Kanagawa-Wandelinger第1話【厚木の星降り伝説】

参拝の記録・記憶

 七月半ばの東京は曇っていた。梅雨が明けきらず、路面の端が乾き切る前にまた少し雨が降る――、そんな日が何日も続いていた。
 適当な朝食を済ませると布団だけ上げて少し掃除をする。天気予報を見て今日も洗濯ができそうにないなと溜息を零す。
 折りたたみの傘をリュックに刺すと、洗濯物の溜まった部屋を後にした。

 新宿駅から普段はあまり使うことのない小田急線の改札を抜ける。急行と快速急行の違いを確認したり乗り場を把握するのに手間取って焦ったが、何とか小田原行の電車に乗ることができた。

 小田急小田原線・本厚木駅へは五十分余りで到着した。
 ここからバスに乗り換えて金田地区へ向うのだが、バスの便数が少ないので「金田神社」を通るバスに乗り、金田神社から「金田」まで歩くことにした。

 金田神社前停留所は見通しの良い国道沿いにあった。そこで降りたのは、さすらいだけであった。
 天気のせいか、町の雰囲気はどこかさすらいに東大阪を思い出させた。国道を行き交う大型車の排気ガスを嗅ぎながら、あばら骨の浮いた犬に弁当の肉を投げてやったあの町の空は、記憶の中でいつも決まって降り出しそうな空模様だった。

 リュックを背負うと、気を取り直して南へ向った。
 金田神社は特に目的地ではなかったが、自然と足は留まった。所々に緑の入り混じった土の境内に石畳みが延びている。その中ほどに苔むした鳥居が立ち、小さな石垣に乗った狛犬が銀杏を背にしてこちらを見て居た。
 鳥居の向こうには二十段ばかりの石段があって、屋根に千木ちぎ鰹木かつおぎの乗った横長の社殿が、青々と茂った梢の間に覗いている。
 良さげなのでお参りしていくことにする。

 

金田神社
最寄り停留所:金田神社前

 仁治二年(1241)、地頭本間重連ほんましげつら公が御家人杉山将監弘政に命じ建立。
 祭神は豊玉姫命。旧称は船来田明神ふなきたみょうじん
 金田村の鎮守。
 別当は神禅寺(慶応四年廃寺)
 末社は秋葉社、稲荷社、天満宮が『新編相模国風土記稿』に記されるが、現在は秋葉社、天神社、金比羅社、御嶽社が祀られている(金比羅・御嶽は相殿)。
 御嶽社は古くは村の鎮守であったが、明治初年に合祀。
 明治七年に船来田明神社から現社号へ改称。
 本殿は明和七年(1770)建立。入母屋造り。(「あつぎの文化財獨案内板」)

 

 


狛犬(昭和五年奉納)

 

 


拝殿蟇股(不思議な霊獣)

 


天神社の祠と庚申塔

 

 

 金田神社から五分ほど南へ下ると、日蓮星降ほしくだりの霊場・妙純寺がある。
 「日蓮星降り」とは、日蓮伝の逸話の一つで、この辺りの地名にちなんで「依智えち星下り」と呼ばれることが多い。(詳細は後述する)

 参道の入口には唐破風からはふと丸瓦の付いた漆黒の鳥居があり、その左右に合掌して正座する本間重連と、同じく合掌して直立する日蓮とが居た。思わず手を合わせてこうべを垂れた。

妙純寺

読み方:みょうじゅんじ
所在地:神奈川県厚木市金田295
最寄り停留所:金田
宗派:日蓮宗(霊跡本山)
ご首題:あり

 ここの日蓮像は彫りが深い。目が大きく、口角はやや下がり気味で、キリッとしつつも気難しげな印象を受ける。「月天子がってんしいさめた」という事蹟によく似合った表現であろう。

 掃き清められた参道の両脇には、手入れされた低木と高木が立ち並ぶ。
 今から七百五十年ほど昔、幕府によって捕えられ、頸の座(処刑場)にまで据えられた日蓮はどんな思いでこの地を歩いたのだろうか。

 


日蓮像(平成四年・立教開宗740年記念)

 


題目碑と本間重連像

 


唐破風の付いた鳥居

 

【由緒】
 当山は明星山妙純寺と号し、日蓮宗旧四十四ヶ本山の一つ(現在は四十八本山体制)。
 日蓮伝の逸話で有名な「星下りの奇瑞」の舞台とされる。

星下りの奇瑞
 文永八年(1271)九月十三日、佐渡への配流はいるが決まった日蓮は依智鄕の本間六郎左衛門尉さえもんのじょう重連の館へ護送された。
 重連は佐渡の領主北條宣時のぶとき大仏おさらぎ宣時)の家臣で守護代を務める地頭であったが、当時は任地にあり代官の右馬うめ太郎が身柄を預かった。
 その夜、日蓮は庭へ出るとしばらくお経を読んでから月天子がってんし(月を神格化した仏教表現)に「法華経の行者を守護すると誓っておきながら澄まし顔をしているとはどういう了簡か」などと大声でいさめると、明星の如き大星が下って梅の木に引っ掛かったので、警固の侍たちは皆慌てふためいて地面にひれ伏したり屋敷の裏手へ逃げたりした。その後間もなく天候が大荒れになった――、と伝えられる。
 また前日の片瀬龍口たつのくちでの処刑が光物の出現で中止されたことと合せて、帰依する者が続出したという。

 この逸話は『種種御振舞御書しゅじゅおふるまいごしょ』という日蓮の遺文に記載されているので、信憑性はかなり高い事蹟とされている。
 また任地の佐渡で日蓮を迎えた重連は、当初日蓮を蔑視していたが、文永九年(1272)に日蓮から受けた予言が的中したことで帰依者となっている。重連の上司である北條宣時は日蓮を敵視して居たので(佐渡配流中に偽の御教書みぎょうしょ(命令書)を出して日蓮を亡き者にしようと画策した)、その上司の崇拝する僧侶・宗派を無視して館まで法華の寺にしていることからも、予言的中は重連にとって相当な「回心」的宗教体験だったことが窺える。

 『新編相模国風土記稿』は寺の開基年を文永十一年(1274)または建治二年(1276)とするが、元弘元年(1331)とする説もある(『星下略縁起』)
 ちなみに文永十一年は日蓮が赦免された年に当たり、建治二年は既に甲斐の身延山へ隠棲している時期である。元弘元年は日蓮滅後五十年に当る。

 妙純寺はしばしば火災に見舞われ、近年でも庫裡、書院等が焼失し記録文書が失われたそうで(『妙純寺縁起』)、既に幕末の時点で星降りの霊場は四箇所が知られていた(うち一箇寺は廃寺)。
(今回は諸事情により霊跡本山指定を受けている妙純寺だけを参拝した)

 現本堂は平成八年に建立。
 初代板東彦三郎(歌舞伎役者)が日蓮の450遠忌おんき(享保十六年・1731)に寄進した題目碑がある。(参考「あつぎの文化財獨案内板」)

 


星井戸

 


流星殿木鼻

 


祖師堂蟇股

 


祖師堂木鼻

 

 

 鎌倉で日蓮が捕縛連行された時、弟子達も捕まって土牢つちろうに入れられていた。
 処刑こそ免れた日蓮だったが、この時代、佐渡ヘの流罪は死を意味していた。
 依智の本間邸で一月余り拘留された日蓮は、佐渡へ経つ前日、土牢の弟子たち宛に遺書代わりの手紙を出している。

「牢を出られたら、会いに来てください。どれだけ経ってもあなたを見つけます。必ず再会しましょう」

 

(第一話終り)

(次回、伊勢原市へ)