ナヴィが下手なのか大阪の都市高速の表示が紛らわしいのか、とにかく大阪に入ってから迷いまくってようやく最初の目的地・龍田大社に到着したのは、当初の予定より一時間以上遅い十三時二十五分だった。
この龍田大社は「龍」の字を冠して居るが、龍神を祀って居るわけではない。祀るのは風のカミである。
では何故ここに来たのかであるが、実は末社に白龍神社があり、こちらに白龍大神が祀られて居る。
手水の流れる音に時折り小鳥の声が混ざる。束の間、遙か上空を航空機の轟音が響き渡っていく。見上げた青空に形の良い雲が立上がりつつあるのが見えた。雲気は悪くない。
境内には七五三らしい晴れ姿の幼女とその親族らの声。
東向きに建てられた龍田大社の拝殿には向拝柱の部分にも注連縄が螺旋状に巻き付けてあった。本社の祭神は龍蛇とまったく関係が無いはずだが、龍蛇を思わせる不思議な意匠である。
祭神と関係が無くとも龍の彫刻が施されることは珍しくないが、注連縄で暗示的に見せるのは稀である。注連縄自体が交接する蛇の象徴という説もあるようだが、これはむしろ注連縄そのものが巻き付けてあり、昇り龍・降り龍の表現に近い。よく観れば拝殿の柱というより、鳥居の形が前面に浮き出て半ば一体化している。
龍田大社拝殿
小砂利を踏み鳴らしながら社殿の西側へ行く。色づいた紅葉と色とりどりの鉢植えの花が彩る参道を独り進む。
ひとけは絶え、幟旗の竿が風に軋む音だけが幽かにする。
江戸末期に龍田大社の神域に白蛇として出現
明治後期一夜にしてその姿が見えず騒然とする。
明治四十一年春、突如大和国葛城郡のにごり池に白龍として出現したという報を受けて当時の薮宮司、神官、地元氏子が辛櫃にてこの地までお迎えし祀った。
後に龍田大明神の神使として、縁結び、淨難、災難除け、安産の祈願で崇敬されている。
初辰祭:二月初辰の日
(境内案内板)
この由緒では詳らかではないが、神域に現れた白蛇を飼育して居たのであろうか。
江戸末期を仮に1850-60年として、その白蛇は四五十年後に突然居なくなったが、明治四十一年に今度は白龍として現れる。その場所はこれも詳細不明だが、葛城山の麓辺りだろうか。ちょうど南に20kmくらいの「にごり池」で顕現したようだ。
その白龍を辛櫃で運んだという。辛櫃は脚と上蓋のある収納筥だ。これは神霊よりも神体の移動を想起させる。また白蛇から白龍に変化しているが、それがすぐに龍田の白蛇だと判明したのも不思議である。
甲高い鳥の声と拍手の乾いた音が届いた。それは今聞こえるものなのか、それとも遙か遠い昔に染み込んだ木霊なのか。そんなことを思いつつ、小さな朱色の鳥居が並ぶ参道を吸い込まれるように進む。
賽銭箱の更に奥、木洩れ日の落ちる林の中に、注連縄の掛かった黒っぽい岩があった。石畳を踏んで近付いてみる。
雰囲気は良く、そよ風が心地よい――。水気を感じる――。水の粒子が螺旋になって柱のように立ち昇る、そんな水気を。
そこは石垣が取り囲む小さな池のようにもみえるが、垣内に水は溜まっておらず黒々としている。
その中央に所々黒ずんだ手水鉢のような岩と三つの柄杓があり、更に石碑のような黒っぽい岩が立ててある。
立て岩に掛けられた注連縄も黒ずんでいるが、正面に二本の真っ白な布が結び垂らされて居るのがあざやかだ。その長細い白布の手前に手水龍が二体居る。龍の口から出る水は手水鉢の中に流れ落ち、満々と湛えられて居る。
どうやらこの注連縄の掛かった岩が御神体のようである。よく観ると、黒っぽい岩の表面に二頭の龍の姿が浮んでいるように観える。そばの立て札には「白龍大神様はたいへんお水を好まれます。御石にお水をおかけ下さい」とある。なるほど、この黒ずみは長年水を浴びてきたことによる変化のようだ。
失礼して柄杓をとると、水を掬って……掛けようと思ったのだが、岩まで手が届かない。環状列石のように御神体を取り囲む石(恐らく結界にもなっている)を越えるのは憚られるし、立て札より奥へ行くのもまずかろう(奥は苔と木立が広がっていて所々に小さな結界がある)。
仕方が無いのでぶっかけるように水を撒く。三瀧寺の水掛地蔵も上の方はぶっかける感じになるし、白龍大神は「たいへんお水を好まれます」というぐらいだから、たぶん大丈夫であろう。
用意しておいた特別な経文を読もうとしたところで背後に人の気配がした。話し声からすると初老の夫婦が本社をお参りした後にふらふらと迷い込んできた、といった感じである。それでも場を占拠するのは忍びないので(読んでいると恐らくこの夫婦は賽銭箱の処で引き返すだろう)、白龍神に申し訳なく思いつつ題目三唱の回向とさせて頂いた。
参拝後、ふと感じるものありて振り向くと、大きな雲龍が顕れて居た。
(最寄り駅:JR大和路線/三郷駅)
駐車場:あり
手水龍(龍田大社)
狛犬(龍田大社)