東京でぜひ行きたい!おすすめ神社6社+2

社寺建築[細部意匠]

 実際に参拝した筆者が、雰囲気の良さ、由緒、御祭神、建築物などから総合的に見てえらびました。「+2」はお寺ですが、仏教とは少し違う特殊な信仰があるお寺です。
 お参りはもちろん、文化財等の鑑賞目的で訪れても満喫できるセレクトだと思います。

<掲載社寺一覧>(参拝した順)
1【梅薫る蟇股の宝庫】湯島天神
2【優しい風が吹く特別な場所】靖國神社
3【金色の龍と元祖3Dビジョン】渋谷金王八幡宮
4【五龍神勢揃い】田無神社
5【招きねこねこ縁結び】今戸神社
6【下町フードと矢切の渡し】柴又帝釈天
7【くらやみ祭と運慶の狛犬】大國魂神社
8【猫児が招いた藩主さま】豪徳寺

<目的別に撰ぶ>
Ⅰ:「お参りして不思議なことがあった!」(*個人差や相性があります)
田無神社今戸神社

Ⅱ:「建築が凄い!」
渋谷金王八幡宮田無神社柴又帝釈天

Ⅲ:「桜が見られる!」
靖國神社渋谷金王八幡宮

Ⅳ:「収蔵品が見られる!」
湯島天神靖國神社大國魂神社

Ⅴ:「動物の像がある!」
湯島天神(牛)靖國神社(軍用犬)渋谷金王八幡宮(虎・貘)田無神社(龍)今戸神社(猫)豪徳寺(猫)

 

1【梅薫る蟇股の宝庫】湯島天神
読み方:ゆしま-てんじん
正式名:湯島天満宮[ゆしま-てんまんぐう]
鎮座地:東京都文京区湯島3-30-1
最寄り駅:千代田線・湯島駅(西口)
旧社格:府社
祭 神:天之手力雄命あまのたぢからおのみこと菅原道真すがわらのみちざね
御朱印:あり
絵 馬:あり

<由 緒>
 雄略天皇二年(458)、勅命によって天之手力雄命を祀り創建。(社伝)
 道眞については、正平十年(1355)里人が勧請かんじょうしたとの伝承があるほか、文明年間(1469-87)に太田道灌が道眞を夢に観たことで合祀し、文明十年(1478)に社殿を再建したという説(『神社辞典』)、太田道灌が夢に道眞を観たのは文明十年で、小祠しょうしであった当社を再建したという説(『江戸東京はやり信仰事典』)もある。
 家康は朱印地(領有を認める土地)を寄贈したほか、五代将軍綱吉は火災で焼失した当社の再建のため五百両を寄進。
 表参道の青銅鳥居は寛文七年(1667)建立で、東京都の文化財指定。
 現社殿は平成七年(1995)の造営。(老朽化による立て替え)

 


天神と天満宮の違い
 御霊ごりょう(怨霊)としてまつられた菅原道眞公は後に「天神さま」とも呼ばれました。
 有名な逸話ですが、道眞さんが無実の罪で九州の太宰府だざいふ左遷させんされて亡くなられると、道眞さんを追いやった貴族の館に雷が落ちて全焼したりして関係者がバタバタ死にました。
 この現象と結びつく形で「瞋恚しんにほのお天に満ちたり」云々という託宣があって(『天満宮託宣記』)、そこから「天満天神てんまてんじん」という神号を与えて祀ったとされます。ちまたではもっとストレイトに「火雷天神」とも呼ばれたそうです。(「瞋恚」は仏教語で「怒り」)
 しかし仲の良い人や一般人からすれば大臣にまで上り詰めた秀才、詩歌に優れた方(五歳で和歌を詠んだ)という評価でしたから、仰々しい呼び方をせず「天神さま」と親しみを込めて呼び、詩歌の技術向上や冤罪の救済などを願う信仰が生れていったようです。
 元々「天神」には別の意味があって、特定の氏族の祖先神のことを指しました。例えば物部氏や大伴氏、中臣氏は天神の子孫といった具合です。そしてまさに道眞さんの母方は大伴氏でした。なので、道眞公を「天神」と呼んだのは、自分も子孫(同族)ですよ祟らないでくださいという暗黙の主張も籠められているのかも知れません。
 「宮」は一部の特別な神社に使われましたが、意味は「神社」とほぼ同じです。「宮」の一字に「神さまを祀る場所」といった意味があり、また「じんじゃ」よりも「みや(ぐう)」の方が字数が少ないので簡略的な意図もあります。八幡神社より八幡宮の方が呼びやすく表記も少ないといった具合です。「神宮」という場合はまた別の意味になります。

 

二十六夜待ちと奇縁氷人石
 ここの境内地は高台であったため「二十六夜待ち」で賑わったという。
 二十六夜待ちとは、正月二十六日と七月二十六日の夜に月を拝む信仰で、月光に阿弥陀・観音・勢至の三尊を観想すると幸福になると言われた。
 旧暦九月十三日の「十三夜」よりも宗教色が強く、上弦の月(逆さまの三日月)なのがポイントですね。いろんなお月見があったんですね。「十五夜」(旧暦八月十五日)は大陸から伝来した風習だそうですが、「十三夜」は日本独自の文化。お祭りも旧暦九月(新暦の十月頃)が多いですよね。
 旧暦の八月は「二百十日」や「二百二十日」といって台風と関連した厄日があるように、日本の風土に適しにくい面があって、それで一月遅れの「十三夜」が盛り上がったのかも。
 また面白いのが嘉永三年(1850)に建てられ文京区の文化財となっている「奇縁氷人石」。これは迷子石とも言われ、尋ね人があればこの石へ貼紙をして情報交換をしたという。
 駅前掲示板の元祖みたいなものであり、それだけお祭りとかの雑沓が凄まじかったことを物語ります。


学問の神さまとして合格祈願信仰が凄まじい天満宮ですが、お祭りの時には全く関係なさそうな人たちで参拝の行列が出来てました。奥の拝殿内には神前結婚式を挙行されてる方々も見えます。

 

豊富な蟇股(かえるまた)
 蟇股とは、二本の水平材の間にあって上の梁を支える建築部材のことで、正面を向いたカエルのように見えることから「蟇股」の名前があります。古い時代のものほどシンプルで、徐々に本来の用途よりも見栄えを重視した複雑なデザインになっていき、龍がそのまま彫られたり祭神に関するものが彫られたりしました。

湯島天満宮宝物殿の蟇股
Aは梅を愛された道眞公にちなんで「梅」の紋
Bは日本神話から「因幡の白兎」
Cは左の人物が弓矢を、右の人物が釣り竿をもっているので同じく日本神話の「海幸山幸うみさちやまさち」と思います。

 


拝殿左と右

拝殿正面(三間中央)の蟇股。上が「牛」で、下が「梅とウグイス」
 牛は、道眞公の遺骸を牛車で運んでいる時に牛が動かなくなったのでそこへ埋葬したという伝承にちなみます。その場所が太宰府天満宮です。なので、天満宮の参道には伏せた牛の像がよく見られます。

授与所の蟇股(上階はすべて鳥類モチーフ)


応龍

 


 


麒麟

 

 


撫で牛

 


手水舎の木鼻

最寄り駅:千代田線・湯島駅(5番出口)

 

 

2【優しい風が吹く特別な場所】靖國神社
読み方:やすくに-じんじゃ
鎮座地:東京都千代田区九段北3-1-1
最寄り駅:都営新宿線/半蔵門線・九段下駅(1番出口)
旧社格:別格官幣社
御朱印:あり

<由 緒>
 明治維新時の犠牲者と、諸事変・戦役の殉難者の英霊240余万柱を祀る。
 明治二年(1869)に東京遷都が行われてから東京へも戦没者らを祀る招魂社建立の機運が高まり、軍務官知事仁和寺宮にんなじのみや嘉彰親王の命で、九段坂上の旧幕府歩兵駐屯地跡(現社地)へ東京招魂社を竣工した。
 当初は鳥羽伏見の戦いから函館戦争までの戦没者3588柱を祀った。続けて嘉永六年(1853)以降の戦乱の殉難者らを逐次合祀。
 明治十二年(1879)、靖國神社へ改称。別格官幣社に列す。「靖國」は「安国」と同義で(国を安んじるという意味)明治天皇の思慮に基づいて命名された。
 これ以後は、対外戦争や事変の殉難者らを合祀した。

<狛 犬>


靖國神社南門狛犬(昭和38年奉納)

 境内には社務所や霊璽簿れいじぼ奉安殿といった神社関連施設のほかに、茶室や能楽堂、遺族らの休憩室などもあるが、特筆すべき施設に宝物遺品館「遊就館ゆうしゅうかん」がある。
 遊就館には特攻隊で散華さんげされた方々の遺書などが多数展示されているので、敗戦後に生れた日本人は参拝の折に是非立ち寄って頂きたいと切に願います。
 参道にある銅像は大村益次郎。創建当時、軍務官副知事という肩書きで社地を選定し竣工を指揮した人物である。(『神社辞典』)

 

遊就館について [YUSHUKAN]
 額の掲示や武器の展示を目的に明治十五年に開館。
 中国の古典『荀子じゅんし』勧学篇にある「高潔な人物に交わり遊ぶ」といった意味の文章から、二字を採って命名されたそうです。
 遊就館は入場料が掛かります。[Admission Fees]
 展示品は膨大で全部見る場合の目安は二時間となっています。
 館内は一部エリアを除き、撮影はできません。[No video or recording]
 飲食物は持ち込めません。軽食のできる施設が併設されています。海軍カレーがおすすめ。
 開館時間:9時~16時半(入館は閉館30分前まで)[9:00 to 16:30]
 休館日:基本なし(6月、12月は臨時休館日あり)
(*営業日時はコロナ等で変更されてる場合があります)

Yushukan is a museumu to inherit sincerity and records of enshrined deities
of Yasukuni Jinja by displaying their important wills and relics.
This museum established in Meiji 15(1882) stores 100,000 articles including
many pieces of paintings, works of art, armors and weapons.
Yushukan offers the following four permanent collection exhibitions.
①Displays renowned waka poems, swords and armors stored at Yasukuni Shrine.
②The wall-mounted panels explain Japanese modern war history.
③Numerous photos and notes.
④Large weapons and items collected from old battlefields. A zero fighter
in the Entrance Hall.
By touching directly the sincerity of enshrined deities who sacrificed
their precious lives for their loving motherland, hometowns and families,
you may find something highly precious.


春の靖國神社境内


軍犬慰霊像

夏の靖國神社(みたままつり)
黄色いのは奉納された献灯です。

アクセス

最寄り駅:都営新宿線/半蔵門線・九段下駅(1番出口)
築土神社は平将門関連の神社です。

 

 

 

3【金色の龍と元祖3Dビジョン】渋谷金王八幡宮
読み方:しぶや-こんのう-はちまんぐう
鎮座地:東京都渋谷区渋谷3-5-12
最寄り駅:副都心線・渋谷駅(東口)
JR渋谷駅からの行き方⇒「東口」改札の方です。「C1」出口を目指してください。「C1」を出ると左手に首都高(六本木通り)、右手に渋谷署が見えるかと思います。そのまま首都高沿いに直進するとドトール・コーヒーがあります。ドトールを越えたら次の筋を右折。右折したらもう見えるかと思います。

(『ジョルダン』の地図はコチラ
祭 神:応神天皇(品陀和気命)
御朱印:あり

 


金王八幡宮拝殿と狛犬(明治33年奉納)

 

<由緒A>(『江戸東京はやり信仰事典』)
 秩父武綱・重家が後三年ごさんねんの役の戦功で源義家から河崎姓と谷盛庄やもりのしょう(当地)を賜る。その際、八幡神の加護を願って社殿を建て、秩父妙見山八幡社から月輪つきのわの旗を請い受け御神体とした。
 重家に代替わりすると、姓を渋谷に改めた。
 重家の子は金剛夜叉のお告げで生れたという伝承をもち、金王丸と名づけられた。
 金王丸は源義朝に仕えた後、出家して土佐坊昌俊とさのぼうしょうしゅんと名乗る。源賴朝の命を受けて京都堀川で義経を襲撃するも討たれる。
 賴朝は建久二年(1191)に社殿を修築し、境内に桜を植えたという。この手植えの桜自体は現存しないが、ぎ木されたものは一重ひとえ八重やえの花が交錯して咲く名木として江戸期に評判となり、広重ひろしげの『江戸百景』にも紹介された。芭蕉の句碑も残る。

<由緒B>(『金王八幡宮参拝の栞』)
 寛治六年(1092)鎮座。
 秩父別当平武基は軍用旗を秩父妙見山に奉納し八幡宮として崇めていた。
 1087年、武基の子武綱は、嫡子の重家と伴に源義家の軍に加わり、後三年の役で功を立て、河崎土佐守基家の名と武藏谷盛庄を賜る。
 義家はこの勝利を、基家の尊崇する八幡神のおかげだとして、妙見山に奉納された旗から「月の旗」を請い受け、当地に八幡宮を勧請した。
 重家の代には禁裏きんりの賊を退治したことで堀河天皇より「渋谷」の姓を賜り、当社を中心に館を構えて居城とした。
 これが渋谷の地名発祥の起源とも言われ、渋谷八幡宮は青山・渋谷地区の総鎮守となったが、重家の子・金王丸が名声を馳せたことで金王八幡宮と呼ばれるようになる。
 例祭:9/14(+例祭後の土日)

 

金王丸について
 重家には子供が無かったので、夫婦で当社に祈願を続けたところ、妻の胎内に金剛夜叉こんごうやしゃが宿るという霊夢を観想し、男子が生れた。
 金剛夜叉は五大明王の一つで、密教の中でも真言密教だけに見られるという特徴がある。(台密たいみつでは金剛夜叉の代わりに烏枢沙摩うすさま明王を加える)
 したがってこの逸話は、真言密教との関係が深いことを暗示する。
 金剛夜叉から「金」の字を、明王から「王」の字をとって、男児は金王丸と名づけられる。永治元年(1141)のことであった。
 保元元年(1156)、十七歳になった金王丸(渋谷常光)は源義朝の配下で保元の乱に参戦し戦功を上げたが、数年後に平治の乱で義朝が敗れると、剃髪(出家)し土佐坊昌俊と称して義朝の霊を弔った。
 しかし源賴朝が平家追討のため挙兵すると、義経に謀叛の疑いを掛け、その討伐を昌俊に命じた。
 文治元年(1185)、昌俊はわづかの兵で義経の館を襲撃したが、逆に討たれた。
 毎年三月最終土曜に行われる金王丸御影堂(末社)の例祭では、金王丸が彫ったと伝わる自身の木像が御開帳される。

 

金王桜とは
 長州緋桜という品種で、一つの枝に一重と八重の花が混じって咲く。
 文治五年(1189)、源賴朝が渋谷高重の館に立寄、当社に太刀を奉納。そのときに、父義朝に仕えた金王丸の忠誠を偲んで、鎌倉亀ヶ谷かめがやつの居館から憂忘桜を移植して「金王桜」と名づけたという。(『社傳記』明応九年[1500]成立)賴朝奉納の太刀は伝来しているようだが、特に文化財には指定されていない。(参考『金王八幡宮参拝の栞』)

 

 現社殿は慶長十七年(1612)に造営。権現造り。渋谷区指定有形文化財。
 八幡系の神社にしては朱塗りで派手だなと思ったら、殿内は昭和五十八年(1983)に、外装は平成七年(1995)に塗り替えが行われていた。
 拝殿の左右上部に空間が設けられ、そこへ大型の彫刻が丸ごと設置されているのは珍しいかも。
 蟇股かえるまたの中央に彫刻を配置するのは割とあるんですが、こちらは完全に見せる目的ですし、とにかくでかい。
 ノリとしては仁王像とか狛犬とかに近くて、左右でポーズがほぼ同じなのが面白いですよね。組合わせも変わってるし、その見つめる先(左下)に何かあるのか。正面の金色龍も同じ方向を向いてるんですよねえ。
 一応公式の説明では、ばくは「世の安寧」、虎は「正しいまつりごとへの祈り」が籠められてるそうですが、他にも隠された意味がありそう。
 寺社建築の動物は祭神と関係がある(神使)の場合のほかにも、結構意味があって、貘は火災除けの意味もありますが虎は謎ですね。一般的には毘沙門天絡みで見かけますが金王丸は金剛夜叉だし。

 

<末 社>

御嶽神社

 

4【五龍神勢揃い】田無神社
読み方:たなし-じんじゃ
鎮座地:東京都西東京市田無町1-7
最寄り駅:西武新宿線・田無駅(北口)
旧社格:村社
旧 称:尉殿權現[じょうでん-ごんげん]
御朱印:あり
絵 馬:あり

<狛 犬>
表参道の狛犬1

 

<由緒A>(『江戸東京はやり信仰事典』)
祭 神:大己貴命おおなむちのみこと
合 祀:熊野社、八幡社
 正応年間(1288-93)、谷戸やとの宮山に鎮座。
 正保三年(1646)、現在地へ遷座。(青梅街道の開通で村の中心が街道沿いになったため)
 江戸期には倶利伽羅くりから不動の社として知られ、『新編武藏風土記稿』や『武藏名勝圖會ずえ』にも紹介されて居るという。当時のご神体は倶利伽羅不動像。
 明治五年(1872)、田無神社へ改称。
 祭神も級長殿尊から大己貴命へ変更された。
 神体の像は別当寺であった総持寺(真言宗智山派)へ移されている。この寺は谷戸新道を挟んで神社の西側にある。

 オオナムチから別の祭神へ変更する例は多いですが、逆のパティーンは珍しいですね。
 倶利伽羅不動は水辺に祀られることが多く、水源に乏しい田無村ではここで雨請いを行い、神楽や獅子舞が演じられたという。嘉永三年(1850)製作の獅子頭が「雨請い獅子」として二つ保存されており、西東京市の指定文化財となっている。(境内に展示されています)

 

倶利伽羅不動について
 これはちょっと聞いたことがなく何だろうかと思っていろいろ調べてみると、倶利伽羅龍王と不動明王を合体させてるようですね。
 『法華経』に登場する守護神(八大龍王)や龍女りゅうにょの成仏譚に関連した説話や伝承は多いんですが、密教も雨請いの修法で龍王を使うそうで、それが「倶利伽羅龍王」なんだそうです。龍は言うまでもなく水の属性ですね。
 一方、不動明王は『大日経』で大日如来の使者とされますが、怒りや炎といった属性をもちます。また真言教学では教令輪身きょうりょうりんじんといって、大日如来の一面として同体化されています。筆者は真言学は専門ではないので、この二つの解釈がどう体系化されているのか、火の不動と水の龍王がどういう根拠で習合するのかよく判らないですが、「倶利伽羅龍王は不動明王の化身」とする説がありました。(『仏尊の事典』)
 コトバンクの『精選日本国語大辞典』にもう少し詳しい説明があって、「不動明王の智剣が変じた化身。形像は、岩の上で火焔に包まれた黒龍が剣に巻きついて、それを呑もうとしているさまに作られる」そうです。(https://kotobank.jp/word/倶利伽羅龍王-2032793)
 ただ、これがどんな経典類に基づくのかは不明です。
 この説によれば、龍は一応登場するものの火がかなり強調されていますね。
 「火に包まれる龍」と聞くと、怨みや執着で龍蛇の姿になって苦しむ女性(が『法華経』で救われる)といった感じの説話をすぐ思い浮かべるのですが、密教では火や水、男と女など相反するものを一体(真理)と看做す解釈はよくあるので、「火に包まれる龍」とか「剣に巻きつく(呑む)龍」というのも矛盾や相剋そうこくではないのでしょう。
 ちなみに、空海さんが京都の神泉苑で行った雨請いはつとに有名ですが、このとき使われたのは『請雨経』、登場する龍は善如龍王(善女龍王)です。『本朝神仙伝』では妨碍ぼうがいがあって効果が無く、アノクダツ池(阿那婆答多池)の善如龍王に直接はたらきかけて降らせています。補註によると、この池は『大唐西域記』に出て来る池で、八地菩薩が願力をもって龍王に化して潜み、清い冷水を出す云々。
 田無村の場合は、「田無」と言われるほど水源に乏しい土地だったというので、倶利伽羅不動というような特殊な形態が採られたと解すこともできそうです。


田無神社社殿

<由緒B>(「境内案内板」)
名 称:尉殿大権現田無神社
主祭神:尉殿大権現(級津彦しなつひこ命・級戸辺しなとべ命)、大國主命
相 殿:須佐之男命、猿田彦命、八街やちまた比古命、八街比売命、日本武尊命、大鳥大神、応神天皇、御神徳の高いすべての神さま

 創立年不詳。
 本宮は正応年間(1288-93)に谷戸の宮山に鎮座。級津彦命・級戸辺命を祀り、尉殿大権現(尉殿權現社)と呼ばれていた。
 元和八年(1622)、江戸開府に伴って上保谷に分祀される。(尉殿神社)
 寛文十年(1670)、現在地へ遷座。
 明治五年(1872)、田無神社へ改称。

 尉殿大権現の姿は金龍神であり、東西南北に祀る青龍神、白龍神、赤龍神、黒龍神と合せて五龍神と称す。
 御神徳:豊穣、除災。(其他商売繁盛、学業成就、病気平癒、縁結び、国土開発等)

 大國主神が主祭神の扱いになっているけれども、由緒に関する記述は無い(明治期に合祀か)。また倶利伽羅不動についても一切記述が無い。
 風の神として知られるカミが金龍の姿というのは大変面白いです。倶利伽羅龍王は「黒龍」とされますが、ここの神体は「倶利伽羅不動」。かなり独特の珍しい像だったのかも知れません。あるいは『延喜式』祝詞に龍田大社に関する祝詞があるんですが、そこに「黄金の馬具や武具、機織具を奉る」といった文言があるので、そこら辺が関係している可能性もありそうです。

 


参道狛犬2
おけつがかわいい

 

級津彦命・級戸辺命とは
記・紀に登場し、一般的には風の神とされる。

 安政六年(1859)に建造された本殿および拝殿は東京都指定の有形文化財。
 彫工師は川越氷川神社や成田山新勝寺釈迦堂などを手がけた江戸の名工・嶋村俊表。(「境内案内板」)


田無神社拝殿

 

境内の龍(一例)

手水龍

 

 

絵馬(一樂萬開)

御朱印

<アクセス>

最寄り駅:西武新宿線・田無駅(北口)

【参考】
井上光貞・大曽根章介校注『続・日本仏教の思想1 往生伝 法華験記』新装版(1995/岩波書店)
三橋健・白山芳太郎 編『日本神さま事典』(大法輪閣/H17)

 

 

5【招きねこねこ】今戸神社
読み方:いまど-じんじゃ
鎮座地:東京都台東区今戸1-5-22

最寄り駅:伊勢崎線/銀座線・浅草駅(8番出口)
浅草線の浅草駅からは8番出口へ行けません。。一度地上へ出る必要あり)
旧 称:今戸八幡宮
御祭神:應神天皇、伊弉諾尊いざなぎのみこと伊弉冉尊いざなみのみこと、福禄寿
御朱印:あり
絵 馬:あり

<由 緒>
 康平六年(1063)、源頼義・義家は奥州おうしゅう夷賊いぞく征討の折に当地(浅草今津村)へ石清水八幡いわしみずはちまんを勧請。
 昭和十二年(1937)、伊弉諾尊・伊弉冉尊を合祀。この二神は嘉吉元年(1441)に千葉介胤直ちばのすけたねなおが自身の城内に祀っていたもの。
 例大祭:六月初旬

 


今戸神社社殿

 

今戸焼
 今戸焼とは、台東区の今戸地区で作られてきた土器や土製の人形のことで、江戸を代表する焼き物でした。
 起源は不詳ながら、天正年間(1573-91)に千葉氏の家臣が当地で始めたとか、家康が江戸入りした後、三河の陶工が移住してきたなど諸説がある。
 文献上の初出は十八世紀末なので、それ以前には本格的な生産が行われて居たと推察される。考古学的な調査では隅田川沿岸の窯業ようぎょうとの関連が指摘されている。
 宝暦二年(1752)に奉納された狛犬の銘から当時四十二名もの陶工が確認されるほどだった今戸焼職人も、現在では一軒が残るのみですが、その技法は今も受け継がれています。
(「台東区教育委員会設置案内板」より主意)

 

 

6【下町フードと矢切の渡し】柴又帝釈天
読み方:しばまた-たいしゃくてん
鎮座地:東京都葛飾区柴又7-10-3
最寄り駅:京成金町線・柴又駅
正式名:経栄山題経寺[きょうえいさん-だいきょうじ]
宗 派:日蓮宗
本 尊:一塔両尊四士
境内の拝観は無料です
本尊の御開帳は要申込み。
堂内の彫刻が有名ですが、彫刻と庭園は拝観料が必要です
駐車場:あり(有料)
ご首題:あり

 


二天門

 

<略縁起>
 寛永六年(1629)、日忠にっちゅう下総中山しもうさなかやま法華経寺ほけきょうじ十九世)が草創。(『新編武藏風土記稿』)
 開基は弟子の日栄とする。また考古学的な見地から室町時代初期には何らかの寺院があったとする説もある。
 千葉の中山法華経寺と関係が深く、末寺となる。
 縁起によると、日蓮が彫刻した祈祷本尊があると言い伝えられてきたが、その所在は知れなかった。それが安永八年(1779)に本堂を再建した際に棟上より長さ二尺五寸(約75cm)、幅一尺五寸(約45cm)、厚さ五分(約15ミリ)の板が見つかった。
 片面には、南無妙法蓮華経なむみょうほうれんげきょうの題目が中央に刻まれ、両脇に「此経則為閻浮提人病之良薬しきょうそくいえんぶだいにんびょうしろうやく 若人有病得聞是経にゃくにんうびょうとくもんぜきょう 病即消滅不老不死びょうそくしょうめつふろうふし」と刻まれている。(この文は『妙法蓮華経』薬王品の一節)。
 もう片面には右手に剣を持つ憤怒ふんぬの帝釈天像が刻されてあったという。
 この板が見つかった日は庚申の日だったので縁日となった。
 像を請う人には両面を摺ったものを与えたほか、近隣で疫病が流行するとこの板本尊を背負って巡行し出開帳でがいちょうして一粒符いちりゅうふを配ったという。
 また、江戸で道教由来の庚申こうしん信仰(庚申の日に徹夜で身を慎む)が流行ると、この寺へ参拝し本堂で一夜を明かし、朝一番で本尊ご開帳を受け、御神水を頂いて帰る人々で賑わったという。


帝釈堂

 

 二天門にある二天像は定朝じょうちょうの作といい、堺の妙国寺から明治二十九年(1896)に二天門の建立に合せて奉納された。(定朝は平安時代の仏師)
 棟梁とうりょうは坂田留吉で、帝釈堂の内陣や拝殿の再建も手がけている。
 『法華経』を題材とした内陣の胴羽目彫刻10枚は加藤寅之助、金子光淸、木場江運、石川信光、横谷光一、石川銀次朗らが手がけ、昭和九年に完成した。

 

帝釈天について
 帝釈天はインドの武神であったが、仏教に帰依(習合)したことで仏法の守護神となる。
 日蓮宗では開祖日蓮が顕わした曼荼羅本尊まんだらほんぞん勧請かんじょうされているので、全く無関係というわけではありません。

帝釈天と庚申の関係
 仏教に帰依した帝釈天は人間界の善悪の監視をするという属性も獲得した。
 一方、庚申とは人体に巣くう三尸さんしと呼ばれる虫が睡眠中に抜け出して、その人の罪悪を天帝に告げるという俗信である。こういった人の罪悪の監視・報告といった共通要素から習合したとされる。
 ただ、日蓮宗は題目を最強とするし、この板本尊も役割としては「病即消滅不老不死」にあって、道教的な俗信隆盛は一過性の時代的変異的なものだった。
 現在では病だけに限らず、より幅広い「厄除け」信仰として定着確立している。


龍のような松

 

矢切の渡しと『野菊の墓』
 境内を出て東へ向うと江戸川があります。
 川沿いは公園や草原が広がって、大都会東京とはまた違った景色が楽しめまする。

 人が手入れしてる花壇もありましたが、やっぱりこういう自然の花の方が好きだな。
 有名な矢切の渡しがあって、船頭さんのこぐ舟で対岸に渡れます。対岸は千葉県の松戸市になります。(有料。冬期は土日祝日のみ。荒天時は運休の場合あり)


 ピュイ!キュウキュウと鳴く鳥が居ました。

 その対岸から少し歩くと伊藤左千夫の純愛小説『野菊の墓』にちなんだ文学碑があるとか。
 伊藤左千夫は正岡子規門下の歌人ですが、『野菊の墓』は子規が提唱した表現技法(西洋の写生画から影響された緻密な表現)を使って書かれた小説です。その技法から「写生文系作家」とも呼ばれました。同門には長塚節が居るほか、夏目漱石の『吾輩は猫である』も写生文の小説と言われるそうです(但し漱石は以降文体が変わる)。
 んで、矢切地区は『野菊の墓』の舞台なんですね。ちょっと読んでみませうか。

「僕の家といふは、松戸から二里ばかり下つて、矢切の渡を東へ渡り、小高い岡の上で矢張やはり矢切村と云つてる所」(伊藤左千夫『野菊の墓』p1)

 その矢切村の旧家に住む僕(政夫、数えで15歳)と、従妹の民子(数えで17歳)の物語……なんですが、このね「年齢差」が、仲良しの二人の関係に亀裂を入れていくと、そういうお話しです。
 さすらいの友人は姉さん女房でしたから、現代なら別に問題にならないんだけど、時代もあるしやっぱり「旧家」ですよねえそういうの気にするの。あと女性の結婚年齢が早いので、政夫が卒業するまでソロでいれるかっていうのが政夫だけでなく読者もはらはらさせるっていう妙味。

 この記事書くついでで久しぶりに『野菊の墓』読みましたが……泣けた。
 それでちょっとネタバレになりますけど、別れたきり会わせないのが上手いですよね。これぞ「THE 純文学」ですよ。
 これがねエ、ただの純愛じゃなくって、初恋が結晶化するとでも言いましょうか、こういう男(政夫)に駄目出しする女性も少なくなさげですが、ほんとうにほんとうに魂レベルで愛した人と成就できなかった経験がある人なら、きっと泣くと思うんだよな。
 こういう良作を読むと小説を書いてみたくなるんですよねエ。そうして挫折するまでがセットなんだけど(笑)

 あと自分は民俗学なんかも独学してるんで、物語だけでなくって、当時の風習とか民俗とかも描写されてるのが面白いと感じるんですよね。例えば住み込みの女中さんとのやりとりとか、墓地がどういった処にあるかとか、村の娯楽がどういったものかとか。会話もそうだけど、今と比べて何が変わらず何が失われたとか判るのが面白い。

 青空文庫には新字新かなに書き変えたバージョンがあります。原文で読みたい方は国立国会図書館のデジタルコレクションにあります。『全集』の2巻(春陽堂版)がおすすめかな。ふりがなが多いのは俳書堂版ですが印刷があまり鮮明じゃないです。敗戦後に刊行された版はログインしないと読めないようになってます…。

(参考『江戸東京はやり信仰事典』、磯貝英夫『資料集成 日本近代文学史』(右文書院/S43))

 

<周辺アクセス>

柴又帝釈天参道(門前町)

 門前の参道には老舗が軒を並べ下町風情が残る。映画『男はつらいよ』のロケ地としても有名です。

 草だんごのほか、せんべい、くず餅、もなか、天ぷら、漬け物のお店とかありました。ダルマ売ってる店も。
 いわゆる観光地にあるようなお店とはちょっと雰囲気違って、地元のお店感があるのが良いですね。観光客志向が強すぎないとこ。昔から地元で作って売ってきたものがメインなとこ。でも「商店街」ってわけでもなくて絶妙な感じがします。

 

「とらや」でそばを食いました。

 

柱の文字「南無妙法蓮華経 奉漸讀妙經一千部成就之攸 當山」の解説
 南無妙法蓮華経なむみょうほうれんげきょう」は題目といって『妙法蓮華経みょうほうれんげきょう』に帰依しますという意味です。日蓮宗では念仏や真言の代わりにこの題目を唱えます。
 ほう」はたてまつる、「漸讀ぜんどく」は徐々に読む、「妙經」は『妙法蓮華経』です。
 「一千部成就」:仏教で「千部」というと千部讀誦どくじゅ(読経)とか千部書写を指すことが多く、ここでは「漸讀」とあるので讀誦だと思います。これは一つの経典を千回読んで供養や祈願を行う行法で、古くは聖武天皇の法華経千部書写などが知られます。『妙法蓮華経』は八巻二十八ぽんで構成されるお経なので、八巻二十八品で「一部(全巻)」ですが、大きな寺院などでも「一部」読むことは稀で、通常は祈願や法会ほうえに合せて主要な部分だけを読みます。それを千人が一部づつ、または一人が一千部読んだり書いたりするのが「一千部」で、そのような法会を「千部会」とも呼びます。
 「攸」はところ、「當山」は当山すなわちこのお寺です。寺院には寺号のほかに「山号」というのがあって、寺号の前に山号が付くのが通例です。したがってこのお寺の正式名称は「経栄山題経寺」です。お寺によっては山号のほうが有名だったり(例えば比叡山)、本堂の額に山号だけ書いてる場合もあります。

 

 

<本 堂>
本堂は帝釈堂の右手にあります。

 


題経寺本堂


本堂蟇股(龍)

 


本堂木鼻(一部)

 


釈迦堂

 

 

7【くらやみ祭と運慶の狛犬】大國魂神社
読み方:おおくにたま-じんじゃ
鎮座地:東京都府中市宮町3-1
最寄り駅:京王線・府中駅、JR南武線・府中本町駅
駐車場:あり
御朱印:あり
旧社格:官幣小社、準勅祭社


表参道狛犬①②:昭和46年奉納

 

<由 緒>
 創祀は景行天皇41年(111)に大己貴尊が降臨鎮座したことに始まる。
 当初は国造が奉仕したが大化改新によって国府が置かれ国司が奉仕するようになると、祭典の便宜を図って管内の神社を一箇所に集中させて祀った(国内諸神勧請)。これが武蔵国総社と呼ばれる由来である。
 また平安末頃には国府内に武藏の一ノ宮から六之宮を合祀した六所宮も建てられたが、やがて両社が同一視されるようになり、六所大明神とも称された。
 現在は一棟三殿の社殿の中殿(中央)に大國魂大神・国内諸神・御霊大神、東殿(左)に小野大神(一宮)・小河大神(二宮)・氷川大神(三宮)、西殿(右)に秩父大神(四宮)・金佐奈大神(五宮)・杉山大神(六宮)が鎮座する。


デザインに古代みがある龍。
藥師寺金堂の本尊台座の龍と似てます。全身が細く背中がギザギザしてないのが特徴。

 

大國魂大神とは
 大國主神と同一の神とされる。武藏を開拓し衣食住の技術、医療、呪術を伝えたという。
 大國主神は言うまでもなく出雲大社の御祭神で、出雲との深い関係を思わせるけれども、ここの神紋は菊紋で、注連縄しめなわも細く、社殿も大社造りではない。本殿は流れ造り平入りで、千木も水平切りである。

 青袖杉舞祭は源賴朝の、李子すもも祭は源頼義・義家の故事に由来する祭で、源氏との関係が深い。
 馬場大門のケヤキ並木も頼義・義家が植えたもので、国の天然記念物指定を受けている。そのほか家康も社領を寄進。
 五月の例大祭は別名「くらやみ祭」とも言われ、関東の三大奇祭の一つに挙げられる。
 本殿は一棟三殿の流れ造りで都の重要有形文化財。寛文七年造営。元は三棟三殿形式だったという。拝殿は明治十八年改築。
 社殿は北向きに建つ。

<手水舎>

正面


背面・側面

 

宝物殿は一見の価値あり
 宝物類も多く、運慶作と伝わる木造狛犬は国指定重要文化財。
 祭で使われる御輿や大太鼓がずらりと並べられているのも圧巻です。其他、江戸期に奉納された刀剣類や徳川家由来の品々も。(但し撮影は禁止)


大國魂神社及び宝物殿リーフレット

 

七不思議について
御田植え神事(かつて行われて居た祭礼)の後に、参詣者が自由に植えた苗や興業で踏み荒らされた苗が、翌日には整然となり、収穫の時には皆同じように実った。
境域に多数生息する五位鷺ごいさぎ、カラスが門内に入って社殿を汚すことがない。(鷺は公害等の影響でもう見られないという)
参道の両端に立つ数十本の大杉の根が、参道の内側には出て来ない。
拝殿前の矢竹は、挙兵した賴朝が当社で戦勝祈願した際に刺した矢が根付いたものだが、この竹はいくら茂っても石囲いの外に出ない。
拝殿前のもみの大木から、一年中雨のように雫が落ちる。
本殿背後の大銀杏の根元に、蜷貝にながいが生息している。母乳の出の悪い者がこれを頂いて煎じて飲むと改善効果があった。
境域に松の木が無い。

【解 説】
 ①―④は人や動植物が神域を乱すことのできない不思議な力があることを伝えている。
 ③―⑦は樹木に関係する話で、源氏が奉納した欅並木も合せて植栽が多様であることを物語る。
 一方で、⑦の「松の木が無い」ことについては次のような逸話がある。
 大己貴尊が降臨した時、伴に降臨した八幡神に鎮座地を探させた。ところが八幡神は見つけた鎮座地(八幡山)に自分だけさっさと鎮座してしまった。待ちぼうけを食らったオオナムチは「待つはつらい」とほぞをかんだ。このせいか、境域に松を植えてもすぐに枯れてしまうため当社では松を忌み樹とする。氏子も正月飾りに松を使わず竹を用いるという。
 これは大変興味深い伝承である。
 武藏総社と言われるこの神社で八幡神はどう扱われてるかというと、「所管社」となっていて、境域には社殿がありません。伴に降臨しながら袂を分けたと語られるわけですが、そもそも論として、オオナムチと八幡神とでは時代が違いすぎます。誰もがすぐに気づく矛盾含みの話が何故そのまま伝承され続けているのか。
 一つの可能性としては、このオオナムチは神話時代のオオナムチではないということが考えられます。神話時代のオオナムチは出雲神話と言われるように、出雲地方で活躍する人物(カミ)です。しかし同時に、他に例が無いほど多くの名前を持っています。これは「一人の神が様々な機能をもつ」とする説のほか、「複数の神を一人に集約した」とする説もあります。出雲王朝がしばらく存在していたなら充分有り得る話です。しかし実際は(記紀は)一人のオオナムチが「国譲り」をしたと述べるに留まります。
複数の顔を持つ、素性のやや不明瞭なカミとしては、八幡神も同じです。
 両者に共通するのは、真の姿を隠すため別の人物の出自や事蹟を混ぜながら独りの人物であるかのように見せかけていることである。

 また、松は杉と同じく常緑樹でカミの依代になることも少なくない。例えば狛江市の竜泉寺で雨請いをすると境内の松に龍が舞い降りたといった伝承がある。
 それが忌み樹になるのは八幡神が原因。
 松の樹皮は亀甲に喩えられ、またその樹形から大蛇とか龍に観立てられることもある。こういった要素はオオナムチと相性が良いのにそれらが遠ざけられている。それは既に述べた様に神紋、注連縄、社殿形式にも反映されていて、出雲らしさがまるで感じられない。これは意図的に隠したのか、それとも上書きされてしまったのか。
 例大祭神事で最初(4/30)に行われる海上禊祓いは、神職が品川区の荏原えばら神社まで赴き、そこから海上へ出て海水で実行されるそうだが、これは荏原神社に伝わる次のような伝承に関係するものと思われる。すなわち
「康平五年(1062)源頼義・義家父子の奥羽征伐の折、当社(荏原神社)に参詣、社頭の海で身を浄め、海水を汲んで五日間毎日潔斎して戦勝を祈願したとする伝説」である。
 つまり源頼義・義家つながりで伝承を再現する神事なわけだが、5/5に大國魂神社の神職らが野口家の接待を受ける「野口仮屋の儀」は、オオナムチが降臨した際に一夜の宿を求めた伝承に因むものであって、同じ例祭の神事でも祭神同様に混ざったものになっている。

 ここのご祭神は神々の意思よりも奉仕者の便宜を優先して次々に合祀されたと説明されるわけであるが、近代ならいざ知らず古代という時代を思う時、あるいはカモフラージュの意図があったのかも知れない。

【参考】
(『神社辞典』、「大國魂神社発行リーフレット」、「大國魂神社宝物殿リーフレット」、『江戸東京はやり信仰事典』、『東京の伝説』)

 


狛犬③④:天保十年(1839)奉納


そのた狛犬

<アクセス>

最寄り駅:京王線・府中駅、JR南武線・府中本町駅

 

 

8【猫児が招いた藩主さま】豪徳寺
読み方:ごうとく-じ
所在地:東京都世田谷区豪徳寺2-24-7
最寄り駅:東急世田谷線・宮の坂駅
宗 派:曹洞宗
本 尊:釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒菩薩
御朱印:あり
絵 馬:あり

<略縁起>(『江戸東京はやり信仰事典』)
 文明十二年(1480)、世田谷城主吉良政忠が、臨済僧馬堂昌誉めどうしょうよを開山として城内に庵室を建て、伯母の法号をとって弘徳院こうとくいんと命名した。
 天正十一年(1583)、曹洞宗へ改宗。
 小田原北条氏が滅亡した余波で吉良氏も没落し寺勢も衰えたが、寛永十年(1633)に彦根藩世田谷領として編入されると井伊家の菩提寺となり再興された。
 万治二年(1659)、井伊直孝が当寺に葬られるにあたって法号から「豪徳」の二字をとって豪徳寺と寺号を改めた。

井伊直孝と猫
 ある夏の午後、井伊直孝がこの辺りを訪れたとき、庵室の門前で一匹のぬこが手招きするのを見た。通り過ぎようとするとまたねっこが招く。不思議に思って境内に入ると俄にかき曇り雷雨となった。
 ぬこのおかげでずぶ濡れを免れた直孝は、それ以来この辺りに来るとこの寺にも立ち寄るようになり、やがて菩提寺とすることに決めたという。
 このぬこは当寺の住持三世雪岑せつぎんの飼っていたタマで、観音の化身「招き猫観音」とされた。
 ねこのおかげで井伊家が帰依したという話は瞬く間に広まって、商売繁盛を願う庶民が競って参拝し、門前にはぬこを象った土猫像を売る店ができた。その「招き猫」はタマのようにデカイ顧客を呼び込んでくれという願いを籠めて、商家の店先に飾られるようになった。
 寺の方もねこの絵馬や古い招き猫が奉納され、信者がねこを葬る猫塚も設けられた。(『江戸東京はやり信仰事典』)
 直孝の生年は1590年なので、この逸話は数え年換算で44歳頃のことと推察される。(参考:コトバンク「井伊直孝」https://kotobank.jp/word/井伊直孝-29777)

 似ているが微妙に異なる話もある。
 あるとき、彦根藩主井伊直孝は供を連れてこの辺りを通った。すると子猫が現れて招くようにしながら丘を登ってゆくのでついていくと荒れ寺があった。
 休憩がてら住職に茶を所望し一服していると、急に激しい雨になった。
 直孝はそのとき応対した秀道和尚に帰依し、寺を再興して菩提寺とした。
 直孝一行を招いた猫は間もなく死んだので境内に葬ったが、その猫塚の粉を撒くと福を招くと評判になって花柳界の者らが競って削り取った。寺は猫寺と呼ばれた。(『東京の伝説』)

 二つの伝承を比較すると、後者の方には「観音」とか「土猫像」とか「猫の名前」といった要素は登場せず、素朴で原初的な印象を受ける。前者は寺が完全に再興され江戸方面までねこの名声が高まり信者が増えてから整えられたものの如く思える。
 また不思議な招き猫に注目しがちだが、宗教的な観点で興味深いのは、「雷雨と観音」の組合わせである。
 水神と習合した観音信仰というのがあって、それを踏まえると、降雨を予知して濡れるのを防いだ猫が観音の化身とされていくのも大いに納得できるんですね。


招福猫児

 

 

招福猫児由来
 寺で「招き猫」を頂くと、由来書ももらえます。そこには次のような説明がされています。(以下要約)

 世田谷区の豪徳寺は東京西郊の名刹であるが、昔は貧寺で二、三の雲水が修行しながら何とか暮らしていた。
 その頃の和尚で猫好きな者がおり、自分の食を割いて育てていたが、あるとき「汝我が愛育の恩を知らば何か果報を招来せよ」と言い聞かすと、幾月か過ぎし夏の昼下がり、にわかに門の辺り騒がしく、和尚「何事ならん」と出て見れば、鷹狩の帰りと思しき武士五、六騎、門前に馬乗り捨てて入り来たり言うには「我等今当寺の前を通行せんとするに門前に猫一疋うずくまり居て、我等を見て手をあげ頻りに招くさまの、あまりに不審ければ訪ね入るなり。暫く休息致させよ」とのこと。
 和尚は急ぎ奥へ通し渋茶など差出しけるうち、天たちまち曇り夕立降り雷鳴とどろきしが、和尚気にせず説法したりしかば、武士は喜びて帰依の念を起こした。
 そこで「我こそは江州彦根の城主・井伊掃部頭かもんのかみ直孝なり。猫に招き入れられ雨をしのぎ貴僧の法談に預かること、これひとえに佛の因果ならん。以来更に心安く頼み参らす」と言って帰っていった。
 この言に二言無く、やがて井伊家の菩提寺となり、土地が寄進され大伽藍となった。
 これを伝え聞いた者らは、これ全く猫の恩に報いて福を招きし奇特の霊験なりと言って、猫寺と呼んだ。

 後にこの猫が亡くなると、和尚は猫の墓を築いて懇ろに弔った。
 後の世に、この猫の姿形をつくり、「招福猫児」と称えて崇め祀れば、吉運来たりて家内安全、営業繁昌、心願成就すとて、世に知らぬ人はなかりけり。

 この由緒は井伊直孝の言動が事細かに描写される一方で、和尚や猫の名前は語られていません。招福猫児の起源も曖昧で、寺で作るようになって広まったのか、民間信仰として先に成立したのか判らないですね。「後世」と書かれてあるので猫好き和尚の時代ではなく、代替わりした後の時代かと推察されます。今はお寺で頒布されていますが、寺外でも作って販売してるのかはわかりません。

招き猫観音絵馬

<アクセス>

最寄り駅:東急世田谷線・宮の坂駅

 

我が家の猫児

 

【主要参考文献】
白井永二・土岐昌訓 編『神社辞典』普及版三版(東京堂出版/2005)
新倉善之 編『江戸東京はやり信仰事典』(北辰堂/1998)
岡田芳朗・阿久根末忠 編『現代こよみ読み解き事典』(柏書房/1993)
下中彌三郎 編『神道大辭典』第一巻(平凡社/S12)
下中彌三郎 編『神道大辭典』第二巻(平凡社/S14)
古泉幾太郎編『左千夫全集 第二巻』国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/pid/962786/1/7)