連続講義:仏教学概論【第八回】輪廻転生と覚り

思想・哲学[東洋]

 輪廻転生(生と死を繰り返す)という考え自体はインドにおける死生観として仏教が登場する以前からあった思想です。
 死後の世界に対する考え方を少し比較してみましょうか。

①アーリヤ人の死生観
 アーリヤ人(ガンジス川上流で文化形成を担った西洋系の牧畜農耕民)は、人間は死んだ後にヤマの国へ赴く、と考えました。このヤマ(yama)を音写したのが閻魔えんまです。ヤマは古い神でインド最古の文献『リグ・ヴェーダ』にその名が見られます。日本で言うと『古事記』に出て来るカミさまみたいな感じですね。
 その『リグ・ヴェーダ』によれば、ヤマは虚空の遙か彼方に住み、死者を統括支配する存在とされます。ところが後になると、下界つまり我々の居る人間界へ下りてきて、死者の霊魂をヤマの国ヘ連行する死神のような存在と見做されていきます。
 そうしますと、このヤマ=閻魔は、死者の進路と関わるという点から地蔵信仰と融合し、更に漢土で道教と混淆するなどしたため、再び固定的なカミになります。地獄に居て審判を下す王(俗に言う閻魔大王)というのがそれです。
 それが日本へ伝わったから、日本でもそのイメージで定着しました。しかし記紀神話では既に冥界(黄泉よみ)の女王としてイザナミの存在が語られていたため、イザナミの本地仏が地蔵とされながらも習合するまでには至らなかったようですね。閻魔と性別を同じくするオオクニヌシにも冥界を統べるイメージがありますが、表舞台に立たない三者は独立したままひっそりと信仰されて今に到ります。
 むしろ道教が混じる前のヤマと親和性が高いですが、日本の習合は漢土でよく見られがちなキメラ的な合体や陰陽五行的な相関関係ではなく、本地と垂迹のような表裏関係に重点がおかれていきます。だから矛盾が少ないというか、AとBの継ぎ目がはっきりしていないことが多く、対立を抑えて並立することが可能となっていますね。記紀神話の段階ではまだAを殺してBを立てるというようなやり方ですが、仏教思想が浸透することで対立や矛盾的要素を両面的両義的な観方で捉えるようになっていきます。ただそこに陰陽道なども絡んでくるので複雑というか非常に多義的にはなりますね。例えば単体の漢字を、組合わせによっては日本独自の読み方で読むようなニュアンスといえば伝わるでしょうか。

②五火二道説
 次に、クシャトリアの王プラバーハナがバラモンの哲学者ウダーラカ・アルーニーに説いた五火二道説を見てみましょう。これは死後の過程を説く五火説とそのルートを示す二道説からなるものです。
 二道には、天道と祖道があり、修行者は死後天道の方へ行きブラフマンと合一するとされます。ブラフマンはここでは全宇宙といったような意味です。
 修行者以外の人たちは祖道行きです。ご遺体が焼かれると、その煙に乗って月の世界へ向います。ここが面白いですね。月が死を象徴する世界と認識されて居ます。
 月へ上がった死者は、雨と一緒に地上へ降りてきます。そうして作物に附着し、男性の体内へ取込まれます。それから男女のまぐわいにより女性の胎内へ宿り、次の命として生まれる。輪廻といえば輪廻ですが、どちらかというと、循環のイメージですよね。より自然に近い。人も自然の一部という感じが強い。
 土から生まれて土へ還るという言葉がありますが、それをよく体現しています。
 米も野菜も土から養分を摂って居ます。それを育むのが雨です。雨は海から発生した雲が降らせます。雨は山に染みこんでモリを育み、養分を含んだ水が川に流れます。その川から水を引いてくる。そしてまた海へ――。何処か一つを壊すと全てに影響が及びます。
 こういう輪廻観もなかなか良いですよね。死んだら月の世界へ行き、雨と伴にまた大地へ帰る。生きて居る人に食べられてその人の一部となる。この世に無駄な人など居ない、自分が死んでも誰かの糧になるという死生観です。

③ジャイナ教
 次に、ジャイナ教の輪廻を見てみましょう。
 ジャイナ教では、地獄界・動物界・人間界・天界の四つの世界を輪廻すると見立てます。二道から四道に増えました。更に循環ではなく各界が固定化されます。人間が人間以外に生まれ変わる可能性が出て来ました。それは、人間以外のイキモノの前世も人間の可能性があることを示唆します。
 また、生きて居た時の行い(ごう)によって進路が決まるとされ、平等性が失われていることがわかります。
 先に述べた五火二道説の「月の世界」は、天界に該当します。つまりジャイナ教の世界観では地獄界と動物界が追加されたと言えます。この地獄界――死後も苦しみだけが続く世界――の存在が大きい。死者の選別(差別)が始まった、とも言えるでしょう。
 この考え方で言えば、現世に今生きて居る自分というのは前世の結果に拠るものだ、となります。その自分というのが惨めで憐れならば、一種の罰ゲームを課されていると解釈され、だから何としても解脱したいと思うわけです。

④仏教
 仏教では、ジャイナ教の輪廻観を更に発展させて六道を説きます。
 ただし、釈尊自身は人が死後に輪廻転生することについて肯定も否定もしていません。この点は押さえておきましょう。
 さて、六道というのは、地獄界・餓鬼界・動物界・阿修羅界・人間界・天界です。このうち阿修羅界は大乗成立以前には無かったと言われますので、実質的には五道です。そうすると、既存の四道から最初に追加されたのは餓鬼界ということになります。
 餓鬼というと、どのようなイメージをもつでしょうか。
 漢字では「餓えた鬼」と表記され、また絵草紙等の影響もあって、死体を貪る腹の膨れた醜い裸形を想起する方が多いかと思います。
 しかし本来は浮遊霊のことを指しました。だからイメージとしては、転生できずに幽霊のまま彷徨い続ける、それも恐らくは恨みとか悲しみとかいった負の感情を一つだけ懐いたままで。
 そのような、ただ一つの無念を抱えてさ迷う存在に「餓えた鬼」という漢字が当てられたんですね。
 鬼というのは結構概念的には厄介なモノで(これも説明し出すと切りが無い)怪物的なイメージに染まっていますが、本来は「実体を持たない存在」と捉えておくと良いでしょう。人間の死生観ですから、やはり人間離れした怪物よりも霊魂をベースに考える方が近づける(解像度が上がる)と思います。
 ですから一般的に鬼として想起される姿・イメージというのは、概念的・霊的だった悪しき存在に、実体を与えたモノだと言える。分かりやすい例で云うと、病気がそうですね。昔風に言うと疫病(流行病=伝染病)です。西洋のペストが吸血鬼になったのもまさにそうです。

六道絵(タンカ)
 六道絵(チベット仏教のタンカと呼ばれるもの)を見てみると、大きな円の中にそれぞれ均等に分割された六つの世界が描かれて居ます。更にこの円に三ツ目の大きな鬼がしがみついていて、その全てから離れたところに仏らしき姿が二人描かれています。

 よく見ると、それぞれの世界の中にも仏が描かれています。更に多重の円になっていて、そこにもいろいろ書き込まれています。
 面白いのは、すべての世界が怪物のもつ円の中にあるってことですね。怪物の意志で回すこともできるし、バランスを崩して動いてしまうこともあるでしょう。それは人間の意志ではどうにもならない定めを表現しているように思えます。
 一方で、仏は雲に乗って居るので円の中・外、各界を自由自在に動いて、しかも円の動きによる直接的な影響を受けないことが想像されます。
 ちなみに、私が描いたこの絵は、検索して出て来た画像を適当にいくつか見ながら混ぜて描いたものですので、あまり正確なものではありません。鬼の色も赤いのと青いのがありました。構図だけ参考にしてください。
 上が天界、左上が人間界、右上が阿修羅界、下が地獄界、右下が餓鬼界、左下が動物界です。五道のものも少ないですがあるようです。

 実際に描いてみて気づいたことですが、それぞれの世界は完全に断絶しているわけではなくて、隣合った世界が一部共有されていたりします。例えば、天界と人間界は空と海が繋がっている。阿修羅界の木も上の方は天界にある。地獄界の火が餓鬼界にも一部見られるなどです。それぞれの世界では、そのことに気づかないというか気づきにくい。けれども外にいる仏はそれを俯瞰して観て居る。
 この仏も興味深い。画面上方の角に居る二仏は、全てを俯瞰しながら同時に一切と繋がって居ない。そしてそれらとは別に、各界に仏や菩薩がちゃんと存在する。そういう世界観ですね。
 後は、鬼にしっぽがあるんですけど、これが虎っぽいんですよね。この部分の表現では、しっぽではなくて虎そのものが居たり、虎革の敷物が描かれているパターンもありました。
 鬼は虎革の着物を着けた姿で描かれることが多いですけど、もとは眷属か乗り物だった可能性もありますね。虎は帝釈天の眷属として知られますが、その辺りと関係があるのか、あるいはチベットではまた別の意味を持つのか。陰陽道で、丑寅の方角が鬼門だから鬼の図像には牛と虎の要素が見られるってのはよく知られた話ですよね。
 いづれにせよ、原始仏教では自らの修行と覚りによって輪廻からの解脱は可能である、というのが基本的な考え方ですから、この図のように各界の仏に縋るというのは大乗的な世界観でしょうね。

 輪廻転生を一言で説明すると、死んだ後も終わらないってことです。ある意味永遠の命(の連鎖)が前提になっているとも言えます。
 よくある誤解としては、生前のままで輪廻するという昨今流行りの異世界転生みたいなやつですけど、厳密には違います。この誤解は恐らく地獄のイメージが定着する過程で広まったのかなと思います。
 平安時代、つまり末法に突入してから、頻りに地獄をあおる風潮が強まりました。『往生要集』なんかがその典型ですが、地獄(の恐怖)をあおることで極楽への希求が高まり、浄土思想(現世忌避)やそれを説く僧侶らが注目されます。マッチポンプみたいなもんです。まあでもその御陰で、金持ちの貴族がたくさん寺院を建てたり仏像を造らせたりして仏教美術的すなわち文化的に盛り上がったのも事実です。
 しかし輪廻転生の本質は、皆さんが前世の記憶を持っていないように、繋がっていないようで繋がっているという見立てです。そのように見立てることで現世の生き方を律するという観念、すなわち死生観です。生きながらに、自分が生まれる前や死んだ後の世界にまで思いを馳せるということが重要なんです。(そしてまた安易な自殺が駄目な理由もここにある)
 そうすると、綺麗な海とか、豊かな自然とか、治安の良い社会というのは、一朝一夕で出来るものではありませんから、自分が生まれる遙か昔よりの積み重ねで出来ていて、自分は一時的にそれを借りているようなもので、次の世代にそれをそのまま、あるいはもっと良い形で受け渡す責務があるということが実感されてきます。
 つまり私たちは、一人ひとりが過去と繋がっていて、また未来とも繋がっている。直接的ではなく間接的に。あるいは霊的に。霊という言葉が引っ掛かるなら、精神的とか文化的に繋がっていると言い換えても宜しい。三世の人びとと意識や価値観が共有できている状態。それを伝統と言います。

 ただそれは飽くまで本質の話ですから、その点だけは注意してください。解りやすい例としては、神社に参拝するときの禊ぎが挙げられます。原初的には精進潔斎をしたり川に浸かったりしましたが、今では多くの神社で一般的な参拝は手水を使う方式に簡略化されています。禊ぎという行為の本質だけが共有され伝承されている。本質の部分は濫りに改変したり廃止してはなりませんが、それ以外の部分は時代の変化や社会情勢に合せて臨機応変でも良いということです。
 逆に言えば、そこを上手く調整してきたことで日本人の生活の中に、即ち民俗や文化として、根付いていると言えるでしょう。そして特殊な人びと・集団や、特別な儀式・祭礼のみ古来の様式を踏襲したり復活させます。それがハレや祭りといった非日常空間の現出です。これもまた、過去世の確認作業(記憶の共有化)と捉えることもできるでしょう。
 世俗的にも儀式・祭礼は、おじいちゃん・おばあちゃんと孫たちが、(あるいは地域の老人と子供達が)短い接点の中で、楽しい想い出を共有できる貴重な時間でもあります。家庭や世代を超えて、土地の人びとが一つの意識や価値観を楽しく共有する場は、現代ではもう、お祭りぐらいしか残っていません。
(私は子供の頃、近所のおじさんと年下の子供らと、夜中にクワガタを採りに行った経験があります。皆さんは世代も家庭も違う人たちとの交流の想い出がありますか?)

 

覚りについて
 ここから覚りの話になりますが、仏教では覚りを得ることがイコール輪廻から脱却すること、そしてまた生死を超越することになるのだと言います。
 では、その覚りとは何か。
 ここでは言葉通り・額面通りに解釈してよろしい。つまり仏陀とは「目覚めたもの」であったように、覚るとは「気づくこと」だと。
 何に気づくのか?
 それは先ほど説明した三世との繋がりにということです。世の中はそのような関係性で成り立っており、自分もそのような関係性の中で、そのような関係性として、存在しているということです。それを自覚する。
 この自覚という言葉にも「覚る」という言葉が入っていますね。そして覚りを得た境地(涅槃nibbana=吹き消された状態)というのは、様々な意味・言葉が宛てられて居ます。幸福、不死、穢れなき法、恐れのない場所など。
 これらは皆仏教以前のヴェーダ聖典に由来しますが、その中で最も的確に言い当てた表現として「安穏」が挙げられます。無事で穏やかという意味です。
 何が「無事で穏やか」なのかと言えば、もう生まれ変わらないということです。ここがポイントです。輪廻(という構造・本質)を認知することが、輪廻からの解脱になるというわけです。真理を知ることで一切に囚われなくなるとでも言いましょうか。極めて哲学的です。
 要するに、この輪廻というものを理解すれば、現世での生き方が定まり、一つの指針ができます。先ほど話した五火二道説の循環の例で例えると、自分が汚したり悪いことをしたら、その分町が汚れたり治安が悪化したり法律が厳しくなったり自然環境に影響が出たりするわけです。それは結局自分を苦しめることになってくる。
 しかし自分もその影響を受ける可能性や危険性があるということを理解すれば、行動に悩まなくなる。悩まないから安穏に生きられる。それを突き詰めていくと、自分という存在すら、その社会や環境の中に組込まれていると理解される。

 「自然」という言葉が端的ですが、自づからあるがままに環境や社会、そして三世と、間接的霊的に繋がって、融け込んでいる。そのような状況=意識(観想)が「安穏」であり、また人間としての「生死を超越」している。そういう感覚です。
 そこでは孤独を超越し、自他という区別もない。ところが、日本人は空気を読みすぎるとか、同調圧力という言葉を使って、既存の伝統や社会、自然環境とシンクロすることを否定的に見做し、伝統や社会共同体、自然環境の方を〈現在の〉人間に合せるべきだとする風潮もあります(近年だと森や山を潰してソーラーパネルを敷き詰めるなどが典型例。少欲知足を思い出すべし)。
 しかし、仏教的な観点からすれば、それは我執に囚われた考えであって、そういった改革が思うようにいかないことで、あるいはその改変が改悪となって、新たな苦悩を生ぜしめる。
 間違っていたと気づいてやり直せることならまだ良いですが、自然の復元には何百年も掛かると言いますし、絶滅したイキモノや死んだ命を黄泉還らすことはできません。

 ここまで聴いて如何ですか。
 何だ覚りって意外と簡単そうだと思った人は危ないです。大きな落とし穴があります。
 人はどうしても解釈するイキモノですから。問題はその解釈が正しいか否か。それを判断するには基準がいります。
 ただ、原始仏教すなわち仏教の本来は、いかにして苦から脱却するか、ということが最大のテーマですから、諸行は無常であるということだけ理解すれば良いような気もします。
 しかしその一方で、世界は縁起によって成り立っているとも説くわけですから、その両者のバランスが取れていないといけません。彼女が振り向いてくれないのが苦しい、彼女に実体はない、といって、彼女の首を掴んでグルンとしても、恐らく別の苦しみが生じることでしょう。
 小乗の覚りの反省から大乗が生まれたわけですが、かといって大乗的な思想にばかりウェイトを置くと、何でもありになってしまいます。先ほどの例で云うと人間は修行せずとも既に覚っているというような如来蔵思想がそうですし、一方的な殺害(死)が救済だというような論理(カルト的な思想)なんかもそうです。
 この辺は現代社会の問題とも重なってきます。つまり、目に見えないところで繋がっているということは、逆に言えばそれだけ複雑な関係性にあるということです。

 講義の冒頭で、釈尊は輪廻思想自体について肯定も否定もしていませんと説明しましたが、それは輪廻という考え方(死生観)に囚われていないとも言えます。否定して囚われていないと言うのではなく、証明できないことを考えて思い悩むことから超越している。それは「無我」とも関わってきますね。自分というモノがあると考えるから他人や理想と比較して悩んだり恨めしく思う。来世では良い自分をと意識することでまた縛られて苦しむ。より良く生きないといけないということが、逆に強迫観念の様相を呈してくる。全てが嫌になり絶望して現世から逃避する・・・。あるいは天国や浄土へ行きましょうという甘い言葉に乗っかって思考停止する、多額の寄付をする・・・。これでは本末転倒なわけです。それよりも、自然体・あるがままでいい、それを「肯定的に」受け容れる。

 六道が有るか無いかは死んでみないと判らないでしょう。さすれば当然、それを主張する意図としては罪の抑止という面もあるでしょう。
 しかし、悪い事をせず良い事ばかりしてきたのに現世で全く報われないと言う人、決して少なくないと思います。
 そういう人に信仰、即ちモチベを維持させるため天国へ行けるとか来世は勝ち組だと言ってあげる道徳的な側面(方便)という面もあるでしょう。
 だから善人が天界に生まれ変わるとか成仏するというのは、悪人が地獄に堕ちるとか恨みを残した人が怨霊になるということと表裏の関係です。

 昨今の日本で異世界転生もののエンタメ作品が流行ってるのは意味深ですね。幾つかざっと見ましたが、いずれも神仏は登場せず、業は関係なく、記憶を維持したまま、場合によっては生きたまま転生しています。ご都合主義とか噴飯モノと云ってしまってはアレなので、もう少し仏教的に考察してみますと、大半は現世で報われない主人公が異世界では逆転的な活躍をするというシナリオが多いみたいですから、やはり冴えない人間も希望を棄てずに生きよう的なメッセージが多分にあるのだと推察します。
 宗教者が声高に法を説かなくなった中で(宗教に対する一定の忌避感も相まって)、因果応報や輪廻といった伝統宗教がもつ概念を小説家が若者向けの大胆なアレンジで楽しませてる風にも観れます。宗教は興味ないし日蓮も好きじゃないけど宮澤賢治は好きという図式と若干通じるものがありますね。宗教は信じないけど九星占いは信じるとかもそうですね。
 あるいはそこまで意識的じゃないかも知れません。むしろ現実からの刹那的な逃避としてヴァーチャルな世界で描かれる理想に酔いしれ、クリエイターの「信者」になる感覚。神道や仏教の「世界観」だけを受容する態度。あらゆるものが分類されかつ細分化されていく時代の趨勢において、宗教のなれの果て、習合の極地をみる思いもします。
 信教の自由と称してカルトが暗躍し、伝統と称して形骸化久しい伝統宗教が悪態依然として権威を振りかざす現代日本の宗教界隈において、むしろ健全に死生観の本質を説いて居ると見做せなくもないと云えば、過言でしょうか。

 諦めるというとネガティヴな語感ですが、現実をあるがままに受け容れるという本質で捉えると、極めて主体的な行為であり、また自分以外のモノ――社会共同体や自然環境、自分亡き後の未来の国――のことを慮った、真に利他的な実践とも言えるでしょう。
 現実を直視せず、自分の考えに頑なにしがみつき、多くの命を危険にさらすといった態度は、特にそれが政策に携わるような地位にある人間の場合、国を亡ぼしかねません。個人の場合は、交通事故が典型例です。

 自分の考えや判断が何故正しいと言えるのか、常に問いかけるべきです。
 何を判断基準としているのか。
 それに最も適しているものとして、民族が積み重ねてきた智慧としての伝統や、経験としての歴史、そして覚者である仏陀の教えを推挙できるわけです。それは決して、自己の主張を諦めるということではありません。本質の話をしましたね。中道の話もしました。

 六道図をもう一度見てください。
 我々が目指すべき、そして理想とすべきは、この図の中に於ける仏菩薩です。六道の外の視点を持ち、何処にも偏らず、苦しんでいる人を苦から解脱せしめる存在。
 その行為の本質は、真理を覚らせて、新たな生き方を実践させること。仏菩薩にしてもらうのではなく、我々がその自覚のもとで実践することです。

 最後に、解脱した人は死後どうなるのかについてお話ししておきましょう。
 それはただ一言、「不可知」だと言います。日本語に訳せば「知るべからず」となりますが、凡人には知覚できないという意味なのか、それとも、考えても無駄という意味なのか。
 この問答からは、精神的な不老不死は有り得ても、肉体的な不老不死はあり得ないということが改めて理解されます。ところが、この原始仏教の考え方を大きく覆したのが、大乗経典の『法華経』という経典でした。これについては、また別の機会に取上げてみたいと思います。
 それでは、本日の講義はこれで終わります。ありがとうございました。