Hiroshima-Wandelinger第6話【『廣島市史社寺史』の不可解な表記】

考察

【『廣島市史社寺史』の不可解な表記】
 寺社を紹介している『猫の足あと』というサイトが「日通寺」の項で典拠としていた『廣島市史社寺誌』について調べてみた。
 幸いなことに国立国会図書館がデジタルデータで公開して居たのですぐに読むことができた。
 『廣島市史社寺誌』は廣島市役所が廣島市内の寺社についてまとめ、大正十三年の九月に発行した書である。編纂の意図は不明だが、『廣島市史』の中の社寺の巻に位置づけられることが関連書籍の存在から窺える。目次の章立ては次の如くである。(寺院は省略)

1-1:県社(饒津神社)
1-2:郷社(白神社)
1-3:村社(尾長天満宮、東照宮、鶴羽根神社、比治山神社、碇神社、空鞘神社、廣瀬神社、神田神社、衣羽神社)
1-4:無格社(天神町/天満宮、大須賀町/大宰原天満宮、天満町/天満宮、水主町/住吉神社、稲荷町/稲生神社、胡町/恵美須神社)
1-5:廣島招魂社

 村社の掲載順の意図や無格社の選定基準は不明である。
 また巻末に「諸小社堂一覧表」が附属している。この表は「名称・社格・創建年月・所在地」のみを挙げただけの簡素なもので、20社10堂宇を50音順で載せている。
 「大神社」は一覧表の中に「尾長大神社」という名称で見られるのだが、極めて不可解なことに創建年月の項目が空白になっている
 大半の神社が「不詳」としてあるのに、何故この神社だけ空白なのか。
 不詳と空白は一見「わからない」という意味で同類に扱われがちだが、「不詳」が択一的なのに対し、記述自体が無い「空白」は、より幅広い意味や意図を内包していると解すのが自然であろう。これは「不詳」の二文字で済ますことも可能でありながら、敢えて空白のままにしたところに意図があると見るべきではないか。
 同表でほかに空白なのは水主町の延命地蔵堂、竹屋町の地蔵堂、鉄砲屋町の地蔵堂である。これらの堂宇については今調査する余力がないため割愛し、「大神社」に絞る。

 尾長大神社の社格は「摂社」となっているが、何処の摂社なのか表からは判らない。
 しかし祭神の一部(大穴牟遅命)と宮司家(渡邊氏)が尾長天満宮と同じであること、東照宮に一時期合祀されて居たことがある点などから、どちらかの神社であることは疑いなかろう(ややこしいのは東照宮から分離して隣接地に遷座させながら、天満宮の宮司の兼務社になっていることである)。これらは『廣島縣神社誌』に銘記されている情報だ。そこで『廣島市史社寺誌』ではどうなっているかを比較検証してみる。
 結論から言うと、天満宮の項にも東照宮の項にも大神社についての記述は皆無であり、伝承すら載って居ない。
 これはあきらかにおかしいだろう。少なくとも東照宮の方で合祀・分離の記述がないと、大神社の由緒と矛盾する。
 この違和感は東照宮だけ記述様式が異なる点にも顕れて居る。ほかの8つの村社は祭神の項目を立ててそれぞれ銘記しているが、東照宮だけ祭神の項目が無い
 境内社についても金光稲荷神社を三行記述せるのみである。しかもその内容は『藝藩通志』の短い引用である。
 東照宮の記述は次のようなものである。

本市の東北なる尾長町「尾長山の南麓に在り」、社殿は正保三年藩主光晟が造営。
まづ郡奉行ぐんぶぎょう今中兵庫に造営総奉行を命じ計画を立てしめ、正保三年「地をぼくして此処に定め」各地から工匠・導師など招く。
正保四年、御神体の開眼を江戸で行い、慶安元年使いを出す。(以下仰々しい迎えの様子が克明に記述される。)
明治(M)三年二月社領廃止。十一月「華族(元武家)の輩に東京住居を仰せつけられ」る。
M4年七月廃藩置県で旧藩主浅野家は東京府に移住。本社の神璽しんじも東京の浅野家邸内に遷したが、市中の者らが本社への復帰を懇請し、また県庁からも許可を得て、M8年四月再び勧請し、村社に列す。(『廣島市史社寺誌』より主意)

 「華族(元武家)の輩に東京住居を仰せつけられ」などといった表記から忸怩たる思いが伝わってくるが、主語が明瞭でなく妙な記述である。神社関係者というより旧藩主の浅野氏であろうか。
 それは兎も角、ここから判るのは、①「地を卜して此処に定め」(占いで決めた)と言うだけで産土との関係などまったく眼中にないかの如きであること。そして②その場所を「尾長山の南麓」としていることである。(なお、「神璽」が具体的に何を指しているのかは判らない。一般的には神器特に勾玉を指すが、その移動を「勧請」と果して言うか。勧請は一般的には分霊の遷座について言う。もし神璽の中に神体が含まれて居たなら、そして「東京住居を仰せつけられ」の主語が家康であったなら、③M4年からM8年まで東照宮には空白の期間があったということになるが、この③は現時点で保留というか参考程度にみてほしい)。

 而るに『廣島縣神社誌』は、当地が元々産土の鎮座地であり、いったん合祀され、また分離されたとしている。『廣島縣神社誌』は掲載対象の神社(主に神社庁所属社)からの報告と現地調査をもとに編纂しているから、大神社については兼務されている尾長天満宮の渡邊宮司からの情報にほかならず、ある程度信頼の置けるものである。現実にも、社殿は失われたが社地は東照宮の隣接地へ伝承の通り存在している。そしてこういった事実があるからこそ、『廣島市史社寺誌』の尾長大神社は「摂社」であり「空白」なのではないか。
 そもそも「摂社」なら尾長天満宮か東照宮の項に記載されて居ないとおかしいのである。東照宮が末社の金光稲荷を載せていながら「摂社」の大神社を載せないのは関係が完全に切れているか意図的に隠しているかのどちらかである。しかしいづれにしても「かつては関係があった」ということすら記載しないこの『廣島市史社寺誌』は歴史書の体を為していると果して言えるのか。
 『廣島縣神社誌』では大神社の由緒・伝承だけでなく祭神まで銘記しているのであるから、「摂社」という社格を知りながら祭神がわからないなどということもありえない。摂社とは、本社と関係のある祭神を祀る境内社を指すのが一般的だからである。その点から言えば、「大いなる黒蛇」(あるいは大穴牟遅命)が家康を祀る東照宮の「摂社」になることはこれまたあり得ない。
 その辺りを触れたくないためにお迎えの様子などをつらつら記述して、産土を巻末の附録扱いしているのである。「不詳」と記述しなかったのは、由緒があるからだ。廣島市としては嘘は書けなかったのだろう。「不詳」の二文字は白塗り(空白)にしておくから、後は察してくれというメッセージだ。