日本龍蛇神回向の旅02 奈良県「大神神社」

参拝の記録・記憶

 次の目的地は大神神社だ。しかし遅延が生じたのでどうするかしばらく悩んだ末、安倍文殊院を飛ばすことにした。
 移動中には何度か雲龍たちが併走してくれた。秋晴れの空の下、源氣に下校する制服を着た小学生も見かける。奈良にはまだ制服の学校が残っているのだと懐かしい思いがこみ上げる。
 大神神社の祭神は大物主大神おおものぬしのおおかみで、大己貴神と少彦名神も配祀されて居る。このうち大物主大神は龍蛇神的属性をもっている。個人的に好きなのは次の逸話だ。

大物主大神の龍蛇神的属性
 孝霊天皇の皇女で未来予知能力のある倭迹迹日百襲姫命(やまと-ととひ-ももそ-ひめ)は大物主大神の妻となった。ところが大神は夜にだけ現れるので顔がよく見えない。倭迹迹姫は夫に顔が見たいと告げる。神は「それなら明日の朝、櫛筥の中に入って居るよ。その代わり、決して驚いてはいけないよ」と答える。姫は不思議に思いつつも約束し、夜が明けると櫛筥を開けてみた。そこには衣の紐のような麗しい小蛇こおろちが這入って居た。姫は驚いて叫んだ。すると小蛇は人の姿に成って「あれほど驚くなと言っておいたのに。見たいと言うから見せたのに。契りを交わした夫をそんな目顔で見遣るとは、ああ口惜しい。汝も思い知れ」と宣うと、虚空をふみふみ三諸山みもろやまへ去っていった。姫は空を見上げて悔やんだが、去りゆく神鳴りに絶望しその場に倒れ込むと、箸で女陰を突いて身罷みまかった。彼女が埋葬された墓を人びとは「箸の墓」と呼んだ――。(『日本書紀』巻第五崇神天皇 十年九月より意訳)

神話を解釈する
 このような譚を解釈する上で一つ気を付けておきたいことは、カミ(神霊)は本来不可視の存在だということである。古来、御神体といえば岩や巨木であり、またそれらが複合された杜であり山であった。そこへ鏡や刀剣といったモノが持込まれるが、これらは人格神と結びついた御神体であり、祭られる者の所持品(形見・形代)でもある。そして祭祀者が管理するという点で神体との一体化が図られる。それは神体である鏡に自身の顔が映ることでより象徴化される。
 こういった点を踏まえれば、大神が人の姿にも成れるのに何故敢えて小蛇の姿を見せたのかが朧に観えてくる。姫は霊能力のある巫女でもあったが、それは自身の身体にカミを降ろして神託を得る(語る)という霊媒形式である。それが婚姻によって肉体としても一体化するようになった。ところが、そのカミに対し疑いの念を懐いた。本来、神託をありのまま告げる媒介者に過ぎない存在でありながら、同床による一体化の過程に違和感をもつようになった。

 「顔」は表情を司る部位である。それが見えないということは、真意が分からないということでもある。この疑念は姫が後悔したという点から、霊能力の低下が原因のものと推定できる。
 こうした疑念や霊力の低下は、カミとの一体化に支障を来す。それが姫の目を通した「麗しい小蛇」という姿である。不信や自己の欲望といったモノが、そのまま投影された姿である。夫の姿が衣の紐のような美しい蛇というのは男根の暗喩である。カミとの同床による一体化に関して姫は不満を漏らしカミへ要望を出した。カミは条件付きでそれを叶える。しかし突き付けられたカミの姿は、自分が相手(夫)をどう観ているかを如実に物語るメッセージでもあった。姫は自分の霊能力が堕したこと、カミとの繋がりを喪ったことを覚って、欲望に惑った身体の部分を突いた。

 本来、カミと巫女(御子)の結婚は供犠としての命を糧にカミの霊力を高める(安定させ鎮める)ことに本義があった。しかし巫女(御子)の側の疑念・拒絶は往々にしてカミを惡神・荒神と貶めてその関係性を破綻させる。典型的なのは八岐大蛇を淵源とする人身御供譚である。
 しかるに、この逸話では外部からのカミ殺しは為されず、巫女(御子)の犠牲という形で儀礼が破綻しているのが特徴的である。そこから言えるのは、記紀編纂時点において既に大物主信仰が確固たる位置を占めて居たということであろう。また大物主大神が大己貴命の和魂であるという点もカミ殺しを成立させない要素と言えよう。

大神神社到着
 さて、巨大な一ノ鳥居を潜ると、すぐに車を停めた。もっと近くまで行けるようだが、なるべく自分の足で歩きながら土地の気配を感じたいという思いがあった。
 御神体が山というのもその思いに拍車を掛ける。町並や道路は変わっても、大地からその山を仰ぐ景色は不変である。そしてまたそれ故にか、社前町もひっそりとして参拝客相手の店や宿も意外なほどに少ない。必要以上に視界を遮るのを遠慮しているかのようだ。

 

 
 一ノ鳥居から二ノ鳥居までの道は一部工事中であった。
 私が比較的大きな寺社を参拝する時、何かしら工事中であることが多い。
 東京での記憶を辿ってみても――氣多大社(拝殿)、穴守稲荷(拝殿・境内)、静岡浅間神社(楼門)、豪徳寺(招福殿)。ここ半年ほども、出雲大社(一鳥居)、嚴島神社(大鳥居)、三瀧寺(多宝塔)、広島東照宮(本地堂)といった具合だ。それは鳥居だったり社殿だったりとまちまちではあるのだが、それだけ社寺建築は修繕を必要としている証左なのかもしれない。
 ただ今回の大神神社の工事箇所は一応表参道に該当するが、車道(県道)である。

 二ノ鳥居から先は両翼に木立が茂り、小砂利を敷いた参道が一直線に伸びている。狛犬は居ない。
 木洩れ日の落ちる参道を二分ほど歩くと、祓戸はらえどの社があった。
 参拝し魂の穢れを祓う。続いて手水舎で身の穢れを濯ぐ。大神神社らしく口から水を吐き出しているのは龍ではなく蛇だ。
 短い石段を上がる。太い素木しらきの丸柱が左右に立ち、絡み合った大蛇のような注連縄がゆったりと掛けてある。この形式が鳥居の原初の姿と言われる。

 

 
 石畳の先に大きな拝殿があった。奥行きがあるせいか、中央の空間は暗闇に包まれていて灯籠の火だけが四つぼんやりと浮んでいる。上の方には、ぴんと張られた注連縄と紋の入った白地の布が暖簾のようにあり、中の様子を一層暗くしている。
 一方、屋根の千鳥破風ちどりはふには金色の装飾があり、そこへ西日が当って光り輝いている。背後には山の一部、杜の片鱗が覗いて居るが、予想に反して空が広い。
 本殿を持たず拝殿から直接御神体である山を拝むと聞いていたので、迫り来るように山がそびえて居る様子を想像していたがそんな感じはなかった。
 むしろ境内は広く拓かれて、それでいてなお自然の清々しさも感じられる。
 地図で見ると拝殿は山頂から見て南西にあるが、西向きに建てられている。同時に、多くの神社が南向きや東向きであるのと比べて、歴史の奥に横たわる物悲しさを覚える。

 境内の一角に、神垣を廻らした神木「神杉かみすぎ」がある。午后三時四分。境内を囲む杜から射し込んだ陽光が、神杉に巻き付く金色の大蛇の如く観える。その光の大蛇はまるで境内を這うようにして拝殿の入口へと伸びている。なんという神々しい御気色であろう。
 

 そうしてまた思い知る。当初の計画通りに行動していたら、果してこの光景を観ることができただろうかと。
 昔からこういうことは何度かあった。朝、探し物が見つからずようやく見つけて出発すると忘れ物に気づく。まだ近いので仕方なく引き返し再出発。途中で寄っていくと決めていたコンビニまで来ると、車が突っ込んで入口の横の辺りが大破している。救急車のサイレンが遠く聞こえてくる――。
 あるいはまた、出かける仕度をしようとすると異様な眠気に襲われる。どうにもだるくて外へ出る気が失せる。そうこうするうち乗る予定の電車に間に合わなくなる。ようやく仕度が調い、再び電車の時刻を調べると、遅延が発生している――。

 今回も、初めての土地とはいえ、ナヴィがあって一時間以上遅れるのは尋常じゃないだろう。
 もし予定通りだったなら昼過ぎの参拝になっていたし、大神神社の参拝を明日に変更していたら、やはりこの気色は観られなかったに違いない。

大神神社の概要と由緒

読み:おおみわ-じんじゃ
祭神:大物主大神(倭大物主櫛みか玉命)
配祀神:大己貴神、少彦名神
(御神徳:産業興隆。また医薬、酒造、方除け[除災]の神)
鎮座地:奈良県桜井市三輪
(最寄り駅:JR三輪駅)
駐車場:あり(8:30-17:00)
例祭:春4/9、秋10/24

【由緒】
 磯城郡三輪町の三諸山(現桜井市三輪の三輪山)に鎮座。倭大物主櫛みか玉命(大物主神)を祀る。このカミは大己貴神の和魂(幸魂・奇魂)である。
 豊葦原中洲を経営した大己貴神は自らその幸魂・奇魂(=和魂)を倭の青垣東山上に齋き奉る。これが御諸山(三諸山、三輪山、三室山ともいう)に鎮座の本社であり、三輪明神とも称される。(『日本書紀』第八段一書第六)
 『延喜式』には大神大物主神社と記載せらる。

 崇神天皇の御代、神誨によって神孫大田田根子を神主となし、吉足日命に齋き祀らしめられたので、神気(疫病)鎮まり天下泰平となる。[崇神天皇と大物主大神の逸話
 嘉祥三年(850)正三位、貞観元年(859)正一位を賜う。

 また平安・中世期に朝廷より殊遇を受けた二十二の社のうち、初期メンバー十六社に含まれており、朝廷成立期(上代)から崇敬されていたと看做される。
 鎌倉期には真言密教や伊勢信仰と習合した三輪流神道を創始している。

 御神体は三輪山であるため本殿を設けず、拝殿と霊山の間の「三ツ鳥居(三輪鳥居)」と称する特異な鳥居から礼拝する。
 本社はまた酒神とも称され、造酒家の尊信が篤いことでも知られる。杉の葉を用いた商標は当社の神木に由来する。
 式内社、旧官幣大社、大和国一ノ宮

 三輪山は標高467メートル。国の史跡に指定。
 明神鳥居を三基組み合わせた独特の「三ツ鳥居」は国指定重要文化財。
 現在の拝殿は寛文四年(1664)に四代徳川家綱が再建したもので国の重文に指定。
(以上、『神道大辭典』と境内掲示板を基に作成)

 
 
三輪鳥居拝観できず
 神体山は拝殿奥の「三ツ鳥居」から礼拝できるそうだが、疫病対策のためか拝観中止となっていた。(三輪山への登拝も休止中。2023年3月時点でも再開されてない)
 これは工事とは異なるが、やはり時機が悪いというべきか。疫病を司った大物主大神の逸話を踏まえれば不可思議な処置とも思えるが、祭祀者の決定である以上従わざるを得ない。


 おみくじもモニターの前で手を振るという非接触型のハイテク機器が導入されている。
 ところが御朱印は書き置きではなく、神職が直筆で対応されていた。

 境内(二ノ鳥居)を出て駐車場へ向う。一の鳥居がずっと先に小さく見える。上空は風がやや強く、巨大な雲塊が生じて居る。
 その雲々は三輪山のすぐ上の辺りから北回りで旋回するように連なり、私の真上に来ているかのようだ。横長に沸き立つ真っ白な雲とやや黒いはぐれ雲の陰影は、とてつもなく巨大な生物の身体の一部を髣髴とさせる。
 それは凄まじい雲気だった。太古の神の雲龍となりて飛翔し、その天空を震わす音を聴くかのようだ。
 大きく有名な神社でありながら、境内を出てもしばらくその余韻に浸ることができる。それが可能であるところも大神神社の魅力と言えよう。

 
 
配祀とは

主祭神と深い関係があって同じ社殿に祀られること。相殿ともいう。

和魂とは

神霊の作用を大別したうちの一つで、和平・仁慈の徳性的作用を指す。
(和魂の対になるのは荒魂で勇猛・進取の作用を指す)
幸魂・奇魂はこの和魂に含まれ(幸福・珍奇)、静止的・調節的・通常的を特徴とする。
神霊は荒・和の両面をその神格中に統一して宿すが、時に応じてこれを分離し一面となって作用する、という一種の神霊観でもある。
大神神社はその端的な例である。少彦名命を喪った大己貴命の前に、海中から浮かび上がってきた光り輝くモノは告げる。「吾は汝の幸魂・奇魂である」と。その和魂を大物主大神と名付け三諸山に祭った。荒魂は山の麓、登拝口の近くに狭井神社として祭った。(参考『神道大辭典』三巻・七四頁)

『古事記』(中巻 崇神天皇の条)

「此天皇の御代に、役病多た起りて、人民尽きむと為き。爾くして、天皇の愁へ歎きて神牀に坐しし夜に、大物主大神、御夢に顕れて曰ひしく、「是は、我が御心ぞ。故、意富多々泥古を以て、我が前を祭らしめば、神の気、起らず、国も、亦、安らけく平らけくあらむ」といひき。」
 天皇はあちこちに使いを出して意富多々泥古を探させた。すると、河内の美努村(現大阪府八尾市上之島町の辺り)でまさにその名の人が見つかった。
御前に連れてこられた彼に天皇が素性を問うと、意富多々泥古は、大物主大神の子孫ですと答える。そこで夢告の通り、彼を祭主と為して御諸山に意富美和之大神を祭らせた。(参考『新編日本古典文学全集古事記』一八三―一八五頁)