【一目連/天目一箇命】
ところで、大神社とは別件で天目一箇命について調べて居たところ、柳田國男による興味深い報告を見つけたので、少し長いが引用して紹介する。(註釈は省き、改行と句点・読みかなは適宜施した)
新らしい社伝には祭神を天目一箇命(あまのめひとつ/あめのまひとつ)とある。即ち亦神代史の作金者(かなだくみ)と同一視せんとする例であつて、此推測には些しの根拠はあつたが、雨乞に参詣する近国の農人たちは少なくともさうは考へて居なかつた。神は大蛇である故に之を一目龍と謂ひ昔山崩れがあつた後、熊手の尖が当つて片目龍となり、それから今の権現池に入れ奉つて祭ることになつたなどゝ言ふさうである。兎に角に畏こき荒神であつて、大なる火の玉となつて出でゝ遊行し、時としては暴風を起して海陸に災ひした。
即ち雨師といふよりも元は風伯として、船人たちに崇敬せられて居たらしいのである。最初は恐らくは海上を行く者が、遙かに此山の峯に雲のかゝるを眺めて、疾風雷雨を予知したのに始まり(後略)[1]
この伝承は黒髪山の大いなる黒蛇の伝説とかなり外形が似ていると思うが、どうだろうか。
比較に値すると思うので、少し検証してみたい。
まづ、「伊勢桑名郡」は現在の三重県桑名市である。「多度山」は同県桑名市多度町にあり、岐阜県との境の辺りである。標高403メートル。
東へ数km地点に揖斐川・長良川・木曽川の三河川が南北に連なって流れ、15kmほど下って伊勢湾に注ぐ。
桑名は陸海の交通の要衝でもあった[2]。
特に東の名古屋との繋がりが深いようで、熱田神宮から桑名までは「七里の渡し」と呼ばれる東海道唯一の海上路だったという[3]。
また多度神社について「平安後期には伊勢平氏により崇敬されていた」という記述がWikipediaにあったが、この記述は典拠不明である。伊勢平氏が多度神社を崇敬したという説は『多度神社公式サイト』、『神道大辭典』、『神社辞典』、『神道史大辞典』のいづれにもない。「伊勢平氏」からも調べてみたがやはりヒットせず、参考文献として使えるレベルのサイトでは記載がない。
もし假に平氏との関係が立証されるなら、清盛が称え、構造的に内容が一致する黒髪山尾長大明神の伝承も、平氏による成立と伝播を視野に入れられよう。しかし伊勢多度山の権現様が式内社である多度神社と習合する形となってその信仰を現代にまで維持し続けているのに対し、安藝黒髪山の黒神/尾長と呼ばれた大いなるカミは、時の為政者によってその鎮座地を奪われ、近代には斬り捨てられ、公的な記録からも除外され、原爆で倒壊した後は省みられることもない。(先日投稿した浅草神社と比較すると、特に浅野氏の功罪がより浮彫になるだろう。家光は「三社様」の社殿を再建し家康を合祀しつつ「三社大権現」としてその名も残したが、光晟は「大神社」の社地に東照宮を建てて大穴牟遅命の方を合祀しその後は「東照宮」の記録から抹消した。更に伝承を想起させる「黒髪山」の名を二葉山という名で上書きし、稲荷社を遷して神体山自体への信仰をも抹殺した。産土に対するリスペクトに雲泥の差がある)。
そんな尾長山の麓・東区の山根町に、昨今猪の出没が相次いで居るのだということを町内の掲示で知った。猪は古来よりヤマノカミの化身の一つとして知られるが、稲荷社のひしめく山から狐ではなく猪が出て来ることの意味は重い。
そして今、その山の腹には鋼鉄の巨大な刃が食い込んで居る。
伊勢湾が関東と関西を結んでいたように、瀬戸内海も九州から近畿への海路であった。更に東西だけでなく、広島と松山(北と南)を結ぶフェリーの航路にもなっている。
沿岸地域である北九州には宗像、近畿に住吉、四国讃岐に金毘羅神が鎮座し、愛媛沖には大山祇神を祀る大三島がある。そして安藝の宮島(嚴島)だ。
その嚴島が浮ぶ広島湾のかつての沿岸地帯に鎮座する二葉山は往古、黒髪山・尾長山のほか権現山とも呼ばれていた。その山には「大いなる黒蛇」が棲まう。彼の大蛇は海上にまで出没する。その居るところには霞が掛かるともいう。そうして難船を助けたほか、清盛が音戸ノ瀬戸を拓く際にも霊威を発したため崇敬され、その畏敬の念は毛利氏の時代まで続いた。近代には東照宮の相殿から別宮へ分離されて居る。
多度山の権現様の伝承と、かなり共通点が多いことに気づくだろう。
そのことが意味するのは、二つの伝説が影響関係にあるといったことではなく(この点を論じるには既に述べた如く平氏の問題をクリアしないといけない)、①大蛇神は荒神の性格をもち、山と海とを行き来する存在であること、②産土として当初から崇敬されながら、やがて別の神(人格神や天津神)の陰に追いやられ、「伝説」にされてしまうことである。
第二話から大神社についてつらつら考えてきたが、ようやくその全貌を捉えたように思う。
以上の考察をもとにたてる一つの仮説としては、牛田山から尾長山・黒髪山にかけて下る山地を起点に発生した特殊な雲塊が、南方海上に大蛇の如く、また時に黒髪の如く延び、それを海上の船人は天気荒天の兆しとみて行動することで難を逃れることができたのではないか。その雲塊を生じる存在、雲塊として顕現する存在こそが、黒髪山の地主尾長大神である。人びとはそれを「大いなる黒蛇」と感得し、「黒神(黒髪)」「尾長」と呼んだのだ。
この仮説に一つ弱点があるとすれば、江田島の古鷹山にちなむ角鷹の伝説であろう。この鷹神は現在江田島八幡宮の境内社に祀られて居るのだが、もとは古鷹山の頂上に祀られて居て、やはり遭難船を助けたという伝承がある(一方で不敬の船は沈めたともいい、荒神の性格を有する)。また勧請年が新しいという問題はあるが、同じく境内社に大國主神を祀る出雲神社と金光稲荷神社が存在するなど共通項が少なくない。(典拠は境内の由緒碑及び案内板による)。
日本は八百万の神の国というくらいだから、同じ海域に姿形を異にする荒神が類似の伝承と伴に存在することに何ら問題も不思議もないと言うのなら良いが、その判断は読者に委ねたい。
註
[1]柳田國男「目一つ五郎考」―『一目小僧その他』(小山書店/S9)八四―八五頁
[2]桑名市観光サイト(https://www.city.kuwana.lg.jp/kanko/tokushu/history.html)
[3]「藤前干潟の歴史」―環境省・中部地方環境事務所(https://chubu.env.go.jp/wildlife/mat/m_1_1_11_1.html)
社号 【祭神】 |
黒髪山地主大神社(大神社) 【黒髪/黒神/尾長】(大穴牟遅命) |
稲荷神社(金光稲荷神社) 【宇迦之御魂神】 |
東照宮 【徳川家康霊】 |
古代 | 黒髪山(尾長山/霞山)にあり。 しばしば海上に出現し難船救助す |
||
12世紀 | 音戸瀬戸開通に霊威発揮し 清盛から地主尾長大神の称号得る |
||
14世紀 | 天照大神・宇迦之御魂神を合祀 (相殿) |
||
1648 | 社地に東照宮を建てて、相殿に遷す | 浅野光晟が造営。 地主尾長大神ほか二柱を合祀 |
|
17~18C (推定) |
東照宮の別当松榮寺の末寺 教禪院(東照宮境内)から 権現山へ遷す |
||
1869 | 東照宮から分社し、東照宮の西側を 境内地として独立す |
松榮寺・教禪院とも廃寺 | 地主尾長大神(大穴牟遅命) ほか二柱を隣接地へ遷座 |
1871 | 神璽(神体含?)を東京へ遷座 | ||
1875 | 再勧請 | ||
1945 | 原爆により社殿すべて焼失 | 原爆により各社倒壊・大破 山頂の本社を麓へ遷座 |
原爆被害で社殿大破全焼 |
1965 | 社殿再建 | ||
1986 | 本殿再建 |
(『廣島縣神社誌』、『廣島市史社寺史』などをもとに作成)