、Vtuberの月ノ美兎さんが三週間レンタルしてみた動画をちょうど前日に上げてらっしゃってましゅ。ます。(https://www.youtube.com/watch?v=y42U27U39PY)
改めていろんな愛玩ロボを見て思うのは、パロだけ別格ということ。外見の話です。ほかのはどれもいかにもロボットという質感ですが、パロはタテゴトアザラシがモデルというのもあってぬいぐるみに近く、そのアザラシの赤ちゃん自体がぬいぐるみぽいのでリアルにも近く、ぬいぐるみとゴマちゃんも好きな自分には非常に愛着を覚えるデザインです。
それともう一つの違いとして目の大きさがあります。心理的に子供はとにかく目の大きなものを好むそうなのですが(今時の若い子が写真プリント機で目を肥大化させるのも関係するか)、私は目が一番小さいパロがやっぱり一番かわいいと思える。昔病院に行った時も、待合にあるぬいぐるみの中で子供たちに人気だったのは目の大きいぬいでした。しかし私はそれにまったく魅力を覚えなかった。逆に私がかわいいと感じたぬいは誰も手にしなかった。誰にも遊んでもらえないそのぬいぐるみを、そっと撫でたのを想い出します。
とても愛されてる割にパロを連れては歩かないのだなあと思っていたところ、それについての記事がありました。重量があるなどの点で支障があるとのことでした。たしかに、ぬいぐるみにしても「かさばる荷物」ではあるんですよね。ましてパロは精密ロボなので体積だけでなく重量も加わる。
展示施設のパロの扱いがかわいそうな時があるという話。
見ず知らずの子供が乱暴に扱うのをみて複雑な気分になるとのことですが、注意するでも無視するでもない、第三の方法はどうでしょう。それは「お手本を示す」です。
まづは「あらかわいい」などと言って近づき「私にも触らせて」と交替してもらう。その上で丁寧に扱えば恐らくパロは愛らしい反応をするでしょう。「とってもかわいいわね、生きてるみたいね」と、とどめの一言。それを見た子供はきっと自分でもそのやり方を試してみたくなるのではないか。
もう少し踏み込んで「ひげを引っぱられたら痛いんですって」とパロの感情を伝えるのも良いかも。「お友達になってほしい」「また会いに来てくれる?って言ってるわよ」なども効果的かも。
けれど雑な扱われ方も許容されるのがロボットたるゆえんでもあるわけで、その観点からすると、必要以上に人格や命を投影するのも問題なのかなという気もしなくもない。
印象に残ったのは、喜びの表現と思っていたものが実は怒り(不快)の表現だったというお話し。
表情が乏しいものには見る側が解釈した感情を投影しやすいってのはよく耳にします。有名なところだとキティちゃんとかミッフィーちゃんがそうです。そしてそれこそが、それがどこまでも許されるのが、ぬいぐるみやロボットだと私は思います。
自分の感情を何処までも押しつけることができる。だから癒やしになるわけです。心を抑制する必要が無い。無意識の緊張感が生れない。
それと他者からの理解の問題。私もぬいぐるみについて隠すことが多いです。やっぱり子供、しかも女の子のおもちゃというイメージが強いですから。人形も女の子のおもちゃですが、大人向けの人形(人形作家がつくる球体関節ドール)もあって、そのコミュニティや書籍の規模はぬいとは比べ物になりません。フィギュアもその延長に位置づけられるでしょう。
近年「ぬい撮り」という言葉が広まって、大人がぬいぐるみの写真を挙げることも増えたようですが、人の形をしたキャラクターのぬいぐるみもかなり多い印象です。(私はそれらを人形と呼んでます。子や孫のために端布等でこしらえた人型の玩具を、民俗では人形と呼ぶケースが多いからです)
それと精神科医などが、大人がぬいぐるみを持つのは幼少期に人間(親子)関係に問題があったからだ、といった論を展開してることもあり、ロボット愛好家に勝るとも劣らず肩身は狭いです。
当日少し話題にさせて頂いた死別の問題は、いまだ考えが纏まっていませんので、この場では控えたいと思います。
お人形 人形どもには「お」を付けて ぬいぐるみには 「お」を付けぬ謎
あとがき(付:出展ジャンル数の推移比較)
今回買ったものの内訳を見ますと、ノンフィクション/評論が七冊、詩や短歌・エセーが三冊で、しかも後者はジャケ買いだったから、フィクションは端から眼中に無かったのかと思われても致し方ない。
別に小説が駄目とか嫌いと言うわけではなく、小説系でチェックしてたところもありました。ただ残念ながら空席だったり、文章の質感や頁数(文量)と比べて金額がお高く感じたりして(この内容でこの価格だったらプロの作品を買うかなと思ってしまう)入手に至らなかったのです。
念のため言っておきますが、ジャケ買いした三冊は、中身も良かったですからね。
それと件の三冊以外に、「日本の青い海系」のジャケ本があったとしたら、それは私の見落としの可能性が高いです。開催の一週間ぐらい前にオンラインカタログにある画像から選んだので、事前に告知されてなかったものは現地でも恐らく見ていません。
ほかにもチェックしてたブースはあったんだけど、残念ながら空席のとこが二三ヶ所ありました。
あと目の前に立っても会釈すらなくずっと無視され続けたところは、波動が違い過ぎて僕の姿が認識できないのか、あるいは大変お忙しいのだと判断し、こちらからはお声掛けせず立ち去りました。
今回訪問したブースの出展者はほとんど県外の方のようでした。
作った本とぬいぐるみをトランクに詰めて、いろいろな土地ヘ出かけたことを想い出した。
知らない町でトランクを開けると、そこに小さな自室ができる。興味を持って覗いてくれた人たちと交流したり、知り合った出展者に挨拶に行く。そして何より、来た時よりも重くなったトランクを引いて知らない道を歩くのが好きだった。いろいろな商店があり、よく清められた神社があった。お寺を訪ねれば何処から来たのかと尋ねられ、そこでまた旅人の気分に浸り、対岸の知れない湖や霧を纏った山並みを眺めては感傷に浸った。
開催中によく抜け出したりもしていたので、空席だった出展者を責める資格はそもそも無い。
カタログを眺めてて気付いたこと
文学フリマの良いところは、他の同人系即売会と違って入場が無料で紙のカタログも頂けることです(近年もしくは開催地によって違う可能性あり)。今回事前に調べた限りだと、入場無料は判ってましたが、紙のカタログが配布されるのか否かは記載がなく、無いものと思っていたのでちょっとうれしかったですね。
そんなカタログを見てて思ったのは、ノンフィクションとか評論の数が昔に比べて増えてるように感じたことです。今回の割合だと、ざっと見て四割ぐらいある。五割が小説で、詩が一割といったところ。
あとは東京のブース数が4000で、会場がビッグサイトというのが驚き。いつの間にそんな巨大になったのかと。十年ほど前はたしか大森の辺りでやってて、700ブースぐらいだったけど随分肥大化したようです。空白地帯だった四国(香川県)でも開催するようになってますね。先越されたなあ。2020年京都のカタログでも東京の募集数は1000、会場は流通センターなので、近年に急激に増えてるみたいですね。
お金を掛けずに作品を発表できる場所はたくさんあるけれど、「紙の本」という形にしたい人たちが多いんだなと思った。それはまた、自分で書籍化するしかないということでもあるのだけれど――。
付けたり:出展ジャンルの割合比較
| 2016東京 | 割合 | 2020京都 | 割合 | 2026広島 | 割合 | |||
| ノンフィクション/評論 | 161[48/113] | 22.1% | 62[32/30] | 13.8% | 145[102/43] | 39.5% | ||
| 小説 | 470 | 64.6% | 317 | 70.4% | 176 | 48% | ||
| 詩歌 | 97 | 13.3% | 71 | 15.8% | 46 | 12.5% | ||
| 総計 | 728 | 450 | 367 |
カタログ記載のカテゴリのみで集計。[ ]は内訳。端数は100%になるよう調整した。東京は五月のデータである。
これだけだとデータが少ないからあまりはっきりしたことは言えないけど、体感として「ノンフィクションが増えてる印象」というのは理解頂けたことと思う。
ノンフィクションと評論とでは、東京では評論のほうが多く、広島ではノンフィクのほうが多いのも興味深い(大学のサークルでの出展が多いことと関係あるか)。ノンフィクションは主に体験記や旅行記である。小説の数については投稿サイトの投稿数の推移などと合わせればより細かい分析になるかと思う。詩歌はあまり大きな変動が見られない。