小説『すずめの戸締まり』に関する一考察(補遺2―閉じ師関連の諸文献を中心に)

考察

 前回の記事『補遺1』では、文章で記述された世界観を丹念に再確認した。
 次に、作中に出て来る「文献」の記述に注目し、災害をどのように伝承しているか確認してみよう。

<閉じ師関連の諸文献の考察>

1:『閉ジ師秘伝ノ抄』について

 『閉ジ師秘伝ノ抄』は草太(男の主人公)が要石について調べるため東京の自宅で繙く古書である。書誌情報は不明ながら和紙に崩し字で書かれた和綴じの書である[1]
 どの辺りを開いたのか定かではないが、最初に言及されるのは天明三年(1783)に山頂の鳥居からミミズが出たことを記録した箇所である[2]
 日本史では同年に浅間山が大噴火し死者は二千人にのぼったと伝えられる[3]


『夜分大焼之圖』[a]

 この歴史を踏まえると、ミミズによる被害が必ずしも地震に限定されないということが理解される。(余談だが、上の画図は左端が人の顔に見えて見る度にゾッとする…)
 浅間山に鳥居・神社があるのかについては、登山口及び登山道に鳥居と社殿があるとのことである[4]。また麓の軽井沢に、里宮と称する浅間神社がある[5]

 続いて確認しよう。次のページには龍の画図があるという。その龍の「蛇行する長い体の隙間に山や集落や湖が描かれ、龍と土地は一体であるかのような印象を受ける。その端と端、頭と尾のそれぞれに、巨大な剣のようなものが刺さっている。」そしてこの「巨大な剣のようなもの」が要石だと説明される。つまり要石は二つあり、猫の姿はかりそめのものと判明する[6]
 国土と一体化した龍の概念というのは、とても魅力的だ。鎌倉時代初期の暦には諸国(日本)を龍が楕円状に囲繞する龍囲地図が載っていたそうで、江戸時代にそれを復刻した瓦版『ぢ志ん乃辨』を見ると、日本列島を取り囲む龍の頭と尾が重なり、頭の上には宝珠、その横には剣が描かれている[7]。この概念を列島と一体化させたのが妙味である。
 そしてこの画図が実はとても重要な意味をもっている。
 というのも、この龍図の執筆年代ははっきりとは示されないが、ある時代まで要石による封印対象は「ミミズ」ではなく「龍」だったことを物語っているからである。現実の日本史でも地震興起の主体が龍からナマズへ経年劣化したように、作中においても龍からミミズへの変化があったことを示唆しているわけである。こういった表現は民間における地震の観念についてある程度リサーチしていないと書けないものだろう。筆者は、このような学術的要素を採り入れて構築された小説作品を高く評価するものである。

 次のページは見開きで「石碑と、それに祈りを捧げる群集」が描かれ「石碑には赤い字で「要石」と書かれていて、山伏のような格好をした数人がその石を地面に埋めようとしている」[8]
 この態様からは江戸時代の『鯰絵』がすぐに想起されるだろう。


『おそろ感心要石』安政二年(石本コレクションI-02-095)

 そのほか「黒要石収拾之」とか「寅ノ大変白要石」といった記述が確認されるとのことだが[9]、詳しいことは判らない。「寅ノ大変白要石」というのは、巨大化したサダイジンのことかも知れないが確証はない。

 

2:『要石目録』について

 こちらも書誌は不詳ながら、鈴芽の見立てによると『閉ジ師秘伝ノ抄』よりも何十年か何百年か新しい文献のようである[10]
 最初に開かれた頁には「古い地図のようなもの」と「扶桑國之圖ふそうこくのず」という文字。そして「島らしき地形の端と端に、大きな剣が二本刺さっている。」[11]
 「扶桑」というのは日本の別名で、日の昇る所とか東の海中にある神木という意味をもつ、中国の神仙思想に由来する言葉である[12]。十二世紀の天台僧皇圓に仮託される日本仏教史書『扶桑略記』や、江戸の本草学者貝原益軒の『扶桑記勝』といった書名に見られる。
 更にページをめくると「剣は、東北の端と琵琶湖の下」に描かれる。「要石は、時代ごとにその場所を変える」と説明される[13]

 琵琶湖には日本固有種のビワコオオナマズが棲息しているが[14]、やはり琵琶湖といえば竹生島ちくぶしまの弁才天であろう。江之島えのしま嚴島いつくしまと合せて日本三大弁才天と称されるように、重要な信仰地が「島」と関係が深いのは注目される。嚴島の場合は禁足地の時代もあったがそれは島自体が神聖視されたからである。
 島の全景は仰向けの佛の寝姿にたとえられることもあるが、それは後世の話であろう。なだらかな凹凸の稜線が海上に長く延びる様は、やはり龍の威容である。そこへイチキシマヒメが鎮座地を求めてたどり着くという伝承もあって、やがて祭神はイチキシマヒメとして定着していき、平安時代には清盛が壮麗な社殿を建立するわけであるが、宗像三女神の一柱であるイチキシマヒメが祀られるよりも前に信仰はあって、それは龍の姿にも見える島(弥山みせん)を礼拝する形式だった点は重要である。別の土地から女神が流れてきて鎮座する伝承は竹生島も同様であり、やはりそこには新しい信仰の流入・定着があったと見るべきであろう。
 弁才天は元はインドで信仰されていた水神(河神)サラスヴァティを本地とするが、日本では宇賀神と習合したこともあって蛇の要素が濃厚である。イチキシマヒメは海上交通のカミであるから、サラスヴァティと習合するのは不自然ではないが、その両者と「島」に対する信仰はやはり微妙な違和感を禁じ得ない。もちろん、水運や海上交通において「島」が目印や寄港地として大きな意味をもったのは確かではあるが、信仰史という観点ではやはり航海術をもつ海洋族の信仰がどこかの時点で重なっているように感じられるのである。
 ただ島の位置や形容に関係なく、古代の日本人が島の存在そのものを神聖視する傾向にあったことは、神話の中で大八洲おおやしま(大きな八つの島々=日本)と幾つかの小島がイザナキ、イザナミによって国生みされ、それぞれカミにより名前が付けられたと語られることからも判る。カミによって名を与えられし島々は、当然そのカミと深い関係にある新たなカミとして看做されていってもおかしくなかろう。
 そのような国(土地)に人が住むことはカミ(=自然)との共存であり、そこに異変が起きることはカミの荒振として認識されたことであろう。しかし『すずめの戸締まり』では更に踏み込んで、災いをもたらすのは「産土うぶすな」であり「日不見ひみずノ神」であると説く。そこには天津神・国津神、あるいは和魂・荒魂といった宗教観への強い意識がある。
 現代ではこういった対立的な概念はかなり薄められ(あるいは有耶無耶にされ)ているが、神社めぐりや御朱印集めがブームになっている時代だからこそ、我々が礼拝しているカミとは何なのか、改めて各人が問い直してみたいものである。

 また琵琶湖周辺は龍神を祀る社が多い土地でもあるが、その大半は『滋賀県神社誌』に記載の無い神社である(つまり神社本庁に加入していないことを意味する)。ここにも、歴史や神社神道史の王道から外れた信仰の痕跡を垣間見ることができるであろう。
 かつての要石の場所をこのような地点に設定したのは偶然ではなく、ある程度のリサーチに基づいてのことだと推察する。琵琶湖の要石と対になっていた東北については、範囲も広く特定は困難であるが、想像をたくましくすれば、岩手県には「龍の眼」と呼ばれる鏡沼や龍泉洞(地底湖)など、龍と関連づけられた有名な水場があるので[15]、その付近が撰ばれたとしても不思議はない。

 今回(物語現在)の要石は鈴芽によって宮崎県で抜かれているので、一つは宮崎にあったということになるが、草太は「廃墟」を探していた。つまり閉じ師でありながら要石の明確な場所を知らないということになる。
 これは東京の要石についても同様で、物語の時制における「現代」では、「明治三十四年」以降、剣の形をした石碑は東京にあって今もミミズの頭を抑えている[16]ということしか把握しておらず、とても重要なことなのに最新の情報を知らない(知らされていない)ことが浮彫となる。
 それと同時に、現在の要石による封印に草太が直接関与していないことも判るが、これは何故だろうか。
 その理由については祖父である羊朗の存在と自宅(下宿)の様相が暗示している。すなわち、育ての親が父親ではなく余命が逼迫してそうな寝たきり・隻腕の老人であること。一人暮らしをしながら教師になるべく大学に通う生活も送りながら、その下宿に閉じ師関連の古書が大量に揃えられていること。そして「(東京の要石の場所は)覚えている限りでは、どこにも書かれておらず、誰も教えてくれなかった。」[17]という告白。
 これらは、不測の事態によってかなり若いうち(近年)から急遽閉じ師の役目を負うことになったことを物語っているだろう。
 「明治三十四年」については、日本史上では特に大規模な災害等は記録されていない。

「東京の要石がある場所には、巨大な後ろ戸もあるという。百年前に一度開き、関東一帯に大きな災害を起こし、当時の閉じ師たちによって閉められた(後略)」[18]

 後ろ戸についての新たな情報であるが、ここでは要石と後ろ戸が密接な関係にあることが語られて居る。鈴芽が抜いた宮崎の要石も後ろ戸のすぐ傍にあった。したがって、要石の場所は流動的ではあるが、後ろ戸の傍であるケースが多そうである。
 この百年前の関東一帯の大きな災害とは、関東大震災であろう(これについては後述する)。
 もう一つ重要なのは、要石を設置しても後ろ戸は残り続けて居るらしいということである。後ろ戸の発生から施錠までを再確認すると、人の心が軽くなった場所に後ろ戸が開く。それは常世と現世の境の扉である。通常の対処法は、①後ろ戸を閉じる。②過去の土地の記憶を想起する。③呪文を唱える。④鍵を閉める。という手順になる。
 つまり、後ろ戸は消えることなく、増殖する一方でなおかつ一度生じた後ろ戸はその後ずっと固定化されるということになるだろうか。戸締まりという行為が物理的なのに対し、施錠は咒法的である。施錠完了後、物質としての扉はそこに残るが、後ろ戸という見えない扉も残り続け、そこを鎮める人の心が軽くなると再び開いてしまう。呪文の内容が産土に土地を返すといった宣言文なので、心が軽くなるというのは土地=自然=カミを軽んじるといったニュアンスであろう。

 人が暮らし安定した社会を営んでいく以上、国土の開発は必要である。しかしそこには一定のルール(社会通念)のようなものがあった。森林生態学者の四手井綱英しでいつなひでの言葉を借りれば、人が立ち入る「山」と禁足地の「森」とを区別していた。やがて都の発達に伴って人の活動領域が広がることで二次林とか里山と呼ばれる切り開かれた森ができていく[19]。ここで重要なのは人の手が適度に入っているということである。それによって人と自然の緩衝地帯(境界)ができていたのだが、林業や農業の衰退を機に放棄されて荒れたり、売却され宅地化したりして境界が消失していった。
 しかし『すずめの戸締まり』は産土へ土地を返すと謳わせながら、自然保護がテーマではないところが面白い。後ろ戸の生じる場所は軒並み「廃墟」であって、人が関わって居たけれど需要の減少や何らかの要因によって維持できなくなり施設ごと捨てられた土地である。
 荒れた二次林や里山が自然災害を凶悪化したり農業被害を拡大化させることと、いわくつきの廃エリアから災いをもたらすミミズが出て来ることとは構造的に一致しているのだが、後者の方がより複雑で宗教的かつ心霊的である。廃墟が人間社会に大きな災いを及ぼすといった話は聞いたことがないので、そういう点では観念的かつ心理的と言い換えても良いだろう。治安の悪化に影響云々とも云われるが、「影響」という程度の曖昧なものであるし、大勢が死ぬ大地震などとは比べ物にならない。
 むしろ、「自然=あるがままの多様性」「開発=特定の価値観に基づく害の除去」「里山=自然との共生・維持管理」とするなら、同じ構造を作品に当て嵌めた場合、何をテーマとし、何を大事だと訴えているかが理解されてくるだろう。「廃墟」という言葉に囚われると、どうしてもイメージが矮小化されてしまうので、「記憶の断絶した場所」というほうがテーマ的にも近いかと思う。そう考えれば、作者が広島の中心部に後ろ戸を出さなかった意図もわかる。
 古い価値観を害悪と決め付けて排除していく限り、そしてまた何が要石であるか、それが何を意味しているかがきちんと伝承されていかない限り、この先も後ろ戸は増加し第二第三のミミズを世に解き放っていくだろう。

「人の認識が変われば、土地の形も変わり、龍脈や災害の形も変わっていく。それによって要石を必要とする場所も変わる。(中略)その時代ごとに本当に必要な場所に、要石は祀られる。人の眼の届かない、人々に忘れられた場所で、要石は何十年、何百年にもわたり、その土地を癒やし続けるんだ」[20]

 これは『要石目録』を確認しながらの草太の解説であるが、少し解釈が難しい。というのも、祀られる対象が要石(剣)という風に説明されている。しかしこれまでの説明では、要石は封印の咒具のようなものではなかったか。後ろ戸の例を採れば、封じられるのは産土神だし、龍図の例を採れば巨大な龍ということになる。そして劇中ではミミズに直接突き刺すものとして描かれる。それら(産土神・龍・ミミズ)と要石とが一体化するという意味なのか。
 だが注意したいのは、石碑に刻まれる文字は「要石」であってその産土神や龍の名ではないということだ。そして「要石」が土地を癒やすという点だ。産土・龍・ミミズはひたすら封印されて然るべき存在として位置づけられている。それらが災害の原因であるから理論としては間違っていないのだが、どこか釈然としないものが残る。
 この違和感は、荒ぶる神や怨霊を祭り、畏怖・慰霊してきた魂鎮めや御霊信仰と乖離があるせいだろう。更に再び災害が起きるとき、要石は抜けているか無効化されていることをも意味するが、その辺りも曖昧である。
 しかし封印効果を発揮する存在(要石)の方を「善神」として祀り崇敬するのは、今に至る神社神道の趨勢であることもまた真である。したがってここから判ることは、閉じ師が天津神の側に立って行動しているということである。それは草太が宗像姓を名乗る血筋(という設定)からも自明のことではあるのだが、表向きに活動する神社とは異なる、神道界の裏家業的な役割を担って居るのだと改めて理解される。そしてそれは、草太の祖父羊朗の師匠が書いた日記の記述からも窺えるのである。次はその日記を観てみよう。

 

3:羊朗の師匠が書いた日記

 これは大正期に書かれた日記で「(草太の)じいちゃんの師匠が書いた」[21]ものである。しかし「肝心な箇所が黒塗りになって」いて[22]、要石の場所の特定には到らない。その黒塗りの前後に次の四つの記述が確認できるという。

①「九月朔日 土 晴」
②「早朝当直ヨリ使者」
③「午前八時」
④「日不見ノ神顕ル」(以上四つ。[23]

 これは日本史に於ける「関東大震災」のことと推定できる。内閣府の報告書によれば「1923(大正十二)年九月一日正午二分前に発生」し、死者は105,385人、家屋の全壊は293,387にのぼる甚大な被害を出した[24]
 しかし発生のメカニズムについては同報告書は「地殻を構成するプレート同士が、接触面で一気にずれ動くことにより生じた」とのみ記載し、被害を食い止めた事例としても「過去の災害教訓の伝承」というだけで具体的な記述は一つもない[25]。あるのは被害(拡大)の問題点のみで、対処療法的な話ばかりである。
 小説では当日の前兆として「早朝当直ヨリ使者」「(午前八時)日不見ノ神顕ル」という記録が提示されている。「早朝当直ヨリ使者」は当事者にしか解らない書き方だが、「日不見ノ神」が顕現するよりも前に何らかの軽微な兆候があったらしいことが推察される。
 それを使者で伝えてきたというから、「当直」は「閉じ師」と同等か位が高いことになる。つまり現世の観測をメインとする「当直」と、実際に現場で対応する「閉じ師」という組織図が浮かび上がる。
 また「ミミズ」という言葉が無いことも確認しておきたい。「日不見ノ神」という表現はミミズが出ようとする「後ろ戸」を閉じる際の祝詞風呪文に使われているので、「ミミズ」=「日不見ノ神」と断定できる。大正時代までは「日不見ノ神」だったが、現在は(あるいは草太個人は)「ミミズ」と呼んでいるわけだ。
 そして「日不見ノ神」の顕現から地震発生まで数時間あったが、封印は失敗に終わった。

 では実際はどうだったか。残念ながら(管見の限りだが)、前日に湘南の辺りでナマズが大量に捕獲されたとか、向島で数日前からナマズの幼魚に異常行動が見られたという報告のみである[26]
 ところが、関東大震災に限定しなければその前兆(可能性)報告は多様である。特に興味を惹くのは越後高田地震(1751年)発生数時間前(夕刻)の「名立村方面の赤い光」、東北大震災(2011)発生三週間前の「山形市から海上へ伸びる帯状の雲」、発生数日前の「虹に囲まれたような夕日」、発生前夜の「岬から立ち上る光の柱」、そして発生数時間前の「大量の鳥(トンビ、カラス)が騒ぐ」といった現象である[27]
 このうち、作中で描かれる無数のカラスがミミズの周囲を飛び交う様は、大地震の前に「大量の騒ぐ鳥」が目撃されたという報告と合致する描写だ。また「沈んでいく赤い太陽の手前に、いつもとは違う奇妙な揺らぎがある」とか、「(ガラスや水面に)奇妙な虹色がうっすらと映り込んでいる」[28]といった表現も、レポートの中で報告されている「夕日が,虹に取り囲まれたような,見たこともない太陽だった.」という証言とキーワードが共通しており、伝承をうまく採り入れたリアルな描写であることがわかる。
 内閣府では防災の一つの手段として「過去の災害教訓の伝承」を挙げている。報告された前兆は現段階で飽くまで「可能性」の域を出ないが、多くの日本人(特に若い人)が視聴するエンタメ作品を通じてそれらを「伝承」することが、作者新海氏にとってあの東北大震災と向き合うことになるのであろう。

 さて、ここで一度、歴代要石の推移と、作中で言及される災害についてまとめておこう。


(表1:原作小説を基に筆者さすらいが作成)

 

 次回は「要石」に注目し、ダイジンの魅力に迫りたい。


[1]新海誠『すずめの戸締まり』(KADOKAWA/2022)pp.176-177
[2]前掲小説(p.176)
[3]黒田日出男監修『図説 日本史通覧』(帝国書院/2014)p.351
なお、『国土交通省利根川水系砂防事務所』が公開して居る浅間山噴火の被害状況では死者数を1,443人としている。(https://www.ktr.mlit.go.jp/tonesui/tonesui00023.html)(この典拠は『吾妻郡誌』)2023/04確認
[4]「浅間山荘~前掛山登山者の記録(2018/11)」―『Yamakei Online』
(https://www.yamakei-online.com/cl_record/detail.php?id=148675)2023/04確認
[5]「浅間神社」―『神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識』
(http://www.komainu.org/nagano/kitasakugun/asama/asama.html)2023/04確認
[6]前掲小説(pp.176-177)
[7]「江戸の鯰たち~幕末の江戸に群れる地震鯰~」―『東京大学地震研究所』
(https://www.eri.u-tokyo.ac.jp/tosho/panko2020/)2023/04確認。なお、サイトでは宝珠ではなく、「動石」としている。
[8]前掲小説(p.177)
[9]同上
[10]前掲小説(p.178)
[11]同上
[12]松村明編『大辞林』(p.2118)
[13]前掲小説(pp.178-179)
[14]「琵琶湖の概要」―『滋賀県ホームページ』
(https://www.pref.shiga.lg.jp/ippan/kankyoshizen/biwako/gaiyou.html)2023/05確認
[15]『いわての旅 岩手県観光ポータルサイト』(https://iwatetabi.jp/)2023/05確認
[16]前掲小説(p.180)
[17]同上
[18]同上
[19]四手井綱英『森林はモリやハヤシではない』(ナカニシヤ出版/2006)
[20]前掲小説(p.179)
[21]前掲小説(p.182)
[22]前掲小説(p.181)
[23]前掲小説(p.182)
[24]『内閣府ホームページ』
(https://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai/index.html)2023/05確認
[25]同上
[26]石渡明「地震の前兆の可能性がある自然現象」(東北大学東北アジア研究センター)
(http://www.cneas.tohoku.ac.jp/labs/geo/10oldpage/ishiwata/PrecursorExpl.htm#Add1)2023/05確認
[27]同上
[28]前掲小説(pp.201-202)
[a]内閣府(http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/pdf/saigaishi_kazan.pdf)(画像はWikibooksより取得)