賽銭の意味と合理的な金額算出法

信仰・儀礼

 ここでいう「意味」とは、定義をもとにしてその本質的な意義を探っていくことを含みます。単なる説明的な意味(知識)に留まらず、自己を省みて次の行動をより意識的にさせる実践的な提案文です。熟読熟考し、あなたの賽銭額を是非見いだしてください。

<賽銭の定義4撰>
「祈願成就の報賽の料として神に奉る銭貨。転じて只神祇崇敬の表現として奉る金銭にもいふ。」(『神道大辭典』)

 『現代漢語例解辞典』の「賽」の項目を見ると「むくいまつる。また、神仏へのお礼まいり。」の意味があることが解ります。
 従って「賽銭」といえば「神仏へのお礼の銭(お金)」となり、『神道大辭典』の定義とほぼ同じです。

 もう一つ見てみましょう。
「個人祈願などの折、簡易な供え物として神仏に捧げる銭貨。」
 しかも当初は「布・紙・玉・米・兵器・馬などが供えられ(中略)賽銭を供えるのは後世のことで、古くは神前に打撒きの米を撒き(散米)、または紙でオヒネリにして供えた。賽銭箱の起源はこうした米を受けることにあり(後略)」とありますね。(『神道史大辞典』)
 まれに神社の賽銭箱へ「米・野菜は入れないで下さい」などと注意書がされてるのを見かけますが、あれはむしろ賽銭の本来的な意味において忠実な例と言えそうです。割と最近までそういうお供えをされる方がいらっしゃったということなのでしょう。
 但し食べ物とお金とでは属性が全く異なるので一緒くたにするのは衛生的にも良くないですし、現代の主流は金銭ですから、原理主義的に米や野菜を置いたりするのは控えたほうがよい。どうしても供えたい場合は、神職や僧侶へ手渡してください。大抵は「仏前(神前)へお供えします」といって受取ってもらえますから。

 仏教側の説明はどうでしょうか。
 賽銭の「賽」は「神から福を受けたことに報いるの意」(『岩波仏教辞典』)とあります。
 さすれば賽銭とは、祈願が叶った御礼として神へ捧げるお金ということになります。これが本来の意味です。
 ところがいつしか、「お願いをする時にあらかじめ捧げる」という風に変化しています。
 絵馬とまったく同じ変化が生じていると言えますね。(絵馬についての解説はこちら

 これは結果に対する行為を先行させることで、結果を確定的にしたいという意思表示――、と解釈することもできます。
 言わば、神さまへの成就強迫ともいうべき行為ですが(柿の木を少し斬りつけて「よく実を付けなかったら切り倒すぞ」という農耕習俗を思い出させる)、この考え方からすると、賽銭の金額は当然多いほうが良いということになります。
 自分にできないようなお願い事をしておいて、100円出すのと1万円出すのとでは、やはり印象に差がつくからです。
 しかし実際はどうでしょうか?
 祈願の内容にかかわらず、小銭を入れる人が圧倒的に多いのではないでしょうか。

 ひょっとして私たちは、賽銭という儀礼的な行為をしながら、かなり失礼なことをやってしまっているのではないか。

 各定義に共通して重要な点は「神に奉る」「神仏へのお礼」「神仏に捧げる」「神に報いる」という点です。
 たとえそれが現実的には寺社の収益になるのだとしても、「神に対する奉納」というのが本来の意義であることをまづ確認しておきます。
 その上で、事前に納めるという現代の賽銭形式において、その金額をどう算定すべきか。これについて考えてみましょう。

 
 

 
 
<賽銭の金額を合理的に算出する>
 三番目に確認した定義の中に「布・紙・玉・米・兵器・馬などが供えられた」とありました。
 時代ごとの物価の差もあるし、近世以前の奉納記録の大半は貴族や武士なので一概には言えませんが、「米」は目安になりそうです。
 一家庭単位で祀る仏壇や神棚に、普段どのようなものを捧げているか。また特別な節日でそれに変化はあるか。
 一般的には私たち生きて居る人間の食事を簡素化したようなもの(例:米・水・塩・果物)を供える例が多いように見受けます。
 そして節日などの特別な日には、普段口にしないごちそうが捧げられます。
 僕の記憶でも、祖母の家の仏壇にはいつも果物が供えられていて、よくそれを食べさせてくれたことを思い出します。
 これらはイエに祀られる神仏への供物であり、そこでの祈念は生者の安泰と死者への回向、そして神仏への報恩だったことでしょう。
 神社仏閣はそれに対比する(ソトに祀られる)神仏と位置づけられます。あるいはお札や本尊などを媒介物と看做すなら、同等とも言えます。
 ここまで考えてみると、妥当な金額というのが何となく見えてきたのではないでしょうか。
 もしご自宅に神棚や仏壇が無いなら、次のようなことをちょっと想像してみてください。「尊敬する偉い先生」の所へ御挨拶に伺うとき、どんな手土産を用意するか――。

 
 
<賽銭の金額に関する俗説・俗信>
 非礼を正当化するために用いられるのが、もっともらしい俗説や俗信です。例えば次のような類です。
①神さまは穢れを嫌い、光る物を好むので、銀色の硬貨が良い??
②神さまは大きな音を好むので、硬貨をたくさん入れるのが良い??
③神さまが願いを聞くのは優先順位がある。高額の賽銭のほうが目立つので良い??
④賽銭は穢れを払うことにもなるから、多い方が良い??

 次のような疑問・反論ができます。
 ①は、1円玉を入れるため、あるいは紙幣を入れないための口実のような気もします。「光る物を好む」というのもカラスじゃあるまいし、ビー玉でも良いんかということになる。
 ②は、恐らく参拝の時に鈴を鳴らしたり、柏手を打つという所からの連想と思われますが、鈴を鳴らすのも柏手を打つのもそれぞれ異なる意味があり、賽銭の意味とも違います。鈴の音は邪を祓い、柏手は敵意がないこと(敬意)を示すための儀礼とされます。
 ④は、この考え方だと汚い物を神さまに差し出してることになりますね。
 最後に③ですが、かなり俗っぽい考え方ではありますが、一理あります。これについて、検証してみましょう。

 
 
<お金の価値は絶対ではない?>
 経済に於て、お金は絶対的な価値を持ちます。日本国内で日本円は、誰が何処で使っても同じ金額価値です。僕の一千円と、あなたの一千円は等価です。
 ところが、仏教では少し違うようです。
 仏に捧げる燈明を買うことができなかった貧者が、自分の髪の毛を売ったお金で燈明を捧げると、誰よりもその燈明は美しく輝き、仏はその一本を喜んで成仏を予言した――という説話があります。

 この説話は、賽銭の金額を考える上で多くの示唆を与えます。
 一つは、お金の価値はその人の財政事情によって決まるものだということ。
 月収が100万円の人と2万円の人とでは、同じ1万円でも重みが違います。
 そしてもう一つは、自分の身命を削って得たお金だということ。
 更にそれは自分の利益のためではなく、仏(他者)を供養したいという気持であったこと。
 佛はそんな貧者の一本の燈明のほうに何より高い価値があると言うわけです。
 これはお布施の話ですが、自分の身を犠牲にしてまで他者の利益になることをすると、将来自分では得がたい利益を得るということが説かれて居ます。仏教説話なので他者=佛ですけれど、神道系の民間信仰にも類似の習俗があります。例えば好物を断って祈願をするといったものです。

 何だか神仏への投資みたいな、無粋な話になってきました。
 人びとが何故、5円を「御縁」などと駄洒落のようなこじつけをして、少額の賽銭で良しとするのか。
 それは「成就の対価を事前に納める」という意味すらも失われて居るからでしょう。
 賽銭の意味が形骸化することで、もはや賽銭という行為自体が、ある種の儀礼に組込まれて居ると言えます。

 仏教説話のように、神仏へのお金の価値は相対的なものだと考える寺社では、「お気持ちで」と言って金額を定めないケースも見られますね。最近参拝した寺社では出雲大社の御朱印料がそうでした。
 本来はそのスタイルが主流だったのだと思います。それだと困るということから「相場」が設定されていった。それは民衆の智恵だったと解釈することもできます。相場は様々な点から形成されていく、言わば中間的な落しどころだからです。

 
 
<僕からの提案>
 普段賽銭で小銭しか入れないような人が、あるお寺のクラファン(クラウド・ファンディング)で5000円出したという話を聞きました。
 僕もクラファンではないですが似たような経験があります。
 参拝の帰りに受付窓口をふと見ると、「屋根葺き替えのための浄財を募集」とあって、自然厳しい土地での文化財の維持がいかに大変であるかが綴られて居ました。記念品も頂けるとありましたのでその場で一口(3,000円)申し込みました。
 この意識の違いは何処から生じるのでしょうか。

 思うにそれは、使途と対価が明文化されているか居ないかの違いです。
 何のためにお金がいるのか、そのお金を払うことでどのような未來になるのか、といったことを文章で説明し、更に結果を報告することを約束するなど、半ば契約的な依頼文になっている。

 使途や対価が不明なものを信じてお金を出すのは、とても宗教的な行為と言えます。
 賽銭の効能や利益は、当然明文化されているわけではありません。

 僕からの提案は、「使途と対価」について意識する(自分で明確化する)ことです。
 そうすることによって賽銭の意味も変わってくるということをお伝えしたい。
 例えば、神域へお邪魔して、素晴らしい自然環境や普段味わえない清々しい気分を得られたとすれば、それが既に神仏から贈り物を受取って居ると解釈できます。
 それらに対する対価を賽銭箱に入れるという考え方です。いわゆる「拝観料」的な考え方です。
 ただ一般的な拝観料と違うのは、入った後で、任意の金額を払うという点です。
 自分好みの狛犬や彫刻がたくさんあって撮影できた時、僕はもうお願い事とか半分どうでもよくて、ただ感謝し、失礼のお詫びも籠めて賽銭を多めに入れてます。
 これなどは俗な言い方をすれば「鑑賞料・撮影料」ですよね。

 
 

 
 
 拝観料・鑑賞料・撮影料という視点から金額の目安を探るための参考値を次に示します。(端数死者悟入)

寺院拝観料 800円―1,600円(藥師寺)
1,000円―1,700円(唐招提寺)
600円―2,200円(東大寺)
400円(金閣寺)
300円―1,100円(四天王寺)
600円(三十三間堂)
平均600円
博物館入場料 800円―1,200円(太田記念美術館)
1,000円(東京国立博物館)
600円(国立歴史民俗博物館)
400円(深川江戸資料館)
1,000円(遊就館)
平均800円
映画館鑑賞料 1,900円 ――
水族館入場料 1,350円(品川水族館)
2,700円―4,700円(海遊館)
3,300円(鴨川シーワールド)
2,500円(マリンワールド)
平均2,500円
寺社の御祈祷 3,000円―5,000円

 ちなみに僕は、観光客(参拝者)が多いとこは少なくしたり、狛犬が多い神社は少し多めに入れるとか自分なりの基準を設けてます。

 もう一つ提案します。
 この素晴らしい環境や文化、建築物は遙か昔からその土地の人びとが維持管理し、代々受け継いで、また受け渡してきたからこそ、今僕たちの目に触れるわけです。そうした「文化財」の維持や修繕のための協力という考え方です。
 自分の知らない誰かが、ずっと昔に払ったお金の御陰で、今自分はそれを拝めているのかも知れない。こう考えると、「五年後十年後に訪れる人のために」支払うお金という気持になるでしょう。これこそ「利他」です。

 これについてはもっと明確に修繕費用を募って居る例も少なくありませんが、神さまが少しでも居心地良く住まわれるなら、きっとお力も発揮しやすいのではないでしょうか。特に外からの参拝者が少ないような神社や、自然環境の厳しい土地にある寺社は、国や教団からの支援だけでは厳しいと仄聞します。
 文化財に指定されているとか居ないとかは関係ありません。これは「信仰」の問題ですから、自分が支援したいと思う寺社に投じれば良いです。国や自治体が指定していなくても、それは「文化財」です。

 私たちは神域という特別な環境へ立ち入ることで、既に「清々しい神仏の息吹に癒され」また「貴重な文化財を鑑賞できる」といった体感的利益を得ている。
 あるいは「過去の利他から未来の利他へ、文化の継承に寄与する」といったことを意識してみると、祈願の成就といった自利的・現世利益的な執着が薄れ、素直な感謝の念が芽生えてくる。
 そんな心持ちで賽銭箱の前に立つとき、あなたと神仏は感応道交できるのだと思う――。
 参考になれば幸いです。

 
 
 
【参考文献】
下中彌三郎編『神道大辭典 第一巻』(平凡社/昭和12年初版)
薗田稔・橋本政宣編『神道史大辞典』(吉川弘文館/2004)
中村元・福永光司・田村芳朗・今野達・末木文美士編『岩波仏教辞典』(岩波書店/二版)
林大監修/尚学図書編『現代漢語例解辞典』(小学館/1992)

付記
サムネイル画像に使用した写真は国立歴史民俗博物館にて2016年に筆者が撮影した。
記事内の賽銭箱の写真は鳩ヶ谷氷川神社で2022年に筆者が撮影した。
そのほかは素材提供サイトからの利用である。