【神泉苑】善女龍王社(法成就池)【京都の龍神祭祀社】

信仰・儀礼

空海の詩

 空海が秋の日に神泉苑(しんぜんえん,しんせんえん)を観て詠んだとされる詩が弟子によって遺されている。

 「池鏡泓澄含日暉」(ちきょうおうちょうトシテじつきヲふくメリ)(眞済撰『性靈集しょうりょうしゅう』巻一[推835])という一節があるほか、鶴が舞、魚や鹿もいて「神の泉」といった感じで感動した旨が述べられている。
 ただここには龍とか龍王といった表現は見られない。祈雨を行う以前の貴族の庭園としての感想であろう。

縁起

 延暦十三年(794)平安京造営時に宮中の附属庭園として造られ、常に清泉が湧出すことから神泉苑と命名される。
 境域は南北四町、東西二町に及び、歴代の天皇も行幸された。
 天長元年(824)勅命により空海が二十人ほどの伴僧と請雨経の修法を行い、善女龍王の力で雨を降らせた。以後祈雨の霊場となった。
 貞観五年(863)には朝廷による御霊会ごりょうえも執行され、後の祇園祭の前身となり、また「御池おいけ通り」や「五位鷺ごいさぎ」の名称由来とも関係している。
 現在は東寺真言宗の寺院で、昭和十年に国指定の史跡にもなっている。(参考:京都市設置案内板)
 本堂の本尊は聖観世音菩薩。

[EN]Shinsen-en Temple
When Heiankyo(Kyoto) was founded by Emperor Kanmu in 794, this was built as an attached garden for the palace. The perennially gushing spring gave it its name, Shinsen-en, or Garden of the Holy Spring.
The grounds extend approximately 400 meters from north to south and about 200 meters from east to west. In sddition to the large pond with its central iskand.
During a drought in 824, the great Buddhist priest Kobo Daishi(Kukai) was requested by the emperor to carry out ritual prayers to the rain god Zennyo Ryuo. Since then, Shinsen-en became a sacred site where many famous priests prayed for rain.
In 863, the first goryo-e, or ceremony to appease vengeful gods and spirits, was held here. This ritual later evolved into the Gion Festival.
Today, Shinsen-en is registered by the government as a Historic Site, and used as a temple by the Toji Shingon School. [Kyoto City]

 縁起を見るに、天皇の遊宴場から徐々に宗教の霊場と化していったことが解る。特に空海が先陣を切ったことで真言宗の独擅場となり、鎌倉時代まで二十名以上の真言僧が祈雨を行ったといわれるが、その合間合間にも小野小町や静御前が歌や舞で祈雨を行っている(後者は成功した)ことが注目される。すなわち平安期には『仁王経』による祈雨のほか、白拍子による舞(の奉納)や歌人による歌の奉納が実践されていて、直接的な人身御供は記録されていない。これは鎌倉期にも、日蓮が祈雨対決の折に『法華経』によって実践すると伴に、過去の時代には女流歌人が歌で雨を降らせたことを言及している。
 その後の神泉苑は戦乱の影響もあって荒廃を極め、家康が二条城を築城する際には濠の水源として利用される始末で、境域の北四分の一ほどを喪った。
 共同体の長や成員が主体となって遂行された人身御供や人柱の背後には、江戸時代・徳川幕府による宗教政策(仏教の形骸化や産土神の軽視)の歪んだ影響があるのかもしれない。

 東寺真言宗は昭和38年に真言宗東寺派から分離した新宗派(49年設立)で教王護国寺を総本山とする。(『真言密教の本』)


 この鳥居と玉垣は明治初年の神仏判然政策を受けて設けられたものだという。

法成就池

 古くから存在した大池で平安京遷都以後整備され歴代天皇が宴を行った。
 空海が勧請した善女龍王はこの池に棲むと言われる。
 白河上皇行幸の際、鵜飼の鵜が池から太刀をくわえあげた霊剣鵜丸(うのまる)伝説もある。この太刀は鳥羽天皇、崇徳天皇の手を経て、源為義に下賜された。

空海の雨請い伝説

「天長の祈雨」と呼ばれる伝説がある。
 天長元年(824)、未曾有の大旱魃だいかんばつに際して淳和じゅんな天皇は西寺の守敏僧都に祈雨を命じたが効験は無かった。そこで今度は東寺の空海に命じた。守敏は三千世界の龍神を水瓶すいびょうに封じてこれを妨碍したので失敗に終わった。不審に思った空海が禅定ぜんじょうに入ると、北天竺の大雪山だいせつざんの北方にある無熱池むねっちにだけ龍王が居るのを観た。
 そこでこの善女龍王を神泉苑の池に勧請し、和気眞綱わけのまづなを勅使として種々の供物をし、請雨の法を修した。
 すると池より善女龍王が大蛇の頭上に金色八寸(約24cm)の姿で顕現し、たちまち雨が降り、旱天の災いは霧消したという。(『神泉苑』ガイドブック)

 『今昔物語集』にもこの話は載っているので概要を示そう。
「弘法大師修請雨経法降雨語第四十一」
 日本国中で日照りが続いて居た。天皇は大師を召してどうにかならないかと尋ねた。
 大師は請雨経の修法がありますと答える。天皇はそれをやるように命じる。
 大師が二十人ほどの僧と七日間修法を行っていると、壇の右上に五尺(約150cm)ほどの蛇が現れた。五寸(約15cm)ほどの金色の蛇を頭上に載せている。その蛇は近寄ってきて池に入った。
 この蛇を見たのは伴僧のうちの四人だけだった。そのうちの一人が、この蛇の出現はどんな前兆があるのかと僧都(空海)に尋ねた。
 僧都は「天竺にある阿耨達智あのくだっち池に住む善如龍王がこの神泉苑に通ってこられているのです。そこでこの修法の効験があることを示されようと出現したのです」と答えた。
 そのうち空が曇ってきて戌亥の方角から黒雲がわき出て、国中に雨が降り、旱魃は収まった。
 これ以後、日本国が旱魃の時は、この大師の流れを受けこの修法を伝えている人によって神泉苑でこの修法が行われる。
 すると必ず雨が降る。その時には修法を務めた阿闍梨に賞として官位などがおくられることが慣例となっている。
(註には、この物語の時期は関連資料等から天長元年(824)または天長四年(827)と推定されており、九尺ばかりの蛇の頭に八寸ほどの金色の蛇が乗った姿のモノ(龍王)の出現は請雨経修法成就の徴とされた、とある。出典は未詳。関連資料は「御遺告」「大師御行状集記」ほか)

 先の伝承といくらか相違が見られる。特に西寺の僧が三千世界の龍神を封じれるほどの能力を持ちながら雨を降らせられないのは奇妙である。
 日本の各地に龍の伝承がありながら(もっと言うと京都の貴船神社も龍神を祀り雨請いの効験が著しいことが史書に記されるほどであるにもかかわらず)ここに集約される感があるのは、『今昔~』が説話集だからである。先の伝承については空海の伝説であると同時に東寺(真言宗)の伝承でもあり、西寺が現存しないことがすべてを物語っていよう。この物語で最も重要な意味をもつのは、「大師の流れを受けこの修法を伝えている人(阿闍梨)」が朝廷から勅命を下される関係にあるということである。
 そしてそれは雨を降らす竜神(龍王)よりも、修法を行う僧侶のほうが主体であることも示唆している。そこが貴船神社等の一般的な龍神祭祀社と真言宗等の仏教寺院との龍観念の差異である。
 龍神に対する信仰は仏教信仰の高まりに応じて龍を使役する僧への信仰へとシフトしていったわけであるが、空海に負ける程度の僧に封じられたと語られる日本の龍蛇神は、天津神の前に屈していったと語られた遙か昔の産土神の姿をほうふつとさせて止まない。
 なお池の名称はanavataptaを音写した「阿耨達池」が正式で「無熱池」は漢訳にあたる。この湖はインドの四大河の水源となる巨大で清廉な伝説上の湖とされる。また
「無熱池の龍王」というのは、相模國で五頭龍王を鎮めた辯才天女(江島明神)と同じ出自である。

神泉苑の怪

 同じ『今昔物語集』の中には神泉苑にまつわる怪談も載っている。
 ある夏のころ、滝口の武士が従者を使いに出した。
 急に空が曇り夕立になる。しばらくすると霽れる。
 しかし待てど暮らせど従者は帰って来ずついに日が暮れる。
 使いを出した侍ははじめいらいらしていたが、やがて心配しながら夜を明かし、早朝に急いで詰所から家に戻った。
 家人に尋ねるとその従者はたしかに戻って来ているが、半分死んだような有様で寝込んでいるという。そこで近所の医師に相談すると、灰の中に男を埋めろという。
 その処置によって従者は意識を回復したので何があったか問い質したところ、「神泉苑の西の辺りで突然雷鳴が轟き、雨が降り始めたかと思う間に神泉苑の中が暗くなり、その中から金色の手がきらりと見えた途端目の前が真っ暗になってわけがわからなくなり、這々の体で何とかここまで戻ってきて・・・、後は憶えていません」と答えた。
 滝口の武士が医者のもとへ赴いて先ほど聞いた話をすると、医者は「龍の姿を見て病んだ者にはあの治療法だけが有効なのだ」などと得意げに語ったという。
(『今昔物語集』巻24「忠明治値龍者語第十一」)

 この話で改めて気づかされたのは、人によっては龍の存在が脅威になるということである。『今昔~』に出て来る龍は神通力を持ちながらもそれが絶対的な力ではないという弱体化の特徴が見られるのだが、この話でも龍に中てられた者を宗教者ではなく医者が治療するというところにその兆候が窺える。
 筆者もいくつかの記事で雲龍や光龍の感得写真を挙げているが閲覧には注意してください。(この話の従者のように、人によっては違うものに見えたり具合が悪くなる可能性があるかも)

祇園御霊会との関係

 なぜ御霊会が神泉苑で行われたのかは判らないようだが、祇園社から神泉苑に神輿を送っている点から考察するに、龍穴が関連していると考えられる。祭の神輿移動は気脈の流れを年に一度再現し活性化させるわけだが、ここに寄ることは充填スポットとして重要であることを物語る(真言宗で最も重要な後七日ごしちにち御修法みしほもここの水を用いる)。全行程のルートとか他の祭とかと合せたら何か判るかもしれない。

弁財天とナマズ

ナマズは辯才天の眷属とされ、絵馬はナマズに乗った姿で描かれている。

弁天堂の屋根(部分)

【寺紋】


雨龍に丸紋

御朱印帖


辰年にぴったりの朱印帖
この紺色のほかにもカラバリが3種類くらいある。

御朱印:あり(10種類+。一部は書き置き)

アクセス

鎮座地:京都市中京区御池通り神泉苑町東入る門前町167
(最寄り駅:地下鉄東西線「二条城前」)

 

【参考】
『性靈集』巻一(国立国会図書館DC)
「境内案内板」(京都市)
『真言密教の本』(学習研究社)
『神泉苑』ガイドブック(東寺真言宗)
『今昔物語集1』(新編日本古典文学全集版)
『今昔物語集3』(新編日本古典文学全集版)
『岩波仏教辞典』(岩波書店)