Wikipedia, Youtubeをレポート出典とすることへの批判について

学業・遊び

 これは、最近の学生のレポートの出典に昔はWikipediaが多かったが、最近はYoutubeが多いことについて問題提起する人物を取上げた記事(gooニュース配信『まいどなニュース』2023/04/19)について言及するものである。

 たしかに、Wikipediaは編集者情報がオープンでなく、典拠にもばらつきがある点が問題視されていて、大学入学間もない時期から学生に対し主張の根拠としては避けた方が良いと注意喚起される。
 しかしそれはWikipediaそのものが否定されることにはならない。
 以下のような場合には有効である。
①該当記述箇所の典拠が明示されている(但し、その場合も典拠資料の妥当性及び内容確認は必須であり、それについて言及した方が良い)
②比較対象の一事例として挙げる場合(例えば通説との比較、他の情報源との比較、記載情報の取捨の検証等)

Youtubeに関しても同様だが、
 Wikipediaよりも多くのコンテンツで典拠が不明なものが多い。
 つまり、典拠や参考文献を明示していないチャンネル・コンテンツは信頼に値せず、自説の典拠としては無効である。
 したがってそのチャンネル・コンテンツを典拠に使いたい場合は、制作者に典拠や参考文献について聞く必要があるだろう。
 ただ個人的な経験として、明確な回答がもらえることはほぼない。
 自分で調べて原稿を書いたなら絶対に間違いようがない単語を読み間違う事例を結構見かけるのだが、そこから類推するに恐らく其れは企画だけをして、動画自体は制作会社などに発注をしているからだと思われる。そうであるならば、運営者が典拠や参考文献について答えることはできないであろう。
 もちろんある程度調べた上で(情報源を示した上で)脚本を書かせてる事例もあるとは思うが、チャンネルの独自性優位性を維持したいがために、視聴者に対しそれを公開する可能性は低いだろう。

 これは民主主義の落とし穴にも共通してくるが、登録者や再生数が多いことがイコール正当性の根拠とはならないということが重要である。
 数が多いのは正しいから指示されているわけではなく、単に通俗的というだけである。通俗か非凡かといった社会的価値観の差である点に注意が必要である。
 Wikipediaがプロパガンダに使われたこともあるというが、主要マスコミの偏向報道だって厳然と存在するのであって、むしろ査読がなく匿名性の高いことが判ってるWikipediaでの情報操作と、さも公明正大を金科玉条としている風を粧って恣意的な記事を書く(テレビに到っては公共の電波を利用して拡散する)のと、どちらがタチが悪いであろうか。
 むしろ「広告に左右されない」「購読者と無緣」という観点においては、更にAの編集をBが編集できるという点においても、Wikipediaの方がニュートラルなのではないか。
 昨今話題のChatGPTと同じく、使い方の問題である。そのまま論拠として引用するのではなく、足がかりとしたり、批判的・データ的な要素としての活用であれば、学生のレポートに混じっていたとしても目くじらを立てるほどではないだろう。(学位論文は別だが)。
 学者なら学者らしく間違いを論証すれば良いだけの話だろう。繰り返すが、問題なのは「記述内容の典拠が不明」という点である。誰が書いたかではなく、何をもとに書いたかこそが問われねばならない。

最後に
 「インフルエンサーの言うことを盲信して」と被取材者は指摘し問題視して居るのだが、「今回の話題を提供してくれた寺師さんは(中略)身元の明らかな専門家による正確な情報源なので」と取材者が書いてしまっているのは笑えないオチである。
 それは「漢文、世界史、小論文などを教える予備校講師」の発言や発信内容は信頼に値する正しいものだが、「個人ブログ」は信頼性がなく不正確だと決め付けることも同様である。二元論的に、あるいは自身の社会的優位性を維持したいがために、内容を精査することもなく一律にレッテルをはって、「予備校講師」という権威的な肩書きをその正当性の根拠担保とすることを促す行為は、甚だしい矛盾といっても過言でなかろう。

(参考:https://news.goo.ne.jp/article/maidonanews/trend/maidonanews-14887398.html)