牛嶋神社(東京都墨田区)

社寺建築[細部意匠]

牛嶋神社 うしじま-じんじゃ

鎮座地数値:東京都墨田区向島1-4
(最寄り駅:浅草線/本所吾妻橋駅(北口A3)、伊勢崎線/とうきょうスカイツリー駅)
祭神:須佐之男命すさのおのみこと天之穂日命あまのほひのみこと貞辰親王さだときしんのう
須佐之男命の神徳:悪疫退散、疫病防護、除災除厄
天之穂日命は須佐之男命が天照大神と誓約うけひをした際に生んだ神。後に「国譲り」で派遣されたが背いて大己貴命に帰依する。「国譲り」後は出雲国造らの祖となる。
貞辰親王は平安時代の皇族。

<由緒A(境内案内板)>

もと本所区向島須崎町に鎮座。
縁起書によると、貞観二年(860)神託により須佐之男命を土地の守護神として祀る。
後に天之穂日命、貞辰親王(清和天皇の子)を合祀し王子権現と称した。
天文七年(1538)後奈良院より牛御前社の勅号
江戸期には鬼門守護の社となる。
明治初年、旧本所一帯の地名にちなみ、牛嶋神社と改称。
昭和初期、現在地(水戸徳川邸跡)へ遷座再建。社殿は総檜権現造。(以上主意)

例祭:9/15

牛御前という社号は須佐之男命が牛頭天王と習合していたことから来たものと思われる。
また昭和期の遷座再建は大正の震災が原因かと推察される。

<伝承>

治承四年(1180)源賴朝、軍を率いて当地に赴いた折、豪雨による洪水に悩まされたが、千葉介常胤が祈願すると全軍事無きを得たため、社殿建立し神領寄進したという。(以上主意)

<由緒B(『神社辞典』―牛島神社の項)>

社伝によれば、貞観二年(860)慈覺大師が神託により須佐之男命を土地の守護神として勧請。
後に天之穂日命を合祀し、更に貞辰親王(清和天皇の第七王子)が当地で没したため、大師の弟子良本阿闍梨がその神霊を祀り王子権現と称した。
源賴朝が養和元年(1181)に社殿を造営し神領を寄進。
天文七年(1538)後奈良院より勅額を賜る。
別当は牛寶山明王院最勝寺。明治以前は牛の御前と号したが、神仏分離により現社号へ改称。

【所感】

 実質的に慈覺大師じかくだいしが創建したというのは驚きである。その後も弟子が関与し、また別当寺からも天台宗との関わりが非常に深いことがわかる。ただ、天台宗なら普通は日吉ひえの神すなわち大物主神かオオヤマクイノカミを祀るのがセオリーだと思うが、最澄さんが勧請されたそれら比叡山の守護神じゃなくスサノオをもってくる辺り、慈覺大師らしいと言えばらしい逸話である。実際、本地仏は大日如来だったそうである。(大日如来は密教(真言宗)の中心尊格)
 この最勝寺は江戸川区平井一丁目に現存する(明治末に移転)。目黄めき不動という通称のほうが有名らしい。開創は貞観二年というので、寺と神社が同時に建てられたことがわかる[1]
 また賴朝本人ではなく、千葉介常胤ちばのすけつねたねが祈願をしているが、賴朝からの信頼の厚い人物だったようである[2]
 境内の二ノ鳥居がいわゆる三輪みわ鳥居である理由は不明だが、物理的な意味としては社殿の周囲に透垣(すいがき)をめぐらしてある点や寺院色が濃かった点を鑑みれば、門をつけるために設置された可能性が考えられる(正式な三輪鳥居は扉をもつ。扉を廃した痕跡が無ければこの説は当らない)。宗教的な意味としては、三輪鳥居の由来に「三輪山の三ヶ所の磐境いわさかの拝所を、のちに一ヶ所にした」ことに由来するという説があるので[3]、須佐之男命・天之穂日命・貞辰親王の三神合祀を視覚的に表すためとも考えられる。そのことは、権現造ごんげんづくりという社殿形式にも顕れて居る。権現造は北野天満宮や東照宮で採用されている建築様式で、寺院・神社・墓の三要素をもつものだからである。

 見所はやはり拝殿の彫刻群である。昭和期のものとは思えない精巧さと躍動感(生命感)。年代が新しいため文化財に指定されていないようだが、一見の価値あります。
 狛犬の種類も多く、また三輪鳥居との景観も相まって、記念撮影に勤しむ参拝者が多く観られた。

【狛犬】


 
③~⑥は社殿の両サイド
 

 
⑦の背景にある鳥居は、二ノ鳥居ではなく、社殿西側の鳥居。⑧も同様で境外に出る東側の鳥居。
位置関係は次の写真を参照のこと。

 

 
[写真左上]:手前の狛犬が⑧番。奥が⑦番。間にあるのが二ノ鳥居。
[写真左下]:包丁塚の【臥牛】(表参道入って右手の辺り)
[写真右]:拝殿の海老虹梁えびこうりょうと木鼻(部分)

【木鼻と左右蟇股】


 
 三間社であるが、左右それぞれの頭貫かしらぬき上に龍の蟇股かえるまたがある。しかも羽翼の龍が表現されて居る。管見の限りだが、このような龍は観たことがない。相当名のある彫師ではなかろうか。
 また、奥の頭貫上にも小さな蟇股が設置されており、それを正面から見通せるような設計が施されて居る。
 それと、これだけごつ盛にすると陰ができやすく、昭和で総ひのきということは台湾檜が使用されてると推察するが(台湾檜は経年により黒味が増す)、組み物の底面を白く彩色することで重苦しさが低減されているように感じられる。

【蟇股(中央)】


 

御朱印:あり

<参考>
[1]『天台宗東京教区』公式サイトhttp://www.tendaitokyo.jp/jiinmei/saisyouji/)
[2]『コトバンク』https://kotobank.jp/word/千葉常胤-96421)
[3]前久夫『寺社建築の歴史図典』(東京美術/2002)二一〇頁