『次郎五郎淵伝説と屋久島の禁忌についての一考察』

民俗伝承[日本]

キーワード:弥山、屋久島、山岳信仰、神使、野生動物、滑落死

 次郎五郎淵は広島県広島市五日市町上河内の八幡川流域にある。北には窓ヶ山(標高711メートル)があり、その麓に位置する。広島湾まで南下するとちょうど宮島に当たり、その中間に極楽寺山(標高693メートル)がそびえる。窓ヶ山から極楽寺山に到る遊歩道があるので、まさに宮島の対岸から湯来町まで山伝いに最短距離を行くことも可能と言える。
 市販の道路地図などでは次郎五郎滝と表記されており、佐伯区の観光地を紹介するサイト等でも稀に見かけるが、一般的にはあまり知られて居ない(露出度は低い)。その理由としては、滝へ行くための橋と道路との間の敷地が、私有地として立入り禁止にされており、役所でもこの自体を把握しながら黙殺している現状がある。

<次郎五郎淵伝説>

「昔、湯来町に鹿を射てからだじゅうに鹿の角のようなこぶができて死んだ猟師がいた。その子の次郎と五郎は父の遺言で猟をするのを自戒していたが、あるとき、近くの窓山でこれまで見たこともない白鹿に行きあい夢中で追いかけたが、ここまで来て鹿は見えなくなり、ふたりとももんどりうって魚切の滝壺に落ちてしまった。このことがあってのち、この淵には二匹の大鯉が泳ぐのを見るようになった。淵底は昔から宮島の弥山の底に通じているといわれる。」[1]

【考察】
 ポイントになるのは「鹿」「鯉(魚)になる」「弥山」の三点である。
 これらの要点を結ぶと、鹿を殺す行為が奇病(呪い)の原因であることが示唆されつつ、それらの鹿は白鹿を起点として宮島の弥山と関係があると語られる。更に二人の子供はただ死ぬに留まらず、魚類(畜生)へ生まれ変わったことを暗示する。
 ここには鹿の神聖性の拡張と、殺生における悪因悪果を強調する意図が看取される。
 従って、宗教者による成立と拡散が想定される。広島県西部は安芸門徒と呼ばれる真宗の勢力地であるが、真宗は僧侶の肉食を禁じないので直ちに真宗系とするには疑問がある。

 宮島には真言宗御室派の大本山大聖院が弥山の麓にある。この寺は修験道との繋がりが深い。湯来町は山間地域であるし、猟師以外で淵の存在を知悉するのはやはり山岳修験者であろう。
 次郎・五郎は既に死んでいながら、傍で見ていないと判らないような描写があることも含めて、土地に伝わる猟師一族の不可解な死と、宮島の弥山から湯来町の窓山を行き来する山岳宗教者との交錯を観じられる伝説と言えよう。
 宮島弥山の鹿については、『陰徳太平記』巻第二十七にて毛利元就が敵の陶軍の居る嚴島へ上陸した場面で、「小男鹿一匹林ノ中ヨリ出テ元就父子ノ前ニ來レリ。元就唯今男鹿ノ來ル事明神忝モ道迎ニイタサセ給タルナラン。神明應護疑ナシ。合戦ノ勝利掌ノ中ニ在ト宣。」[2]と活写されている。『陰徳太平記』は正徳二年(1712)に刊行された[3]軍記物であるから、この逸話を即伝説認定することはできないが、弥山の鹿(小男鹿)が嚴島明神の使いであるという元就の認識を、神武東征時の八咫烏の逸話をもとに判定したと描くことで、山中に於ける神使動物の先導が戦の勝利や路頭脱出などの目的成就として古くから信仰されていたのだということを示して居る。

 この次郎五郎淵伝説に類似する伝説が、屋久島にある。

毎月十五日はヤマイエの日といって、この日は山仕事を休み、山へも入らない。この日は神々が行列になって山を歩く日だという。
あるとき、この戒めを破って山へ入った者が居たが、白鹿に乗った神と行き合い、周りに居た鹿から角で突かれた。翌日、その者が谷底で死んでいるのが見つかった。また、この日山に入ると神隠しに遭うともいう。[4]

 「白鹿に乗った神」と「周りに居た鹿」とを対比的に見れば、「白鹿」はマージナルな存在と言うことができよう。それは神であり神使であり、またそのどちらでもないといった存在である。
 白色動物との遭遇が人命に関わる話は記・紀にも見られる。まづ『古事記』のほうを概要的に示す。

倭建命が足柄の坂本にて食事中に、「白鹿」に化けた坂の神が顕れるが、食べ残した蒜で目を潰して殺す。その後、伊吹山の神を討ち取りに向うが、それまでの行動において武具を携帯することで敵対者を退けるという流れから一転して、武具を置いて素手で山に入る。今度は「白い猪」が現れるが、神使であって取るに足らないモノと誤認し素通りする。すると激しい氷雨に打たれて倭建命は衰弱する。何とか下山したが間もなく死ぬ[5]

 この逸話よりも前の段で、倭建命は授けられたり助言で持たされた武具によって敵対者を退けてきたことが語られて居るが、それらを自らの判断で持たないという点に破戒の要素が垣間見られる。
 続いて『日本書紀』のもの(概要)を示す。

山高く谷幽い信濃に進入した日本武尊は、山中の峰で食事を摂る。その時、「白鹿」に化けた山の神が顕れるが、日本武尊はヒトツヒルを白鹿に向け弾く。ヒトツヒルは白鹿の眼に当たり殺して仕舞う。すると道が判らなくなり下山できなくなる。しかしそこへ「白狗」が現れ道案内をしたので美濃へ出ることができた。以来この山を越える者は蒜の臭いを人や牛馬に付けることで山の神の気を免れた。
その後尾張へ帰り、またしばらくして近江の胆吹山へ荒神退治に向う。胆吹山には大蛇に化けた山の神が居たが、この大蛇を神使であって取るに足らないモノと誤認し素通りする。その結果、祟り(氷雨や霧)によって道を見失い衰弱する。何とか麓へ下山したが間もなく死ぬ[6]

 語りの構造としては、①鹿(山の神)を殺すことで難に遭うが、狗によって助けられる。②大蛇(山の神)を見過ごすことで被害を受け、結果的に死ぬ。そして①と②の間で語られて居る事柄は、一種の咒法であり、かつまた戒めでもある。②において、①の如くヒトツヒルを弾くといった行為を為さなかったが故に、神気(祟り)を直接受けたわけである。

 次郎五郎淵の伝説と屋久島の伝説、そして記・紀の逸話は、「白鹿」だけでなく、「戒めを破る」「(山の神の祟りを受け)山の麓で死ぬ」といった点でも共通している。
 戒めの内容が異なるのは、そのまま山の神の正体の差異として解釈できる。すなわち、記・紀では基本的にその土地の首領である。一方、次郎五郎淵伝説では殺生の禁忌が露骨に暗示される代わりに、神の姿はほぼ無いに等しい。つまり、悪因悪果や悪業といった要素が代理をしている。そして屋久島の伝説は両者の中間に位置づけられる。禁忌の理由は明確だが、その意味は欠落している。その代わりに、死に至る原因は直接的(物理的)に語られ、呪術や業といった観念が最も乏しいと言える。

 記紀に登場する動物・怪物の多くが、国つ神や産土神への蔑視によって同一視(レッテル化)された一種の象徴であるという指摘は、山の神の祟りを受けて死んだヤマトタケルが白い千鳥に変じるという件からも肯んじ得る。

 山岳修験者が山の神の遊行する山中を同様に歩くことで一体化し、その神通力を得る行者とするなら、屋久島の伝承の「神々の行列」と山岳修行者の集団とは通底して居ると言えよう。
 人でありながら山の神のように振舞う修験者はやはりマージナルな存在と言える。
 神話の「白鹿」「白狗」も、そのような異界である山に暮らす山の民だったのではなかろうか。前者は帰順せず(故に「神」であり)、後者は帰順した「元国つ神」である。

 ところで、屋久島は法華宗(本門流)と真宗の寺院が多いようである(真宗の伸張は廃仏毀釈を境にしたものとされるが、「かくれ念仏」といった形で一定数の信仰土壌はあったとされる)[7]。つまり、真宗の勢力地という点も、次郎五郎淵伝説との共通項として一考の余地はあると言える。
 しかし、教義と矛盾するような伝説を弘めることで信仰を促すというのは奇妙であろう。両伝説はむしろ山仕事をする現地人と、山岳宗教者との不用意な接触を避ける意図をもった山岳信仰説話と捉える方が腑に落ちるのではなかろうか。
 修験者は神仏と伴に山を歩く。日蓮伝で日蓮の危難を救う「白い猿」が修験者や神人の象徴であるとの指摘[8]も踏まえれば、「白い鹿」が白装束の宗教者だというのもあながち的を外した観立てとは言えないだろう。

 紹介した伝説はいづれも死という結末の原因を禁忌や戒めを破ったことに集約させて語られて居るが、その死をもたらす存在として「白い野生動物」に象徴される山の神との遭遇も語られる。
 しかし現代の死亡・遭難事故事例では同様の原因を指摘する一方で、確認不能な「白い野生動物」に言及することはなく、全て自己の責任ないしは監督者や行政の責任とするケースが圧倒的に多いだろう。そしてまた、その多くが語り継がれることなく、検索でのみヒットするアーカイブへ埋もれていくのである。
 観て居ないモノについて語ること能わなくなった日本人と、禁忌よりも明文化された法律だけが人の行動を制するようになった社会は、かつて杜と呼ばれ御神体とも看做された山々を容赦なく屠っていく。
 そこは神聖な禁足地などではなく、ただの山林に過ぎないとの異論が上がるかも知れない。だが日本の各地に似たような伝承が残るということの意味は、単なる信仰的な広まりというに留まらず、そういった戒めによって人の行動を制限していた、その必要があったということではないか。そしてそれは、人(権力者)の作りし法律よりも高くて強い概念として設定されていたのである。
 近代はそれらを迷信として斬り捨てていったが、その手の主張は往々にして科学・法律しか頼る術を持たない、科学・法律の信奉者であるという意味において、ある種の宗教的対立であり統制であったと解すこともできるであろう。それはまた、特定の感応者が有した霊的な権力を形骸化させ、霊的能力を持たない者たちだけを中心とした社会や政治を擁立する方向へと、大きく舵を切ったことをも意味している。
 付け加えるなら、その分水嶺は武家政権が誕生し執権政治が確立する鎌倉期にあったであろうことが日蓮や元寇への対応から窺え、更に自由な布教や宗論を禁じつつ鬼神や咒いを否定する儒教が学問として再興された徳川政権期に大きな断裂が生じたであろうことも類推できよう。近代の神社整理は、まさにそういった割れた大地をすりつぶし、分かれた支流を埋め立てていった行為であった。
 天変地夭や異常動物に最早カミを、あるいはその意思を観じることが不能となった社会で、敢えて学問としてもう一度「本当のカミ」を俎上に載せようと試みたのが柳田國男であった。


[1]若杉慧・村岡浅夫『広島の伝説』(角川書店/S52)
[2]香河正矩 編・堯眞(香河宣阿)補遺『陰徳太平記 合本2(巻19-38)』(犬山仙之助/M44)一五一頁
[3]『新日本古典籍総合データベース』(https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100163169)
[4]『屋久島Trekking navi』(https://www.yakushima-info.com/yakushima/legend.html)
[5]山口佳紀・神野志隆光 校注訳『新編日本古典文学全集1 古事記』(小学館/1997)二二七―二三五頁
[6]小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守 校注訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀1』(小学館/1994)三八〇―三八三頁
[7]栗林文夫「種子島・屋久島における法華宗の復興について―本能寺史料「種子島・屋久島巡廻布教紀行」を読む―」―『黎明館調査研究報告』31号(鹿児島県歴史資料センター黎明館/2019)
[8]石川修道『国難に立ち向かった中世の仏教者―伝承学から判ってきた日蓮聖人の秘められた歴史―』(東洋出版/2012)一三四―一三八頁

表紙画像:白谷雲水峡 © 鹿児島県 クリエイティブ・コモンズ・ライセンス(表示4.0 国際)https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/