【随想譚】『魔法少女ホロウィッチ!THE STAGE』感想【#ホロウィッチ】

 初めて視たけど普通に面白かった(「ベテルギウス」良い曲!)。
 これだけではあれなので、ストーリーについて少し想うところを述べてみようと思う。

<世界観設定>

 ホロウィッチの六人は「配信者」。ところが画面に吸い込まれて異世界へ。そこでは「現実で苦しむ人たちの魂が怪物化する現象」が起きている。怪物を斃して魂を取り戻すために「魔法少女」に変身して戦い、「みんなの心を助けて夢を応援する」ことを目的とする。(参考:『魔法少女ホロウィッチ!THE STAGE』(https://www.youtube.com/watch?v=WV2_cgUA8cc))

<ストーリー>(*ネタバレを含む)

 子供の頃から「魔法少女」に憧れていた女性が登場する。三十歳くらいのOLで、地味な見た目。今の仕事(現状)に不満がある。
 彼女はホロウィッチと呼ばれる「魔法少女」たちが出演するステージの司会をする。
 しかしステージ上でホロウィッチメンバーが魔法を次々使う(歌ったり踊ったりする)のを目の当たりにして、だんだん様子がおかしくなる。メンバーに過度の要求をするが拒絶される。すると本心を吐露するモノローグがあって、「悪の存在」的なモノと同化し?、異形の姿になる。彼女はホロウィッチを攻撃し始める。
 ホロウィッチは異形本体ではなく異形から放たれるモノを迎撃するがピンチになる。戸惑いの中、メンバーの一人が彼女の心理を読み解き、「好きなのに攻撃する理由」(魔法少女になれなかった者が、魔法少女に成れた者たちへ向ける嫉妬・羨望)を説明する。更にそれを引き起こすため悪者?が関与してたとして激昂し、必殺技を次々繰り出し攻撃する。(みこちかっこいい!)
 異形は力尽きてメンバーへの攻撃を止める。
 メンバーが彼女に声を掛ける。現実の世界で誰かの助けになっているあなたは、姿や手段は違うけど、本質は私たちと同じ(=あなたも実質魔法使い)だと説得する。
 その解釈を受け容れて、彼女は正気に戻る。(異世界からの退場)
 現実世界でOLとしての仕事をする彼女。負の思念は無く、吹っ切れている。

<感想>

 まづ印象的なのは彼女の見た目だ(大人・普通・地味)。若く・かわいく・きらびやかな「美少女」と言われる部類のホロウィッチメンバーとは対称的である。ここに、既にして一つの断絶がある。それはステージ上のメンバーを舞台の袖から見つめる「司会」という立場にも表されている。(二つ目の断絶)
 そして彼女はずっと「魔法少女」になりたいという夢がありながら、ついに叶えられず今に至ったということがあかされる。
 この「過去」によって、彼女の嫉妬を動機とする攻撃に対し、一定の同情と理解をメンバーに惹起させている。これは飽くまで脚本上のセリフとして表明されたものなのだが、ライブ配信中のコメント欄にも一定数見られた。

 攻撃者が彼女(人間)の姿のままでなく「異形」になっていることや、メンバーの反撃が異形本体ではなく「放たれた物(危険が身に及ぶもの)」に対してである点も、よく練られた演出(非常に日本人的な発想)だと想う。
 それはクライマックスにして本作のテーマが提示される「説得のシーン」でも顕著だ。
 断絶を無理に埋めるのではなく、「本質」が同じという解釈で、現状のあるがままを相手に受け容れさせるという論法が採られている。

 これは仏教にも通底する思想だ。
 しかしこれはなかなかの苦行である。今の現状をあるがままに受け容れて「これで良し」と言える人はどれだけ居るだろうか。
 仏教は、得られないのに求めるから苦しむのだと説く。(求不得苦ぐふとっく
 したがって、その苦しみから脱するには、原因である「求める心」(渇愛)を棄てろということになり、修行として位置づけられる。
 そこでどのように折り合いを付けるかが問題となってくる。つまり「解釈」ということだ。仏教はそこで「くう」(あるいは縁起えんぎ)という概念を設定してみせた。求めるモノ自体に実体はなく、また手に入れたとしてもいつかは手放す(滅する)ときが来るのだと。

 作中では「本質は同じだよ」ということがメンバーによって提示される。
 「リスナーのみんなは配信者の力になってるからリスナーも魔法少女」とメンバーが言うのも、同じレトリックだ。
 本質が同じだから同体だという考え方は、文化的にも神仏の習合という形で垣間見ることができる。このような考え方には良い面もある一方で、悪い面もあるのだが、今は悪い面は不問としよう。
 ただ単にやめさせる(魔法で禁止する)のではなく、本人に気づかせる(自覚させる)という手法が採られているのは素晴らしいシナリオだと想う。

 仏教の「さとり」も本来の意味は「気づき・目覚め」である。ブッダとは「目覚めた者」という意味である。誰もがブッダに成れる(成仏)とはそういうことである。だから「死んで極楽往生する」などというのは、苦しみのない心持ちとなった(解脱げだつした)新たな自分を、古い自分からの生まれ変わりのように拡大解釈していったことによるもので、どうしても現状を受け容れられないから現世に見切りをつけるという消極的なニヒリズムに過ぎない。
 しかるに本作は、安直なヒューマニズムを語るでもなく、一部の大乗仏教の如き現世(現状)忌避のニヒリズムでもなく、原始仏教の哲学を踏襲した風な考え方を展開し、彼女もそれを受け容れたことを描く。

 もう一つ良い点を挙げるなら、彼女の「過去」に焦点を当てていることだ。彼女がメンバーから一方的に諭されてそれを仕方なく受け容れるのではなく、「魔法少女」に成りたいという動機の原点に立ち返らせている。それは過去の自分を再確認する行為だ。その過去の自分と現在の自分との整合性の確認によって、現在が修正され、未来の象(本来のあるべき姿)が明確になる。
 こういった、個人だけでなく政治などにおいても極めて重要な、価値基準の判断過程が描かれていることは特筆に値するだろう。

 このようなストーリーは非現実的だという意見もあるかも知れない。
 たしかに現世に肯定的な宗派よりも、否定的な宗派や現世利益げんぜりやくを強調する宗教、占いのほうが盛況だし、外交でもこのような論理は相手国に理解されないだろう。現代の世相は弱肉強食・優勝劣敗が支持されている。

 大谷選手が野球の国際試合で「憧れるのはやめよう」と言ったことを思い出す。それは「日本は日本の野球をするまでだ」ということでもあろう。他人種の選手たちと比べて自分たちの非力や未熟を歎くより、ただ己を見据えて特性を活かすということであろう。結果を見れば、日本人選手や首脳陣にその精神は共有されたことがわかる。

 

 共感できる人とできない人の違いは何だろうか(人種の違いは除く)。
 それはきっと「夢を殺せるか否か」の違いだ。
 「夢」という言葉は耳当たりの良い響きをもつが、別の表現をすれば「欲望」にほかならない。
 自分の夢だけを殺すのが積極的ニヒリズムで[①]、自分を殺すのが消極的ニヒリズム[②]。彼女は当初、他人(成功者)を攻撃していた[③]。ジョーカー事件を初めとして様々なテロ的犯行が思い起こされる。
 一見すると、どれも「自己の苦しみを除く行為」だ。
 いや、①と②は自己を世界から断絶させる行為である。しかし③は、秩序化された世界そのものを破壊する行為といえる。それはシステムに対する攻撃だ。
 極限までミクロ化すれば個人攻撃ということになるし、少し広げればコミュニティ、更には企業、もっと広げると社会や国家(政府)となる。時代や立場、内容によりその呼び名は異なる。正論、誹謗中傷。一揆、暴動。革命、暗殺。聖戦、無差別テロ。
 Aから見れば正義でも、Bから見れば虐殺だ。死(殺人)は救済か?という問題もそうである。

 夢が叶わないのは他者のせいだと考えるのは、ある側面では間違っていない。例えば仏教はこれを「縁起」という概念で説明してくれる。縁起とは簡単に言うと、世界は無数の因果と因果の連なりだという観念である。因果律を無視したような想定外の結果(個人の因果を超越した結果)が生じるのはこれがためである。自分が生まれる前から有効化されているのもポイントだ。人はそれに様々な名前を付けてきた。カミの御利益とか、前世の因縁とか、天罰とか。
 そういった視野を持たない人は、身近な他人や社会制度のせいにする。だが「無数の」不確かな連なりである以上、自分に連結する糸を一本断ち切ったくらいでその「ことわり」から逃れることはできない。(註:これは簡単に言い換えた説明であり、本来の意味とは少し違う。また時代や各派によっても様々な解釈がある。ここでは主に部派仏教の業感縁起説に則った。)
 しかし彼女の怨みは「夢が叶わないこと」が根本原因なのだから、夢を棄てることによって怨みも消えたわけである。
 叶わない夢に執着し続ければ、当然別の原因を模索することになる。自分なのか他人なのか環境なのか、その解釈と選択はその人の経験と理性によって決まる。つまり「絶対的な原因」というものは存在しないということだ。このような関係性のことを「縁起」というのである。
 極論を言えば、夢が叶う人は特別なことをしなくとも叶うし、叶わない人は何をやっても叶わない。言い換えれば、夢は「個人」が叶えるものではないということである。個人が叶えたように見えても、実際は他人や環境(時代)が大きく影響しているはずだ(先天的な不平等)。その不確定で流動的なものは、現世の個人の努力(後天的能力)だけではどうにもならず限界がある。そして個人的自由主義の時代において、それは個人の責任ということに落着する。

 私は自分が非力だという自覚のもと(謙遜ではなく実際に実績は無い)独りで走り続けているが、時折り何のために・何処へ向って走っているのか判らなくなることがある。抱えて居た夢も随分と薄汚れ、友人ですら顔をしかめる。親は棄てろとも言わなくなって久しい。遠くまで来たかと思えば、また同じ風景を見ている。何年も見ている。

 それでも私が走るのは、夢を叶えるためではない(何が夢だったかはもう忘れてしまった)。ただ現世が来世に繋がって居るのだという幻想が、私を前進させる。

 

 彼女を「魔法少女」にしてあげるという選択肢は初めから提示されない。ホロウイッチは魔法使いにもかかわらず。その一線は常に引かれたままだ。

 これは何故だろうか。
 そんなことをすれば、収拾が付かなくなるからか。
 メンバーと彼女は終始断絶したままであり、決して交わらない。交戦することはあっても、AがBに、BがAに成ることはない。そこには平等という理想が掲げられつつ、配信者という階層とOL(リスナー)という階層、あるいはアイドルと一般人、またあるいは「魔法少女」と「悪役」とは、違うのだということを互いに認知する。まざまざと見せつける。戦い(バトルシーン)はそのためといって過言でない。
 だが、配信者やアイドルという階層には、同時に義務もつきまとう。果して彼女はその「義務」のことまで念頭に置いていたか定かでない。階層の消失は義務の消失を伴う。配信者やアイドルが義務としての活動をやめれば、恐らくその魅力は激減するのではなかろうか。何故なら、一般人の配信と大差ないものになるからである。
 平等と格差は難しい問題だ。何が難しいと言えば、どちらか一辺倒では駄目な点である。何千万もの人間が居る社会で、その中間を維持し続けるのは困難である。しかし本作のように、限られた一場面としてなら、その境界が那辺にあるのか、何処までが許されて何処からがNGなのかを視覚的に提示してみせることは可能である。

 希望者全員を「魔法少女」にしていくと何が起きるか想像するのは簡単だ。元から居る「魔法少女」の価値が下がる。
 ある宗教では、本尊以外をまつって拝む行為を「雑乱勧請ぞうらんかんじょう」といって敵視する。そういうモノを拝んで願いが叶ったら都合が悪いからだ。明治期の神仏判然(分離)もそれに似たものである。

 あるいは、彼女は「魔法少女」に相応しくないと判断された可能性もある。その容姿などから「魔法少女」に成るための努力をしていないと見なされたのかも知れない。
 OLとして働いているということは、そちらに軸足があるということだ。「大人」にもなっている。「魔法少女」として上手くやれるのか、現役の「魔法少女」から懸念を持たれても不思議ではない。「魔法少女」は遊びではないのだ。(アイドルも命懸けなのだ)

 これは実際にあった話だが、寺で生れて出家を前提として小僧として育った人と、一般家庭に生れて大人になってから出家を目指す人とでは、教団側の態度が歴然と違う。その宗派では年齢ではなく出家の順で上下が決まる。行く先々でその確認がまづ為された。面白いことに、「出家」のはずにもかかわらず、それまでの経歴を詳しく聞かれたりもした。そして師匠はえらべないとのことであった。
 私はこの話を聞いた時、この教団が様々に分派して一つになれない理由が何となく解った気がした。

 僧侶に成りたいという人に、僧侶にしてあげるという選択肢は初めから無いのである。それは今の「教団」を維持するためである。その人が真面目であるとか優秀であるか(素質があるか)は重要ではないのだ。「若い僧侶に頭を下げてこき使われる年配の僧侶」というものを、世間の目に触れさせると体裁が悪いというのである。(上下など気にならないと言った時の返答がこれだったという)
 ほかにも、伝統という名目の慣習に縛られない僧侶が教団で力を持つと、由緒や権威の上であぐらをかいてるだけの生臭坊主の居場所が無くなるとか、多くの信者にとって利益となるような「不都合な解釈」が採用されかねないとか、枚挙に暇無い。

 もう一つ、体験談をもとに想像してみよう。
 彼女がメンバーの計らいで「魔法少女」にしてもらえることになったとする。その条件として「あなたの魔法を見せて」と言われ、渾身の魔法を見せる。
 ところがリーダー各のメンバーが駄目出しをする。自分たちのような魔法じゃないと駄目だと言うのである。
 彼女の「魔法体系」は、ホロウイッチのものとは異なっていた。彼女はその体系(原理)でないと魔法が成立させられない。そこで別の魔法を編み出して見せた。すると今度は体系の批判だけでなく、不完全で陳腐だと言われる。
 彼女が魔法学校で勉強したのは四年間だった。それに対し、ホロウイッチたちは四年間の基礎勉強以外に特別コースでも何年か勉強し、プロの「魔法少女」として第一線で活躍している。
 それだけではない。ホロウイッチたちは優れた魔法力だけでなく、ニャン百万もの支持者が居て影から支えてもいるのだ。

 彼女にはもう、使える魔法が無かった。
 最初に声を掛けてくれたメンバーは、自分の仕事があるからと去っていった。

 何故このようなことになったのだろう。

 確実に言えるのは、彼女が力不足だったということだ。
 グループが設定する「ルール」や「レベル」があり、そこに満たない者はメンバーからの推薦でも排除されるということである。「誰でもうぇるかむ」とか「自由な魔法でOK」というのは建前に過ぎなかった。
 いろんな魔法があればいろんな人が救えるという理念よりも、組織の維持が上位にある。そこには自分たちの集団(グループ、組織)が、同類の集団の中でトップクラスだという認識があるのだろう。

 これは、仏教の思想(特に大乗の菩薩道ぼさつどう)と決定的に違う点である。
 菩薩とは、自身が仏に成れる資格を持ちながら、さっさと解脱して仏には成らず、他者を仏に成らしめるために奔走する者をいう。
 それで言うと、彼女を推薦したメンバーはまさしく菩薩である。
 それを拒絶したリーダーは、果してナニモノであったか。

 結局、本作品のシナリオでは、菩薩道的観点からの救済(魔法少女化)ではなく、原始仏教に近い説得と、積極的ニヒリズムの受容という選択がなされて終結する。
 言い換えれば、彼女は宿命を覚り、その宿命に生きることも悪くない(価値がある)と解釈した。
 私は想像する。彼女の部屋にはもう、魔法少女に関する物は何も無いだろうと。

 宿命という言葉を使ったが、希望や努力は無駄だと言いたいのではない。本来的な希望とは何か、考えてみる(探し当てる)ことが大事だということである。「魔法少女」は手段に過ぎなかった。彼女にとって本来的な希望は他者の救済であった。「魔法少女」を諦めることは本来的な希望を棄てることにはならない。そのことに気がつけた。気がついて修正ができた。理想と違うかも知れないが、今OLであることが宿命(自分にとって重要な意味を持つこと)なのだと「解釈」した。

 ラストシーン、彼女は自分の体系で編み出した「呪文」を後輩らしき同僚に口にする。夢見てきた「魔法少女」との決定的な決別である。積極的ニヒリズムを選択したと言える。
 宗教の例で言うと、伝統教団での出家をやめて、個人で教団を立ち上げる(あるいは信仰対象と向き合う)のであり、もう一つの例で云うと、「個人勢の魔法使い」としてやっていくということである。恐らくフォロワー(支持者)は部下一人だ。
 彼女の今後に幸多かれ!!

 

 巨大Vtuberグループが制作したこの作品のmessageは深くリアルであった。
 菩薩道は理想である。(その理想に命を懸けた日本人がかつて居た)
 現実には、どこかで線引きがいる。それもわかる。
 教義に対し自由な解釈がまかり通れば、「同じ教団」の僧侶でありながら、説法が180度違うというようなことにも成りかねない。それはその通りなのだ。

 昔、神社に入るにはみそぎが必要だった。死に触れた者や月経の者はけがれとされた。今は、ほとんどの神社では簡単な手水のみである。
 身を浄めるという「本質」は変わっていない。しかしその強弱(穢れとの境界)は、今と昔とで変化している。

 絶対的な一線を維持し、ホロライブという組織(配信者集団)を護りつつ、相手に諦めさせる(穏便にルールに従わせる)。そのためにメンバーは境界線のギリギリまで来て、直接彼女に呼びかけた。だがそこには、マリアナ海溝よりも深い亀裂がある。
 そのときふと、画面の中のアイドル(有名Youtuber)と画面の前の私みたいだな、と思った。
 感心すると同時に、刺されるような痛みが去来した。しかしそれも一瞬の、揺らぎのようなものであった。

「望み難きを望むが故に、希望には意味がある」(チェスタートン)