映画『すずめの戸締まり』に関する一考察③―宗像草太の祝詞風呪文を中心に―

考察

全体目次
映画『すずめの戸締まり』に関する一考察①―登場人物の名前の由来を中心に―
映画『すずめの戸締まり』に関する一考察②―大地震をもたらすエネルギーはなぜ「ミミズ」なのか―
映画『すずめの戸締まり』に関する一考察③―宗像草太の祝詞風呪文を中心に―

3、宗像草太[むなかたそうた]
 宗像草太は物語の序盤から鈴芽と行動を伴にするもう一人の主人公(男)である。「草太」からは特に日本神話周辺で思い浮かぶイメージはないが、「宗像」からは宗像大社とか宗像三女神がすぐに想起されるだろう。
 宗像大社は数ある日本の神社の中でもかなり古い時代に創始された神社である。祭神は田心姫たごりひめ湍津姫たぎつひめ市杵島姫いちきしまひめの三姉妹の姫神で(表記及び神名は『日本書紀』による)、天照大神の直系(但し認知はしない)であり、海(ひいては水運)に関連する神である[1]。鎮座地は現在の福岡県宗像市で、田島村(玄海町)、大島村、沖ノ島の三箇所に祀られ、沖ノ島は禁足地になっている[2]。
 鎮座の由来については天照大神からの神勅に基づくという点が重要で、ここは記・紀の中でもかなり意味深な記述があって、「高天原」とはいったい何処なのかがそれとなく暗示されているのであるが、映画の考察からもずれるし、これ以上は触れないでおく。

【草太の祝詞?】
 作中で閉めた扉に草太が封印をする場面で唱えられる祝詞のようなセリフがある。

  かけまくもかしこき日不見ひみずの神よ
  遠つ御祖みおや産土うぶすな
  久しく拝領つかまつったこの山河
  かしこみかしこみ謹んでお返し申す[3]

 管見の限りだが、これは神道界隈に伝承されて居る実際の祝詞ではなく、祝詞風の宣言文とでもいうべき物である。祝詞は大別して、神に奏上する形式のもの(奏上体)と、参列者に向けた形式のもの(宣読体)の二種類があり、両者は文末の表現(「申す」「宣る」)で区別される[4]。現代で祝詞という場合、前者が主流である。
 祝詞の構成としては、①祭(儀式)の趣旨を述べ、②神饌について言及し、③神徳を称え、④祈願を唱えるのが一般的とされ[5]、仏教の回向文に近いことが解る。神道が「教え」を持たないと言われるゆえんである。
 『祓詞』や『三輪明神拝詞』を見ると、③④のみの構成になっている。恐らく仏教経典で言うところの「」に該当するもので要点のみが抽出された形式の祝詞であろう。
 こういった点を踏まえて「草太の祝詞?」を検証すると、①②が無いだけでなく、神徳についても特に言及されず、最後も祈願というにはやや主旨を異にし、むしろ神に対しての宣言といった印象すら受ける。
 更にその内容も完全に「国つ神」や「産土神」へ向けた祝詞になっているのが特徴だ。「日不見」で「ひみず」と読ませているが、字義通りに解すれば「日を見ない神」である。「日を見ない神」とは何か。
 一つには、「日」を太陽の出現せる状態ととることで昼と解した上で、「夜を見る神」に当てることができよう。「夜見」は「黄泉」に通じ、地底・異界・冥界といった死者と密接な領域を統べる神と仮定できる。
 また天つ神の代表たる天照大神が「日神」で、記紀神話はその「日神」と天皇が直系であることを内外に示すための物語である。そして「天孫」を天降りさせる目的は何かと言えば、「天界」のルール(主に儀礼。厳密には「稲作」や「鏡を祀る」こと)を「国つ神」や「産土神」の居る葦原中國へ強いることである。
 「稲作(平地農耕)」の対極にあるのは「狩猟(海山河維持)」であり、オロチの姿も山を髣髴させ、出現地も大きな河である。それはまた蛇や龍が水、中でも特に雨と結びつくからでもある。海で発生した雲が山にぶつかり雨を降らす。雨は山から川へと流れ再び海へ注ぐ。雨が降るときには太陽を遮る。これが「日を見ない(日に背を向ける)神」である。雨は農業(稲作)に欠かせないが、しかし制御できるものではない。これが不変の運行を為す太陽神に対する「荒ぶる神」であり「順はぬ神」である。そうして彼ら稲作をする天孫族は田を荒らし破壊する行為を最も重い罪(天津罪)と定めた。
 その天照大神の系統に連なる「宗像」。その姓をもつ草太が、このような祝詞を「ミミズ」に対し宣言する。

  かけまくもかしこき日不見の神よ
  遠つ御祖の産土よ
  久しく拝領つかまつったこの山河
  かしこみかしこみ謹んでお返し申す

 草太の「扉を閉じる」という行為と「山河を返す」という宣言の関係性を踏まえれば、「開いた扉」は「山河を奪った」に通じるであろう。また「開く」は「拓く」に音が通じる。つまり開拓して自然の有り様(=土地神が築いたデザイン)を崩していることにも繋がる。
 ここでポイントになるのはエネルギーの噴出が「扉」だという点である。無理矢理穴をこじ開けて出て来るわけではなく、その箇所は「人工的に設置」されていて、開・閉を前提とした機能を有する一種の境界だということである。これはあきらかに神社の暗喩であろう。また一方でそれは、廃墟などの「人が見棄てた土地」に生じる現象でもある。
 この設定はよく練られたものだと思うが、一つの謎もある。それは鈴芽が幼少期に体験した大震災は、普通に人びとが暮らす町で起きたことであって、決して廃村だとか自然や土壌、山河が破壊し尽くされた地域というわけではないはずだという点である。

 この謎については、実は本編の中で解答が描写されている。それは噴出した「ミミズ」が上空広範囲へ伸張巨大化していき、ついにはその巨体を大地へ叩きつけようとする描写である。ここにも大地震に対する深いメッセイジがあるのだと筆者は観る。すなわち、発生源(主要因)と被災地との直接的な因果関係の否定である。
 それはまた、古のカミ(死者)の念が、既に明確な対象を見失い、ただそうした「念」としてだけ蟠って居るということでもあろう。更にそれは「祭り」を行う我々も同様である。どのようなカミが、どのような念いを抱えて鎮まって居られるのか、真に知る者は少ない。そんな「祭り」ですら絶えてしまったとしたら――。
 帰順し、明け渡し、従わぬ同族は無惨に殺されていった。他方では、そんな土地で収穫したものを捧げて、慰霊し、子孫らは感謝と伴に生きてきた。その祭り・神への儀礼が消失する。
 大國主神の「国譲り」が思い出される。高い宮殿を作り祀ってくれと遺言し冥界の神となった大國主神。出雲大社は今でも健在だが、その長い歴史を具に観れば、一貫して大國主神が安泰だったわけでもない。況してや廃墟や廃村となった地域では、その土地の神までも廃祀されるだろう。いや、それ以前にも、明治の神道政策は国つ神・産土神を斬り捨てたり天つ神に挿げ替えたりした例は決して少なくないのだ。平家から源氏、そして戦国の時代と、土地の為政者が変わるたび神仏の顔ぶれも変わった。そうした祭祀変遷の原点にあるのが国つ神から天つ神――大和王朝の成立である。
 人間の都合で祀られ、人間の都合で棄てられる――、そんな神々の無念も籠められている、と解釈することもできる。

 天皇は日本の象徴とも言われるが、それは別の表現をすれば、今生きて居る日本人はみな天皇(天つ神)の系統に連なるといった、かなり乱暴なくくり方にもなる。しかし封じられた国つ神や滅ぼされた産土神からすれば、そう見られても仕方が無い。だから祭り(祀り)をやめた者たちへ約束を果せと怒りを露わにする。いや、そのような明確な意思すら既にない。それはエネルギーに転換された人柱のようなモノだ。利用を開始した時から、永久に管理することを宿命付けられた「カミ」と呼ばれるエネルギー。
 草太は宗像の一族として、代々「閉じ師」すなわち荒ぶる神の慰霊(エネルギー循環のメンテナンス)を行ってきた。但し「宗像」でありながら、産土を「御祖」と言い、山河を「拝領」したものだという意識が明確に示されている。これは長い歴史の中で変遷していったものか、それとも草太に特有のものかは判らないが、「閉じ師」が一般的な神職とは毛色を異にするのは確かだ。
 それに対し、鈴芽はそういう意識も自覚もないまさに「現代の日本人」である。
 けれども、そんな私たちも、「閉じ師」的な行為が可能なのだと、この映画は訴えている。

補註
[1]薗田稔・橋本政宣編『神道史大辞典』(吉川弘文館/2004)九四九―九五〇頁、三橋健・白山芳太郎編『日本神さま事典』(大法輪閣/H17)二〇〇―二〇一頁
[2]同上
[3]「すずめの戸締まり」制作委員会編『すずめの戸締まり』パンフレット(東宝株式会社映像事業部/2022)一八―一九頁
[4]前掲『神道史大辞典』七九四―七九五頁、下中彌三郎編『神道大辭典 第三巻』(平凡社/昭和十五年初版)一〇七頁
[5]同上

初掲:2023/02/04

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