『WBC優勝直後の大谷選手の行動について』

随想録

 WBC日本代表の大谷選手が仕合を決めた(優勝確定)後にグラブと帽子を投げ捨てたことに対し批判が出ていると聞いた。そのことについて少し書いてみる。

何が起きたか。
 緊迫した決勝戦を迎えたWBC日本代表チーム、9回表1点のリードで大谷選手が登板、2アウトをとる。打席にはメジャーリーグ屈指の強打者トラウト選手、フルカウントから三振でゲームセット、優勝を決めた。絶叫しながらグローブと帽子を次々フィールドの外へぶん投げる大谷選手。駈け寄るチームメイトたち。

 言うまでもないが、ほとんどの選手は道具を大事にしているだろう。大谷選手だろうが誰だろうが、普段なら仕合が終わったからといって投げ捨てるような真似はしないだろう。では何故ぶん投げたのか?

 重要なのは、そこへ到るストーリー(物語)があることだ。
 ただの仕合ではない。日本の代表として各国と戦ってきた。このチーム・指揮官で戦うことはもう二度とない。WBC自体次の開催は不透明という話もあった。先日の準決勝で劇的なサヨナラ勝ちを収め、決勝戦は野球の本場米国のメジャーリーガーたち。日本人としてメジャーリーグに籍を置く大谷選手、万感の思いがあったであろうことは想像に難くない。

 私はライブでは観れなかったが、それでもいろいろな「物語」に触れるうち、いつしかかぶりつくように、一心同体となって仕合を(その映像を)みるようになっていた。
 離脱した選手、不振の選手、励ましの言葉、鼓舞する言葉、不満の声、不安、プレッシャー、そして戦後のリスペクト(讃え合い)まで含めていろいろな物語があった。

 その果てに出た大谷選手のあの行為は何を物語って居るか。
 普段大事に扱う道具をぶん投げる。つまりそれは、あの時・あの場所が「普段」じゃない瞬間だったということだ。
 それはのりうつるように一心同体の境地で仕合を見守ってきた人間にとっては「感動」として、つまり大谷選手の「普段」とは違う心境そのものとして、ダイレクトに伝わってきたのではなかろうか。恐らく日本中のいや世界中の何処かで日本代表とシンクロしていた観客の何十人か何百人かは、手にしていた何かを同じように放り投げ、両拳を突き上げて、叫んでいたのではないか、あの瞬間に。

 その一方で、「グラブと帽子を投げ捨てた」という行為(現象)だけを冷静にみつめて「紳士的でない」と分析し批判する声。
 この声は「物語全体」を考慮することなく、一つの現象のみを抽出して不純で不可解な要素だと批判して居るわけであり、恐ろしく冷静かつ客観的である。しかし同時に客観的ではあるが決して俯瞰的ではない。極めてミクロの視点である。
 エンタメ作品の「物語」に感情移入しながら楽しむのではなく、常にシナリオの整合性や演出の出来不出来を意識しながらみている感覚に近い。

 物語自体を楽しめなかった、だから感情移入もできなかったのかもしれない。
 それは自分が理想とする「物語」があるからだ。しかし現実に紡がれていく物語=歴史と、個人が思い描く物語=理想とは、往々にして異なるものだ。
 「戦争に負けた日本」についても様々な批判がされてきたが、やはり同様に、抽出した成分の中に不純物が混じっていることばかりをやり玉に挙げるものであって、物語の全体像は無視されている。
 そこに決定的に欠けているのは、俯瞰的な世界史であり、因果としての時代背景であり、当事者としての感情である。それらが織り成す絵巻を、離れて観る視点である。

 あの場面、あの瞬間の大谷選手の行動に「紳士的でない」という冷徹な批判は、日本の選手たちとも、その応援者たちとも、そして対戦相手の選手や応援者たちとも違う、まるで審判のような、そんな立ち位置で日本代表の仕合を観て居た人が居たのだということを知らしめて、興味深く思った。
 いくら超人的な大谷選手でも、あの瞬間は紳士的ではなかった。たしかにそうかもしれない。だが極めて人間的で、日本を代表して戦ってきた日本人の鑑であったと、言えるのではなかろうか。

 また少し違う視点から言えば、もみくちゃになる、ハイタッチをする、優勝用の帽子をかぶるといった一連の所作に水を差したくなかったとも解釈できる(そしてその一挙手一投足は映像として撮影されている)。誰かに手渡せばその人は一人歓喜の輪から離れることになる。道具を持ったままだと喜びを分かち合う所作がぎくしゃくする、そんな映像が半永久的に残ってしまう。それを慮っていたとすれば、実は冷静な大谷選手もきちんと存在していたことになる。たとえ自分が批判されてもという考えが、無かったと果して言い切れるか。

 いづれにしても、選手をそう至らしめた感情は、瞬間的な行動だからこそ、嘘偽り無く放たれる。それこそが「コミュニケイション・オブ・エモーション」ではなかろうか。
 言葉ではないからこそ誤解やすれ違いも生れる。だがしかし、そこにこそ言語を超越した感動が生れうる余地もあるのだと、私は信じている。
 おめでとう。そしてありがとう。日本の戦士たち。

 
 
追記
この優勝の瞬間にぶん投げられた大谷選手の帽子は、米国野球殿堂博物館へ寄贈されたという。

(ライブドアニュース:https://news.livedoor.com/article/detail/23920213/)
表紙画像:Pixabay