Hiroshima-Wandelinger第5話【鬼門と天台宗】

考察

【鬼門と天台宗】
 大神社の付近で撮影した散策案内地図に「太陽の石」なるものを見つけた。
 検索してみたところ、「龍穴」とするブログが幾つかヒットした(加えて「大地の石」なるモノもあるという)。しかし例によってありがちな話だが、その情報の典拠が不明なため何とも言いがたく、はっきりいって考察の主要材料としては使えない。
 ここが龍穴だという情報は、いったい何処から出て来た話なのだろうか。案内板に記載の無い「龍穴」があるということをどうやって知り得たのか(霊能者でもない限り、必ず何かから・誰かから情報を知り得て書いてるはずだ)。そこにある巨石を「太陽の石」と名づけたのは誰で、いつ頃からそう呼ぶのかも、やはり不明である。
 手元にある広島の伝説に関する二、三の史料では少なくとも龍にまつわる伝承はない。あるのは黒蛇である。(付け足すなら南方及び嚴島神社沖合の龍燈伝説、加えて清盛と嚴島龍女の恋愛沙汰だが、前者は春日明神、後者は弁財天に関するもので大神社の祭神大穴牟遅命とは接点に乏しい。)

 黒髪山と信仰という点で見逃せないのは、金光きんこう稲荷神社の存在である。
 現在東照宮の末社である金光稲荷神社(祭神:宇迦之御魂神)の由緒は次の如きものである。

創建年不詳。 松榮寺(東照宮の別当寺)の末寺・教禪院の境内社だったという。
後に権現山(現二葉山)山窟に遷したところ神威嚇々かくかくたるにより、金光稲荷神社の社号で称えたという。
山頂にあるのは奥宮で、麓から山頂までの間に二十余りの稲荷社がある。
S20年、原爆により各社大破。山頂の本社を麓へ遷座。(『廣島縣神社誌』より主意)

 松榮寺は浅野家ゆかりの五寺(五宗派の寺)の一つで、天台宗とのこと。五宗派の中で唯一廃寺となっている[1]
 何故天台寺院だけ廃寺なのか。ここがどうも引っ掛かる。
 更にこれと関連して不可解なのは、明暦二年(1656)二代藩主の浅野光晟と妻の滿姫の菩提寺が暁忍寺に定まり、それを機に暁忍寺は國前寺へ改称しているにもかかわらず、浅野家ゆかりの五寺のうち法華宗部門の寺院は國前寺ではなく日通寺なる寺だという点である。
 これについて調べると、徳川幕府が日蓮宗不受不施ふじゅふせ派を禁制としたことに連座して、國前寺は元禄四年(1691)に寺領を没収されているという[2]
 また、教禪院については松榮寺と同じく東照宮の境内にあったようである[3]

 もう一つ気になるのは「権現山ごんげんやま」という名称だ。大神社の由緒では一度も出て来ない呼び名である。
 家康を埋葬する際に、諡号しごうを大明神にするか大権現にするかで議論が起き、天海が推す大権現に決まった経緯がある。しかし「権現」という用語自体はもっと昔から使われて居た詞だ。有名なところでは「山王権現」。山王権現は日吉神社の神の別名(仏教式の呼び名)である。また「権現造」は北野天満宮の建築様式から命名された。天満宮の祭神は菅原道眞公である。「かりに現す」の字義通り、本地垂迹説など神仏習合に関連する用語であって、家康の専売特許というわけではない。
 しからば、この権現山という呼称は広島での東照宮創建とは無関係なのか。廣島東照宮の由緒は概ね次の如くである。

慶安元年(1648)廣島藩主浅野光晟みつあきらが、広島城の東北・尾長山の麓に創建。
明治の神仏分離までは西隣の尾長山松榮寺を別当寺とした。(『廣島縣神社誌』より主意)

 重要な点は三つだ。
①『廣島縣神社誌』はこの「尾長山」を「=二葉山」としている。(但し、尾根で繋がる山全体を一つの呼称で呼ぶケイスもある。例えば比婆山がそうである。比婆山連峰とも言う)
②松榮寺があった土地に、寺を潰して大神社を建てた。(明治期)
③この土地は広島城の鬼門に該当する。

 鬼門と天台宗の組合わせですぐに想起されるのは京の都と比叡山(延暦寺)であろう。
 藩主淺野公は、江戸城と東照宮の霊的関係性(鬼門封じ)を廣島にも描こうとした。そしてその方角に、天台の寺院と地主大明神(黒髪山/尾長山)を見つける。
 伝承と山の名の由来を重視すれば、恐らく麓には拝殿ないし御旅所があり、山が御神体ないし奥宮だったことだろう。禁足地でないことや山頂までの山道を考慮すれば奥宮の可能性が高い。
 そうして麓の社地に東照宮を建てて家康を祀り、地主大明神は相殿に祀ったのだ。
 空白になった黒髪山(尾長山)には、稲荷社を配置した。その理由は恐らく信仰の高まりがあったからではないか。観世音菩薩や地蔵菩薩など本来は佛(如來)の脇侍に過ぎない菩薩が、やがて単体の本尊としても祀られていったように、庶民の稲荷信仰が昂じて独立したと見做せる。鳥居の奉納と小社の増加に対処する為だ。それは独自の社号を与えられたことからも知れよう。

 あるいは、「山窟遷座」→「神威嚇々」→「金光」といった図式からは激しい光を、また東照宮との絡みで太陽を暗示させるが、これは海上出現・黒蛇・霞といった地主大明神を表す諸要素の対極になる。つまり稲荷信仰を加速させることで、従来の黒髪山地主大明神の信仰を薄め、上書きするという仕掛けだ。それは大神社の通称がいつの間にか「元吉稲荷神社」になっていることからも裏付けられる。地主大明神を大穴牟遅命に比定しながら、通称が元吉稲荷というのはあまりに不可解だろう。
 たしかに、文和年間(1352-56)に宇迦之御魂神が合祀されては居るが、同じく合祀された天照大神ならびに本来の主神・大穴牟遅命を差し措いて稲荷神社と呼ぶのは、それが意図的でないとするなら、庶民の稲荷信仰の異様な高まりの現れ以外の何ものでもなかろう(実際、広島の夏祭りで有名な「とうかさん」は國前寺の境内社・護法神社を分祀した仏教系の稲荷神にちなんだ祭である)。しかしそうだとしても、それは制御統制されたなかでの信仰である。つまり、当地での稲荷信仰は許可された信仰という意味である。しかも独立遷座・神威発揮というお墨付きのもと許可されて居るのである。

 ところで、比叡山と密接な関係にあるのが、日吉大社である。
 別名山王権現とも称されるが、一社を指すものではなく、二十一の社の総称である。特に重要なのが古くから祀られる二宮(東殿)の大物主神と、大宮(西殿)の大山咋神。これを統括したのが日吉山王神道である。
 この日吉山王神道は、比叡山に鎮座の神祇を中心として天台宗的な要素をもたせた習合神道である。通常の神道が敬遠する本地垂迹説を積極的に採り入れて居るのも特徴だ。
 大山咋神は大年神の御子で、大主神ともいい、古くから比叡山に鎮座する地主神でもある。最初に祀られた地は牛尾という、山の東側(東尾)である。後に、天智七年、大和の大神神社より大物主神が勧請されている[4]
 ここに見いだされるキーワードの大半「天台宗」「鬼門鎮護」「権現」「地主神」「大物主神(≒大穴牟遅命)」が、黒髪山を取巻く寺社や伝承と重なっていることに気づくだろう。
 家康・秀忠・家光の三代に亘って宗教的ブレーンを務めた天海も天台宗の僧侶である。山王神道を単なる習合神道ではなく独自の一実神道だと説いたのも天海である。また家光は比叡山に東照宮神殿を造営するなどしており、思いのほか東照宮と比叡山(天台宗)の繋がりは深い。にもかかわらず、広島藩では淺野公自ら東照宮を建てながら、天台寺院だけ廃寺となり、比叡山に対する山王権現の如き、大穴牟遅命(≒大物主神)を祀る黒髪山の大神社も黙殺されているのである。


[1]安藤希章『神殿大観』(http://shinden.boo.jp/wiki/松栄寺)
[2]「日通寺」―『猫の足あと』(https://tesshow.jp/gallary/hiroshima/temple_higashi_nizz.html)(典拠は『廣島市史社寺史』)
[3]「広島城城下町の寺院・神社」(http://ww7.enjoy.ne.jp/~kazu-tamaki/joukamati-tera.html)(典拠は『知新集』)
[4]下中彌三郎 編『神道大辭典』第三巻(平凡社/S15)