『すずめの戸締まり』に関する一考察(補遺1―原作小説の世界観を中心に)

考察
この記事は一読者による一つの解釈です。正解とは限らず、誤解もあるかも知れません。「こういう観方もできるのだな」という事例として、作品を楽しむ幅(視点)を広げる意図で作成しています。したがって、既に原作を読んだり、映画を観た方に向けた記事となっております。(ネタバレあり)また本稿は全体を分割し、その一部を投稿している関係上、すべての結論が含まれるわけではありません。

<はじめに>

 映画『すずめの戸締まり』には原作となる小説がある(書き手は新海誠監督自身)。筆者はこの原作小説を読まずに映画を観た。その後に書いた考察文も、作品に関する情報は映画本編とパンフレットのみを参考に執筆したものだった。
 そこで本記事は、原作小説を改めて通読した上で、先の考察において不足するもの、新たな発見、あるいは修正すべき点などをまとめた補遺である。なお、原作小説以外の発言録や上映期間中に配布された非売品小説などは未確認であることをお断りしておく。

映画と小説の関係性

 文字だけで記される小説と比べて、映像と撮影技法、更には音楽まで加えて示す映画の方が情報量は多いので、作者のヴィジョンをより正確に再現していると思いがちだ。しかし完成した映画を観た原作者が激怒したなどといった事例から、必ずしも映画の方が再現力に優れているとは限らないということを、私たちは知って居る。
 本稿でとりあげる『すずめの戸締まり』の場合は、原作者と映画制作者(監督)が同一人物であり、なおかつアニメという映像手法が採られているので(また可能な限りの資金が投入されてもいるので)、原作者のヴィジョンの再現度は極めて高く正確であるだろうことは疑いない。
 だが、ここで一つの興味深い問題に行き当たる。
 原作者と映画制作者が同じ場合、原作完成以後に作られた映像作品は果して同じものなのか。
 少し言い方を変えれば、もし同じものであるならば何故二つ作る必要があったのか。
 ここではあらかじめ守銭奴的な回答は却下しておこう。その上で考察すると、新海氏は小説のあとがきで「小説版」「映画版」という言葉を使っているので[1]、両者は別物ということが言えそうである。また小説執筆について「鈴芽の心を文章で追いかけていく作業」と述べて居る[2]。更にそれは映画制作と同時進行であった[3]。これらを踏まえると、映画版の方がより「完全版」と言えそうである。

 しかし先にも述べたように、言葉ですべてを説明するのを原則とする小説に対し、言葉の大半を別の要素に置き換える映画が、必ずしも文章や行間を正確に伝えるとは限らない。
 映像はモノの説明が得意なのではなく、省略しているに過ぎない。理解や解釈は見る者にゆだねられるので、逆説的な言い方になるが視聴者によって差異が生じやすい。(だから作り手はできるだけ同じ理解になるように演出する)
 一方、文章はすべてが説明的にならざるを得ないので、理解や解釈に差異は生じにくい。解釈が割れる文章というのは、そういう書き方をしている文章であって、書き手の側に解釈を両義的にする意図があると見るべきである(意図的でないのに解釈が割れるのは単に文章力の問題である)。
 今回、映画→小説と見て、そのことを実感して居る。文章はごまかしが効かないのだ。映像のように解釈に委ねられる幅は狭く、矛盾は矛盾として残される。(読解力不足による誤読は論外として)読者が正しく理解できなかった場合には「説明不足」と批判される。それはまた世界観がどれだけ構築されているかに左右される。

<世界観の再認識と考察>

1:「ミミズ」について

①場所が「後ろ戸」になり、「後ろ戸」からミミズが出て来る。(原作p.39。以下文中の頁数は同書。書誌情報は註[1])
②「後ろ戸」に「鍵」を突き立てると鍵穴が浮かび上がる。鍵を回すとミミズが弾け散る。飛散った後には雨が降る。(p.37)
③しかしそれは一時的に閉じ込めただけで、要石かなめいしで封印しなければ別の場所からまた出て来る。(p.43)
④「鍵」は枯れ草色の金属製で凝った装飾がある。(p.42)
⑤ミミズは空に広がりながら地気を吸い上げ、倒れたときに地震が起きる。(p.81)
⑥ミミズは奇妙な甘い匂いがする。それは「あの日の夜の匂い」。(p.326)
⑦ミミズは「生ぬるい米粒を握るような感触」で乗ることができる。また「弾力のある氷のような」部分もある。(pp.199―200)
⑧その土地で暮らして居た人のことを想う(声を聞く)と、鍵穴が開く。(p.87)

 ミミズに関する主な記述は以上である。映画のパンフレットでは「日本列島の地下にある構造線のようなもの、そこに溜まるエネルギー」[4]と説明されていたが、かなり実体的な要素をもっていることが判る。しかし一部の人間にしかその姿は視認されない。鳥(カラス)はその存在を感知できる。
 ⑧はテーマとも絡む重要な記述であるが、当時の想い出がまったく喪われてしまうと「後ろ戸」が開きミミズが出るということになるか。そういった状況としては、無人(廃村)か、とある時点で住人がすべて入れ替わり土地の歴史が継承されず断絶した場合が該当する。
 しかしそれだと要石の封印はどうなるのか。「後ろ戸」が開くことと、要石の封印機能との関係性が曖昧である。また②とも矛盾している。②は「鍵」さえ刺せば鍵穴が出るという説明(設定)だが、⑧では土地の記憶を聞くという条件が必要としている。
 ただ「人の心」が影響しているらしいことは次の記述からわかる。

「人の心の重さが、その土地を鎮めてるんだ。それが消えて後ろ戸が開いてしまった場所が、きっとまだある」[5]

 この記述をどう読み解くか。ここが震災を扱う物語の中心的なテーマだとすれば、正しく読み解く必要がある。ひとまづは念頭にとどめて、「後ろ戸」について再確認する。

2:「後ろ戸」について

A「後ろ戸」の中は常世とこよ。常世は世界の裏側、ミミズのすみか。すべての時間が同時にある場所。(p.149)
B「死者の赴く場所」ともいう。生きて居る者は入れない。(p.150)
C「人のくぐれる後ろ戸は、生涯にひとつだけ」(p.244)
D「常世は、見る者によってその姿を変える。人の魂の数だけ常世は在り、同時に、それらは全てひとつのもの」(p.245)

 後ろ戸に関する主な記述は以上である。A・Bからすると、死者はまったく救いの無い世界観とも言える。⑧とあわせ見れば、「その土地で暮らして居た人」というのは、死者のことを指すようである。

 BとCは矛盾しているが、特例的な意味か(例えば「閉じ師」)。あるいはくぐることが死の完了を意味するとも解釈できるか。日本では古来その表現は三途さんずの川を渡ることで示すことが多く、現代の怪談(臨死体験)ではトンネルの通過として語られることもあるが、これらは基本的に無意識下の体験である。
 意識下の体験としてはやはり現代の怪談だが、海で泳ぐ男が死者らしきモノに遭遇した後、彼岸の洞窟へ招かれるが、此岸の浜辺にいる友人らの声に気づいて浜へ戻るといった話がある[6]。水場を渡りきらずに引き返すという語りの構造は三途の川の話と共通する。
 記紀神話では、死んだ妻イザナミに会うため黄泉国よみのくにへ向ったイザナキが、変わり果てた妻の姿を忌み嫌って逃げだし、最後に「千人所引の磐石ちびきのいわ」で通路を塞いでコトドを渡し絶縁するシーンがある[7]。これを古墳への埋葬をモチィーフにした物語とする説もあるが[8]、「後ろ戸」のイメージにも通じていることに気づくだろう。
 神話の舞台は基本的に特定の一箇所だが、異説の存在や地名の消失・不一致などから複数の土地が候補となることもある。そういった場合の議論の常として、正解を一つに限定しがちなのだが、同様の事件が複数の地で発生した可能性まで考慮すれば別段不思議ではなかろう。「後ろ戸」が各地で開くという設定も、筆者のように異説の存在価値を等価にみる視点から、そしてまた実際の記紀神話と似て非なるパラレル的な世界の強調といった観点から、設定されたものと推察される。
 実際、死霊が赴く場所(山)が日本の各地にあることは民俗研究でも報告されているし[9]、地震が各地で発生する現実をかんがみれば、ミミズの出現箇所である「後ろ戸」が特定の土地に固定化されることは、誤解を恐れずに言えばドラマ性をぐことになるだろう。人智の制御を越えた不確定性こそが物語展開の予測を困難とし、その不安要素の維持が視聴者の興味関心を引き続けることにもなっている。

 Dはかなり具体的な説明である。日本に於ける常世観はかなり多彩であるが、これも上述した神話の舞台の議論と同様に、各地(各人)の観念が「常世」へ集約されていった、すなわちどれも正しいと看做みなすわけである。
 更に判ることとして、草太は鈴芽と同じ常世を観ていることになる。この事実は草太も東北大震災と関係が深いことを示唆しているのではないか。
 これに関連してそうなシーンがある。鈴芽が形見の椅子いすについて、保育園くらいの時に椅子をなくし、見つけた時には脚が欠けていたと説明するのだが、これを聞いた草太が「それって」と何か言いかける。しかし車が通り掛かってシーンが変わる[10]。この強制的な断絶ともいえる場面転換が二人の過去の関係を暗示しているのではないか。
 草太は大学生で教師資格のテストを受けようとしていたので恐らく四回生。鈴芽が高校二年として草太の方が四、五歳年長である。鈴芽の被災は四歳の時なので、当時草太は八、九歳と推定される。二人は出逢っていたが、このシーンのように唐突に関係が絶たれた(椅子だけを持ち、雨降りしきるバス停に一人で居る所をピックアップされたこの場面が過去との二重写しの演出だとすれば、恐らく叔母に引き取られ東北を離れた)ことで鈴芽は忘れてしまった。一方草太は椅子を媒介として何か思い出し確認しようとしたのではないか。
 更に踏み込んでみるなら、草太が確かめようとしたこととは「当時の要石」に関係することではないか。東北に要石があって、それが抜けたことと何か関連があるのかも知れない。
 ただ草太が要石化したのは、自身が要石であること(その役目を負わされたこと)を自覚したからであって、封印を解いてしまったことの責任などといった過去の過ち的なニュアンスが語られることはない。もし仮に草太の何らかの行為が東北震災のトリガーになっていてそれを覚ったなら、鈴芽からの救出呼びかけに対し「君の母親(だけでなくその他大勢)の死の責任は自分にある」といって断固拒絶しただろう。ところがあっさりと要石の役目を放棄しているので、やはり『草太トリガー説』は考えにくいだろう。
 草太はあのシーンで何を言いかけたのか。小さな謎だけが残る。

「災害や疫病は(中略)後ろ戸を通って常世から現世にもたらされるんだ。だから俺たち閉じ師が、後ろ戸を閉めて回る。戸を閉めることで、その土地そのものを本来の持ち主である産土――土地の神に返し、鎮めるんだ。だがある種の災い、数百年に一度のような巨大な災害は、後ろ戸だけでは抑えきれない。そういう時のために、この国には古より二本の要石が与えられている」(p.178)

 世界観に関わる重要な部分だが、この説明だけではよく判らない点もある。
 この世界(物語世界)が現世と常世で構成され、まさにその境目の結節点として「後ろ戸」は生じるわけだが、どうしてそれが流動的に生じて、更には開くのか。
 後ろ戸を閉めることが産土うぶすなに土地を返すことになるという。さすれば、後ろ戸の開く土地というのは、産土の神のものではない土地ということがひとまづ言える。また土地を返すことが神を鎮めるという点から、災害や疫病を発生させているのはどうやら産土らしいという説が成り立つ。更に閉めるだけでは駄目で鍵を掛ける必要があるが、鍵が物理的なモノであるのに対し、鍵穴と連動させるには土地の(良い)記憶を想起する必要もある(そのためには土地の歴史を少しでも知っておかねばならない)。
 ここで重要なのは、災害や疫病の発生というのが実際的・物理的な被害であるのに対し、後ろ戸を閉めて土地を産土に返すという行為自体は宗教儀礼的だという点である。

 これについて読者や視聴者はどういった感想をもつだろうか。恐らく神仏習合の長い歴史を有し、現代でも妖怪ブームが定期的におきる国に生きる大半の日本人は理解を示すと想う。しかしその一方で、宗教そのものへ憎悪をむき出しにする日本人もやはり一定数いる。
 例えば、天気予報は一種の「未来予知」であるが、気象庁が気象衛星と過去のデータから行っているというだけで、外れても誰も文句を言わないだろう。だがもしもこれが陰陽師が占いでやっているとしたら、外れた時には非難ごうごうとなって非科学的なものはやめろという大合唱が起きるに違いない。冷静に考えれば、目的と結果が同じにもかかわらず主体者とプロセスが違うだけで評価の度合いを変えるのはあまりに理不尽というものである。

 このような態度は科学を妄信する「科学信仰」から生じる批判であって、いわば宗教的対立に近いのだが、科学の信奉者は、科学的手法は常に正しく間違わないと思い込んで(信じて)いる。望む結果が得られない時も想定外の要因による影響か誤差の範囲として、科学的手法そのものは疑わない。
 中立的な科学者は、結果によってその手法を変えることを厭わないが、科学の妄信者は、結果が伴わない場合もその手法を押し通そうとする。喩えるなら、前者は「1+1=0」だった場合「1×2」や「3-1」を試すが、後者は0が2になるのを待つか0を削って2にしようとする。
 あるいは科学的手法の失敗は許されるが、宗教的手法の失敗は偽物だと決め付けて認めないということが、ダブスタだと気づかない。
 誤解が無いように言い添えるが、筆者は科学を拒絶し宗教の肩を持っているわけではない。真偽性や有効性を観測する上で、両者に優劣はないと言いたいだけである。だから科学だの宗教だのといった「道具」で選別するのではなく、より有効な方を採用せよというある種のプラグマティズム的な立場である。

 災いや疫病の原因が産土神にあって、土地を返すことで鎮められるということが明るみになった時、果してどれくらいの人が反省し「閉じ師」の意見に従うだろうか。
 恐らくほとんどいないだろう。何故なら、これを理解できる者が多数なら後ろ戸が開くような事態にはなっていないからである。
 これは非常に難しい問題と言える。実際的・物理的な被害と、宗教儀礼による原因除去・解決の因果関係を証明するのは容易なことではない。それが可能なら「科学」になるからだ。両者を媒介するのは「閉じ師」などの霊能者・宗教者なのだが、そのメカニズムは基本的に「オカルト(隠秘学)」の領域である。
 現実の日本で密教僧や陰陽師が国家の中枢の陰に存在し得たのは、現実に影響力を発揮する術を持ちながら、それが彼らにしか理解できない思想体系だったからだ。神秘的な真言や、星を読み解く占星術、これらを覆い隠すことで予知や呪いといった「不思議」が拡大し畏怖の対象となる。権力者が欲したのがまさにそういった「解明しがたい力」であった。

 作中でそれを象徴しているのが「大事な仕事は、人からは見えない方がいいんだ」[11]という草太のセリフである。これは代々の家業である閉じ師だけでは食っていけないから大学を出て教師になるという草太に対し疑問を口にした鈴芽への回答だ。
 鈴芽は大事な仕事ほど人に注目されお金をたくさんもらえるのが当然だという考えから疑問を口にしたわけだが、このやりとりから筆者は二人の宗教者のことを思い出した。
 一人は代々日本の各地に結界を施してきたという陰陽師の末裔。もう一人は霊能力は特別な能力なのだから高い料金をとるべきだ(相談者の選別も辞さない=お金を払える人だけが救済の対象)と主張する霊能者。
 前者には「そんな話は聞いたことがない」という批判も少なくなかった。詳しいことは書けないと言いつつ本を出版するという矛盾を思えばその心持ちもわかる。しかしそこに筆者は、オカルトの否定・排除や政教分離が進んだ現代において、この特殊な仕事を受け継いだ者の葛藤をみる思いもした。昭和初期辺りから、本来は決して表に出ない類の話や文書が出始めたのも、真偽論を別とすれば、やはり裏の宗教者たちの権威や需要が失墜し立ちゆかなくなった時代背景ゆえであろう。
 一方後者は「仕事」としてその能力を使うという「ビジネス霊能者」の発言だ。裏表の別なく、国家よりも個人と繋がるタイプだから、政権にも左右されない。鈴芽と同じ感覚であって、草太の対極にいる。独立してるといえば聞こえは良いが、判断の基準は金である。

 閉じ師や霊能関係の仕事だけでは生活ができないという現実に対し、料金を大幅に上げればいいという人と、別の(世俗的な)仕事で補おうとする草太や陰陽師。同じ「霊能」的な力を持ちながら、根底の考え方は真逆である。だが恐らく鈴芽のように「ビジネス霊能者」というあり方に共感する人も居るだろう。
 けれども、一般人であるはずの鈴芽が閉じ師の仕事を(多少の責任があるとはいえ)自ら進んで無償で手伝うその姿行動は、実は先ほどの鈴芽の発言と矛盾している。
 鈴芽は何故、普通のJKでありながら実質的に家出をしてまで、危険な目に遭いながらも草太を手助けするのだろうか。初対面の若い男性がイケメンだからといって、好意だけでやれるものなのか。
 そうではないだろう。
 学校でミミズが見えたのは鈴芽だけだった。
 神戸編の終わりの方にはこんな描写もある。鈴芽が観覧車のてっぺんに立ったことを思い出しながら「私たち以外には誰も辿りつけないような場所だった」。そこに「他の誰にも見えない秘密のしるしのようなものを、そっとつけてきたのだ」。そしてそれが「とてもとても、全身が静かに震えるくらい、誇らしかった」と[12]
 この感覚ではなかろうか。自分しか持たない特殊な能力、自分にしかできない行動、これを自分のためではなく持たない人たちのために使う。英国のノブレス・オブリージュの精神にも通じる観念だ。(これを最大限まで拡張していくと「国のために」と同義となる)

 こういう感覚を偽善と唾棄だきする人も居るだろう。だが私はすべてを銭勘定だけで決定する社会よりも、気持のやりとりだけで成立する関係の多い社会の方が、堅固なのではないかと想う。大事・大切・重要だからこそ安易に失敗や手抜きがあってはならない。そのような堅固な正確性や信頼性を真に発生させるのは、金の力ではなく使命感なのではなかろうか。
 それはスポーツの世界とも通じるだろう。彼ら選手は優勝賞金のために優勝を狙うのではないだろう。支えてくれる人たちの期待に応える、観る人に感動や勇気を与える、そして歴史に刻まれる記録。そういったもののために自分を追い込んで高みを目指すのではないか。そして「ほんとうの宗教者」とか特別な能力者というのも、やはり同様なのではないか。彼らは人間社会の精神的なインフラを支える存在とも言える。
 見方を変えれば、金さえあれば為政者や貴族でなくとも助言を得られる「民間化」なのだからむしろ評価する意見もあるだろう。そういう意味では住み分けこそが最適解と言える。だからこそ、宗教者が別の同業に対し値段のつり上げを迫るカルテルのような行為は批判されて然るべきなのである。わずかでも仏教精神(慈悲喜捨)を有するなら、不惜身命ふしゃくしんみょうが報われると信じる人間でありたい。

3:東京の後ろ戸について

 東京の後ろ戸から出現したミミズに要石を刺した鈴芽は東京の中心の古いほりに落ちるが、目覚めると地下の廃墟にいる。城門があり、そこが後ろ戸になっている。この城門に浮かび上がった鍵穴は「三つ葉が丸く並んだ文様のような形」をしている[13]
 東京の中心、城門、三つ葉、丸いといった諸要素からは、この文様が近世に征夷大将軍として絶大な権力を握った徳川家の家紋「三葉葵みつばあおい」であろうことは容易に想像が付く。
 明治維新と称される近代の倒幕革命は、王政復古の大号令に始まり、戊辰戦争を筆頭とする内乱に発展しているが、十五代将軍慶喜は大政奉還を受け容れ、江戸に関しても無血開城が実現している。だが武士という階級が消失することへの不満は根強かったし、維新の眼目は「王政復古」すなわち「神武創業への復古」であったから、天津神あまつかみの血統が再び政治の表舞台に立つことを暗に意味して居た。そのことを、鈴芽が地上へ出た時の描写ではっきりと描いている。「皇居」の地下に居たのだと――。

 地下の城門が後ろ戸であるならば、その地上部に位置する皇居はまさに、旧権力者たちの無念を抑えこむ要石であることを暗示していよう。
 しかし実際に要石を刺し、各地の後ろ戸を管理するのは閉じ師の役目である。日本の歴史においても天皇は宮中祭祀を執行あそばされてきたけれども、鏡は伊勢に、剣は熱田に遷して祀らせて(宮中には霊代を安置)、結界や封印、そして雨請いから吉凶の占いに至るまで現世に影響する宗教行為は陰陽師や仏教僧に任せていった。いつの時代にもそうした種々の実働部隊(宗教者)が権力者の傍に見え隠れしている。中世の陰陽師然り、江戸初期の天海然り。
 こうして考えてみると、一部の時代を除いて政治的実権も宗教的実権も持たない天皇の存在というのは実に不思議である[14]
 宮中での祭祀だけを原則的に執り行われる天皇のあり方は現代に至るまで変わっていないが、宮中三殿と呼ばれる三つの社殿のうちの一つに天神地祇が祀られ、国家国民の安寧を祈っておられることは知っておきたい。そこにはきっと、天津神天照大神の末裔だからこそ意味のある祈り・祭祀というものがあるはずだから。
 ちなみに、このような分業的性格を特定の信仰エリアでより明確に機能させているのが諏訪湖を中心とする諏訪信仰である。

4:現世の要石について

 現世うつしよのミミズに刺した要石(椅子)が、常世のミミズの体にも刺さっていると描かれる[15]
 これも少し解釈の難しい所だ。現世側の二つの要石は時代により場所を移すとされるが、同時に人があがめてきたものであり、また封印の徴でもある。つまり一時的とはいえ、特定の地点に物理的に存在するはずのモノである。
 ところが東京の上空で穿うがたれた要石の所在については説明がなされないまま、常世側でミミズに刺さっている状態として描かれる。
 物語序盤の宮崎の要石を踏まえれば、東京の御茶ノ水辺りに椅子が刺さってるはずなのだが、常世の要石(草太)が岩手の後ろ戸の中で抜かれ、草太と椅子は分離する。代わって二つの要石(ダイジン、サダイジン)が常世で穿たれる。このあと、なぜか新しい椅子が出て来て、それは四歳の鈴芽に手渡される[16]。常世は一つの世界だから矛盾にはならないのだが、現世側の要石と常世で分離した古い椅子については結局最後まで語られることなく終わる。

 現実社会の要石は、例えば鹿島・香取両明神の如く隔離され信仰される対象である。しかるに作中では宮崎の要石は廃墟にそのまま放置されていた(だから廃墟に入り込んだJKが不用意に抜き取るという事態になった)。これを踏まえれば、物語が終わった時点で岩手の何処かに二つの要石がそのままむき出しであることになる。そうだとすれば、孤独な要石を誰も省みないことになり、またいつか不注意で抜かれることになるのではないか、といった懸念の残る結末(及び世界観)と言えるだろう。
 作者はなぜ敢えてこのような不安定な設定にしたのだろうか。

 草太の自宅でひもとかれる文献に描かれている要石は、江戸時代の『鯰絵なまずえ』を髣髴ほうふつさせるものである。それは固定化された大型の石碑の如き形状である。そして鹿島や香取の要石はその一部が地表に露出した形である。
 それに対し、『すずめの戸締まり』の要石は設置箇所が二箇所でかつ流動的である。これが、この作品のオリジナリティであるが、やはりそこには現実世界の要石が機能不全に陥っているのではないかといった疑念も籠められているのではなかろうか。
 もともと『鯰絵』自体に、そういった風刺的な要素が含まれていたわけだが[17]、『すずめの戸締まり』では「後ろ戸」という装置を設定することで、災害はいつでも何処にでも発生しうるという現状を神霊理論的に説明したわけである。
 だがこれは、祈りも批判もカミへ集約させる近代以前とも、地球が本質的に抱える自然現象だと割り切る近代以降とも異なって、人間にその責任を負わせていくという点で諸刃の剣でもある。
 この設定(世界観・考え方)では、鈴芽が被災したのは当時の閉じ師が失敗したからであり、更には「人の心の重さが、その土地を鎮めてるんだ。それが消えて後ろ戸が開いてしまった場所が、きっとまだある」[18]というセリフに至っては、後ろ戸が開く原因を明確に人間であるとしている。これは天罰説へ繋がりかねないだろう(為政者の信仰が間違っているから災害が起きたり他国に攻められるのだと主張した鎌倉時代の日蓮がこの考え方に近い)。
 ただ本作はそれをできるだけ回避するため「ミミズ」という特殊な存在(地脈エネルギーが意思を持つような)を出すとともに、鈴芽のような一般人も「後ろ戸」の戸締まりが可能であることを描いてみせている。
 カミや要石があるから、あるいは自然の摂理であるから、安心したり無関心になるのではなく、起こりうることであり、また災害によっては未然に防いだり縮小できる可能性もあるのだということを訴えているのだと読み解きたい。

 次回は、作中に出て来る「文献」について考察する。

<映画版の考察はこちら>
映画『すずめの戸締まり』に関する一考察①―登場人物の名前の由来を中心に―

映画『すずめの戸締まり』に関する一考察②―大地震をもたらすエネルギーはなぜ「ミミズ」なのか―

映画『すずめの戸締まり』に関する一考察③―宗像草太の祝詞風呪文を中心に―

映画『すずめの戸締まり』に関する一考察④―サブキャラの名前から読み解くテーマ―


[1]新海誠『すずめの戸締まり』(KADOKAWA/2022)p.368
[2]同上
[3]同上
[4]「すずめの戸締まり」制作委員会編『すずめの戸締まり』パンフレット(東宝株式会社映像事業部/2022)p.15
[5]前掲小説(p.362)
[6]木原浩勝・中山市朗『新耳袋 第三夜』五版(角川書店/H19)pp.195-196
[7]小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守 校注訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀1』(小学館/1994)pp.46-47
[8]井上辰雄『古事記のことば』(遊子館/2007)pp.34-35
[9]例えば青森の恐山・岩木山、木曾の御嶽、伊勢の朝熊山。(新谷尚紀・関沢まゆみ編『民俗小事典 死と葬送』/吉川弘文館/2005)p.321
[10]前掲小説(p.110)
[11]前掲小説(p.158)
[12]同上
[13]前掲小説(p.228)
[14]神話における「天の岩屋戸」の場面を思えば、天照大神は岩屋に隠れるだけの存在でありながら世界は闇に包まれ悪しきモノが蔓延るのであるから、表に存在するだけでも意味はあると言える。そしてこの神を正常に維持するのは周囲の神々の仕事である。このような存在性を体現して居ると解すこともできよう。
[15]前掲小説(p.323)
[16]前掲小説(p.356)
[17]拙稿「映画『すずめの戸締まり』に関する一考察②―大地震をもたらすエネルギーはなぜ「ミミズ」なのか―」(https://sasurairyu.net/suzume-kousatu2/)
[18]前掲小説(p.362)