Shimane-Wandelinger第3話【八本杉と荒れ果てた霊域】

参拝の記録・記憶

<前回までのお話>
出雲大社周辺の荒神社を調査した翌日、さすらいは朝一で常世神社と出雲大社に参拝した。
神域のうさぎたちに別れを告げると、一路東へ向かった。

 

第三話「八本杉と荒れ果てた霊域」

 

 別件の取材を一つこなすと、私は次の神話の舞台木次町きすきちょうへ向った。そこはあの八岐大蛇やまたのをろちが眠る場所である。
 『古事記』ではヲロチの最期は次のように語られる。(原文は漢文)

「八俣のをろち、まことに言の如く来て、乃ち船ごとに己が頭を垂れ入れ、其の酒を飲みき。ここに、飲み酔ひとどまり伏してねき。爾くして、速須佐之男命、其の御佩かしせる十拳の剣を抜き、其のへみを切り散ししかば、肥河、血に変りて流れき。かれ、其の中の尾を切りし時に、御刀みはかしの刃、毀れき。爾くして、怪しと思ひ、御刀の前を以て刺し割きて見れば、つむ羽の大刀在り。故、此の大刀を取り、しき物と思ひて、天照大御神に白し上げき。是は、草那芸之大刀ぞ。」(小学館版『古事記』pp.71-72)

 言いたいことはたくさんあるが、敢えて何も言うまい。(どうしても激烈な文章になってしまうのでカットした)
 斐伊ひい神社の参道は、まるでJR木次線が分断しているかのようであった。
 周囲は住宅地で、この一画にだけ杜が残っている。その杜を春の風がざわめかせている。

 

 斐伊神社は『出雲国風土記』大原郡の項に記される二つの樋社ひのやしろの一つに比定される。
 もう一社(斐伊波夜比古神社という名で斐伊神社に合祀されている)は八本杉の辺りにあった。(この合祀は平安期中葉とされる)。
主祭神は素戔嗚尊、稲田姫命、伊都之尾張いつのおはり命。
斐伊波夜比古神社の祭神は樋速比古ひはやひこ命ほか二神。
斐伊神社は江戸時代には宮崎大明神と呼ばれていた。(宮崎は小字に由來)。
(参考:社頭の案内板1(石版)。出典は木次町教育委員会編『木次町の史跡と文化財』となっている)

 私はこれを見た時、奇妙な印象を懐いた。
 ヲロチにゆかりの土地で、ヲロチを殺した人物と、奪った姫と、そして何故かイザナキがカグツチを斬り殺した刀が祀られている。
 似たような由来は、広島県廿日市市はつかいちしの八面神社にもあった。大蛇の頭部を祀ったという伝承があるのに、いつの間にか祭神はスサノオとなっている。スサノオを祀って「八面神社」という名にはならんやろ。

 それから斐伊波夜比古神社の祭神を「ほか二神」といって、明記しない点だ。このような省略表現も稀に見かけるが正直疑問である。
 前回も述べたことだが、神社は「宗教施設」のはずである。
 そこを崇拝し管理する人々が、なぜ崇拝対象たる神の名を伏せるのであろうか。どうにも解せず不思議である。
 ここにヲロチは祀られて居るのか、居ないのか、これではよく判らない。

 

<由緒について>
 境内の案内板2(木版)では「伊都之尾羽張いつのおはばり命」という表記にしてあり(*『古事記』はこの表記)、合殿は「樋速夜比古神社」、合殿の祭神は「樋速夜比古命」となっている。
 創立は不詳ながら孝昭天皇五年に分霊を氷川神社(官幣大社)に遷したとの記録がある(古史伝)。
 樋社を斐伊神社へ改称したのは、この鄕の名が「樋」といったのを神亀三年民部省の口宣により「斐伊」に改めたことに由來。(*これは『風土記』に記述がある)
 国幣小社に列す。
 清和天皇の貞観十三年には従五位上の神階を授けられる。
 中世以降、宮崎大明神と称えられ、明治初年まで近郷九ヶ村の総氏神だった。
 明治四年郷社に列す。
 同四十年、日宮八幡宮と稲荷神社を本社境内へ移転し末社とする。
 昭和五十六年、島根県神社庁によって特別神社に指定。
例祭:10月21日
祈年祭:3月20日
新嘗祭:11月30日

<社殿>
大社造変態

<狛犬>

<末社>
日宮八幡宮:誉田別尊、息長足姫命、足仲彦尊/例祭9月15日
稲荷神社:宇迦御魂神ほか三柱、合殿廿原神社(古那比売命)/例祭11月1日
火守神社:迦具土命/例祭8月24日

<神紋>
二重亀甲に交い鷹の羽ね

【神紋に関する所感】
 亀甲紋は一般的に出雲大社の紋と言われるが、その内部は「剣花菱」である。
 一方で斜交いの鷹の羽は九州熊本の阿蘇神社が神紋としている。阿蘇神社は熊本の一ノ宮で官幣大社にも列す古社である。祭神は独特かつ多岐に亘るが、主祭神の健磐竜命は国土創建や国造に関する神とされ、大國主神と事蹟面で共通点がある。また『すずめの戸締まり』の考察でも触れたが、大ナマズを退治したという伝承をもつ。ちなみに、大ナマズは祟り神となったため、健磐竜命はその殺した大ナマズを祀っている。
 出雲大社の国造と阿蘇神社の国造との何らかの接点を表している可能性を指摘できる。

 

 下あごの崩れ落ちた狛犬を撮影していると、中年の女性が石段を下りてきた。
 観光客には見えず、地元の人がちょっと立ち寄ってお参りした、といった雰囲気の人だ。
 あいさつして入れ替わりに石段を登る。
 踊り場があって、直角に折れ曲がった参道に二の鳥居と石段の続きがある。逆光の先には狛犬らしきシルエットと社殿の屋根も見える。

 

 

 境内にはいくつかの社があった。
 南向きに建つ大きな社殿は既におなじみの「太い注連縄・全面板張り・三殿連結」様式だった(千木は垂直切り)。先ほどの案内板に社殿形式は「大社造変態」とあったが、この様式がそうなのかも知れない。
 右手に建つ小社には「八幡宮」の額が掛けられている。
 奥には赤い鳥居と顔の欠けた狐らしき像の居る稲荷社らしき社殿があったが、その前に建つ社にも「稲荷神社/廿原神社」という額があった。

 

 境内の端にゆるい傾斜の石段があり、高台へと続いている。
 上がってみると、そこにも赤い鳥居と社殿があり、傍らに小さな石の祠があった。
 紙垂こそ新しいが経年の風雪のせいか鳥居はかなり傷んでいた。
 この社が妙に気になったのは、ここが境内で「最も高い」位置にあること、この社殿(と石の祠)だけ「西向き」であること、そして神額が無く社名も祭神も判らないからである。
 私はこの二社に対して特に念入りに手を合わせておいた。

 

 

 杜から下りて来ると、空き地に停めた車の傍に男性が立っていた。
 さっきまで空き地だった所に車が数台増えていて、そのせいで自分の車が邪魔になっているようだった。
 駈け寄ってすぐにどかす旨を伝えると、恰幅の良い壮年の男性は「この辺に用があるのか」と言った。
 神社を参拝してきてもう終わった所だと答えると、何処の神社かとなおも問う。
 「そこの斐伊神社です」と振り返って指さすと、「ありがとう。わしはそこの宮司だ」と言って男性は表情を和らげた。
 更に、もう帰るのかと訊くので、八本杉のお参りに行くと答えると、あそこは今荒れ放題で社も無いぞと苦い顔をされた。
 それでも構わないというと、それならすぐそこだから車は置いといても良い、ゆっくり行ってきなさいとのことであった。

 

 

 事前の下調べで八本杉の場所は斐伊神社の西側だと把握していたが、改めて確認するとやはりそこだった。
 線路の手前(東)側からも住宅の屋根の間に黒々とした杉の一部が見えている。
 線路を越えて真っ直ぐ行くと、八本杉はすぐにその全貌を現した。

 

 

 住宅地にぽつんと取り残されたその空間は、まるでそこだけ時間の流れがずれているかのようだった。
 遠景を撮影し、ゆっくりと近付く。通行人が見向きもせず通り過ぎてゆく。
 入口の鳥居は斐伊神社のものよりも新しく、平成十一年に斐伊神社の氏子と崇敬者が奉納したことが濃い墨で書かれていた。
 電柱より高い杉の木以外にも何本かの樹木があったが、杜というにはほど遠く、林と呼べるレベルですらない。
 杉の下枝は刈られているのかすっきりしている。常緑樹のはずだが葉の一部は茶色く変色し、落下したものが境内をまだらに染めていた。それは確かに斐伊神社の境内とは対照的な光景だった。
 宮司さんが言ったように社殿はなく、注連縄の掛かった石碑だけのようだ。こんなことなら斐伊神社の賽銭を多めに入れておけば良かった。
 その石碑の前には貫が落ちて柱だけとなった鳥居の残骸と、錆びた案内板のプレートが地面に直に置かれていた。
 風の音に紛れて小さな踏切の警鐘音が聞えてくると、一層寂しさがいや増した。

 

 

八本杉の由来A(境内案内板)
この八本杉は須佐之男命と八岐大蛇の古戦場で、殺された大蛇の八つの頭をこの地に埋め、その記念として八本の杉を植えたもので、地名になった。
八本杉の由来B(境内設置オブジェ)
退治した大蛇が再生しないように頭を埋めてその上に杉を植えた。

 殺されて切り散らされたヲロチの遺体がその後どう扱われたか、記・紀には一切記述が無いが、現地にはこうした伝承がしっかりと語り継がれている。

 

 車へ戻り次の目的地へのルートを調べていると、宮司さんを見かけたので窓を下げて「ありがとうございました!」と声を掛けるとこちらへ近付いて来られた。
「酷かったじゃろう」
 宮司という立場から気にされているのか、開口一番は神域の有り様についての自虐めいた問いかけだった。
 折角の機会なので私の方からも疑問に思って居ることをいくつか訊いてみた。
 斐伊神社にはやはりヲロチは祀られて居ないらしい。それではあの高台の神社には何が祀られてるのかと聞くと、あそこは愛宕あたごの神を祀っているとのことであった。(詳しい考察は補足欄に後述する)
 「火の神ですね」と納得していると、声を潜めて「ちょっとまづいことが起きての、そのままにしてある」と凄みのある顔で言われた。
 あまり詳しいことは書けないが、あることが原因で鳥居が倒れるなどの「異常」が頻発したので氏子らと協議の末、しばらくそのままにしてあるとのこと。
 また八本杉については、斐伊神社と同じ境内にあったそうだ。それが斐伊川の氾濫で社を高台へ遷したという。その後鉄道が敷かれて今のようになったという。
 やはりそうかと合点がいく。最初に見たとき参道が分断されているかのような印象を感じていたが、恐らく意図的だろう。(近隣の正覚寺を避けることを優先したか。詳しく調べないと判らないが、Wikiによると鉄道の開通は大正時代。その後国営化されている)

 

【補足】

1,伊都之尾羽張

 イザナキがカグツチを斬り殺した刀の名で、国譲りの段ではこの神の代わりに建雷之男神たけみかづちのおのかみが派遣されている。天之尾羽張ともいう。
 そこで俄然注目されるのが末社の火守神社であろう。
 祭神と特に関係の深い迦具土命を祀りながら、その由緒は一切記載されていない。

2,樋速夜比古命

 同じくイザナキがカグツチを殺す段に「樋速日神」が登場する。この神と関係あるか。

「伊耶那岐命、御佩かしせる十拳の剣を抜きて、其の子迦具土神の頸を斬りき。爾くして、其の御刀みはかしさきに著ける血、湯津石村ゆついはむらに走り就きて、成れる神の名は、石析神いはさくのかみ。次に、根析神。次に、石箇之男いはつつのお神[三はしらの神①]。
次に、御刀の本に著ける血も亦、湯津石村に走り就きて、成れる神の名は、甕速日みかはやひ神。次に、樋速日神。次に、建御雷之男神。(亦の名は、建布都神。亦の名は、豊布都神。)[三はしらの神②]。
次に御刀の手上たかみに集まれる血、手俣たなまたよりき出でて、成れる神の名は、闇淤加美くらおかみ神。次に、闇御津羽くらみつは神。[③]
(上の件の、石析神より以下しも、闇御津羽神より以前さき、并せて八はしらの神は、御刀に因りて生める神ぞ。)(小学館版『古事記』p43)

 神名の義としては、
①石を砕く、根を砕く
②勢いのある火、雷
③峡谷の水流
といった感じだが、全て「刀で神を殺す所作とその音、血流」が元になっている。
 更に迦具土神の屍体からも八柱の神が生じる。(こちらは全て山に関係する神名になっている)
 最後に刀の名前が天之尾羽張、亦の名を伊都之尾羽張ということが説明される。

 「樋」は借字で火か、としている。『日本書紀』では「熯」という字が使われていて、「かわく」の意がある。
 頭註によれば、噴火現象や刀剣製作過程とする説を紹介しながらこれらを否定している。部分(単体の逸話)ではなく全体から読み解くべしという主張で、ここでは諸神の関係性が肝要とする。
 筆者もこの意見に賛成である。というのも、記・紀は「歴史書」の体裁を採るのであるから、出来事とまったく無関係な比喩を(たとえ神話といえども)使うとは思えないからである。
 「物語」は必ず作者・編者の「経験」に由来するものであるし、「歴史」の改変においてまったくの虚構を入れてしまえばすぐに嘘だとバレてしまう。したがって、実際にあった事件や戦闘をベースにしながら、主客や聖邪を顛倒させたり、焦点をずらしたり、原因・結果をミスリードして、「真実らしい」と思わせる内容にするのが通例であり、まさに伝説の成立過程と軌を一にするものである。

 物語全体の整合性(先後の流れ)という観点では、イザナミがたくさんの子を成す中で火神カグツチの出産がイザナミの死の契機となり、更にイザナキがこの火神を殺すことでまた複数の神が「これまでとはやや違う形で」成るということを述べるとともに、死んだイザナミは黄泉の住人となる。
 構造的に観ればカグツチという子の存在(出産)が夫婦の関係性を変える(破綻させる)ことになっており、どちらも「死」が媒介となっている。生と死の対比や血の強調はむしろ血縁の繋がりや破綻を暗示するものと解すほうが、逸話の前後(物語全体)の整合性という点で、噴火や刀剣製作よりも違和感は無いだろう。逆に言うと、噴火や刀剣製作だとすれば、何故出産に関する話の中でいきなりそれが出てくるのか意味が不明である。比喩という点では「剣」や「血」といったワードは性的な行為を連想させ、特定の出産が大きな問題に発展したと解すほうがより自然ではないか。
 「謎解きが必要な物語」にしてしまったら、それはもはや「歴史」とは呼べないのである。

 

3,愛宕の神について

 宮司さんは「火の神」だとも言われたので、案内板にあった末社:火守神社(祭神:迦具土命)が該当するように思える。
 だが厳密に言うと、カグツチは秋葉神社の祭神で、愛宕神社はイザナミである。両者の関係は母子であるが、カグツチを「生む」ことでイザナミは「死ぬ」。生死の媒介が「火」ということで、両社は同一の属性信仰を有する。但し信仰分布としては秋葉は関東、愛宕が関西になる。
 そしてこの産褥死の問題が、イザナキによる子殺しに繋がる。当社はその「刀」(を神格化した神)をも祀っている。
 斐伊神社のメイン社殿ではその刀神「伊都之尾張命」が祀られているが、同時に、「樋速比古命ほか二神」も合祀されている。このうち「樋速比古命」は殺されたカグツチ(カグツチを切った刀の血)から生じるのは上の補足で確認した通りだ。こうなると俄然「ほか二神」が気になる。
 斐伊神社の主祭神の素戔嗚尊と、八本杉に封じられた八俣大蛇を思えば、伊都之尾張命と迦具土命の関係性は微妙にずれている。迦具土命を主体に見れば、イザナミを死に至らしめる神でもあり、「殺す・殺される」の二面性を有するといえる。
 末社:火守神社についてはその由緒も不明(未記載)であり、これ以上のことは判らない。ただここには、殺す神と殺される神とが錯綜していた余韻を抱えたまま、いつの時代にか整然と分断されて今に至るような、そんな歴史のゆらぎが立てる小さな不思議の念を禁じ得ない。

 

第四話へつづく。

 

【参考】
山口佳紀・神野志隆光 校注訳『新編日本古典文学全集1 古事記』(小学館/1997)
小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守 校注訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀1』(小学館/1994)
秋本吉郎校注『日本古典文学大系2 風土記』(S33/岩波書店)
『日本紋章事典』(S53/新人物往来社)
荒木精之・牛島盛光・奥野広隆・浜名志松『熊本の伝説』(S53/角川書店)
三橋健・白山芳太郎 編『日本神さま事典』(大法輪閣/H17)