【雨降る霊山】大山阿夫利神社(下社)【Kanagawa-Wandelinger第3話】

参拝の記録・記憶

神社までの道のり

 石倉橋停留所からバスに乗り終点で降りると、観光案内所で手書きの観光地図をもらった。
 その地図によればこの辺りには七不思議や妖怪スポットがかなりあるらしい。

 梅雨の夕暮れ時、岩場の清水が湧き出ているところに時々小豆を洗う婆が出没し子供を喰うという。
 奇しくも今ごろの時期だ…。
 その宝寿坊跡から少し下った処にも廃寺跡があり、そこでも十二月の八日に一ツ目小僧が現れて子供を喰うそうで、家の門前にザルを下げて魔除けにする云々と書かれてある。(『大山パワースポット案内』)
 「同じ地区の廃寺」「子供を喰う」という点が共通する興味深い怪異である。

 

 

 稲荷の小社や旅館、土産物屋が軒を連ねる参道を歩いていると、注連縄が掛けられた奇妙なオブジェがあった。

 

「大津屋は明治五年からこの参道で山に自生するキャラブキなど野の草実を、この竈に大鍋をかけ薪で煮炊きし、阿夫利神社に詣でる講中の人たちにお売りしてきました。現在も店の裏の仕事場で昔通りの鉄の大鍋を竈にかけ昔ながらに佃煮を作っております。この竈は当時のものを復元したものです。」

 京都でも金平糖作ってた釜が老舗の店に展示されてたりするそうなので、道具と伴に生きてきた・歩んできた歴史を尊重してるってのが伝わってくる。道具は無機物だけど、それが無いと作ることはできないし、無機物の道具を大事にするのなら、素材や人間も大事にするだろうということは容易に想像できる。「お客様は神さま」というのは本来こうした精神の延長に位置されるものだろう。つまり、作り手が意識することであって、客の側が主張してふんぞり返ることではないのだ。

 

 

 ハチミツを探すクマのように土産物屋をのそのそ覗いていると、ピンクボディに青い帽子をかむって目をぴえぴえさせたかあいらしいものと目が合った。それをじいーっと見つめて居ると、目聡い店主が声を掛けてきた。
「くるりん」
「くるりん?」
「伊勢原のね、ぬいぐるみ」
 なるほど、いわゆるご当地のゆるキャラというやつらしい。ぬいぐるみの他にもバッヂやらキーホルダーやらが並べてある。伊勢原という町をもっと知ってほしい、記憶に残してほしいという意志を、市と土産物屋とが共有してるんだなと感じる。
 私の様な者に声を掛けてくれたのもうれしくて、「還りに寄らせていただきます」と会釈してまた坂道を登り始めた。
 「いってらっしゃい」という言葉を掛けられるのは何十年ぶりだろうか――、などと思う間に大山ケーブル駅へ到着した。十五分ほどの道のりであった。

 一般的な鉄道の駅と大きく異なっているのは、ホームが階段状になっていることである。
 そのホームの先はすぐ森で、小さく穿たれたトンネルの奥に急勾配に敷かれたレイルがカーブしながら延びている。
 やがてその穴から黄緑色の車両がぬーっと現れた様は、どことなく大蛇を思わせた。大蛇といっても荒ぶる神ではなく、おとなしくてデフォルメされた大蛇である。大山の神が麓まで来た参拝者のためにわざわざ神使をお寄越しあそばされたという感じである。

 

 

 デフォルメ大蛇号から降りると、そこは視界の境目が曖昧な異界であった。結界の内へふと迷い込んでしまったかのように、いつの間にかじめじめとした白いもやに包まれている。ケーブルカーが通り、道は舗装され、街頭が灯る。それでも森の息吹がある。それは人と森が共生している証左だろう。

 

 

 

 

大山阿夫利神社(下社)

御祭神:大山祇大神、大雷神、高龗神
本社は海抜1252mの山頂にある。下社の拝殿は700mに位置する。
神仏習合時代には石尊大権現とも称せられた。
安政元年十二月晦日と翌年正月二日の山火事で堂塔は烏有に帰した。
明治三十三年、下社の造営事業が着手されたが、諸般の事情から本殿のみが再建された。
昭和四十八年、拝殿再建事業に着手し、昭和五十二年に竣工した。
(参考:境内案内板)

 

大山祇大神は三嶋大社の祭神として知られる国津神系の山神。
大雷神はイザナミの遺骸に生じた八雷神の一柱。
高龗神は高所の龍神。
 『日本書紀』(第五段一書第七)では斬り殺されたカグツチから順に雷神、大山祇神、高龗が生じており、この記述に基づいた信仰として注目される。

 


 参道中央に社殿と相対峙して蛙の像がある。
 ふと諏訪信仰のことを思い出したが、果して関連があるのか否かわからない。
(蛙を捧げる蛙狩神事をさす。但し諏訪の神は出雲系であり、龍よりも蛇の属性が強く、ここの祭神とも直接繋がらず関連は無いか)

 


振り返る狛犬

日本三大獅子山・板東三獅子

 

 古来より庶民信仰の霊山として仰がれた大山、その信仰は関八州一郡十一県に及んだ。
 江戸時代には村々あるいは職域ごとに大山講が組織され、大山詣りが隆盛となり、太刀や狛犬、灯籠などが競って奉納された。
 その中には名工による獅子像もあり、石組みし獅子山として神域に築山され、「三大獅子山」「板東三獅子」と称えられていたが、明治期の災害や大正十二年の関東大震災の山津波でその多くが損壊流失した。
 平成二十四年、皇太子殿下大山御登拝の行啓を奉祝記念し築山建立した。
 再建にあたっては古画図や資料を参考に、獅子は真鶴産の本小松石を使い愛知県岡崎の石工による伝統の手彫り技法で作成し、土台となる山は富士山石を組上げ、空輸で境内へ移送した。(境内案内板)

 「あふり」の由来は、大山が常に雲や霧を生じ雨を降らすところからとされる。
 国御嶽、神の山として崇められ、水の神、山の神、また海上からは羅針盤となることから海洋の守り神、更に大漁の神としての信仰を集めた。
 山頂からは縄文時代の土器片が多数出土している。延喜式内社

[EN]Ohyama is also called Mt.Afuri(Mt.Rainfall),because it always brings much rain with fog and cloud. Ohyama,1251 meters high.and its beautiful appearance is one of the most magnificent in the Kanto plains.
Afuri shrine has been the religious center of people living around it from ancient times and worshipped as Mt.Kunimi(the mountain which guards the country), People respected the shrine as the god ruling over the mountains and the sea, to whom they prayed for mountain products, the safety of their voyages and a successful catch of fish.
Many pieces of earthen vessels of the Jomon period(about 1,000 B.C.) were found near the mountain-top.
When the samurai class administered the affairs of the state, many shoguns respected the shrine as the god of fortune and prayed for good luck in war.
Many traditional events are observed now just as they were in ancient time.
The mountain covered all over with green or red leaves looks divinely beautiful at all seasons and we can enjoy a splendid view from its top.
(「伊勢原ライオンズクラブ設置案内板」より抜萃)

 


神仏習合時代の名残か、護摩木をくべる場が設けられている。

 

Cパート


伊勢原駅前「龍神通り」

 

後日譚(怪現象)
 地図・記憶・写真を照らし合わせながら記事を構成していたが、妖怪スポットの宝寿坊跡の写真がいくら探しても見つからない。実に不思議である。。[完]