旧称:江島明神、江島弁天
旧社格:県社(現:別表神社)
【祭神】
田寸津比売命[辺津宮](下ノ宮)
市杵島比売命[中津宮](上ノ宮)
多紀理比売命[奥津宮](本宮)
「相模の江島は天龍八部の造る所、辯才天女の霊体なり。」という書き出しから始まる。以下に梗概を示す。
安房、武藏、相模の境に深澤と呼ばれる四十里の湖があり、猛悪の五頭龍王がいた。
神武天皇の時代から垂仁天皇の時代にわたる七百年余り、この悪龍は風伯、鬼魅、山神等を伴って、山を崩し洪水を出し、国土に災害を為した。景行天皇の時代には東国に火の雨を降らした。その後も龍・鬼結託して大臣に悪事や乱逆をなさしめたり、人の児を喰らったりした。
欽明天皇十三年壬申四月十二日戌刻より二十三日辰刻にいたるまで、西岳江野の南海海上を雲霞がおおって、日夜大地が震動したかと思うと、その雲上に天女が顕現し、童子が左右に侍り立つていた。
更に諸天、龍神、水火雷電(の神)、山神、鬼魅、夜叉、羅刹が雲上に従い、磐石に降る。
海底沙石を挙げ、電光天に耀き、火焔白浪に交じり、やがて雲霞が散り去ると海上に島山が顕れているのが見えた。
降臨した天女は無熱池龍王の第三の娘なり。
五頭龍はこの辨才天女を見て欲念を起こし迫ったが、天女は生命を害す悪龍であることを理由に拒絶する。龍は今後は凶悪な心を起こさず殺生をやめると答える。天女はこれを受け容れる。龍は南に向って山に成った。これを龍口山と人は呼んだ。また子死方明神と号す。
辯才天は方便力をもって龍の猛悪を降伏し、衆生を救護するために、所化が島を作り、権迹を垂れた天女である。江島明神と号す。
(参考:田中亞美「辯才天の惡龍敎化と龍口明神 -江島緣起說話の成立をめぐって-」『東洋の思想と宗敎』巻38(2021/早稻田大學東洋哲學會))
この縁起で注目されるのは、龍王の娘が天龍八部とは別であり、天龍八部が造る島が辯才天女の霊体という点である。後半で語られる天女と悪龍の交婚も含めて、男女や善悪、身霊の入り混じる一体化が繰り返し示される。仏菩薩は登場せず、従来の本地垂迹思想よりも踏み込んで辯才天が更に権迹を垂れる。背景にあるのは方便の重視と密教等の合一思想、本覚思想である。
寿永元年(1182)四月、源賴朝が開運祈願のため文覺に命じて島の岩窟に辨財天を勧請。(『東鑑』)
同年、北條時政が岩屋に籠もって祈願した折、龍神より玉を授かり、家紋を三つ鱗紋に定めたという伝承がある。(社伝)
以後、鎌倉幕府ならびに武家庶民の尊崇を集めた。
建保四年(1216)正月、託宣ありて大海たちまち通路となり、鎌倉の万民こぞって参拝し、将軍は三浦義村を派遣した。同年三月、将軍實朝の御台所参詣し、安貞二年(1228)には将軍賴經が参拝している。
慶長五年六月には家康もこの岩窟に入って祈願したという。徳川幕府は奥津宮に十五石、辺津宮へ十石八斗余、中津宮へ十石の朱印(領地)を寄せており、奥津宮が重視されていることが窺える。
別当は岩本院、上ノ坊、下ノ坊の三つがあった。
八臂弁財天像ほか多数の宝物を有するが、中に『法華経』一巻があることが注目される。(以上参考:『神道大辭典』『神社辞典』)
日本三辨天(嚴島・竹生島・江島)の一つとも言われるが、鎌倉期以前は江島ではなく天河という説もある。(*詳細は調査中)
一般的には隨身門[zuijin]と書き随身像(矢大臣・左大臣)を置く。裏面に狛犬が配されることもある。像ではなく絵画なのも珍しいが、唐獅子だけなのも習合色の強い影響を物語る。
この日は岩屋の入場ができず、時間の関係で予定も変更したため奥津宮も参拝できず写真はほとんどありません。また機会があれば訪れたいですね。(龍口明神も行けなかったので)
八臂辨財天は奉安殿にあり。(要拝観料)
境内の展望台から