Shimane-Wandelinger第1話「出雲大社周辺の荒神社の調査研究」

参拝の記録・記憶

 島根県出雲市にある出雲大社は、日本人なら一度はその名を耳にしたことがあるだろう有名な古社である。
 ご祭神の大穴牟遅神おほあなむぢのかみ大國主神おほくにぬしのかみ)は、時にダイコク様と呼ばれたり、縁結びの神と言われたり、蛇身のお姿をしてると言われたりもするが、個人的には毛をむしられて泣いてた素兎しろうさぎを助けた優しい神さまのイメージである。

 その出雲大社を取り囲むようにして、いくつかの神社が点在しているのが前から気になっていた。
 その神社のほとんどは、荒神社こうじんしゃという。

 荒神というのはその名のごとく、荒ぶる神という意味だけれど、具体的に何という神さまなのか、あまりつまびらかでわない。
 よく言われるのはかまどの神とか素戔嗚尊すさのおのみことであるが、この出雲大社周辺の神社がほとんど荒神社なのは只事では無く、何やら重要な意味がありそうに思えた。
 ネットでもめぼしい情報は得られず、ずっと気になっていた。
「うさぎ神だったら面白いな」
 そう思うと居ても立ってもいられなくなった。
「こうなれば直接行くしかない」
 卯月を待つのももどかしく、私は桜が咲く前に出雲へ跳んだ。
 これはその記録である。

文化伝承館

 出雲市内へ入ると、まづは文化伝承館という所へ向った。
 特に見学をするというわけではなく、単にそばを食うのが目的である。
 「献上そば 羽根屋」という老舗しにせの支店があるのだが、場所が分かりやすいのと駐車場が広いのとで、ここに決めた。
 駐車場には大蛇のモニュメントもあり、旅のスタートにふさわしい。

 しかしよく観ると、角が生えていて蛇というより龍である。
 それでもヲロチがただの悪者でわなくて、清水をもたらしてくれる存在として認識されて居ることが伝わってくる。

 この辺り一帯は江戸時代の中ごろまで砂浜だったそうだ。それを大量のクロマツを植えることで、土地の水持ちを良くしたのだという。今では「浜山湧水群」と呼ばれて、環境省選定の「平成の名水百選」にもえらばれている。(現地案内板より)

 文化伝承館は、幕末の役人で明治期に大地主となった江角氏の屋敷を移築した庭園施設である。
 数年前にはシナモロール氏も一時期滞在したらしい。座敷童ざしきわらしが出る家は栄えるというが、お座敷にふわふわのシナモンが居た時も、きっとにぎわったであろうことがしのばれる。

献上そば「羽根屋」伝承館店(出雲市浜町520)月曜定休 11:00-16:00

 

 

 荒神社があるのは大概細い路地なので、駅で自転車を借りることにした。
 予約は不要で、直接行けばコーヒーの染みた書類と供にすぐに借りられた。

レンタル自転車@830円 予約不要(先着)9:00-17:00

 電動自転車に乗るのは初めてであったが、想像して居たのとは随分違った。原付バイクのような快適さは無く、ほとんどフツーの自転車と大差ない。
 錆びたフレームと無骨な外観が派出所のチャリを思わせる。椅子は鋼のような硬さで、さすが鉄の産地といった感じである。ゲーミングチェアで慣れきったけつが悲鳴を上げる。骨が折れる前に、けつあなが九つになりそうである。(いったいお前は何を言ってるのだ、と思った人はこのページの下段に補足した「うさぎの伝説」を見てね)
 東京ではママチャリ型の電動自転車でブイブイいわす女性を散々見て来たのでさぞ快適で楽ちんだろうと期待していたのだが、車種が違うからか、ただの変速機付の自転車の如きダルさである。だが他に手段は無いし、午後から夕刻までの限られた時間で効率よく回るには、自転車しか選択肢が無い。

荒神社1

 参拝の順番は、出雲大社から見て辰巳(南東)の方角にある「北荒木総荒神社」を皮切りに、反時計回りで行くことにした。調査予定の神社は十二社である。
 ちなみに出雲大社は明日の朝一番でお参りすることにして、今日は立ち寄らない。

 県道「斐川出雲大社線」にある南原停留所の辺りから路地へ入る。

 何だかこの自転車はあまりスピードが出ない。若い頃に乗っていたシティサイクルのほうが余程こぎやすく速い気がする。一応変速機も付いてるのだが、リミッターでも付いてるのかというほど速度が出ない。

 と思う間もなく、最初の神社へ到着した。

 「北荒木」はこの辺りの地名である。そこの「総荒神」ということで、広い境内はよく整備され、とても雰囲気が良い。

 狛犬は古色蒼然といった趣だが、台座には「平成十年」に拝殿の新築記念で奉納されたと刻まれていた。
 石材は白っぽい御影石みかげいしが使われることが多いが、素人目にもこれは御影石とは違うようだ。
 細かいところまで彫り込まれているので、加工しやすい石材が使われているのかも知れない。この規模の神社にしては大型で迫力のある獅子である。スタイルはシンプルな待機型だが、尾は太く、全身に渦巻きがある。阿形の方は口の中に珠のようなものも見える。

 境内けいだいの貼紙には、毎月一日に月始祭を行う旨の案内があって、荒神信仰がこの地区に根付いたものだということが窺える。しかしそれ以外の情報は見当たらない。
 平成十年に新築された平入りの拝殿は、前面に太い注連縄しめなわが掛けられているものの、りガラスをはめた格子こうし状の引き戸があって、どことなくお堂を思わせる。

 社殿の裏手はそのまま児童公園に通じていた。
 まばらな松の奥に見える色とりどりの遊具とは別に、ひときわ目をいたのが、石の台座に置かれた謎のオブジェである。
 わらを太い円柱状に縛って細長い竹や幣串へいぐしがたくさん挿してあるのだが、円柱の上部は平でなく、鎌首のように縛ってある。
 全体の形状はちょんまげにした巨大な人の頭部にも見えるし、とぐろを巻いて首をもたげた大蛇にも見える。
 とにかく不思議なオブジェであるが、紛れもなく宗教的な呪物であって、日の下で見ていても何やら近寄りがたい雰囲気がある。それがちょうど本殿の後ろにあるのも意味深な感じである。板塔婆いたとうばらしきものに「例大祭れいたいさい」と書かれてあって、例大祭で使われたらしいことが判る。

 民俗の本によると、これは「屋敷荒神」と呼ばれるもののようで、秋祭りの時に祈念を行い、弊は各自で持ち帰ると書かれてある。(石塚尊俊『日本の民俗 島根』p149)
 しかしこれを見る限り、弊は何本も残されている。もう長い事この状態らしいのは、用いられた植物の枯れ具合からも判る。
 「屋敷荒神」とは別に、「土地神」としての荒神も紹介されており、そちらは「わら蛇」を用いると書いてある。村の氏神うじがみよりも良い場所に祀られ、氏神と同一境内の場合は先に荒神を拝むのだという。(前掲同書p152)

 

荒神社2

 「北荒木総荒神社」から北上して単線路を越えると次の「西原荒神社」がある。
 中央分離帯の無い道路に沿って民家と畑、空き地が点在する、どこか懐かしい気配の漂う風景だ。
 広島で似た雰囲気なのは府中町、安芸区、海田町の辺りだと思う。ふるい街道に沿って和風の民家、松、梅、小さい工場らしき建物が並ぶ。出雲はそれに加えて畑や空き地も目立つ。

この交差点を左折してしばらく行くと――

 社頭にはガラス戸のついた新しげな掲示板があって、丁寧に印字された由緒書ゆいしょがきがあった。非常に情報量が多く、いろいろ参考になりそうで助かる。
 祭神はスサノオノミコトと奥津彦命・奥津姫命となっている。奥津彦命・奥津姫命はスサノオの系譜に連なる神で、竈の神である。
 由緒は、出雲大社の社家平岡家の鎮守ちんじゅ社だったが、それを享保きょうほう年間に西原・馬場両地区の産土うぶすなとするべく懇請し承諾を得たとのことである。祭祀さいしは出雲大社の注連職に委嘱いしょくしたとあるので、祭神は大國主神ではないが出雲大社とは関係が深いことが知れる。
 しかし明治七年に島根県から最寄り社地への合祀令が出され、乙見神社に合祀されたが、明治十三年に復旧されたとある。例祭は十月十八日。

 狛犬は平成十二年に奉納されていた。
 先ほどの北荒木の狛犬と二年しか違わないのに、様相が全然異なっている。

 拝殿は吹き放ちでなく、住宅然としている。
 社殿の裏手には小さい丘があり、結界があった。
 結界の内には短い石柱が建てられ、どことなく蛇を思わせる注連縄が何重にも巻かれている。
 撮影していると、俄に風が強くなった。

 

 

乙見神社

 見慣れぬ部外者の参拝にざわつくこずえを後にして、北東へ少しばかり行くと、先ほどの「西原荒神社」が六年ばかり合祀されたという「乙見神社」がある。

 立て札によると、出雲大社の摂社だそうで、正式名は大穴持御子玉江神社(おおなもちみこの-たまえのかみの-やしろ)、祭神は高比売命たかひめのみこととある。この神は大國主神の御子神で、またの名を下照比売命という。

 出雲大社の摂社と言うわりには、ずいぶんと淋しい感じがする。
 しかも出雲大社の大國主神は、社殿こそ南向きだが御神体は西向きと云われているので、親子が背を向けて居る事になる。

 

 

 「乙見神社」から北に進むと東西に流れる堀川に当る。
 八岐大蛇やまたのをろちで有名な斐伊川ひいかわはもっと東にあるのだが、この堀川が斐伊川の支流か否かは判らない。
 ただこの堀川は、ここから流れる向きを変えて、ちょうど出雲大社の一ノ鳥居の前を流れて海へと注ぐ。住所的には川の北も南も大社町なのだが、何となくこの堀川が神域と境外を分ける最も外側の規制線のように思えた。「乙見神社」はその堀川よりも南(外側)にある。

 石橋を渡るとすぐに国道で、この国道もずっと東西に延びている。国道の方はちょうど出雲大社の二ノ鳥居の前を横切る形だ。

 

白昼に龍蛇? 一反木綿? 現る!

 

 その国道431号を渡ると、目の前にそびえる山並みに行き当たる。そこから山並みを右手に見ながら西へ進路を変える。
 縮尺の小さい地図で見ると、島根半島の付け根の辺りだ。神話に登場する「根之堅洲國ねのかたすくに」という言葉が脳裡をよぎった。
 「根之堅洲國」は黄泉国よみのくにそのものではないが、極めて近い場所と考えられる。根国のスサノオの居館には蛇、呉公むかで、蜂の巣くう室があるほか、スサノオ自身の身体(頭部)にも呉公がひしめいているなど、死や地獄を想起させる描写が多いからだ。また根国のスサノオの居館から逃げる大穴牟遅乃神を追いかけて行き「黄泉よもつひら坂」に到るという記述も見られる。ここはかつてイザナキが、追いすがる死者(イザナミ)と対峙した地点でもある。

地図に無い神社

 小さい川を渡ろうとしたところで、ふと神社らしき施設が目に入った。
 足を止めて地図を広げる。
 それは地図には無い神社だった。
 鳥居があれば覗きたくなる性分なので、とりま行ってみることに。

 鳥居はあるが額はなかった。
 何が祀られて居るのかも判らないが、神道は「儀礼」だし、私は最強かつ万能の「呪文」を知って居る。微塵の躊躇ちゅうちょもなく参拝をした。
 いや、祈るわけでも願うわけでもなく、感謝と回向えこう、そして撮影のあいさつをしているだけなので、参拝というほど大げさなものでもない。気分としては、その土地で一番偉い御方にあいさつをしてるという感覚に近い。

 社殿は太い注連縄と格子戸が付いていて、ここまで見て来た様式と同様だ。
 傍から見上げると、注連縄の奥に「本郷荒神社」という額が確認できた。どうやらここも荒神社らしい。
 完全密閉型の社殿は、この地域一帯の荒神社に特有の社殿形式なのかも知れない。まだ断定はできないけど。

 本殿の形状を見るため道路を回り込んでいると、近所の住民らしき男性も道路へ出て来られた。
 実は川べりに自転車を止める時、この男性の姿は民家の植物の陰にちらちら見えて居たのだが、私の打った拍手の響きを聞いて興味を持ったらしかった。
 拍手は「音」に意味があるという説があるので、なるたけ大きく、されど上品に打つよう心がけている。

 カメラを下ろしてあいさつをすると男性は物珍しげに私を見返した。
 目と鼻の先に出雲の大社おおやしろがあるのに、こんなところを観光客が来て参拝し、あまつさえ本殿の写真まで撮るのはやはり珍しいのであろう。
 駅でもらった門前町の観光地図も、記載してあるのはこの先の「真名井の清水」までである。言わばこの神社は、道路地図にも観光地図にも載って居ない、知る人ぞ知るレアでディープな神社ということになる。
 今日はこの辺りの荒神社を回ってると言ったら、「神社ガチ勢」であることが伝わったものか、男性は本殿の上を指さして、千木ちぎぎ方がちぐはぐ(手前が水平切り、奥が垂直切り)になってることを教えてくれた。この形式はここだけだという。まつっているのは奥津彦と奥津姫だそうだ。

 千木については、一般的に大社造りの社殿と伊勢の外宮げくうが先端部分を「垂直」に切り、伊勢の内宮ないくうが「水平」に切る。
 また住吉大社には「垂直」切りの社殿と「水平」切りの社殿が同一境内にあるが、いわゆる「住吉三神」を祀った社殿が「垂直」切りで、神功皇后を祀る第四本宮のみ「水平」切りである。熊野三社は手元の資料では判りづらいが、「垂直」切りの本殿と「水平」切りの本殿が並び、天照大神、速玉大神、フスミ大神の社殿が「水平」で、大己貴命を祀る社殿が「垂直」のようである。
 「水平」切りの社殿の祭神は皇室と関係の深い女神で、「垂直」切りの社殿の祭神は海洋や水と関係する神と言えそうだが、熊野大社は保留が必要で、春日大社まで加えるとこの説は成り立たないかも知れない。『神道大辭典』は建築由来の千木(部材の余長を残した)と、単なる飾りの千木(取り付けただけ)とでは意味も違うと述べている。
 以上のように混在する例はあるが、一つの社殿で切り方をたがえているのはたしかに珍しい。土地の男性は千木の先端で祭神が判ると言って居たが、筆者には判らない(断定しかねる)。ほかの荒神社との違いも分からない。
 地図にも載っていないし、あるいは秘されたカミが合祀されて居るのかも知れない。

 

 再び西へ向うと、つぼみが開く前の緑や乾いた土、古くからの民家の壁、くすんだ屋根瓦といった暗い色彩の狭間に、朱色の鳥居がたくさん並んだ一隅があった。
「稲荷社かな」
 ここも地図には無いが、神社らしい。
 鳥居の列の隣は空き地で、そこから見るとどことなく個人の屋敷神のようである。

 二十年近くいろいろな神社をさすらって来たが、稲荷社は不思議なことがよく起きる。
 日本人同士でも「気が合わない」と感覚的に察することがあると思うが、神社とか神さまも同様で、私の場合は稲荷社が特にそうである。ただ稲荷にはいくつかの系統があって(大きく分けると仏教系と神道系だがそれらも一様ではない)、「合わない」と感じたり不思議な現象が起きるのは、だいたい小さいほこらや地図に載ってないような稲荷社である。
 小さいから異質というわけでもないのだが、「個人的なおやしろ」とか「イエ/一族のお社」だからではないかと推察する。あまり適切な喩えじゃないかも知れないが、他家(他宗派)の仏壇や御墓に近寄る感覚といえば伝わるだろうか。

 ナニがまつられてるか判らないというのもある。
 山陰から山陽、四国、九州東部の一帯は「ツキモノ」も多い。出雲は「ヒトギツネ」が主流だという。
 石塚尊俊は、さんだわらにあずき飯をのせて弊を立てた供え物を稲荷社の背後に置くという、出雲市の「憑物治し」の習俗を紹介している。(前掲書p178)
 そんな経験・知識から気を引き締めて、頭をかがめるように鳥居の列をくぐった。
 近付いて見ると、顔の崩れた生き物の石像があり、しっかり施錠された門扉の向こうに小さい祠があった。石像は身体がほっそりとしてるので恐らくは狐、つまり稲荷社であろう。

 だが場違いなほどに厳重なセキュリティが、ただの稲荷社でないことを物語る。

 

真名井の清水


 「真名井の清水」は出雲大社の神事で用いられてきた特別な清水だという。
 島根の名水百選に挙げられているが、一般人も利用できる。私が到着した折も、一人の女性が水を汲んでいる最中だった。
 小さな水路があって澄んだ水が軽やかに流れてゆく。

 ここには彌都波能賣みつはのめ神が祀られている。
 かつての日本はこんな風に、水利場へ水の神をまつっていたのであろう。
 自然とカミとが一体で、身近な存在として認識されていた「原風景」といえる。書物や博物館でしか見られなくなりつつあるその一端が、形ばかりだがわずかに残って居る。

命主社

 水路を越えて少し行くと、「命主社」がある。
 この辺りは観光地図の射程内でもあり、現地にも案内表示がある。
 巨木もあるらしく、遠目に社殿を見ながら土の参道を行くと、社殿の斜め前に巨大なムクノキが立っていた。
 しかし観光地図に描かれているような緑の天蓋てんがいは無く、全身痛々しい姿での出迎えであった。

 社殿はこれまでの荒神社とは異なり、大社造りをほうふつとさせた。
 出雲大社と浅からぬ関係があると思い調べたところ、案の定「摂社」であった。出雲大社公式サイトによると、正式名は「神魂伊能知奴志神社(かみむすび-いのちぬしの-かみやしろ)」で、命主社は通称らしい。御祭神は神産巣日かみむすひ大神で、この神はいわゆる「造化三神」と呼ばれる始原の神の一柱で、大國主神と縁が深いことで知られる。(殺された大國主神を蘇生させている)

 境内の裏手に回ると社殿の跡らしき区画と小さいやぶがあった。
 「真名井遺跡」と書かれた柱がある。その遺跡の横に雑草の茂る路が延びている。そこにも何か立て札があったが、文字は消滅していた。
 かつて真名井はここにあったのだろう。それが無くなったことで土地の気脈も大きく変わってしまったような印象だ。

 

 命主社を後にして西へ向うと、出雲国造北島家の館があり、その先は出雲大社だ。ちょうど二ノ鳥居からゆるやかに下る参道を抜けて、いよいよ社殿が見えて来る辺りなのだが、境内に車両を乗り入れることはできないので二ノ鳥居の方へ迂回する。

 鳥居の前は参拝を終えて晴れやかな顔の人々と、これから神域へ立ち入る人たちの期待に満ちた表情とが交錯する場所で「勢溜り」と呼ばれる。信号以外にも写真を撮るために立ち止まる人は多い。
 鳥居の周辺をよく見ると、うさぎの像がぽつぽつと置かれて居る。非常に可愛らしいが今日は素通り。

荒神社4

 西へ伸びる道へ這入る。観光地図には「神迎えの道」と書かれてある。旧暦十月に稲佐の浜から来る神々が通る道なのだろう。
 通りにわそば屋も少なくない。

 その道を行くと「越峠荒神社」がある。

 北向きに建てられた神社だ。境内はやや広めだがガランとしている。
 参道入口に煤けた案内板があったようだが、見落としてしまった。(動画にチラッと映っていたがほとんど判読できなかった。要再調査)。
 社殿は正面こそ板の格子戸だが、側面は全面板張りで、本殿まで板で塞いで連結してある。やはりこの地方の荒神社に特有の形式のようだ。
 裏手が公園になっているのも北荒木総荒神社と同様だ。

 


 ここからほど近い場所に、「大土地荒神社」があるはずなのだが、ついに見つけることは出来なかった。願立寺という寺はあったが、謎である。
 再び「神迎えの道」へ戻る。すると、その先の交差点に小さい祠があった。
 どのような神さまがおわすのか判らないが、とりあえず参拝し撮影もしておいた。

 そのまま直進するともう一つ荒神社があるらしいのだが、これも見つけることができないまま海へ出てしまった。
 観光地図には載って居ないので、移転されたのかも知れない。(動画には何かそのあとらしきスペースが映り込んでいた)
 ためしに国土地理院のオンライン地図で確認してみたが、鳥居のマークが無いので、この二社は見落としではなく今は社殿が無いのであろう。

 

 

荒神社5

 戻っても迷いそうなのでそのまま海の一筋手前まで下りて、その路地を北上し県道の坂を上がった。
 奉納山公園の入口はすぐ見つかり、その麓に荒神社がある。
 公園は丘陵状になっていて展望台もあるくらいなので、その麓でもなかなか見晴らしが良く、瓦屋根が波打つ遙か向こうに日射しをきらめかす穏やかな海原が見られた。

 参道途中の二ノ鳥居には神額があり「八大荒神社」と刻まれていた。
 鳥居の奥に背伸び型の狛犬が居る。
 閉めきられた拝殿に太い注連縄が掛けられているのは、これまで見て来た荒神社と同じである。
 賽銭箱の貼紙には祓詞はらえことばだけが記され、祭神や由緒についての情報はなかった。

 

 

 

 予定の半分以上を回ったが、ここまで順調に来ているので時間にも若干余裕がある。
 稲佐の浜の北側にも神社が何社かあるようだが、荒神社ではないようなので今回は予定に入れていない。
 海を正面に見ながら坂道を自転車で下る。それは今日の旅で一番心地よい瞬間だった。
 ずっと昔にも、制服を着てこんな風を浴びた記憶があった。

 

 大勢の老若男女が皆思い思いの距離感で神話の舞台に立っていた。
 ベンチに肩を寄せて座る男女もいた。波打ち際を手を繋いで歩く若者、弁天島を背にピースをする女性、そして私に気づきながら浜の出入り口を塞ぐ老人……、
 ならず者の老夫に閉口しつつ私は引き返した。
 駐車場から一枚撮る。
 若者の楽しそうな声が潮風に乗って私の耳元へ押寄せては去っていった。

 海沿いの県道を南へ走る。
 しかし快適さは無い。
 まるでナニカが絡みついてるかのようにペダルが重くスピードが出ない。
 明日も朝から動き回り、運転もする。筋肉痛にならなければ良いがと思いながら、ぜい肉の多い太ももに力を籠める。

 この辺りはほぼ画一的な区画で、似たような路地が連なる。
 目印になるようなものも無く、路地の数を数えていたが、地図を見るためには立ち止まらないといけない。立ち止まるとまた漕ぐ。
 ダルいし腹が減ってきた、などと思考が乱されてるうちに判らなくなった。
 どの路地も細い上り坂で、坂の上の様子は上がらないと分からない。ためらってるうちに、カーブが見えてきた。
「やばい。行き過ぎてる」
 海沿いの県道は堀川を超えたところで急カーブしており、川の周囲に住宅は無い。
 今どの辺にいるのか俄に判断できないが、適当に目の前の路地へ入った。

 自転車をギチギチ漕いで坂を上がると辻にでた。
 辻べりでしわしわの地図を広げて、辺りに地名表記がないかきょろきょろするが、ねこの気配すらしない。
 袋小路を行きつ戻りつしてるうち、妙にくねくねした道に迷い込んだ。
 この稲妻のような道は特徴的で、自分が今どこに居るのかがようやく分かった。

山辺神社

 東の国道と西の県道のちょうど中間を南北に貫く道に出た。
 この広い道をずっと北へ戻ると、奉納山公園の辺りへ着く。
 道路沿いには目印も多く、少し北へ行くとお寺があった。
 やがて杵築西地区にある「山辺神社」を見つけることができた。
 荒神社ではないようだが、ここも全面閉めきられた社殿だった。(千木は垂直切り)
 毎月十五日が月次祭という告知があった。

 

荒神社6

 今来た道を戻る途中で「赤塚荒神社」も見つかった。
 狛犬は平成十二年奉納らしい。二番目に訪ねた「西原荒神社」も平成十二年だった。
 この年に何かあったのか調べてみると、平成十二年の春に、出雲大社の拝殿の地下工事で巨大な御柱が見つかったそうだ。
 これは杉の巨木を三本合せた「宇豆柱」と呼ばれるもので、かつてあった超弩級の社殿を支えていたものらしい。文化庁のサイトに掲載されている写真(巨大な柱の残骸とその傍にしゃがむ緋袴の巫女)にも見憶えがあった。
 新聞記事でも大きく採り上げられるほどの発見だったから、そういったことを記念して奉納されたのかも知れない。

 

 社殿は拝殿、弊殿、本殿の三殿形式だが、すべてが連結し板張りになっている。(千木は垂直切り)
 その地域の氏子が定期的に集まって神事を執り行う、極めて宗教色の濃い神社といった印象だ。祭事を外部の者へ見せないという意識を強く感じる。
 「出雲大社の大國主神」が近くに居ながら、こちらのスサノオや竈神の方が日々の信仰対象としてはメインなのかも知れない。

 島根県と境を接する広島にも北部を中心に荒神信仰があるが、血縁性の強い講組織があるそうで、やはり「イエの神」とか、村よりも狭い「アザ(字)の神」という感が強い。
 しかしその荒神は火や竈の神と言われる一方で、龍蛇とも関連がある。
 芸北地方で作られるわらの龍蛇は「荒神の使い」と言われ、別のカミの信仰が習合して居た形跡がある。そしてそれは、江の川や国道54号に沿って点在する「大蛇伝説」と、恐らく無関係ではあるまい。(興味深いのは、広島の大蛇伝説のいくつかが八俣ヲロチの前生譚と言われて居ることである。これについては別の研究記事で採り上げたい)

 

荒神社7

 さて、私の島根さすらい旅は佳境にさしかかっていた。
 国道431号へ出る前にも荒神社がある。これは道路沿いですぐに見つかった。
 鳥居脇の石柱には「南本通荒神社」と刻まれていた。その名の通り、堀川が遮断する区域内で最も南に位置している。
 社殿は小さな祠といった感じで、拝殿は無い。(千木は垂直切り)

 

荒神社8

 傾いた日射しを浴びながらダルい脚に何とか力を籠めて自転車をこぐ。
 次で最後だ。あとひと息。
 「前原荒神社」は郵便局の近くの路地に面した一画にあった。
 自転車が行き交い、車が何台も通過し、子供の声がする。地元民の息吹を感じるエリアだ。
 社殿は西向きに立ち、拝殿に掛けられた額には「出雲国造北島英孝」と署名があった。
 その社殿はもうおなじみの三連結・全面板張りの様式である。(千木は垂直切り)

 

 

 こうして出雲大社周辺の荒神社の調査は終わった。
 出雲の荒神信仰は出雲大社の社家や出雲国造家と関係が深いことが判った。
 うさぎ神でなかった点は残念だが、いろいろと収穫があった。
 「町」ではもうほとんど失われた「同族」や「イエ」といった繋がりの一端を感じる旅であった。
 都会や「町」から移住する人は、こういった視点があまり無いように思える。
 「地縁」とは微妙に異なるのが、「血縁」を主軸とする繋がりである。それを重視するところから家筋を激しく選別する「憑物」という民俗信仰も生じたのであろう。(山陰には狐以外にもトウビョウと呼ばれる蛇系の憑物もある)
 こう考えると、屋敷神・土地神の性格が濃厚な荒神に、蛇を象ったオブジェが附随するのも、何やら意味深長な習俗と思えてくる。

(第一話終り)

(次回予告)

 スサノオに無惨に殺された八俣やまたのヲロチを慰霊するため、私は「常世」からさすらいの旅を始めた――。

 

なぜ優しい大穴牟遅神を取り囲むように「火の荒神」が配置されているのか。

 実は素兎を助けた後に話の続きがある。
 大穴牟遅神は「稲羽のマドンナ」八上比売から結婚相手に指名されたことで、兄弟たちから嫉妬を買って殺されてしまうが、そのつど女神たちの助けによって復活する。
 けれど、このままではまた迫害されてしまうので、スサノオの居る「根国」へ行くように言われる。ところがそこでもスサノオから酷い仕打ちを受け、それをスサノオの娘や鼠が助ける。
 ついにはスサノオが持つ武器と呪具を奪って姫を連れて逃げ出し、兄弟たちを屈服させる。
 大國主神は多くの姫たちと子供を作り、少彦名と国造りをした。
 すると今度は天降りの神に「国譲り」を迫られて、ついに幽冥へ退き隠れられたのだ。
 しかし大國主神は妙に女神や動物たちに好かれて、送り込んだ使者も寝返るし、殺しても復活したことがある
 だから「国譲り」を強いた神たちは安心できなかった。
 男神に憎まれ女神や動物に愛され、無惨に殺されても美しく黄泉還る不老不死が実像である。

 

出雲大社(いづものおおやしろ)

 明治までは杵築大社(きづきのおおやしろ)と呼ばれたほか、『出雲国風土記』には天日栖宮(あめのひすのみや)などの表記も見られる。
 出雲大社の公式サイトはかなり情報が制限されていて、表面的なことしか解らないので以下文献を参考に補足する。
 祭神は大國主神を筆頭に、天之御中主あめのみなかぬし神、高御産巣日たかみむすひ神、神産巣日かみむすひ神、宇麻志阿斯訶備比古遅うましあじかびひこぢ神、天之常立あめのとこたち神の五柱が本殿の客座に合祀されている。
 天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三柱は「造化三神」と称される特殊な神で、いわゆる始原神(宇宙的な存在)とされるが謎も多い。特に天之御中主神は中世に伊勢外宮の豊受大神と習合したのが注目される。高御産巣日神は神武天皇の補佐、神産巣日神は大國主神の救援が有名で、主催者を陰日向に支えるまさに「カミ」的な存在と言える。
 宇麻志阿斯訶備比古遅神と天之常立神は、造化三神に続いて生じた神で、以上の五柱は「別天神」として天津神とは別格になっている。
 現在の本殿は延享元年(1744)造営。国宝指定。

 

出雲国造(いづものくにのみやつこ)

 天津神天照大神と素戔嗚尊の子である天穂日命(あめのほひのみこと)の子孫。天穂日命は国譲りの使者として派遣された際に大國主神に帰順したとされる。出雲大社の祭事を執行しながら朝廷との関わりも深い豪族であった。南北朝期に千家・北島の二家に分裂、明治期に宮司は千家氏に一本化されると、北島氏は宗教法人出雲教を組織した。

 

出雲信仰と火

 出雲国造の継承式は「火継(ひつぎ)」とか「神火相続」といって、代々相伝する火燧臼(ひきりうす)と火燧杵、そして邸内の神火を使って食事を作り、食すことをもって行われるという。
 これは出雲大社の古伝新嘗祭と同形式で、八束郡の熊野神社で行われたというのが非常に興味深い。というのも、熊野の神は記・紀には登場しないカミでありながら、後に本宮のケツミコ大神はスサノオと習合し、火祭りで有名な那智大社のフスミ大神の「フスミ」は「ムスヒ」と同義とされるからである。大國主神を救援した神産巣日神も「ムスヒ」の神である。そして竈の神でありながらスサノオとも習合した「荒神」は、出雲の社家平岡氏が奉るカミだったことは今回の研究で確認した通りである。
 熊野大社の属性イメージは急流の河(瀧)であるが、神事は水と火をそれぞれメインとする。熊野信仰は修験道とも関係が深いが、その修験道がまさに火をよく使う宗教である。出雲大社も大穴牟遅命(大物主大神)は龍蛇の属性イメージだが、火をメインにした神事がある。そしてスサノオは命じられた海原統治を拒絶し、ヲロチを殺した神であった。
 火の真言、水の法華とはよく言われる対比であるが、教義に関係なく呪術として両方を駆使したのが修験山伏であった。出雲信仰は荒神だけでなく、もっと違う信仰形態によっても包摂されているのかも知れない。
 しかし神使に着目すれば、神武天皇を導いた熊野の八咫烏は太陽と密接に関係し、大國主神が助けた素兎は月と深く関わるのであって、やはり対照的で陰の印象が強いのである。

 

うさけつの伝説

 昔、兎に角があった頃、鹿にねだられてその角を貸したことがあった。ところが鹿はその角をたいそう気に入ったので約束の日になっても返そうとせず、兎に会うたび逃げ回っていた。
 兎も必死に追いかけたけれど、とうとう谷底に落ちてしまいお尻の穴が九つに裂けてしまったそうです。
 この伝説にはいくつか種類があって、谷には落ちないけれどあんまり跳んだり跳ねたりしながら鹿を追いかけ回したので破れたというパターンと、もっと単純にお産の時に力みすぎて破れたという説もある。

 

【参考】
出雲大社(https://izumooyashiro.or.jp/daisengu/history)202306確認
文化庁(https://www.bunka.go.jp/pr/publish/bunkachou_geppou/2012_10/event_01/event_01.html)202306確認
前久夫『寺社建築の歴史図典』(東京美術/2002)
下中彌三郎 編『神道大辭典』第二巻(平凡社/S14)
石塚尊俊『日本の民俗 島根』(S48/第一法規出版株式会社)
藤井昭『日本の民俗 広島』(S48/第一法規出版株式会社)
白井永二・土岐昌訓 編『神社辞典』普及版三版(東京堂出版/2005)
薗田稔・橋本政宣 編『神道史大辞典』(吉川弘文館/2004)
三橋健・白山芳太郎 編『日本神さま事典』(大法輪閣/H17)
集英社新書編輯部 編『古社名刹巡拝の旅2 熊野古道 和歌山』(集英社/2009)
糸井粂助『少年日本傳説讀本』大同館書店/S13(1938)