品川神社(東京都品川区)

社寺建築[細部意匠]

品川神社 しながわ

鎮座地数値:品川区北品川3-7-15
(最寄り駅:京急本線/新馬場駅(西口))
主祭神天比理乃咩あめのひりのめ命、宇賀之賣うがのめ命、素盞嗚尊
末社:阿那稲荷社(宇賀之賣命?)、富士塚・浅間神社、祖霊社

 

キーワード:鳥居に龍が居る事で有名。
      末社の参拝者多いのに情報がほとんどない。
      不思議なことがあった。

<要点由緒A(社頭案内板)>

文治三年(1187)源賴朝が安房の洲崎すのさき明神(現館山市)から勧請。
元応元年(1319)二階堂道蘊どううんが宇賀之賣命を祀る。
文明十年(1478)太田道灌が素盞嗚尊を祀る。
明治元年(1868)准勅裁神社に列す。
S39年(1964)社殿再建。

<要点由緒B(『神社辞典』―品川神社)>

創建年不詳。祭神は天比理乃咩命他四柱となっている。
文治三年(1187)二階堂道蘊が宇賀之賣命を勧請し、社殿再建としている。
太田道灌の素盞嗚尊合祀も文明十六年(1484)とし、異同がある。『神社辞典』の典拠は「江戸期の書物」(委細不明)

【考察】
境内に立派な摂末社があるが、公式サイト・案内板とも全くといって良いほど情報がない。
但し、祭神の宇賀之賣命を稲荷と説明してあるので、合祀・相殿ではなく末社のことかも知れない。
しかしそうすると、浅間神社の説明がないことになる(まさか素盞嗚尊ではないだろうし)。
また何処かのタイミングで社号が変わってる(最初から「品川神社」という名で建てられたわけではない)と思うのだが、旧称も不明。
『神社辞典』の記述が正しいなら、残りの一柱は遷座されたか隠されてることになるがその辺りも不明である。

 ところで稲荷神と説明される「宇賀之賣」は珍しい表記だ。読みの「ウガノメ」も珍しい。(ネット検索ではざっと見た限りだが「宇賀之売命」なら品川神社のみ、「宇賀之賣命」だと徳山大神宮(北海道)しかヒットしない。徳山大神宮の例では合祀社が多く、どの神社から由来するのか不明である[1])
 一般的には『古事記』の「宇迦之御魂」か、『日本書紀』の「倉稲魂」(註釈の読みとして「宇介能美拕磨」)で、『延喜式』祝詞に「宇賀能美多痲」とある。新編日本古典文学全集版の『古事記』『日本書紀』及び『日本神さま事典』は「ウカノミタマ」だが、『神道大辭典』は「ウガノミタマ」としている。「ウカ」は「ウケ」の古形とのことである[2]。管見では、神社サイドの祭神説明においては「ウガノミタマ」のほうが多い印象。字義的には「ガ」は呉音、「カ」は漢音に区別され、日本語では呉音で読む単語が圧倒的だが(賀状、謹賀など)、万葉仮名では両者ともに使われる[3]。
 つまり、「倉稲魂」以外の表記は使用する漢字自体に意味は無いわけだが、漢字(宛字)表記だけだと二通りの読みができるので、最も重要である神名の呼び名が確定できないということになる。

 通説ではこの神名は「食物(ウケ)の神霊」(特に稲)を表すとされるが、前回・前々回の記事でも若干触れたように、記紀には登場しない「宇賀神ウガジン」と習合している。
 宇賀神は仏教サイド(密教)の護法神で、人頭蛇身(白蛇)を特徴とする。稲荷の本地とされたほか、八臂はっぴ弁才天と習合した宇賀弁才天(形状は多頭の蛇にも通じる)としても信仰を集めた。
 これを踏まえれば、「宇賀之賣命」は「宇賀-の-め」つまり宇賀の尊貴なる女性ではなかろうか。それすなわち、神霊よりも女性性の強調である。従って、通常一般の稲荷神ではなく、稲荷の本地たる宇賀弁才天だったのではないか。
 二階堂道蘊は鎌倉末期の武将で政所執事を務めた人物である[4]。
 伎芸信仰をもつ弁才天は八臂になることで戦闘神としての性格をもつに至る。それは文武に優れた武将が信仰するカミとして申し分ないだろう。「道蘊」という名は法名でもある。武将が食物や稲のカミを祀るよりも仏教サイドから戦闘神を崇敬したとするほうが自然ではなかろうか。ただ、そうだとしても、他の表記例がほとんどなく、「弁才天」を避けて独特の(抽象的とも言える)表記を用いた理由は定かではない。

【龍柱鳥居】


表参道入口(一の鳥居):巻き付き・三爪、右昇り・左降り

【狛犬】


①②一の鳥居前:待機型(大正十四年)石工/加藤八太郎
③④境内二ノ鳥居前:待機型(推定[寛]政四年)「壬子みずのえね」表記もあるので恐らく「寛政四年」。石工/四郎兵衛
⑤⑥境内参道:備前焼?待機型(文政十三年)

 
 
 
⑦⑧社殿前:待機型亜種・赤子(明治十七年)、石工/淸三郎
⑨⑩末社浅間神社:背伸び型(H16年)

<末社:阿那稲荷神社>

【木鼻】


獅子(見返り)

【蟇股】


龍(三爪)

【その他狛狐】


待機型・前掛け
ここの狐は生きてますね

【不思議なこと】


 本社殿(主祭神を祀る赤い社殿)のとなりに並ぶ稲荷社とは別に、境内の右手(北側)にある細い下りの参道を降りていくと(その途中にも小さい古祠や顔の欠けた狛狐が居る)、かなり立派な古い社殿があったんですが、そこの写真が一枚も無いんですよね。おかしい。確かに中も入って、お社を直接写さないように、左側の水盤や外観、祠の上部辺り(絵馬など)を撮影したはずなのに。


 ここは境内に案内がないし、自分が撮影してるのを見て何かあるのかとやってきた老婦人が驚いてたくらい隅の方まで行かないと参道(下り道)が見えないんですが、それでもかなり参拝者が入れ替わり立ち替わりやって来る。しかもかなり熱心にお参りされてる方(女性)が多い。
 上の境内の狛犬は特に何もないけど、狛狐はどれも鮮やかな前掛けを付けてる。上の神社とは参拝者の層が違うような気もする(上は若い家族連れとか、七福神めぐりの人、散歩の老人らしき人たち。下はね、参拝の仕種からして素人じゃない感じ、常連さんとか)。
 社殿内部は薄暗く小さい社がたしか三つ四つ並んでて、傍らに昔の通貨のような形の丸い石の鉢(水盤)と柄杓とザルがあって水を掛けるような(銭洗い的な)感じだったと思う。
 個人的には、上の赤い社殿のほうは特に何も感じませんでしたが(派手な拝殿が遮ってるような感じ)、こっちはいろんな意味で空気が違います。ほとんどの人は水盤と水掛(金運のこと)に意識向けるでしょうが、途中の祠とか中の社は何か直視を憚られるものがある。道を下っていった先の水場ということもあるけど、カラッとした上の境内とは対照的。


 画像フォルダを確認する。この日に撮影したのは品川神社だけだった。(神社の画像の前に水鳥の写真が数枚ある)
 最後に狛狐(参道途中の祠)を撮影した画像の時刻と、その後の画像(備前焼狛犬を撮り直してる)の時刻の間が妙に空いている。これがどうもおかしい気がする。
 その後に撮った6枚の画像も一部記憶にないが、画像の処理番号は連番になっていてメタデータにも異常はない。けれども、あそこで確かに角度を変えて撮影しようとした記憶はある。
 整合性のある解釈をするなら、カメラは構えたけれど撮影ボタンは押してなかったということになりそうだ。社殿内部の小さい社も一つずつ参拝したはずだから、その時はカメラを仕舞ったのは間違いないけれど、参道を降りる途中に狛狐撮った後、次の写真が備前焼狛犬というのは、細部建築が好きな自分としてはどう考えてもおかしいのですが、不可思議としか言いようがありません。もしかしたら撮らないほうが良い(無意識に撮らなかった?)のかも・・・。

 

御朱印:あり
一部口コミで神職の評判が悪いようですが、2022年の参拝時は別段普通でした(違う人だったのかも知れないけど)。



[1]北海道神社庁公式HP(https://hokkaidojinjacho.jp/徳山大神宮/)
[2]新編日本古典文学全集『日本書紀①』四二頁
[3]小学館『現代漢語例解辞典』(一一二八頁)
[4]コトバンク(https://kotobank.jp/word/二階堂貞藤)

 

2023/02/27追記

<『江戸東京はやり信仰事典』―品川神社の項>

文治三年(1187)源賴朝が安房の洲崎明神を勧請。
のち武蔵国守護二階堂道蘊が社殿造立。
永享四年(1432)豪商鈴木幸純が社殿再建。
文明十年(1478)太田道灌が祇園社を勧請。
小田原北条氏の時代、家臣宇田川氏が神職に就く。現在は小泉姓を名乗る。
人工富士はM2年造立。東海七福神の一つで大黒天担当。また貴船社も合祀されてる模様(これが旧名・貴布禰明神と称した荏原神社と天王祭を同時にやる理由か)

【品川神社略縁起比較表】

A:境内案内板 B:『神社辞典』 C:『江戸東京はやり信仰事典』
祭神 天比理乃咩命、宇賀之賣命、素盞嗚尊 天比理乃咩命他四柱 「相殿・祇園・貴船の三合社」
(*相殿の祭神が何であるかの記載はない)
創立年不詳
1187 源賴朝が安房の洲崎明神から勧請
(*洲崎明神の祭神は天比理乃咩命)
二階堂道蘊が宇賀之賣命を勧請
社殿再建
源賴朝が安房の洲崎明神を勧請
(*洲崎明神の祭神は天比理乃咩命)
不明 ―― ―― 二階堂道蘊が社殿造立
1319 二階堂道蘊が宇賀之賣命を祀る ―― ――
1432 ―― ―― 鈴木幸純が社殿再建
1478 太田道灌が素盞嗚尊を祀る ―― 太田道灌が祇園社を勧請
1484 ―― 太田道灌が素盞嗚尊を合祀 ――
1868 准勅裁神社に列す ―― ――
1964 社殿再建 ―― ――

 A・Cは恐らく同じ典拠文献がベースにあると推察される。Bは主祭神の天比理乃咩命の由来について不詳とし、A・Cが天比理乃咩命の勧請年とする1187年に稲荷社の祭神・宇賀之賣命を勧請としている点が注目されるが、二階堂道蘊は鎌倉末期の武将で生没年を1267-1334とされるので時代が合わないという問題がある。ただ、B→C→Aの順で合理化が図られているとみることもできる。
 もう一点興味深いのは、Cの祭神に「貴船」を記載しながら由緒に一切出て来ない点である。Bの「四柱」の中に貴船のカミが含まれて居るなら、現在神社側では貴船のカミを祭神から除外していることになるが、やはり一切触れられていない。