祇園龍穴と京都八坂神社

民俗伝承[日本]
鎮座地:京都市東山区祇園町北側625
最寄り駅:バス「祇園」(京都駅から最も近いアクセスだが乗客が非常に多い)、京阪本線「祇園四条」駅、阪急京都線「四条河原町」駅。
旧 称:祇園天神、祇園社、祇園感神院。
旧社格:官幣大社、二十二社

 

01西楼門狛犬

概要

 京都の八坂神社《Yasaka-jinjya》は祇園《Gion》(東山区)に古くからある神社。
 創祀伝承に渡来神信仰の色香があり、牛頭天王《Gozu-tennou》という独特の神を祭った。
 神仏習合の色合いも濃厚で、元は寺院の境内に建てられた付属的社殿の一つだった。
 平安時代に疫病が流行ると、御霊《Goryou》(怨霊)の仕業であるとされ、勅命によって怨霊鎮めの御霊会《Goryou-e》が催されるようになったが、牛頭天王の仕業とする説も出されて祇園社でも御霊会が開始された。この祭礼はやがて民衆も大々的に参加するようになり今に続く祇園祭となった。
 様々な宗教観が入り乱れるなか、牛頭天王を武塔天神や素盞嗚尊《Susanowo-no-mikoto》と同一であるとする観方も定着していき、女神(波利采女)やその子供(八王子)も合せてまつられた。これらの神の位置づけ(正体)については諸説がある。
 明治以前は祇園天神社《Gion-tenjinsha》とか、感神院《kanjin-in》祇園牛頭天王社とか、あるいは単に祇園大明神《Gion-daimyoujin》と呼ばれていた。
 現在、公式の祭神表記は主祭神を素盞嗚尊としている。そのほか多くの神々(神道系)が同一社殿にまつられ、また境内にも多数の社殿(末社)が存在する。
 主祭神をまつる本殿の下にはなぜか龍穴がある。(龍穴の上に社殿が建てられている)
 地理的には四神相応思想(風水で最良とされた地形)の「青龍」に該当する鴨川から東に600mの地点であり、方角は二条城(14世紀以前の大内裏付近)の東南東、現在の京都御所からは辰巳(南東)である。
 楼門、本殿などが国の重要文化財や国宝に指定されている。

 

Ⅰ【祭神】

[A]『神道大辭典』
素戔嗚尊《Susanowo-no-mikoto》
稲田比売命《Inada-hime-no-mikoto》
八柱御子神《yahasira-no-mikogami》(八人の子供の神)

[B]『神道史大辞典』
中座に素戔嗚尊
東座に櫛稲田姫命《Kusi-inadahime》、同座に神大市比売命佐美良比売命
西座に八柱御子神(八島篠見神、五十猛神、大屋比売神、抓津比売神、大年神、宇迦之御魂神、大屋毘古神、須勢理毘売命)
傍座に稲田宮主須賀之八耳神《Inada-no-miyanusi-sugano-yatumimi》
 もとは本地垂迹《honji-suijyaku》(神仏習合思想)により八大王子、牛頭天王、婆利采女などを祀り、神座の東西が逆であった。

 つまり、牛頭天王を素戔嗚尊に、婆利采女を櫛稲田姫命に変更(同定)したことがわかる。八王子の内訳も神道系の神で統一されている。

03本殿

Ⅱ【八坂神社と牛頭天王】

Ⅱ-1、【由緒】

 東山脚部の産土神とも言われ
 播州明石浦、播州廣峯(廣峯神社)を経て、北白川東光寺に垂迹した牛頭天王を遷し祀った(『二十二社註式』)
 貞観十八年(876)、常住寺の僧圓如が神の託宣により、この地の樹下に移し祀ったという説もある。(『二十二社註式』『伊呂波字類抄』)
 その後、藤原基經が社殿建立。
 社伝では、斉明天皇二年(656)、新羅の牛頭山から素戔嗚尊の神霊を迎え祀り、天智天皇六年(667)に社殿を建立したという。(『神道大辭典』)

 これが『神道史大辞典』では以下のように記述される。
 「創祀は社伝によれば、斉明天皇二年(656)八月、高麗の伊利之が新羅の牛頭山に鎮座する大神つまり素戔嗚尊を山城国愛宕郡八坂鄕に祀ったのが始まりという。」[1]

 いづれも、日本の神話の神であるスサノヲが海外で祀られていて、そこから勧請したという驚くべき伝承である。もっとも、記紀においてもスサノヲは高天原を追放されて出雲へ降ったと語られ、日本列島の世界観とは別の次元から来たことが示唆されている。
 しかし「東山脚部の産土神」と「新羅の牛頭山の神(素戔嗚尊)」とでは神の生い立ちに雲泥の差がある。
 後でも詳しく述べるが、東山の地は「龍」と関係の深い土地である。都を造るときに四神の青龍が当てられたことからしても、産土の信仰だけでなく為政者(とそのブレーンたち)の概念(信仰的宇宙観)としても「龍」が強く意識されていた。なかでも龍穴のある八坂鄕は別格であったに相違ない。

 この斉明天皇二年八月の伝承については、典拠不明ながらもう少し詳しい語りもある。

 斉明天皇二年八月、高麗国から一団の使者が日本へ派遣された。その中に副使を務める伊利之使主(いりしおみ)と呼ばれる人物がいた。伊利之使主は使者の任務を終えた後も日本に留まり、名を八坂造[yasaka-no-miyatuko]と改名すると、朝鮮半島の牛頭山に鎮座する神霊を日本に移し奉祀した。神霊の名を牛頭天王という。これが八坂神社の起源である。(『ふるさとの伝説七』/ぎょうせい)

 ここではスサノヲの名は見られないものの、牛頭天王の勧請者の正体が、海外から日本へ渡来し永住することになった一国政府の高官であったとされている。
 重要な点は、牛頭天王が「高麗国」で「高官」によって崇拝される「山の神(牛頭山の王)」であったという点である。更に日本側がそれを容認している点も重要である。これは果して何を意味しているのだろうか。

 当時の情勢としては、日本は飛鳥時代にあたり、遣日使・遣唐使が頻繁に行き交っており、621年には新羅が朝貢に来ている。
 斉明天皇は655年に即位した女帝である。大化改新(645)から間もない時期で、660年には百済が滅亡。斉明天皇崩御後の663年には白村江の戦いがあり、日本・百済連合軍は唐・新羅連合に敗れるなど、日本と海外の政治的軍事的連携もめまぐるしく変化する時代であった。
 歴史に詳しい方なら既にお気づきかと思うが、「高麗」という国はまだこのとき存在していない。(918年に新羅の豪族が建てる)
 半島北部に存在し668年に滅亡した国として高句麗がある。(トゥングース族の国)
 一方新羅は、唐と結託して百斉・高句麗を滅ぼし(676年に統一し)た半島南部の国である。(新制版『世界史辞典』数研出版)
 以上を踏まえると、作為的な伝承であるという認識は依然免れないものの、原型としては「高句麗」だった可能性もあるか。
 また『日本書紀』の素戔嗚尊の逸話の中に、高天原を追放された素戔嗚尊が新羅国へ天降ったが、そこに居たくないと言って出雲(島根県)へ来たという説を載せている。伊利之使主は何故祖国へ帰らず、名前を変えてまでして日本へ残ろうとしたのか。当然それは牛頭天王信仰と無関係ではあるまい。

Ⅱ-2、牛頭天王の伝承

 牛頭天王の伝承としては、次のようなものがある。
 昔、豊饒という國の武塔天王に一人の子があった。この太子は七歳で身長が七尺五寸(2.2m)もある巨漢で、しかも頭部は牛であった。やがて即位すると牛頭天王と称したが、外見のせいで后が居なかった。
 或時、一羽の鳩がやってきて「あなたの后になる人は龍宮に住む龍王の第三女です。」と予言し、案内を申出た。牛頭天王は喜んで供を連れ出かけたが、途中で日が暮れたので巨旦将来《Kotan》の屋敷で宿を請うた。しかし巨旦は門前払いをした。そこで蘇民将来《Somin》の家に向った。蘇民は一行をもてなしたので、天王はあらゆる願いが叶うという牛玉を授けた。
 やがて龍宮にたどり着いた天王は鳩の予言通り龍王の三女と婚姻した。后は八人の子を産んだ。
 八年後、天王は帰国の途についた。行きと同じく蘇民の家に寄った。蘇民は牛玉で出した財宝で天王一行をもてなした。翌日天王は蘇民に「疫病が流行ったら茅ノ輪《chinowa》を結び、蘇民将来子孫と書いた札を身につければ無事だろう」と告げてから、巨旦の一族を踏み殺して帰国した。(『ふるさとの伝説七』、典拠は不明)

 この伝説は『備後國風土記』の逸話とよく似ている。
 後半の部分は茅の輪潜りの起源であると説明されることが多いが、ここで主要テーマとなっているのは龍王(異民族)の女との婚姻である。加えて牛頭天王は武塔天王の異形の子だったという点も注目しておきたい。この点を踏まえて読めば、後半の伝承も「蘇民将来子孫」が、龍王と親密な牛頭天王を崇拝する根拠の提示ということが理解される。
 龍王を信仰する部族と、牛頭天王を崇拝する部族。蘇民将来はその仲介役でもあった。そして下賜された牛玉をもとに、伝承という形で信仰を流布する役目も担った。個人が身につけるのではなく、設置型となったが、日本の多くの神社で茅の輪(管貫)の習俗は定着している。

 また『日本書紀』(神代上第七段)の一書にも、追放された素盞嗚尊が宿を求めて歩き、断られるという記述が見られる。更に第八段の一書では、追放後最初に天降った場所を「新羅國曾尸茂梨」としている。しかも子供である五十猛神《I-takeru》を率いてである。五十猛は固有名ではなく「多くの勇猛な」という意味の形容である。
 解釈は難しいところだが、祇園社の由緒のなかで、なぜ日本神話の素盞嗚尊が新羅に祀られていたのかといったことの一つの説明には成り得る記述である。なお、話の続きは「この地に居たくない」といって自ら出奔し海を渡って出雲へ到っている。
 伊利之使主がこのような牛頭天王を崇拝するということは、その真偽はともかくとして、伊利之使主が蘇民将来の子孫であるということを同時に物語る。

Ⅱ-3、牛頭天王=御霊説

 牛頭天王を御霊とする説は祇園社に伝わる『祇園社本縁録』にあるという。
 それによると、全国的な疫病流行を占った卜部《Urabe》日良麻呂は牛頭天王の祟りと託宣し、勅命によって六十六本の矛を立てる祭が執行されたという。しかしこの記事の日付が貞観十一年(869)であることから、祇園社の創建年とされる貞観十八年(875)よりも古いことを理由に否定的な見解が根強い。(例『祇園信仰事典』『神道史大辞典』)
 だが、『二十二社註式』に見える「東山脚部の産土神」に留意すべきではないか。「東山脚部の産土神」と「播州を経て~遷し祀った」はどうみても文意が繋がらない。されば、牛頭天王を遷し祀る以前に、「東山脚部の産土神」と称された土地神が居たのは疑いなかろう。それは龍穴に棲まわれていた神である。その上に社殿を建て牛頭天王を据えて、牛頭天王を主語とする由緒・伝承へ改造していったのである。

05

Ⅲ【媒介する神:武塔天神】

 牛頭天王は武塔天神とも称されるが、この武塔天神を素盞嗚尊だとするのが『備後國風土記』《Bingonokuni-fudoki》の逸文である。
 これは、この素盞嗚尊が後期出雲系のスサノヲではなかったことを物語る。(別系統のスサノヲ。素盞嗚尊という名前は共通するが由来すなわち本性は別神)
 では武塔天神とは何かといえば、これは「北天竺」《kita-tenjiku》の神だという。つまりインドの神である。
 なお、『仏教辞典』では牛頭天王を祇園精舎の守護神としている。祇園精舎とは、直訳すると「ジェータ(祇)という人の林(園)に建てられた、僧侶が生活する施設」である。この属性を覚えておきたい。

 整理すると、牛頭天王は朝鮮半島(及び中国)で祭られていた神。武塔天神は北インドの神。そして素盞嗚尊は、「高天原」の神の命に従わず、海原の統治を放棄した荒神として「高天原」から追放され、葦原中つ国(日本)へ降った(途中新羅へ寄った説もある)と記紀に記される。『備後國風土記』は武塔天神の逸話を載せ、これは素盞嗚尊だと語る。
 もっと簡単に言うと、牛頭天王系(日本書紀の一書も含む)の素盞嗚尊と、武塔天神系の素盞嗚尊と、記紀正文系の素盞嗚尊の三系統があったわけである。これは唐・新羅系、北インド系、大和系の三系統と言い換えることもできる。(出雲地方に伝承される後期出雲系については判断を保留)
 そして『風土記』は素盞嗚尊を北インドの神だと述べているわけである。これは少なくとも備後地方の素盞嗚尊が北インドで信仰されていた武塔天神だったという証左である。仏教とともに伝来し、伝播にあわせて広まったのであろう。しかし「国譲り」以後、日本は天津神を中心とした(記紀の歴史観に沿った)国となり、平安時代には末法(仏教が衰退する時代)に突入し、密教が広まる。そこへ更に武士の台頭が重なってくる。武神・戦闘神といった属性をもつカミが、より一層注目されてくる。

 『延喜式』に記載されず、「二十二社」に加えられたということは、その間に大きな信仰的認知があったことを物語る。すなわち898年~995年の間(醍醐天皇~一条天皇の御代)である。この時期は菅原道眞の死去(903)や空海に諡号が出される(921)といった出来事があった。天慶三年(940)には平将門が討たれ、京都に道眞を祀る天満宮ができたのが天暦元年(947)である。怨霊の恐怖と真言密教の評価、この二つの高まりに疫病の蔓延が加わり、託宣を契機として御霊的側面のあった祇園天神にも朝廷から目が掛けられることになったと推察される。

 しかるに、注意しておきたい点として、『備後國風土記』の記述は飽くまで「疫隈國社」《Enokuma-no-kunitsuyashiro》(現広島県福山市)にまつわる説話であって、京都の祇園社の説明ではないという点である。

 これは主祭神に関しても同様であって、①武塔天神=素盞嗚尊とする記録、②牛頭天王=武塔天神だとする記録は比較的古いものが伝存するが、③牛頭天王=素盞嗚尊とする記録はあまり古いものはない[C]。そして両者を媒介している武塔神の説話伝承は、日本で誕生したものではなく持込まれたものと推察される(日本式に改変の可能性あり)。
 したがって、これらは同一神というよりも、信仰的習合と捉えるほうがより正確ということである。つまり、イクォール(等号記号)で結ばれるもの(完全一致)ではなく、ある一部分が共通する程度だということである。弁才天・宇賀神・イチキシマヒメが同一視されるのもこれと同じ原理である。
 習合神の問題は、信仰される地域に応じて習合の経緯を慎重に見極めることが重要であり、安直な同定は本当の由来(及び祭神)を見えなくするものと考える。

[C]
①の例:『風土記』(八世紀。但し大半は未完)、
②の例:『伊呂波字類抄』(平安末期の『色葉字類抄』の増補版。十三世紀初頭成立)、
③の例:『簠簋内伝』(偽書。推定十四五世紀成立)

Ⅲ-1、疫隈國社について

 論社として、以下の二つがある。
①芦品郡(現福山市)新市町《Shinichi-chou》戸手江熊・疫隈神社。(岩波版『風土記』)
②福山市鞆町後地《Tomochou-ushiroji》・沼名前《Nunakuma》神社。(『神社辞典』)
(論社とは、古記録に記載された神社であると推定されるものが複数存在することを言う。)

 ①について検索すると、新市町戸手の素盞嗚神社が表示される。この神社は旧社格では県社である。
 祭神は須佐能袁能尊、稲田姫命、八王子。俗に「江熊牛頭天王社」と呼ばれ、『備後国風土記』逸文の「疫隈國社」及び『延喜式』神名帳(備後深津郡)の「須佐能袁神社」に比定する説があるという[2]。鎮座地は芦田川の沿岸地帯でそばを国道486号が東西に伸びる。
 芦田川を下ると瀬戸内海であり、海上交通の中継地として栄えた鞆の浦がある。

 その鞆の浦エリアにあるのが②の沼名前神社である。旧社格では国幣小社で、祭神は大綿津見命と素佐之男命。俗に「鞆の祇園社」と呼ばれ、神功皇后が大綿津見命を勧請したという創祀伝承をもつ。
 しかし中世の記録が無く、前身を渡明神(渡守明神)とする説が出されるが、祭神の食い違う文献があり問題を残す。明治期に当地の祇園社に渡守明神が合祀され沼名前神社と称した。この祇園社は天長年間(824-834)、または保元年間(1156-1159)の創祀と言われ、『備後国風土記』の疫隈國社に比定されるという[3]

 この説に則れば、②の祇園社が大綿津見命を祀った神社(渡守明神)と直接的な関係があると立証するのは難しい。しかしこの由緒からは、祇園社に海神を併せ祀ることに信仰的不自然さがないことが示唆されており興味深い。素佐之男命が男性神であることに着目すれば、あるいは「神功皇后」や「大綿津見命」は、水神・海神という部分だけを共有する形で元来の伝承から改変された部分かもしれない。
 瀬戸内海にはイチキシマ姫の鎮座地探索伝説や、貴人が水神に助けられる伝説が少なくない。それらは龍神を祀っていたとされる神社で多く見られる(龍神を信奉する巫女の伝承だったものが、記紀の(天津神系の)水神を奉祭する貴人の伝説として上書き定着した可能性)。四国には海上安全で名高い金刀比羅宮もある。その祭神は龍蛇神大物主神(金比羅大権現)である。「神功皇后」を祀る宇佐八幡宮には比売大神(の一柱)として「市杵嶋姫命」も祀られている。八幡神は言うまでもなく源氏の氏神である。源氏側の為政者が赴任すれば、当然その地で氏神を拝む機運が高まる。そうして龍蛇は悪神として放逐されたり、属性だけが共通する別神へ吸収されていったのである。

Ⅳ【増殖する祭神】

 承平五年(935)六月の官符によると、八坂鄕(現在地)に方一町の地を占めた觀慶寺(一説に祇園寺)の境内に、五間檜皮葺《goken-hiwadabuki》の神殿一宇を建て、天神(祇園天神)、婆利采女《Harisaijyo》、八王子を祀っていたとある。そしてこの神殿(境内社)の方が有名になって祇園感神院として定着したとされる。
 これによれば寺院の境内地に社殿が建てられたことになる。一般的にそういった神は護法善神に位置づけられるが、「天神」というやや曖昧な表記になっている。
 また牛頭天王という名は見られず、代わりに「天神」「婆利采女」「八王子」といった名が見られる。
 先に紹介した創祀伝説がある程度正しいと仮定すれば、ある時期から複数神の合祀形式に変容したことがうかがえる。
 この点については『神道集』の記述が参考となる。

Ⅳ-1、『神道集』-「祇園大明神事」(南北朝期成立)

 「牛頭天王、武答天神王等部類神也」とあって、記紀の神祇とは異なるインド系の神であることを記している。(以下引用は『神道大系 文学編一 神道集』による)
 「御本地、男體藥師、女體十一面云」
 この記述からは御神体が男女二種類あったことがわかる。
 牛頭天王については次のような記述もある。
 「牛頭天王名、此則吉祥波利采女武答天王申是也。此龍王五人御娘在、第一、大自在天夫人也。第二、陰大女名、卽波利采女云是也。第三、須彌山王夫人也。第四、琰羅王夫人也。第五、文殊教依、南方無垢世界成等正覺八歳龍女申卽是也。」
 この記述では「吉祥波利采女」と「武答天王」の合一を「牛頭天王」と称したようにも読み取れる。あるいは同人異名を表し牛頭天王=吉祥波利采女=武答天王の意か。(ただし波利采女は次女の名としても出て来る)
 そしてその牛頭天王が「龍王」だとはっきり示している。更に「波利采女」は娘(次女)だとわかる。
 五女の「八歳龍女」は『法華経』にて娑竭羅の女(娘)と語られるので、ここで言う「龍王」とは娑竭羅龍王であると推定できる。
 このあと、蘇民将来にまつわる逸話がある。

 牛頭天王の姿態については次の如くある。
 「凡牛頭天王者、三百四十二臂也。頂上牛頭、右手把鉾、左手施無畏印結、數多從神圍繞。東王父、西王母、波利采女、八王子等也」
 龍王でありながら牛頭というのはかなりの異形である。
 欽明天皇の御代(539-571)、賀茂大神の祟り(暴風雨)を鎮めるために、人が猪頭をかぶって走るという祭が行われた記録がある(『本朝月令』)。これは陰陽五行説に則った儀式だとする説がある。[4]

 仏菩薩との関係性については次の如くある。
 「本地藥師如來十二神將」
 「佛、文殊師利告、卽此天王藥師如來變現也。左面日光菩薩、右面月光菩薩、頂上牛頭妙法蓮花經也。兩臂十二神將、亦十二大願意也。左足東方淨瑠璃世界、右足西方極樂世界。東王父神普賢菩薩、西王母神虛空藏菩薩、波利采如十一面觀音也。」
 垂迹や権現・変現というのは仮の姿であるから、この記述で重要なのは本地仏の藥師である。藥師如來の脇侍は日光・月光菩薩であるから、ここに示された姿は三身が一体化した姿と言える。藥師如來は比叡山延暦寺の本尊でもあったが、ここでその頭頂に妙法蓮花經を戴くというのも、ただの藥師ではなく天台寺院と関連の深い藥師であることを指摘できる。ただ藥師像の作例としては右手・施無畏印を通例としており、こういった点も含めて従来の藥師信仰から大きく乖離した(ベースとした)独特のものである。それが「變(変)現」という語によく表されている。

 また蛇毒氣神についての記述も見られる。
 「蛇毒氣神王及海龍王、亦本地彌勒・龍樹二菩薩也」
 この神と龍王は唐突に出て来るが、「數多從神圍繞」の中の「八王子等」の「等」に含まれるものである。つまり、牛頭天王の眷属である。牛頭天王の下位に蛇毒氣神を位置づけるのは陰陽道の文献『簠簋内伝』でも踏襲されている。(詳しくは次節で述べる)
 しかるに、八王子については「本地皆異説」としている。
 いづれにせよ、『神道集』記載事項とはいえ、多臂で武器をもち印を結ぶその姿態は、真言密教の影響が色濃く反映された姿と言える。(八王子の神名は「武答天神經」によると陰陽道と関連が深い)
(*以上引用文はカナを省き句読点を適宜追加した)

<八王子とは>
「ある神の八柱の御子神ないし眷属神のこと。」(『神道史大辞典』)
 また宇気比系の八王子と祇園系の八王子がある。
 宇気比系の八王子とは、天照大神と素盞嗚尊の誓約によって生じた男神五柱と女神三柱を指す。そしてこの三女神が宗像三女神である。

『祇園牛頭天王縁起』
 「天王は龍宮で八箇年の間に相光、魔王、倶魔良、徳達神、良(羅)侍、達尼漢、侍神相、宅相神らの八王子を儲けたとあり、それぞれに釈迦・文殊・弥勒・観音・薬師・普賢・阿弥陀・地蔵と本地を定めているが、八王子を合せて本地を文殊とする説もある。」(『神道史大辞典』)
 祇園系の八王子は陰陽道系の八王子と言って過言でない。陰陽道の影響が昂じた原因として、陰陽師・安倍清明の子孫が祇園社に入ったからだとする説もある。(『祇園信仰事典』p.417)

 その陰陽道の諸神に祇園社の神々を当て嵌めたのが晴明に仮託された『簠簋内伝』《hokinaiden》(五巻本)である。
 そこに記された牛頭天王の逸話は『風土記』の内容を増広したようなものだが、八王子の一人に蛇毒気神の名が見られる点が面白い。
 結末の部分は、牛頭天王がなぜか自ら疫神になると宣言しながら、災いを回避するための五節句の祭礼は、一族もろとも皆殺しにしたコタンの調伏だと説いており謎である。

Ⅳ-2、蛇毒気神と八岐大蛇

 八坂神社の祭神は時代や文献によってかなりの差異が見られ、中でも『本朝世紀』の「蛇毒気神」、『扶桑略記』の「蛇毒気大将軍」、そして『二十二社註式』の「東間 蛇毒気神龍王女。今御前也」が注目される。[5]
 この仰々しい名の神はいったい何であるか、座右の辞典類には記載が無く読み方すら不正確であったが、ネットで検索すると調べられている方が何人かいらして参考となった。(dadokuke-no-kamiと読むらしい)
 それによると、『簠簋内伝』に伝承があるほか、八岐大蛇説は一条兼良が十五世紀に出して居るらしい。[6]
 『簠簋内伝』の伝承というのは恐らく八王子の一人として登場するという部分であろう。
 また三井寺のサイト内コンテンツ「新羅神社考」では、主神の牛頭天王が「本来は龍体の神であったらしい」との驚くべき説を載せている。[7]
 これも『簠簋内伝』巻二にある盤牛王神話の記述を指しているものと推察されるが、『釈日本紀』に龍穴があるという記述を受けての連想という風にも読めるので確証とまでは言えない。

 総合的に勘案すれば、ヲロチは祀られて居たというよりも、牛頭天王と素戔嗚尊が、そして婆利采女と稲田比売命が習合させられたように、蛇毒気神に習合させられたと見るべきではなかろうか。(そこから更に八柱御子神に変化して、龍蛇的要素は文字通り秘される)
 しかしながら婆利采女は牛頭天王の娘であり、稲田比売命は素戔嗚尊の妻なのであるから、既にして矛盾が生じている。ただし、娘→妻という属性変化は十分ありえることである。

 『二十二社註式』の「今御前」(西間の奇稲田媛は本地が「本御前」とあるが、東間は垂跡が無記載で表記も逆転している)に注目すれば、境内社に「美御前社」《utukusi-gozen》があり、宗像三女神が祀られていることと関連があるか。
 これは主祭神だけでなく、それを取巻く相殿神にも混乱があったことを物語る。
 宗像《Munakata》の三女神は言うまでもなく海にちなむ神である。そのうちの一柱・イチキシマヒメは嚴島《Itukusima》神社の主祭神として知られる。その祭神も神仏習合時代は弁才天と称され真言密教の影響を蒙っていたが、更に遡れば龍神と天台宗(山王神道)の痕跡を見出せるのである。(嚴島の龍神信仰についてはいづれ別記事で採り上げたい)
 なお、菅原道眞の霊を鎮めるために建てられた北野天満宮も、相殿東座に中将殿(一説に道眞の長男)、相殿西座に吉祥女(道眞の正妻)を祀り、夫妻と子供という三神形式である。
 ただし筆者は御霊神社に代表される御霊信仰の御霊と、八坂神社の御霊及び御霊会は性格を異にするものと考えている。この考察については記事を改めて行いたい。

Ⅴ【御霊信仰と神泉苑】

 平安時代には既に朝廷の崇敬を得て一定の地位を固めるに至っていた祇園社であるが、天禄年間(970-973)に圓融天皇の勅で始まった三基の神輿の渡御を伴う御霊会は年を追うごとに盛んとなり、京を挙げての大祭となっていった。特に真言僧や陰陽師が雨請いの儀式場とし、空海が龍女を勧請したとも言われる神泉苑に巡行する点が注目される。
 しかし天延二年(974)には南都興福寺から北嶺延暦寺の管轄下に入り、天台別院となった。[8]
(別院とは本山寺院に準ずる格別な寺院として、本山寺院とも一般寺院とも区別する称号)
 この微妙な齟齬に関しては、天台宗の密教化を挙げることもできるが、どちらかというと天台宗(比叡山)の衰退に伴って神道側が真言密教との癒着(習合)を強めたと観るほうが実状に近いだろう。それは嚴島神社もそうだし、三輪明神もそうだからである。(両社とも真言宗との接点が多いが、その信仰の推移を遡れば山王神道の痕跡に辿り着く)

 信仰のキーワードは御霊信仰だったようで、北野天満宮と伴に二代御霊霊場となった。
 門前町の発達により商家の信仰が昂じると、一般の商人が神人《jinin》として神社に所属するようにもなったという。(神人は下級神職であり主に雑役や警固などを担った。寺院でいう僧兵に近いもの。祇園では穢れを伴うような雑役を専門とする犬神人も存在したことが知られる)

 なぜ神泉苑を経由するのか。
 恐らくこの謎を解く鍵は、祇園社の本殿直下に存在する龍穴である。

Ⅴ-1、神泉苑の伝説

 空海が神泉苑にて請雨経の法(雨乞)を行った際に、ヒマラヤ山脈の更に北(カイラス山の南)側にある阿耨達池[Anokudattchi]から善如(女)龍王を勧請し雨を降らせている。その姿は四五メートルほどの大蛇の頭部に三〇センチ余りの金色の龍が乗っていたとされる。(『本朝神仙伝』)
 善女龍王は清瀧權現とも言われるが、清瀧權現は空海が密教を伝授された青竜寺(唐)の鎭守神であった。また娑竭羅龍王の三女という説もある。(『仏尊の事典』)
 密教及び修験道で重視された龍王(龍女)であるが、娑竭羅龍王の三女は『神道集』では「須弥山王の夫人」であって食い違う。
 いづれにせよ、この伝説には「インド北方-唐-空海」という密教由来の龍王ラインを看取できる。
 このように龍と関係が深い一方で、怨霊を鎮める御霊会もなぜかここで行われているのである。元々は平安京造営時に造られた宮中の附属庭園に過ぎなかったのにである。
 ところで『今昔物語集』(平安後期成立)には神泉苑付近で怪異に遭遇した人の逸話があり、そこでは「雷鳴」「龍」といったモチーフが語られ、神泉苑の龍が御霊の如く人に災いを為す存在であるかのように描かれている。(『今昔物語集』巻24「忠明治値龍者語第十一」)

Ⅵ【祇園龍穴について】

 八坂神社の龍穴については、不思議なことに『神社辞典』『神道史大辞典』とも八坂神社の項には一切出て来ない。わずかに『神道大辭典』が「龍穴」の項で触れる程度であり、辞典類でも扱いに差がある。
 それによると、龍穴は「宝殿内」にあるとする。この宝殿とは、平面図の本殿内部に「小宝殿」と書かれるものであろう。その前面が内々陣で周囲は廻廊があるようである。
 文献によってはまったく触れられることなく、また外部から視認もできないので、広く認知されているわけではないが、八坂神社では龍穴の存在について「東山の地は、青龍の宿る処であり、その本殿下には龍脈が溢れ出る龍穴があると伝えられています。」と公言しており[9]、『祇園信仰事典』には本殿改修時に撮影された写真も掲載されている。
 中でも興味深いのは、この龍穴が神泉苑と通じているとする説で、御霊会の神輿が巡行することは、龍蛇神が川を下って女性と交婚した説話をほうふつさせる。

 龍穴の存在を重視するなら、当然社殿建立以前から存在したわけであり、わざわざ封印するかのように社殿を建てた点も看過できまい。
 奇しくも貴船神社奥宮と同じ形式であることや鴨川からも近いことを鑑みれば、龍神(水神)や巫女の移動拠点の一つであったことも考えられる。(交通網から観ると、四条通の東の突き当たりに位置し、南北に延びる東大路通りと連結する)
 八坂神社から更に辰巳に目を移すと、清水寺に近接する地主神社がある。ここも龍神と縁の深い神社と言われている。

 素戔嗚尊に龍の要素が無いにもかかわらず、素戔嗚尊を祀る神社で「青龍の神気」も受けられると言われる点は重要である。
 更に言えば、素戔嗚尊・櫛稲田姫命・稲田宮主須賀之八耳神は、記紀の八岐大蛇《Yamata-no-worochi》のシーンで登場する顔ぶれであるが、龍の要素が最も濃いのは言うまでもなく八岐大蛇である。
 素戔嗚尊が天降って八岐大蛇を殺し、国津神の姫と交婚するのは出雲の地であるが、大陸から渡来した神と京都に点在する龍神の余塵も、どこか出雲神話と通底するものを感じて止まない。

06北礼拝所
 本殿裏手は通路があり、中間地点になぜか礼拝所が設けられている。これは出雲大社の本殿の裏手を通って西側に廻り、祭神に最も近い位置から参拝する手法と似ており、恐らくここが最も龍穴に近いパワースポットである。

Ⅵ-1、後戸と礼拝所

 八坂神社の特異性は、その社殿様式についても言える。
かなり複雑かつ独特の様式で、寺院の如く内陣をもち、拝殿と一体化した形(祇園造り)となっている。特に内陣北方七間が「後ろ戸」になっている点が注目される。
 後ろ戸(後戸)については、小田雄三の論考がよくまとまっているので、小田氏の論文から参照・引用させていただく。
 「「後戸」は、寺院の堂舎内部の本尊の背後の空間あるいは場所を指示する歴史的名詞であって、なかんずく中世に特有な用語であった(後略)」(『仏教民俗学大系8 俗信と仏教』p.331)
 祇園社の本殿裏手(北側)に礼拝所があることと併せて考えてみると、この礼拝所は龍穴に近いだけでなく、「後ろ戸の神」を礼拝するための場でもあった、と考えてもよいだろう。
 後戸に関する様々な記録が紹介されているなかで、特に興味を惹いたのは『古今著聞集』の蓮華王院の伝承である。それは次のような出来事であった。「[永万元年/1165年]六月八日寅時(午前二時)、蓮華王院(ふつう三十三間堂と呼んでいる)の後戸に泉が湧き、貴賤こぞってこれを汲んだという。」(前掲書p.334)
 蓮華王院も東山区にあり鴨川と東大路通りの間に位置している。まさに龍脈が走り青龍が宿る地・東山を印象づけるかのようである。しかも蓮華王院から南へ600mほど下ると、貴船神社と縁の深い瀧尾神社がある。
 なお、平安時代に辰巳の鎮守だったのは伏見稲荷である。

 こうした伝承を踏まえれば、祇園龍穴は本殿の下にあるというよりも、祇園感神院の後戸(本尊背後の空間)にあったというのが正しいかも知れない。
 小田氏によれば、後戸で重要なのはそこに祀られた神(後戸の神)ではなく、その大地(に潜む神)及びその空間に出入りし籠もる人々であると指摘されている。[10]
 そこに潜む神は、東山脚部の産土神であった。それを都の整備にあわせて東方の守護神として使役したのだとすれば、祟り神になりうる要素も、その解消のための慰霊祭も当然生じてくるだろう。度重なる社殿の焼失もそれに拍車を掛ける。さすれば、空海がヒマラヤから勧請した龍女が棲むという神泉苑への神輿の渡御も、龍神の・年に一度の邂逅を企図したものだったのではなかろうか。

 後戸での祈願が穢れ・浄めの問題と表裏だったという点では、祇園社の信仰主体は犬神人や遊女たちだったのではなかったか。
 牛頭天王の頭頂が悪人ダイバや龍女の成仏を説いた妙法蓮華經だという記録もまさにそうである。牛頭天王は貴種でかつ善良でありながら、鬼のような異形のため嫁が見つからなかった。託宣(使者)により提示された相手は龍女であった。そしてその子供(八王子)は後の世に災いを為すとも言われた。蛇毒気神(蛇毒気神龍王女)という名前は極めて象徴的である。
 穢れに直接触れる人々と疫病とは、当然その関係性を疑われたであろう。
 八坂神社の御霊会は、穢れに触れながら生きる人々への慰労の意味も多分にあったのではないか。だからこそ町衆が主体的に参加し、都の外である鴨川の東から大内裏の膝元である神泉苑を訪れたのである。それは祭神の移動でありながら、同時にそれを担ぎ牽引する人々の移動でもあった。

 牛頭天王・龍女・八王子といった異形の家族観は、そのまま彼らの理想であり、救済となったのである。

Ⅶ【五社の龍神】

 なお髙龗神(龍神)が本殿後方の「五社」と呼ばれる社殿に祀られているので合せて参拝したい。
 そのほか龍神関連として、水脈の御神水で清めたという「青龍石」を頒布している。(まことに残念ながら欠品していて筆者は入手できず・・・)

04「五社」

左から
水神社:髙龗神、罔象女神
天神社:少彦名命
風神社:天御柱命、國御柱命
竈神社:奥津日子神、奥津日売神
八幡社:応神天皇

Ⅷ【近代以降の祇園天神(八坂神社)】

 明治元年、薬師堂(觀慶寺)を撤去し、末社の位置にも変更が加えられている。境内地も減少した。(東の円山公園も元は境内地だった。)
 明治四年、八坂神社へ改称。官幣中社に列す。
 大正四年、官幣大社に列す。
 毎年六月に行われてきた祇園御霊会は明治以後七月に変更された。(六月十五日は例祭)
 伝運慶作木造狛犬は旧国宝。



円山公園の池
十二月だったので紅葉はほぼ終わってました。

補①【建築】

 現本殿は承応二年~三年(1653-1654)に再建したもので、昭和期に復元され、平成14年(2002)に大規模な改修が為された。

08
 楼門は西大門と呼ばれ明応年間(十五世紀末)の再建。近年では平成19年(2007)に大規模な改修が行われている(重文指定)。表参道ではないが参拝者の多くはこちらを通る。

補②【境内の末社】

09
 末社も多く、日吉社の存在は延暦寺別院となったことにちなむであろう。祭神は大物主神。
 刃物神社は比較的新しいようだが、発達した門前町の名残を感じさせる。祭神は天目一箇神。


 三女神を祀る美御前社(うつくしごぜん)は元禄期に栄えた遊里の遊女たちに支えられた。
 その他荒魂を祀る悪王子社、後見殿と呼ばれていた大國主社や、蛭子社、稲荷社などがある。
 五社については祇園龍穴の項で触れた。

結:八坂神社の役割

 ここまで記事を読んできて、八坂神社に対し複雑な印象を懐いた人も居ることだろう。
 しかしここにつらつらと記した事柄は、文献記録を寄せ集め、その行間を推測したものであって、それは過去に生きた人々の信仰の一端に過ぎない。
 私個人が実際に現地を訪れてみた感想としては、境内の雰囲気は非常に良いものであった。参詣者は多く、外国人観光客が絡んだトラブルの報道もあったが、ここには龍穴があり、パワースポットであることは疑いない。
 ただ複雑な歴史も相まって、表向きの情報が少なく(偏りがあり)、「妙に整えられている」感を受けた。
 それは祇園(日本有数の花街)という土地柄とも無縁ではないのかも知れない。(たしかに過去や素性を根掘り葉掘り探るのは野暮というものである。しかし身体に龍の刺青があると聞けば龍好きの小生としては観てみたいと思うのが性である)

<近隣の紹介>

辰巳大明神

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 『KYOTOdesign』というサイト(https://kyoto-design.jp/spot/2894)によると、辰巳稲荷ともいうらしいが、祭神は「たぬき」という伝説があるらしい。

井筒八ツ橋本舗(カフェ・土産)

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 1Fがお土産屋で2Fがカフェになってます。
 四条大橋の交差点から北へすぐ。鴨川沿いにあります。
 最寄り駅は京阪本線「祇園四条」駅・北改札・8番出口。バスは「四条京阪前」停留所。
 八坂神社からは約600m。歩いて行けます。

 

註・参考文献


[1]薗田稔・橋本政宣 編『神道史大辞典』(吉川弘文館/2004)九六九頁。
[2]白井永二・土岐昌訓 編『神社辞典 第三版』(東京堂出版/2005)一八四頁。
[3]上同書/二六七頁。
[4]少年社・福士斉 編『陰陽道の本』(学習研究社/1993)一二九頁。
[5]真弓常忠 編『祇園信仰事典』(戎光祥出版/2002)三四頁。
[6]名古屋神社ガイド「ダドクケノカミ 蛇毒気神」(https://jinja.nagoya/kamisama_jiten/dadokukenokami)2024年3月閲覧。
[7]三井寺「連載:新羅神社考-京都市の新羅神社8-」(http://www.shiga-miidera.or.jp/serialization/shinra/147.htm)2024年3月閲覧。
[8]下中彌三郎 編『神道大辭典』第三巻/三五八頁。
[9]八坂神社「限定青龍朱印袋裏書」(2023年現地入手)
[10]小田雄三「後戸の神」(宮田登・坂本要 編『仏教民俗学大系8 俗信と仏教』所収稿/名著出版/1992)三三八-三四三頁。

【引用・参考文献】
下中彌三郎 編『神道大辭典』第一巻(平凡社/昭和12)
下中彌三郎 編『神道大辭典』第三巻(平凡社/昭和15)
秋本吉郎 校注『日本古典文学大系2 風土記』(岩波書店/昭和33)
神道大系編纂会 編『神道大系 文学編一 神道集』(神道大系編纂会/昭和63)
伊藤清司 監修『ふるさとの伝説七 寺社・祈願』(ぎょうせい/1989)
宮田登・坂本要 編『仏教民俗学大系8 俗信と仏教』(名著出版/1992)
少年社・福士斉 編『陰陽道の本』(学習研究社/1993)
小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守 校注訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀1』(小学館/1994)
関根俊一 編『仏尊の事典』(学習研究社/1997)
馬淵和夫・国東文麿・稲垣泰一 校注訳『新編日本古典文学全集37 今昔物語集③』(小学館/2001)
中村元・福永光司・田村芳朗・今野達・末木文美士 編『岩波仏教辞典 第二版』(岩波書店/2002)
真弓常忠 編『祇園信仰事典』(戎光祥出版/2002)
薗田稔・橋本政宣 編『神道史大辞典』(吉川弘文館/2004)
白井永二・土岐昌訓 編『神社辞典 第三版』(東京堂出版/2005)
『古社名刹・巡拝の旅6 祇園 京都』(集英社/2009)

その他、八坂神社公式サイトや境内案内板を参照した。