【斜読書評】菊地浩平『人形と人間のあいだ』(NHK出版/2022)

斜読・書評

菊地浩平『人形と人間のあいだ』(NHK出版/2022)

 NHKで放送された人形文化の研究者による十三回の放送内容をまとめた雑誌。
若手の学者らしく古来の人形だけでなく現代カルチャーにおける人形的なモノにまで言及している。というより、人形を主体とした伝統的な人形文化よりも、人間を主軸とする対人形心理の研究といった印象を受ける。

第一章の「マスク地蔵」について

 お店や公共施設の場合は販売促進・感染防止・着用啓蒙の意味と推察しつつ、民家の玄関先や窓際に置かれたマスク着用キャラは「感染終息を願う民間信仰」(一五―一七頁)ではないかと著者はいう。

 筆者は異なる見解である。
 マスク着用を促す半強制的メッセージ以外だとすれば、それはそういった社会への皮肉を込めた揶揄であろう。何処も彼処も右も左もマスクマスクだから、石像にも付けてやるといったシニカルなメッセージである。
 著者の根拠として、道祖神信仰と習合した地蔵に着目して居るが、さえの神の神体として地蔵は数あるうちの一つに過ぎない。道祖神の像としては男女、男根、女陰、鬼を象ったものが多く、それらは根源的・原初的なエネルギーを象徴しつつ、「性」を「生」や「聖」に掛ける言霊的な要素も兼ねている。
 徹夜をする庚申信仰との結び付きもそこに関連するし、同一視されることもある幸神社さいのかみやしろの祭神の多くが猿田彦なのも、「さえの神」と「幸の神」、「申」と「猿」という音を媒介として習合したものである。

 地蔵は単独の信仰としては、地獄に赴いて、虐げられる死者を慰めるのが通例的である(例:水子地蔵)。
 さえの神は共同体の入口や境界に祀られて居る例が多い。そこは異界との接点でもある。記紀神話の要素の薄い原初的信仰を嫌悪して遠ざけられたケースも考慮する必要があるが、そういった場合も、共同体からハブられた民が縋る神という点で、地獄の地蔵と重なる面がある。
 注目したいのは、道祖神として祀られる地蔵も、寺院等に見られる通常の地蔵と同様の形態だということである。それは既に神仏として完成されているからであろう。ところがマスクを付けるということは、地蔵の機能が人間レベルということを意味してしまう。地蔵にもマスクが必要なほどの疫病となると、地蔵に終息を祈っても意味はなかろう。

 従来の民俗信仰を踏まえるなら、マスクを奉納することで感染を免れるといったことになりそうなものであるが、そういった動きは寡聞にして知らない。
 新しいようで古い信仰としてアマビエ(アマビコ)が再登場したくらいであるが、妖怪がスポットライトを浴びるような事態が既に、神仏に対する人々の冷めた視線の裏返しのようにも思える。恐らくその背景にあるのは、寺社ですら感染対策をするといった態度へのある種の幻滅であろう。(無論、寺社としては感染者が出ること自体が場合によっては御利益・御神徳への致命傷となるので理解はできる)

 地蔵に笠や前掛けをつけたり水を掛けたりするのも、地蔵自体が暑くないよう寒くないよう雨に打たれないようにという感覚で付けるのではないだろう。(そのような意図が見られるのは「笠地蔵」などのいわゆる「お伽噺」である)
 水子地蔵の如く信仰的な感覚がベースにあれば、地蔵の奥(あるいは先)に観るモノに対しての行為のはずである。さすれば、地蔵のマスクは、マスクも虚しく(あるいは手に這入らず)感染して亡くなった者への手向けと観るのが、最も民俗的信仰的な正解に近いと言いうるだろう。
 そもそも菩薩に攻撃撃退の機能は無い。菩薩は苦しみを和らげる存在である。身代わり地蔵を例にとれば、あるいはマスク地蔵には「感染の転嫁」が意図されているとも考えられよう。それはやはり個人的な救済というべきものであって、感染終息祈願の対象とは考えにくいものである。

 平安時代の貴族が幼児の身代わりに用いていた這子(人形)が成長後おもちゃになったという逸話を挙げつつ、大人になってその人形が省みられなくなると、人形はまた特別な意味を帯びるというのはわかるが、何故そのような「うつろい続ける性質」(一九頁)がマスク地蔵の誕生に結びつくのかが理解できない。信仰対象が、厳然たる信仰対象でなくなった(だから人間のようにマスクをつけさせる)という意味なのだろうか。
 むしろマスクをさせられる以前からその地蔵には一定の信仰があり、その延長(拡張)とみるべきではなかろうか。

 人形供養についても、著者は「葬式」といいつつ「人形と人間のディープで複雑な関係のエッセンスが凝縮された、実に興味深い儀式」(二〇頁)といった曖昧な表現もしている。だが、そもそも葬式は死者に対する儀礼である。人形供養の人形は死んでいるのだろうか? 筆者はそうは思わない。
 人形をわざわざ「供養」するのは何故か。
 最近は「供養」という語を使わず、「感謝」という言葉にしている例もある。ここにはあきらかに「役目」が想定されている。物言わず動かない人形が何か良い事をしてくれたという観念がある。そして宗教儀礼として行っているのは、寺の場合は「魂抜き」であり、神社の場合は「祓い」であろう。さすればその役目とは「身代わり」に外ならない。本来持ち主(多くは子供)が受けるはずだった禍事を吸収しているのである。

 無論、すべての人形が同一の役目をもつわけではない。
 これは筆者独自の見解だが、人形供養の場に持込まれた人形のすべてが生きて居るわけではない。中には供養など不要の「おもちゃ」も一定数ある。つまり、仏像と同じで魂の入ってるものとそうでないものとがある。
 ほとんどの人形は持ち主との関係性や与えられた役割、また作り手や送り手の念によって、そのように「成る」のだが、人の形をしている・顔がついているという形状だけで、供養が必要と考えてしまう短絡的な日本人が多いのが現状である。(厳密に言うと、人の形や顔があるものには「人の念」が籠りやすいという信仰)

 人形は、人間のようだが人間ではないというマージナルな存在なのである。時折り神社に人形を棄てていく行為が問題になるが、あれも境界的なモノを境界的な場へ還すといった意識のはずである(そうでないなら普通にゴミとして処理するだろう)。だからこそ形代を用いた「身代わり」や「呪詛」といった間接的な呪術が成立するのである。
 そしてまた子供は未成年と言われるように「未だ成人ではない」存在である。「七歳までは神の内」といったフレーズが聞かれるように、人間のようだが成人(人間)ではないマージナルな存在である。だからこそ、子供の身代わりとして人形が機能しうるのである。大人の場合は、名前や身体の一部を必要とするのに対し、子供には無条件で与えられるのがそうである。

 人間と人形の最大の違いは、やはり「動き」という点であろう。身体的な意味に留まらず精神的な思念も同様である。天台教学で云所の十界互具や一念三千といった機微――平たく云と喜怒哀楽――がない。それだけに一つの念が固着しやすい(と人びとは観る)。
 そういう意味で、人形は「念いの入れ物」とも言えよう。その入れ物が人の形をしているが故に、人はその「念い」を「人形の魂」と看做すのである。ここにも人の念いと人形の念いとの曖昧な境界性を垣間見ることができる。恐らくそれは、神鏡を我の如く思って祀れと言った日本の女神の逸話にも通じるであろう。

 人形を供養するとき、その人は人形同様マージナルな存在となって、感応道交するのである。
 地蔵は現世と幽冥を行き来するマージナルな媒介者であった。地蔵と人形が繋がるとすれば、「マージナルな媒介者」という点においてである。