【緊急寄稿】『すずめの戸締まり』はなぜ作品賞(金熊賞)の受賞に到らなかったか。

【はじめに】

 本日、ベルリン国際映画祭コンペティション部門の受賞作が発表・報道された。日本から出品されていた『すずめの戸締まり』(以下『すずめ~』と表記)は作品賞(金熊賞)の受賞には到らなかった。
 この映画祭はドイツで毎年2月に開催される国際映画祭である。1951年からスタートし、カンヌ、ヴェネツィアと並び世界三大映画祭に加えられるほどの権威と知名度がある。特徴として「社会派の作品が集まる傾向」があるという。
 日本映画の作品賞(金熊賞)受賞は’63年に『武士道残酷物語』,’02年に『千と千尋の神隠し』がそれぞれ受賞している。(参考:https://ja.wikipedia.org/wiki/ベルリン国際映画祭)

 この手の賞は時代世相や審査員、そしてライバル作品の有無によっても左右されるから一概には言えないのだが、それを承知で、単純な作品印象という観点から、過去受賞作の『千と千尋の神隠し』(以下『千と千尋~』と表記)と比較しつつ、受賞に到らなかった要因を推察してみたい。
 比較対照作品に『千と千尋~』を撰ぶのは、「日本的なファンタジー要素が盛り込まれているアニメ作品」という点で共通するからであり、また二十年ほど前になるが直近の受賞作だからでもある。当然、今回の作品賞受賞作を視聴できてない(一応日本では年内公開らしい)という点も含む。

 審査員や監督の思想などは抜きで、二作品の違いをできるだけ客観的に比較しようとするなら、やっぱり「印象」を軸にしてテーマとの関連性・整合性を比べるのが良いだろう。もちろん、その印象も審査員によって違ってくるだろうが、「その映画が最も訴えて居ることは何か」という視点さえあれば、先に公表されている概要などと相まって、作品のもつ印象はある程度定まったものになってくるだろう。
 見終わった後に落着いて、作品を反芻するとき、結晶のように浮んでくるものは何か。それこそが映画の核のはずである(表面的な技術や映画的手法・演出も当然評価対象になると思うが、筆者にそれらを評する知識はないのでそこは割愛させて頂く)。
 主観的な印象と、客観的に読み取れる(提示される)テーマとが、作品の中でどのような関係性になっているか。そこを考えていくのが、単なる感動から作品評価への転換点である。

【二作品の印象】

 『千と千尋~』で一番印象的なのは、主人公の少女とカミ(妖怪)たちとのやりとりだ。そこには幾つものテーマが潜んでいて、視点の位置によって受取方が違ってくるが、どれもシンプル(ストレイトで子供にもわかる)のがポイントだ。
 一番大きなテーマは、少女が異世界から自力で抜け出すという体験をすることだろう。監督が、このような状況下で子供にどういった言動を期待して居るかを描いてみせることである。
 そうすると、妖怪たちを実は「今まで会ったこともない類の大人たち」と見ることもできる。思春期になると途端に親が煩わしくなるが、それが豚の姿として表現されていると解釈することもできる。誰もが二面性(多面性)をもち、誰もがなにがしかの役割を担って居る、という「人間の本質的平等性・残虐性・嗜好性」も伝わってくる。
 いづれにせよ、シンプルでストレイトなのは外国人にとっても理解がしやすいだろう。
 環境問題がテーマではないが、ゴミを捨てる行為が積もり積もって、やがて関係ない者たちのもとへ大きな災いとしてもたらされるということが誰にでもわかる。貪欲の業も、その呪縛を断ちきるのが子供の無垢性だということも、容易に伝わる。

 一方、『すずめ~』はどうか。一番印象的なのはやはりミミズ(災害をもたらす存在)である。それを鎮める男性の祝詞である。つまり『千と千尋~』と同じく、主人公と異形(神々)とのやりとりが最も印象に残る。
 しかし神道的な要素はやはり理解されにくい面があるだろう。あの祝詞風の呪文は文章にこそ意味があるのだが、それが理解できなければただの魔法になってしまう。これが実は「場所(犠牲者)を悼む」というテーマの表現なのだと、どのくらいの審査員に理解されたか。地震という制御不能のはずの現象を、制御してみせるこの描写は危うさも含むのだが、ここを正確に理解するためにはどうしても「産土神」とは何かを知る必要があるし、「祝詞」の内容まで把握する必要があるだろう。
 また『千と千尋~』が言語を媒介とせずともコミュニケイションが成立して居る(特にカオナシがそうである)のに対し、『すずめ~』の方はミミズが既に意思を持たない存在として描写(設定)されている点が大きく異なる。『千と千尋~』のフォーカス(焦点)は主人公の少女に徹底しているというのはすぐにわかる。だが『すずめ~』はどうか。
 正直に言って、よくわからない。いや、複雑である。
 それは主人公が二人(男子学生と女子高生)居ることにもよくあらわれている。

【スピーチへの戸惑い】

 それを踏まえた上で少し気になったのが監督の上映後のスピーチだ。災害にフォーカスし過ぎている気がする。現在の被災状況を訴えるならフィクションのアニメにする必要はないのではないか。その点について、災害に遭っても笑いながら前を向いてるというメッセージとのことだが、それが成り行きで被災地へ向うことと果して結びつくのか。またそのテーマに固執すると、男性主人公の存在が疑問となる。つまり、「場所(犠牲者)を悼む」というテーマが霞んでしまう。ダイジンが真の悪役ではなかったということも、祝詞の意味も、薄れてしまう。

 この、地震にフォーカスし過ぎている点が、最大の違いと言えるのではないか。『千と千尋~』は主人公の少女に徹頭徹尾フォーカスし続けるのに対し、『すずめ~』は「地震(という現象)」にフォーカスしたためほかの災害が見えにくくなった。たしかに日本の各地で地震は起きているが、地震の中でも更に東北にフォーカスした結果、ほかの地域は単なる通過点になっている。加えてミミズが出る要因も曖昧な描写になっているが、恐らく通過点と東北とでズレがある(通過点ではダイジンの関与を疑わせる「現在時制」だが、東北は「過去」である)。
 ここで本来なら被災した少女の成長といったものが焦点化されてくるわけだが、半分は男性主人公が「場所を悼む」(というより産土の鎮魂慰霊)という点にフォーカスしているし、中盤以降は叔母も被災者としてフォーカスされる。この群像劇的な要素と、地震という現象へのフォーカスはやはり微妙なズレとして感知されよう。
 また地震の原因を「ミミズ」とすることによって、そしてそれを鎮めることが可能な点において、最終的には「人間の問題」だと暗示することに繋がってしまう。この構造を仮にフィクションだと強調したとして、一方で東北の今の現状(リアル)を知って欲しいというのは、やはり表現と意図の間にズレがある(伝達という点でマイナス)と言わざるを得ないだろう。
 その点『千と千尋~』は少女の体験の原因を直接描いていない。ただハク(白い龍)と過去に接点があったということだけ提示されるが、宮崎作品に特有な如く、ファンタジー要素を思春期の子供に顕著なイマジナリー体験(現象)と重ねることでリアリティを担保できている。この、「ありえる」とか「ありえた」という感覚・印象をもたせるのが、やはり宮崎監督は圧倒的にうまい。子供をよく観察してるなと思わせるのである。物語世界の端々にも発生装置(例えば祠など)が巧みに描き込まれているのである。『となりのトトロ』や『千と千尋~』で描かれる少女らの体験が現実的(歴史的)な怖さをもつのはそこである。

【焦点の揺らぎが評価に影響か】

 『すずめ~』は物語の流れからすれば、要石という悲しい存在(人柱)も含めて、一人ひとりが犠牲者を「悼む」ことができるのだというメッセージこそが最も重要ではなかろうか。
 二時間という枠の中では一人の少女と一つの震災を軸とするのは理に適っている。しかしやはりそれでは、東北大震災の問題となってしまう。「場所(犠牲者)を悼む」はずが、「原発が~」とか「放射能が~」という発言になってしまう。焦点が過去なのか現在なのか(あるいはその両方なのかも知れないが)どうしてもブレを感じる、というよりそのブレが気になる(念のため言い添えるが、どっちが良い・悪い、正しい・正しくないという話ではない。一番表現したかったのは何だったのかという疑問である)。
 筆者は監督のスピーチを聞くまで後者のような印象(現在進行形の問題)はまったく作品から観じなかった。作品から離れた場所でそれを敢えて言うことの意図は筆者にはわからない。ただ、もし自分が審査員の立場だとしたら、作品だけから受けた印象に基づいた評価(解釈)が果して適切であるかどうか、判断を躊躇せざるを得ないであろう。
 少なくとも「被災地・被災者の現在」を訴えるものだとすれば、作品から受ける印象(犠牲者を悼む)とはかなり齟齬があるというのが、作品の印象を軸にした場合の評価である。むしろ、作中の津波警報が、被災した観客を中心にトラウマを惹起したという実際の現象こそ「現在」を端的に物語っているだろう。被災地の描写についても、荒れ果てたままの現在と、震災直後の過去とを混在したことで、やはりフォーカスが甘くなった点は否めない。新海監督がスピーチの場で敢えて「現在」に言及したのも、これまでの観客の反応などからそこがあまり伝わっていないと感じたからではなかろうか。それはつまり、監督の意図と作品の印象とが食い違っていることを示唆しているのである。

 作品は、たとえ誤解であっても解釈が確定されれば一定の評価となる。しかしその解釈に揺らぎが生じたとすれば、その揺れが収まるまで評価はしづらくなるだろう。恐らくはそれが受賞を逃した理由である。(今回の作品賞の受賞作は、ドキュメンタリーとのことである)