柴又帝釈天(東京都葛飾区)[経栄山題経寺]

この記事は「東京でぜひ行きたい!おすすめの神社6+2」からの単体切抜き記事です。

 

【下町フードと矢切の渡し】柴又帝釈天
読み方:しばまた-たいしゃくてん
所在地:東京都葛飾区柴又7-10-3
最寄り駅:京成金町線・柴又駅
正式名:経栄山題経寺[きょうえいさん-だいきょうじ]
宗 派:日蓮宗
本 尊:一塔両尊四士
境内の拝観は無料です
本尊の御開帳は要申込み。
堂内の彫刻が有名ですが、彫刻と庭園は拝観料が必要です
駐車場:あり(有料)
ご首題:あり

 


二天門

 

<略縁起>
 寛永六年(1629)、日忠にっちゅう下総中山しもうさなかやま法華経寺ほけきょうじ十九世)が草創。(『新編武藏風土記稿』)
 開基は弟子の日栄とする。また考古学的な見地から室町時代初期には何らかの寺院があったとする説もある。
 千葉の中山法華経寺と関係が深く、末寺となる。
 縁起によると、日蓮が彫刻した祈祷本尊があると言い伝えられてきたが、その所在は知れなかった。それが安永八年(1779)に本堂を再建した際に棟上より長さ二尺五寸(約75cm)、幅一尺五寸(約45cm)、厚さ五分(約15ミリ)の板が見つかった。
 片面には、南無妙法蓮華経なむみょうほうれんげきょうの題目が中央に刻まれ、両脇に「此経則為閻浮提人病之良薬しきょうそくいえんぶだいにんびょうしろうやく 若人有病得聞是経にゃくにんうびょうとくもんぜきょう 病即消滅不老不死びょうそくしょうめつふろうふし」と刻まれている。(この文は『妙法蓮華経』薬王品の一節)。
 もう片面には右手に剣を持つ憤怒ふんぬの帝釈天像が刻されてあったという。
 この板が見つかった日は庚申の日だったので縁日となった。
 像を請う人には両面を摺ったものを与えたほか、近隣で疫病が流行するとこの板本尊を背負って巡行し出開帳でがいちょうして一粒符いちりゅうふを配ったという。
 また、江戸で道教由来の庚申こうしん信仰(庚申の日に徹夜で身を慎む)が流行ると、この寺へ参拝し本堂で一夜を明かし、朝一番で本尊ご開帳を受け、御神水を頂いて帰る人々で賑わったという。


帝釈堂

 

 二天門にある二天像は定朝じょうちょうの作といい、堺の妙国寺から明治二十九年(1896)に二天門の建立に合せて奉納された。(定朝は平安時代の仏師)
 棟梁とうりょうは坂田留吉で、帝釈堂の内陣や拝殿の再建も手がけている。
 『法華経』を題材とした内陣の胴羽目彫刻10枚は加藤寅之助、金子光淸、木場江運、石川信光、横谷光一、石川銀次朗らが手がけ、昭和九年に完成した。

 

帝釈天について
 帝釈天はインドの武神であったが、仏教に帰依(習合)したことで仏法の守護神となる。
 日蓮宗では開祖日蓮が顕わした曼荼羅本尊まんだらほんぞん勧請かんじょうされているので、全く無関係というわけではありません。

帝釈天と庚申の関係
 仏教に帰依した帝釈天は人間界の善悪の監視をするという属性も獲得した。
 一方、庚申とは人体に巣くう三尸さんしと呼ばれる虫が睡眠中に抜け出して、その人の罪悪を天帝に告げるという俗信である。こういった人の罪悪の監視・報告といった共通要素から習合したとされる。
 ただ、日蓮宗は題目を最強とするし、この板本尊も役割としては「病即消滅不老不死」にあって、道教的な俗信隆盛は一過性の時代的変異的なものだった。
 現在では病だけに限らず、より幅広い「厄除け」信仰として定着確立している。


龍のような松

 

矢切の渡しと『野菊の墓』
 境内を出て東へ向うと江戸川があります。
 川沿いは公園や草原が広がって、大都会東京とはまた違った景色が楽しめまする。

 人が手入れしてる花壇もありましたが、やっぱりこういう自然の花の方が好きだな。
 有名な矢切の渡しがあって、船頭さんのこぐ舟で対岸に渡れます。対岸は千葉県の松戸市になります。(有料。冬期は土日祝日のみ。荒天時は運休の場合あり)


 ピュイ!キュウキュウと鳴く鳥が居ました。

 その対岸から少し歩くと伊藤左千夫の純愛小説『野菊の墓』にちなんだ文学碑があるとか。
 伊藤左千夫は正岡子規門下の歌人ですが、『野菊の墓』は子規が提唱した表現技法(西洋の写生画から影響された緻密な表現)を使って書かれた小説です。その技法から「写生文系作家」とも呼ばれました。同門には長塚節が居るほか、夏目漱石の『吾輩は猫である』も写生文の小説と言われるそうです(但し漱石は以降文体が変わる)。
 んで、矢切地区は『野菊の墓』の舞台なんですね。ちょっと読んでみませうか。

「僕の家といふは、松戸から二里ばかり下つて、矢切の渡を東へ渡り、小高い岡の上で矢張やはり矢切村と云つてる所」(伊藤左千夫『野菊の墓』p1)

 その矢切村の旧家に住む僕(政夫、数えで15歳)と、従妹の民子(数えで17歳)の物語……なんですが、このね「年齢差」が、仲良しの二人の関係に亀裂を入れていくと、そういうお話しです。
 さすらいの友人は姉さん女房でしたから、現代なら別に問題にならないんだけど、時代もあるしやっぱり「旧家」ですよねえそういうの気にするの。あと女性の結婚年齢が早いので、政夫が卒業するまでソロでいれるかっていうのが政夫だけでなく読者もはらはらさせるっていう妙味。

 この記事書くついでで久しぶりに『野菊の墓』読みましたが……泣けた。
 それでちょっとネタバレになりますけど、別れたきり会わせないのが上手いですよね。これぞ「THE 純文学」ですよ。
 これがねエ、ただの純愛じゃなくって、初恋が結晶化するとでも言いましょうか、こういう男(政夫)に駄目出しする女性も少なくなさげですが、ほんとうにほんとうに魂レベルで愛した人と成就できなかった経験がある人なら、きっと泣くと思うんだよな。
 こういう良作を読むと小説を書いてみたくなるんですよねエ。そうして挫折するまでがセットなんだけど(笑)

 あと自分は民俗学なんかも独学してるんで、物語だけでなくって、当時の風習とか民俗とかも描写されてるのが面白いと感じるんですよね。例えば住み込みの女中さんとのやりとりとか、墓地がどういった処にあるかとか、村の娯楽がどういったものかとか。会話もそうだけど、今と比べて何が変わらず何が失われたとか判るのが面白い。

 青空文庫には新字新かなに書き変えたバージョンがあります。原文で読みたい方は国立国会図書館のデジタルコレクションにあります。『全集』の2巻(春陽堂版)がおすすめかな。ふりがなが多いのは俳書堂版ですが印刷があまり鮮明じゃないです。敗戦後に刊行された版はログインしないと読めないようになってます…。

(参考『江戸東京はやり信仰事典』、磯貝英夫『資料集成 日本近代文学史』(右文書院/S43))

 

<周辺アクセス>

柴又帝釈天参道(門前町)

 門前の参道には老舗が軒を並べ下町風情が残る。映画『男はつらいよ』のロケ地としても有名です。

 草だんごのほか、せんべい、くず餅、もなか、天ぷら、漬け物のお店とかありました。ダルマ売ってる店も。
 いわゆる観光地にあるようなお店とはちょっと雰囲気違って、地元のお店感があるのが良いですね。観光客志向が強すぎないとこ。昔から地元で作って売ってきたものがメインなとこ。でも「商店街」ってわけでもなくて絶妙な感じがします。

 

「とらや」でそばを食いました。

 

柱の文字「南無妙法蓮華経 奉漸讀妙經一千部成就之攸 當山」の解説
 南無妙法蓮華経なむみょうほうれんげきょう」は題目といって『妙法蓮華経みょうほうれんげきょう』に帰依しますという意味です。日蓮宗では念仏や真言の代わりにこの題目を唱えます。
 ほう」はたてまつる、「漸讀ぜんどく」は徐々に読む、「妙經」は『妙法蓮華経』です。
 「一千部成就」:仏教で「千部」というと千部讀誦どくじゅ(読経)とか千部書写を指すことが多く、ここでは「漸讀」とあるので讀誦だと思います。これは一つの経典を千回読んで供養や祈願を行う行法で、古くは聖武天皇の法華経千部書写などが知られます。『妙法蓮華経』は八巻二十八ぽんで構成されるお経なので、八巻二十八品で「一部(全巻)」ですが、大きな寺院などでも「一部」読むことは稀で、通常は祈願や法会ほうえに合せて主要な部分だけを読みます。それを千人が一部づつ、または一人が一千部読んだり書いたりするのが「一千部」で、そのような法会を「千部会」とも呼びます。
 「攸」はところ、「當山」は当山すなわちこのお寺です。寺院には寺号のほかに「山号」というのがあって、寺号の前に山号が付くのが通例です。したがってこのお寺の正式名称は「経栄山題経寺」です。お寺によっては山号のほうが有名だったり(例えば比叡山)、本堂の額に山号だけ書いてる場合もあります。

 

 

<本 堂>
本堂は帝釈堂の右手にあります。

 


題経寺本堂


本堂蟇股(龍)

 


本堂木鼻(一部)

 


釈迦堂