尾長天満宮摂社(龍神社と水神社)の謎【Hiroshima-Wandelinger10】

参拝の記録・記憶

 JR広島駅の北側にある二葉山の麓に、十程度の寺社が点在する。そのうちの七つが「七福神」として連携、独自の御朱印を出すなどして参拝者を集めている。
 特に人が多いのは鶴羽根神社で、正月三が日などには境内の半分くらいまで参拝待ちの列ができるほどであるが、人が集まる理由は至極単純で、「駅から最も近い平地にある」からである。
 私はむしろ眺めや雰囲気の良いところのほうが好きなので(ついでに付け加えると、お参りする時に後ろに人が居るのも苦手)、坂道や長い石段の上にあって人が多すぎない神社まで脚を伸ばしている。
 広島に居た頃、初詣や梅の咲く時分によく立ち寄った尾長天満宮も、そんな山裾の小高い丘に建つ神社である。

鎮座地:広島市東区山根町33-16
最寄り駅:JR広島駅(北口/新幹線口)
改札を出て北口正面に伸びる陸橋を渡り、道なり(歩道に出て左。山が見える方角)に進む。病院を越えて信号交差点を直進。右手の三角公園を過ぎて左折。やや勾配のある坂道の突き当たりに鳥居が見える。表参道は急な石段あり。
御朱印:あり(書き置き。尾長天満宮のもの)
駐車場:あり(少数)

水神社

【祭神】
天之水分神《ame-no-mikumari》
[国之水分神](現地記載なし)
水波能売神《miduhanome》
鳴雷神《naru-ikaduchi》
[闇淤賀美神]《kura-okami》(現地記載なし)
[高淤賀美神]《taka-okami》(現地記載なし)

 去年参拝した時は案内板がボロボロで見苦しかったけど、今年は新調されてたので良かった。
 しかしその案内板には天之水分神、水波能売神、鳴雷神の三神しか記載されていない(文面は去年と同じだった)。代わりに『廣島縣神社誌』では見られなかった「龍神社」が存在するのだが、そちらに新設された案内板にも未記載の三神の名は見られない。。(詳しくは後述)

【由緒】
 菅原道眞[Sugawara Michizane]公が山に登った際、峰の社に参拝し水を乞う。谷に入ると清水があり随意泉と名づけた。
 当地に水神を勧請。以後祈雨の社として崇敬される。
 大正十五年九月、瑞泉谷の崩落により社殿大破。
 敗戦後、天満宮付近に再建。
 平成13年(2001), 社殿再建。
 尾長天満宮・境内末社

 この由緒も最初の伝承(1段落目)から水神勧請(2段落目)につながる流れがよく解らない。
 文意(行間)を補って読み解くに二通りの解釈が可能である。山中に「峰の社」と称される何らかの社があったことは確かで、そこから水神を麓に勧請したという説が一つ。もうひとつは、「峰の社」とは別のところから水神を勧請し、「峰の社」へ合祀したという説。
 「伝承→勧請」の構造的パターンとしては豊浜の貴布禰神社と類似する。
 また東区の清水谷神社にも、偉人が船を横付けして水を求めて山に登り,清水を得て神を勧請するといった伝承が見られ注目される。

水神社の謎


 この画図(社頭案内板掲載)によれば、水神社はかつて本社よりも奥の最も高い土地に建っていたことが了解される。そして境内地ごと喪失している!
 なぜ放棄されたのか。そして国之水分神と二柱の龍神はなぜ今記載されないのか。
 神域の消失と消えた龍神。祭神表記減少についての大きな謎が残る。


【画図の文章】


『安藝國(安芸国)廣(広)島市 字(あざ) 尾長村 尾長天満宮之真景』(M34/1901)
「当社創立年代ヲ詳(つまびらか)ニセズ。
武田神社録及(および)当神職家旧記ヲ参照スルニ、尾長天満宮ハ、元(も)ト尾長山かんだいじノ峯(みね)ニ在テ、菅大神ノ宮ト称ス。
抑(そもそも)、此(この)峯ヲ菅大臣(かんだいじ)ノ峯ト称セシハ、往昔(おうせき)菅公(=菅原道眞)左遷ノ砌(みぎり)、其舩(そのふね)ヲ当尾長山ニ寄セシ之ヲ祠(まつ)レルモノニシテ、治承年中(1177―1180年)再建ノ棟札(むなふだ)アルモ、文字湮滅(いんめつ)讀(読)ガタシ。
後、承久年中(1219―1222年)、武田左馬頭(さまのかみ)信光、当□(国か)守護職ノ際、明星峯ニ天神宮アリシヲ当社ヘ合祭シ天神宮ト称ス。
右、武田家ノ後、毛利氏之ヲ崇敬ス。
寛永十六年、当□(国か)、時ノ大(太)守(たいしゅ)浅野光晟(みつあきら)公、里近キ瑞泉谷(ずいせんだに)ハ社地開拓。茲(ここ)ニ移ス。即チ現今ノ社地社殿是ナリ。
旧古跡ハ天神トテ今猶(なお)痕跡アリ。而(しか)シテ太守ノ発願(ほつがん)ニ依リ、当社ヲ市内及郡中ノ祈願所ト定メ、春秋二季、藝(芸)備十六群中八百四十七町ヘ神札(しんさつ)神砂ヲ配與(与)セルノ典例ナリシモ、維新後中絶ス。
傳(伝)ニ曰ク、目下ノ社地瑞泉谷ハ、昔時菅公石上ニ水ヲ需(ほっ,もとめ)シテ玉フ。侍臣(じしん)某、谷ニ臨ム。清水アリ。掬(くみ,すくい)シテ公ニ進ム。公喜テ随意泉ナリト口吟(くぎん,こうぎん)セラル。依テ今ノ名ヲ存ス。
随意ナリシヲ瑞ト轉(転)書セシハ、市内ニ辻村某トテ旧キ酒造家アリ。一歳酒悉ク変腐シ飲ム可(べか)ラズ。
主人痛嘆シ当社ニ禱(祷,いの)ル。妙(た)ヘナル哉(かな)一夜ノ靈(霊)夢ニ感ジ、此清水ヲ以(もっ)テナセルニ、酒ノ淳(醇=純)良ニ復ス。昔日ニ倍ス。故ニ恩頼ヲ謝スルニ田地若干ヲ献ジ、亦(また)新(あらた)ニ土壌ヲ建テ、天神藏(蔵)トト云フ。
[此藏今尚存在ス]其酒ヲ天神清水ト云フ。[後略]」

*句読点、改行、濁点、年代は適宜補った。また読者のために一部の正漢字を略字にし、よみかなも附した。

 

 一読して、複数の伝説が継ぎ接ぎされているような印象を受ける。最も重要なのは、明星峯の天神宮(菅大神ノ宮)を「当社」へ合祭して「天神宮」と称したという部分で、合祭以前の「当社」は天神とまったく関係ない神社だった可能性があることである。詳しくは尾長天満宮の項に譲るが、後になぜか四柱程の祭神を山へ戻して「古天神」として分離していたりする。よくあるパターンは、麓の人格神を祀る新造の神社に、高地の産土神(うぶすなのかみ)を遷してその土地の信仰のメインを人格神に変える(一緒に拝ませる)ものである。
(尾長山には「黒神(髪)」「尾長」と呼ばれた大蛇神の伝承もあって、淸盛や元就が崇敬したと言われる)
 また治承年中は平家の時代であり、承久年中以降は源氏の時代である。広島は淸盛とゆかりがあり伝説も多いのだが、その反動か源氏の影響も大きく氏神である八幡社も異様に多い。各社の社歴も鎌倉期から異様に詳細になる傾向があり(そのためそれ以前の伝承との齟齬が目立つ)注意を要する。
 伝説の類型としては、「泉や清水の伝説」が核になっている。「流浪の著名人+湧き水」とも言える。キーワードは「山中の水」である。クラオカミは峡谷の龍であり、タカオカミは高所の龍である。ナルイカヅチは雷神である。淸盛が雷雨に遭って云々といった伝承も踏まえるなら、この峯の産土はこれらの神だった可能性が高い。

 

龍神社


登竜門

【主祭神】
[闇淤賀美神](現地記載なし)
[高淤賀美神](現地記載なし)
大己貴神《oonamuchi》
少彦名命《sukunahikona》
【相殿神?】(荒神社)
奥津日子神《okutsuhiko》
奥津比売神《okutsuhime》
火之迦具土神《hino-kagutsuchi》
【由緒】
不詳。
尾長天満宮・境内末社
『廣島縣神社誌』未掲載社

 

[07]
 去年参拝した時は登竜門は色褪せていたけれど(写真07左)、今年は柱の朱も鮮やかに塗られ(写真07右)、龍は白龍から青龍に変わっていた。
 この龍神社は『廣島縣神社誌』の尾長天満宮の項には記載が無い。
 現地の案内板には「荒神社」が併記されており、恐らく龍神の相殿として祀られている。
 ちなみに社殿は西向きに建っている。


龍神社(兼荒神社)社殿

龍神社の謎

 2024年新設の案内板では祭神が「大己貴神、少彦名命」となっている。『廣島縣神社誌』では尾長天満宮の祭神として大穴牟遅神と少名毘古那神が合祀されている旨記載があるが、この二柱の神を「龍神」として遷座したのだろうか。
 しかし水神社の案内板に闇淤賀美神と高淤賀美神の表記がなく極めて不可解である。
 一般的に龍神といえば淤賀美神を指すから、水神社から遷して龍神社としたのならわかるが、それならわざわざ祭神の表記を変える必要はないだろうし、謎である。
 真の龍神(闇淤賀美神と高淤賀美神)は、今何処に祀られているのだろうか……。

 社殿内部の漢文については、補足2で詳しく述べる。

 

絵馬について
 道眞公をモチーフにした絵馬があるが、この奉納の仕方が独特で、「登竜門」をくぐり、龍神社で祈念したのち、龍神社の傍に絵馬を結ぶというもので、天神信仰と龍神信仰が融合したような形式となっている。

 

尾長天満宮


左手の小祠は御旅所(上まで上がらなくてもここを通じてお参りができる)

【由緒A】(『廣島縣神社誌』)

 菅原道眞公が太宰府左遷時に、尾長山の峯に登り休息したという伝承がある。
 山は菅大臣山(かんだいじ-やま)と呼ばれ、村民が祠を建てたが後に荒廃したともいう。
 淸盛が山中にて暴風雨に遭い、松の樹下で菅原大神を祈念すると雷雨が鎮まったので祠を建て勧請したとの説もある。

 承久年中(1219-1222)、武田信光(安芸国守護)が再建。
 文和年中(1352-1356)、武田直信が大麻天神の祭神六座を合祀し、七柱で天神宮と号した。
 以来、銀山城主武田家の守護神として家臣の串家に祀らせた。
 武田氏滅亡後は毛利元就が渡邊家に奉祭を命じる。
 寛永十七年(1640)藩主浅野長晟の命により、山麓に社殿建立し、大麻天神の祭神六座のうち菅原大神、大穴牟遅神、少名毘古那神を遷座。(松尾甚助忠正の夢告を起因とする伝説もある)
 享保年間(1716-1736), 現在地へ遷座し、こちらを天神宮とし、菅大臣山の方は古天神宮と称した。
 明治5年以降、改称。
 M40、水害により社殿破損
 M42、尾長村の稲荷社を合祀。
 大正十五年、風水害で社殿流失
 昭和十二年、饒津神社の招魂社を移築(→本殿)。
 昭和二十年、原爆により社殿大破
 平成17年(2005), 保存工事(本殿・拝殿・荒神社・随神門)

 「大麻天神の祭神六座」というのが調べてみたがよく判らなかった。香川県に式内社の大麻神社(おおあさ-)というのがあるけれども祭神を見るに恐らく関係はなさそう。
 これに関して尾長天満宮公式サイトに補足的な記述があったので付記しておく。それによると、道眞公が来航する以前、尾長山は明星峰と呼ばれており、「明星峰天神社」という小社があったという。また「菅大臣山」という名称は淸盛が雷雨緊急停止の祈念成就によって付けたものという。そして文和年中の武田直信の事蹟の項に「明星峰天神社と淸盛創建の神祠を合併し」とあるので、「大麻天神」とは明星峰(現尾長山)の天神社のことのようである。祭神については記載が無く「祭神六座」の詳細は判らないが、寛永十七年の項では、麓の尾長村に「分社し、社殿を造営」し、尾長天満宮と称したとあり、祭神を「菅原道眞公・大穴牟遅神荒神(おおなむちのかみ)、少名毘古那神(すくなひこなのかみ)」としている。[1]
 なお相殿神ならびに摂・末社に関しては一切記述が無い
 五月中旬に明星峰天神社の祭があるらしい。

 古代の尾長山には明星の伝承や信仰が基盤にあったものと推察される。全体的にはバラバラの伝承に整合性をもたせたような印象だ。古代から近世までの社歴はすっきりしたが、祭神の減少(齟齬)が気に掛かる。
 なお、神職の方から少し聞き込みもしたが、あまり詳しいことは判らないとのことであった。


尾長天満宮本社・拝殿

【祭神A】

【主祭神】
菅原大神
[大穴牟遅神](→龍神社へ遷座)
[少名毘古那神](→龍神社へ遷座)
[宇気母智神](→末社の稲荷社へ遷座?)
【相殿神?】(詳細不明)
天之御中主神《ameno-minakanusi》
神産巣日神《kami-musuhi》
高御産巣日神《takami-musuhi》
志那都比古神《shinatsu-hiko》
志那都比売神《shinatsu-hime》
天照大御神
大山津見神
野槌神《noduchi》
伊邪那美神《izanami》
久久能智神《kukunochi》
波迩夜須毘売神《haniyasu-hime》
[火之迦具土神](→荒神社へ遷座)

【由緒B】(『広島県の地名』)

 祭神は菅原道眞ほか三〇余柱。旧村社。『知新集』(1822成立)には寛永年間(1624ー44)広島藩主浅野長晟に召された京の連歌師松尾甚助(忠正)が、霊夢によって尾長山奥の菅大臣山にあった小社を現在地に移し、同一七年天満宮を建立したと記す。
 境内に愛宕社・貴船社など多数の末社を有し、広島城下皆実新開[minami-shinkai](現南区)の竪岩社、大須賀村稲荷社などをその抱えとする有力神社であった。」(pp.622-623)
 また五代藩主吉長・六代宗恒も社参、猿猴橋町[enkoubashi-chou](現南区)の酒造家辻村勘兵衛の崇敬を受け、神社のある谷を随意泉谷と名づけ、その地から涌き出る清水を天神清水と称して酒造用水にしたという。
 M34年(1901)頃まで広島市内の酒造家は毎年元旦には天神清水を汲むことを慣例としていたという。

 


尾長天満宮本殿

【神徳】
学業成就
開運厄除け
育児
商工業繁栄
願望成就

例祭:10/25


境内からの眺望

 

【その他末社】
稲生神社[不明]
荒神社[本社の真横に西向きに建つ]
丸楠稲荷神社[境内右手。西向きに建つ]

二葉山七福神加盟社(寿老人担当)[水神社の前]

 

「尾長」という地名について

 「標高180メートル前後の東西に長い尾長山(東部を高丸山、西部を二葉山という)の南麓に開けた低地で、南を江戸時代初期まで古川(太田川の分流)が流れていた。『知新集』には「ここを尾長とよふハ、むかし此所海辺にて、地かたハ山の尾にそひて長々しきゆゑ、名つくるよしいへり。」とある」(『広島県の地名』p.622)

 


[1]尾長天満宮公式サイト(http://tenmangu.info/rekishi/)2024年1月閲覧。
*トップの「お知らせ」が2017年6月となっており、更新が止まっている可能性が高い。

【参考文献】
廣島縣神社誌編纂委員会 編『廣島縣神社誌』(広島県神社庁/1994)
平凡社地方資料センター編『日本歴史地名大系35 広島県の地名』(平凡社/2002)(初版は1982)
その他、社頭案内板と境内案内板を参照した。

 

補足1「龍神社の大己貴神と少彦名命について」

 すべての情報を整理すると、2017年頃までに宇気母智神は本宮から外され末社に遷り、2017年以降更に大穴牟遅神・少名毘古那神の二柱を境内の龍神社(兼荒神社)へ遷座
 この龍神社の社殿は、元来末社の荒神社だったと推定され、2005年の社殿保存工事を境に水神社から闇淤賀美神・高淤賀美神を遷して龍神社と併用になったものと思われる。
 しかし2024年設置の龍神社の案内板には、闇淤賀美神・高淤賀美神の名は見られず、通俗的な表記で「 大己貴神・少彦名命」のみが記されている。
 2017年頃の公式見解としては、天満宮の主祭神の一柱は「大穴牟遅神荒神」とあって、大穴牟遅神と荒神とが同一視(一体化)されていた。(大穴牟遅神の荒魂を「龍」と見なした可能性も若干ある)
 この点を鑑みれば二柱の龍神も習合されたようである。だが龍神については水神社にそのまま祀っていても問題は無かったと思われるに、何らかの理由で龍神社として獨立し、最終的にはその名が消えて、龍が描かれた登竜門と龍神社という名称だけが残されるに至ったようである。(謎)
 天満宮の由緒Bによれば、貴船社がかつてあったようなので、もしかしたら境内のかなり目立たない場所にひっそりと貴船社があり、そこに祀られてる可能性もあるが(それだと『廣島縣神社誌』の記述と食い違う)、稲荷社の横のほうに山へ続くような崩れた参道があるのも気になるところで、我々の知り得ないことがまだありそうである。
 そして荒神社の方は、祭神が奥津日子神・奥津比売神・火之迦具土神となっているので、本社の相殿に居た火之迦具土神が遷座されたものと考えられる。

 公式の手によって合祀関連の記述がまったく為されない理由としては、原爆被害等による社殿喪失に伴う一時的・緊急避難的な合祀の可能性もあることを指摘しておきたいが、果して水神社に祀られていたとされる二柱の龍神(及び国之水分神)は今どういう状況にあるのか、そして尾長天満宮の奥宮とも称せる明神峰の古天神社は、水害の後どうなったのか。
 尾長山の大蛇伝説や荒れ放題の大神社境内地と伴に、大いなる謎が二葉山の奥に見え隠れしている。

[11]

 帰り際にふと気づいた案内板(写真11)に、重要な一文を見つけた。
 この裏山の峰に「古天神」の跡として石碑が残っており、平成十三年、社が建てられました。」
 平成十三年は水神社の社殿が再建された年でもある。
 しかしこの文章は、麓の境内地にではなく、裏山の峰に社殿が建てられたという意味にも解せる。そしてそれが正しいなら、麓の水神社や龍神社に国之水分神や闇淤賀美神、高淤賀美神が見られないことの謎にも一条の光が射してくる。つまり、「裏山の峰に再建した社殿」にその三柱の神は祀られている可能性があるということである。
 だがその社殿を直接確認したわけではないので、この解釈が的を射ているかはわからない。また公式サイトでその辺りの情報がまったく無いのも不可解である。我々は「裏山の峰の社殿」こと「古天神」を参拝できるのか否か。

 社頭の古地図と現状の境内とを照らし合わせるなら、稲荷社の横に伸びるこの崩落気味の参道(写真16)も、かつては神の御許へと通じる架け橋だったのかも知れない。

[16]

 


(国土地理院ウェブサイトから挿図)

 国土地理院の地図で見ると、「裏山の峰」が具体的にどこらへんなのか、社殿の有無も含めて判然としない。(尾長天満宮は地図中央・「光が丘」という文字の右横にある鳥居)
 ただ驚いたのは、本社のちょうど上に墓地があることである(寺があるのは知ってたが)。東側は墓地と仏舎利塔。西側は今トンネルを掘削中。ここはもうぐちゃぐちゃやな。
 「裏山の峰の社殿」については、再調査が必要なようだ。

補足2「龍神社社殿内の漢文について」

 この龍神社については、社殿内に謎めいた漢文が大書された板が二枚、参拝者に向けて設置してあるのが目を惹く。筆者は初め菅原道眞の漢詩か何かだと思っていたのだが、この文言が道眞公と全く関係が無く、何やらただならぬ意味を孕んでいることがわかり、些かの戦慄を禁じ得ないのでここに記録する。

1, 向って左手の文言「元亨利貞亢龍有悔」

 

 これは『易経』の一節である。
 「元亨利貞」[gen,kou,ri,tei]は「乾」の冒頭にあり、「乾」の説明を担う。
 「乾」は八卦[hakka]の一つで、「天」を象徴する。八卦は陰陽二元論の八通りの組合わせのことであるが、「乾」は陽・陽・陽(の組合わせ)で表される卦である。卦の意味としては剛健、進行、開始、統制など。多頭の龍に乗り天を統べるともいい、傲慢の極地の感すらある。
 また最大の特徴はこの卦が龍の行動で喩えられる点である。
 「元亨利貞」は「元[oo]いに亨[too]る。貞[ただ](しき)に利[yo]ろし。」と読む。(②p.43)
(*「貞」字のみ読み假名が無いので、送りかなを補って「ただしき」とした)

 「亢龍有悔」は「亢[kou]龍悔い有」と読む。(②p.43)
 天の頂きへ昇りきった龍は、後は落ちるだけだそうで、最高潮は続かないと解釈するらしい。

 文言伝[bungenden]という補足によると、
 「元は善の長なり、亨は嘉の会[atsumari]なり、利は義の和なり、貞は事の幹[oomoto]なり。」とあり、それぞれが仁・礼・義・事の徳目であり、君子とはこの四つの徳をもつものだという。(②p.46)
 辞書では「事」は「智」としている。(小学館『現代漢語例解辞典』p.112)

 「亢龍有悔」は、「貴くして位なく、高くして民なく、賢人下位に在りて輔[tasu]くるなし。ここをもって動きて悔あるなり。」(②p.48)と説かれる。
 「亢」には昂ぶるの意味があり、「亢龍有悔」は仏教風に言い換えれば「盛者必衰」ということになる。儒教(易経)では、昇り詰めた龍はそれ以上上がれず降りるしかないの意だというが、そこには宇宙や永遠といったインド哲学(大乘)的概念は無く、いかにも中国的(儒教的)だ。
 話は少し変わるが、そのような考え方からすれば、神社の鳥居や拝殿の向拝柱に刻まれることの多い「昇り龍・降り龍」の解釈も、若干変わってくるかも知れない。

 問題は、こういった文言(四字熟語)がなぜ「龍神社」に掲げてあるのか、ということに尽きる。
 たしかに、ここに参拝祈願する人の多くは、学業成就(合格)や出世を願うのだとは思うから、そういう人へ向けた戒めと取れなくもない。しかしそれも考えてみると奇妙な話で、なぜ道眞公を祀る本社殿ではなく、龍神社なのか。そこがどうにも解せないのである。
 ここで考察を進める前に、もう一つの文言(右側の漢文)について先に確認しておこう。

易経とは《ekikyou》
 筮竹[zeichiku]を数える占いの書と、その占い結果の道徳倫理的註釈書が合わさったもので、周の時代(紀元前12世紀~紀元前3世紀)には三種類があった。そのうち現存するのが『周易』と呼ばれるもので、やがて儒教の経典的な扱いがされるようになり、易経と呼ばれた。(『中国の思想7 易経』)

 しかし専門家に言わせると、宗教的な経典というよりも、人間を中心とした解釈を行う物とのことで(儒教がそういう思想であり龍を敵視する)、人格神という概念もそこに通じるし、また祭神よりも祭祀者が偉いといった考えにも結びつきやすい。
 なぜ儒家がこのような占いを認めたかといえば、占法に数理的要素(奇数・偶数判定)が含まれているからである。人間が法則を熟知して、自然も運命も制御していくという思想である・・・。
 そのような代物が伝存し続けているのは、経典としての文言よりも読み手の解釈が重視されるからであろう。
 それは「神秘を排した占い」とでも言うべきものである。
 宇宙の真理に身を委ね、合一を図ることで解脱する仏教思想に親近し、また自然界の「龍」と感応する私にとっては、酷く傲慢で強引な思想という感想しか出てこない。

 インドの思想である仏教を漢土で解釈する際のベースになったのが易学とされているけれど、最大の違いは個人的な死生観だったものが、現世利益的な指針に傾倒したことである。(更に国家や政治レベルにまで敷衍したのが儒学)。
 別の言い方をすると、人間を超越した存在であるところの神仏と人間との高次元レベルにおける一体性概念が後退ないしは拡大解釈され、人間を中心として天が相対するとか、神仏への信仰よりも人間社会の中の人間関係が罪福を決定するとか、本人の前世ではなく先祖が影響するなどといった考えになり、古代においては特に上下・氏族関係のあり方や為政者の資質に当て嵌められた。それはまた善・悪を明確に分け、悪と見做せば容赦なく切り捨てることへも繋がっている。(→易姓革命)
 自分がブッダに成る(己が変わる)のではなく、自分はそのままで運命(国家社会・他者)を左右していく、つまり結果によって己の行動の正しさ・善悪が判定されることを意味する。
 行動の善悪を認めなかった(不問とした)浄土真宗が、易学を排斥したというのもよく頷けるところである。

 

2, 向って右手の文言「修天爵而人爵從之」

(読み:てんしゃくをおさめて じんしゃくこれにしたがえり)
 これは『孟子』の一節で原文は[脩其天爵 而人爵從之]。(①p.255)

 意味は、仁・義・忠・信といった「徳」によって天から爵位が与えられ、世俗の爵位も得られる。
(続文では、現代人は世俗の爵位のため天爵を求め、人爵を得ると天爵を棄ててしまうが、これではすべてを喪うことになる、とある)
 要は、仁や義や忠や信を実践すれば出世するという、技術や才能を否定した一種の精神論である。
 現代日本ではむしろ正直者や真面目な者が不利益を蒙り、一向に報われないことが圧倒的に多いのだが、それでもまあ登竜門を潜って願掛けする社にこの文言があるのは一見不自然ではない。

 しかし仏教をある程度知悉する筆者からすれば、やはりどうにも解せない思想である。
 仏教では、善徳的な行動で約束されるのは「自己の成仏」である。「世俗の爵位」が得られるなどというのはどうにも信じがたい。(来世なら有り得るが)
 成仏は、世俗を超越した爵位である。
 善徳で「世俗の爵位」が得られるケースがあるとすれば、善徳が何より高く評価されている社会においてである。残念ながらそれは「資本主義社会」や「自由競争社会」では相容れない価値観ではなかろうか。それは現世利益を謳う寺社や宗教が日本にあまねく根を下ろしていることからも、さほど的外れな観方ではなかろう。
 つまり、儒教的思想は日本でほとんど機能していないということである。(仁・義・忠・信に生きていた「侍」という職業を無くしたのだから当然と言えば当然である)

 思想史的には、幕末頃から尊皇攘夷と絡めて敷衍されたが、日本の敗戦・被占領を機に低迷し、今では一部の宗教組織が吹聴する程度のものである。代わって台頭したのが、それまで抑圧されていた現世利益中心の新宗教組織である。その中には儒教的思想をつまみ食いしたハイブリッド的傾向をもつものも観られるが、大半は祈り・供養・お祓いといった宗教的行為によって人生を好転させると説くものである。
 ちなみに言えば、実際の道徳的行為で得られるのはわずかの感謝と社会的秩序であって「世俗の爵位」ではないだろう。(そんなのは「お伽噺」でしか聴いたことがない)そしてそれは、奇跡的な特例だったからこそ、長く語り草になったことを物語っており、例外中の例外である。
 「世俗の爵位」を求める者が、技術や技能、権威や権力よりも先に徳を積んでも意味は無い。才能や力を持たずに得る「世俗の爵位」など、それこそガラスの王冠、新聞紙で作る兜のようなものであり、本末転倒である。善徳は技能や権力をもち既に上に居る者こそが意識すべきであり、下辺から上を目指す者がそれを志向すれば、それは最早仏教で言う「出家修行者」の道である。
 推薦入試にしても、学力がまったく問われない訳ではなかろう。「徳」は一定の学力(能力)を持った人々の中から選ぶ際にプラスアルファで考慮される程度のものである。「徳」さえあれば良いわけではない。そんな不確かなモノよりも勉強に専念するほうが良いし、むしろその努力や結果のほうがしっかり評価される社会のほうが「平等」というものであろう。テスト結果は絶対的だが、道徳などは相対的である。時代や判定者によって評価が異なりかねない。
 また徳が無いから不幸という思想は、差別にも直結しやすい。(法華経以前の仏教もその傾向が強い)

『孟子』《moushi》
 孟子とは、孔子と並ぶ儒教思想の大家。またはその思想書を指す。孔子の門下で学ぶ。紀元前3世紀ころの人。
 道徳・修養を重視し性善説を説いたが、政治思想的には易姓革命を是認した。(易姓革命思想は王の地位や権力が天から与えられたものだとしながら、民心に背く政治が為されれば、人民がそれを剥奪してよい(天が容認する)とする一種のご都合主義的テロリズム)(参考:『世界史辞典』数研出版)

 総合的に見れば、右の文章は、神頼みよりも徳を積めさすれば自然と爵位は得られる(天が助力する)。つまり、成績や功績よりも人間性というわけだが、人間性だけで合格や出世が可能な場所というのはかなり限定的ではなかろうか。むしろ、実績やある程度の権力(地位)を既に持ってる人にだけ通じる話ではなかろうか。(だから一般人を救済するための神頼み的宗教が発達したとも解せる)

 左の文章は、昇りつめてしまう(頂点に立つ)ことは、行き場を見失い、後は落ちるだけだという。つまり、あまり上に行き過ぎるなということだが、何処にも行き場が無いというのはかなり恣意的な解釈に思える。(いかにも儒教らしいと言えばそれまでだが)

 次に、この文言が掲げられる「龍神社」についてもう一度確認する。
A:かつては神域の最も奥の、高い所に立派な社殿があった。(上下万民から崇敬される)
B:しかし土砂災害で社殿が崩壊する。
C:『廣島縣神社誌』と比べて祭神表記に齟齬がある。
D:黒髪山(現二葉山)の「大いなる黒蛇の伝説」と錯綜するかのような鎮座伝承がある。(大蛇神を道眞で上書きか)

 これらをすべて踏まえると、二種類の漢文はまるで龍蛇神を責めてるような文言に思えてくるのだが、どうだろうか。
 そして大きな社殿に祀られたくば、人々の願いをよく叶えろと言ってるようにも解せる。
 私はこの文章(漢文)の意味を把握したとき、戦慄した。
 民心や賢人の声を聞かない龍は墜落する」といった意味の文言を、龍神を祀る神社に掲げているのである。
 神社の神職が、「神頼みよりも徳を積め」というような意味の文言を掲げるのもそうだ。「参拝」や「祈願」を否定しているのである。易者じゃなく、神職が。
 そしてその文言通りに、参拝者が随えば随うほど、龍神が人々の願いを叶える機会は損失していくことになる。
 つまり、いつまで経ってもこの龍は、これより上には行けないことを暗示しているのである。
(しかも絵馬を奉納する時の作法として、「龍神石を年の数だけ叩け」とある。この「龍神石」がいかなるものかはわからないが、もしや御神体かと穿って見れば鳥肌が起つ)
 「大いなる黒蛇」にゆかりの大神社が再建されないままなのも、こういったことと関係があるのかも知れない。(大神社の管理は尾長天満宮の宮司が兼任)

 ここの龍神が別の然るべき場所に祀られていて、この考察が凄絶なる妄想であることを切に願う。

 

【主要参考文献】
①今里禎 訳『中国の思想3 孟子』(徳間書店/1996)
②丸山松幸 訳『中国の思想7 易経』(徳間書店/1996)