無慈悲な断捨離で後悔しないための決別法3撰

随想録

はじめに

 先日、20冊ばかり購入した古書を本棚に並べるべく整理をした。
 ついでに「積ん読つんどく」もシャッフルしたのだが、昔から蔵書管理のマイルールみたいなのがあって、とにかく本棚にも積ん読タワーにも加えない本を処分すべく、買取業者を探していたところ、不用品処分を提言する個人サイトや業者のサイトが目についた。
 興味本位で覗いてみたのだが、どのサイトも「捨てろ捨てろ捨てろ」と非常に潔い。
 「断捨離」という言葉の響きと情緒的な思考の排除、そして「救われた」などといった人々の感想が並んで居るのを観て居ると、何やら宗教じみた様相すら感じる。捨てるべきモノの判断の仕方なども細かく指示されていて、なるほど書籍化されるほどニーズがあるのかと感心した。

 そうした強迫的影響を受けたのか、はたまた気質が似ているのか、母がまさにそんな感じでとにかく勝手にものを捨てる人だった。
 70年代から80年代の古いおもちゃなどが物凄い価格で取引され始めた頃に実家の倉庫を覗いてみたら「お宝」はもはや影も形も無くなっていた。秋葉の某Shopの陳列棚など見てると40~50万ぐらいにはなってたかと思う。
 最近でも初代のアイフォンや未開封のスーパーマリオが凄い価格で落札されたとか、メタルバンドの帯付レコードが超高価買取中などといった事例を見聞きするたび、「いつか使うかもしれない」「いつかプレミアつくかもしれない」はあり得ないとか絶対来ないとか言う人に、来てるじゃないかと納得いかない思いをいだき続けて居る。
 今日はそんなお話し。

理由はそれだけではない。

 誰しも一つひとつのモノに「思い入れ」というものが多かれ少なかれあろうことと思う。記憶や想い出と言っても良い。(無いという人は、そのモノとの出逢いが適当だったり関係性を深められなかったことを物語る。消耗品などはだいたいそんな感じだろう)
 日本では「器物百年を経てツクモガミとなる」とも言われてきた。新潟の佐渡地方には、化物が出ると恐れられた荒れ寺に泊った一人の若い旅人が、真夜中に古い太鼓や欠けた皿が現れてパリピのように踊り騒ぐのを目撃するという民話がある。[1]
 それらはきっとモノを作った人のおもいと、使った人の念いとが織り成す、ある種の同化的観念でもあるだろう。(道具は人に使われることで使命を果す)

 あるいは山や岩や巨樹にカミを観てきた古代の日本人が、やがて鏡や刀剣といった身近な人工物を神体としていったわけだが、そうした流れの下流に渦巻く形骸劣化した観念が生み出したモノと看做すこともできる。しかしそうだとしても、同時に神社の境内には筆塚や包丁塚といった道具の慰霊碑があって、祭は連綿と続いて居る。
 人形やぬいぐるみを「供養」に出すように、訣別する数多のモノたちにも一つひとつ語りかけて感謝する――そんな別れ方(棄て方)があっても良いのじゃなかろうか。

 もちろん、無慈悲に合理性だけでモノの命を断罪していかないと片付かない・エターなる(終わらない)という意見も理解はできる。
 しかれども理解はできても納得はいかないのだ。処分できて良かったと思えるのはその直後だけで、二束三文で買いたたかれたことの後悔にさいなまれる。それが経験由来の実状だ。
 ゆっくりと時間を掛けてでも、お互いに納得して別れたい――そんなあなたのために、この決別法が参考になれば幸いである。

最初にすべきこと

 収納用スペースを決めておきたい。
 できるだけ「複数のケース」ではなく「一つの家具」にする。
→これは管理を徹底するためでもある。箱やケースだと目の届かない場所に移動させることができてしまう。そういうのが「勝手に処分」や「誤って処分」の被害に遭いやすい。

→モノが多い・少ないは本質的な問題ではない。

 問題は、所有して居るモノを全て・正確に把握しているか否かだ。それを阻害し困難にするような収納は駄目である。
 またとり出すのがおっくうになると、虫干しやお風入れができず被害が拡大したり、買ったことを忘れて同じモノを何度も買う羽目になる。
 箱を積み重ねて圧力が掛かりすぎると本が傷む。

 家具の専門店でしっかりしたものを撰びたい。例えば本棚ならば「扉付、棚調整可」のようなものだ。3~5万円でもそこそこ良いのが買えます。
(そもそも本棚など買いたくないという人は、本の処分で悩んだりはしないだろう)
 職人が作るような家具は一生モノだし、配送・設置も業者がやってくださる。
 東京だと八王子の「村内」という店は品揃えも対応も良かった。

1:選択肢を最初から狭めない

 「捨てる」か「残す」か、といった二択にしない。
 選択の幅が少なくなるほど人は破滅的界隈かいわいへと追い詰められていく。

「売る」
「捨てる/譲る」
「保存」
「本来的に使う」
「別の用途で使う」、これぐらいの選択肢から分類。
 どの手段にせよ、自分が納得いくことが最重要。

2:じっくり考える。

 思考の放棄や惰性による行動は後悔を生みやすい。
 「赤信号 みんなで渡れば 恐くない」などといった戯れ言が流行ったこともあった。周りに流された安直な行動が、望まない事故に繋がったりする。同様に、捨てるべきでないものまで捨ててしまったり、高く売れたものを二束三文で処分してしまったり。尾を引く別れはお互いによろしくない。未練を残すと浮かばれないのが世の常と申します。

ハードカバーと文庫どちらを残すべきか。

 こういった問いも、時間を掛けて向き合えば納得もしやすい。
 本は著者の「語り」である。それは装丁から既に始まっている。私は装丁にこだわった本が好きだ。夏目漱石は外箱に『心』と書いたが、本体には『こゝろ』と書いた。私はそこまで再現された復刻版を本棚に並べ、假名も漢字も書き変えられた文庫版の『こころ』は書棚から除去した。

人の思考は時と伴に変わる。

 その時は何となく買ってみたものが、何十年も経って急に意味を持ち始めることもある。
 例えば私の場合、子供の頃の画材がそうだし、高校時代の教科書もそうだ。
 古い教科書は受験にはあまり適さないが、再勉強や調べ物の資料として辞書代わりにはなる。(ちなみに私は一般入試のための勉強で英語の文法はそれを使ったし、買い直した日本史の教科書や資料は当時の受験用ノートと大差なかった)

 数学の教科書は捨てた(正確には部屋に置かず倉庫に置いてたのを母が勝手に捨てた)が、英語や地図や日本史の史料集が難を逃れたのは、机の傍に置き続けていたからだ。つまりその分野の関心が強かったからだ。

 「いつか受験するかも知れない」と予知したことはなかったが、結果的には受験にも活用された。それは学問に対する関心が時を経て別の形で花開いた因縁とも言える。
 つまり一人ひとりの未來に対し、霊能者でもない人間が一律の行動を強いるのはナンセンスということだ。あなたがソレを手元に置いておきたいというその不思議な感覚は、あなたの未來に関わる霊的・本能的なサインかも知れない。むしろ想像の翼をはためかせることの方が重要だ。捨てるかどうかといった二元論ではなく、どのような意味があるか、どのように活かせるか、あるいは意味も見出せず活用の道も無いモノなのか。

 教科書には当時の書込みがある。それはかつて確かに私が存在していた証だ。もう二度と戻れない場所・時代。昨夜みた夢のような朧気で断片的な記憶――。
 年に何度か、そんな想いに浸る日がある。私がしばしば実年齢より若く見られ驚かれるのは、そんな風に浪漫の湖を泳ぐ習慣があるからかも知れない。
 所有物の管理・把握がモノのメンテナンスだけでなく認識にとっても重要であるならば、想い出の管理・把握が記憶のメンテだけでなく自己認識にまで影響があったとしても不思議ではなかろう。

当時のものはしっかり作り込まれた製品が多い。

 これは「日本製=良品」という意味よりも、日本製のモノは「日本人向けに」考えられていたという意味だ。
 画材もそうだった。色の名前や色味が、ドイツ製の高級品よりもしっくりと馴染む。
 机の奥から見つけた三菱の鉛筆も捨てるのが勿体ないから削りながら使って居る。

 絵は昔から苦手で(下手で)美術の成績も「2」の赤点だったが、とあるネット動画がきっかけで絵を描くようになった。それはたまたま手元に画材があったからだ。
 色褪せたスケッチブックが、二十数年の時を経て埋まった。
 実に不思議だ。二十年以上前のものなのに、中の絵はつい半年ほど前に書いたばかりなのである。

 このような不思議が生じたのは、画家が動画を公開し、無料で閲覧できるという時代になったとき、身近に道具があったからだ。あなたが所有する様々なモノが、いつどのような使命を帯びるか、所有者自身すら計り知れないところがある。

「市場価値」と「至上の価値」

 時代の変化で死ぬモノもあれば、生きるモノもある。活躍の場が無い・価値が無いといって早々に画材を殺していたら、この未來はあり得なかった。
 いや、同じものでも立場が異なれば価値は真逆となる。古い地図はドライブには不向きだが、土地の歴史を調べるには欠かせない。
 地図として使うことはなく、市場価値も無いかも知れない。けれどもそれは紛れもなく歴史資料なのであり、あなたの記憶と結びつけることで「至上の価値」が生れる。

3:「一年間使ってないものは処分対象」という通説を疑う。

 時間の感覚・概念は人により異なる。
→「5年使ってないもの」を目安にする。
【理由】
 4~5年を使用期限や買い換え推奨とする製品が結構ある。(例:デジカメ、スマフォ、PC)
 その期間を過ぎたら直ちに使えなくなるわけではないが、市場価値が大きく下がる。
 今必要かどうかよりも、差額でバージョンアップが可能かどうか(差額とバージョンアップの度合い)で検討してみる。
 掃除機や洗濯機などの家電製品の買取も製造から5年以内を値付け対象とする業者が多く、それ以上古いものだと値段が付かない(無料引取)か、場合によっては引取料金を取られる。
 安めの革製品(バッグ類)も4~5年でダメージが出て来る。

 逆に言うと、5年以上経過したものは、今度は長く経つほどに希少価値が上がっていく。(但し最低でも20年以上と考える。例えば2023年に発売されたものは、2023+5+20で2048年頃に明暗が決定する。)
 しかし最近はこの「寝かせる」ことをしない・できない風潮が高まって、初めから稀少な新品を使った「転売」が横行し、社会問題となっている。

稀少品でないものは

→とりあえず今使ってみる・読んでみる(そこで片づけが中断しても全然良い。むしろ作業を中断させるだけの価値がある・発見がある)
→逆にパラパラ飛ばし読みしてもつまらない本→決別の時だ。

服の判定法

→一着ずつその場で着て、手元にあるものと合せてみる。姿見に映してみる。
→どうにもしっくりこない、合せられるものがなく浮いてる。→決別

 個性よりも時代性が重視される服は決別対象(例:スーツ)

 クリーニング屋で状態の悪さを指摘された服→寿命が近い

 外出着にしにくいアウターやスーツは部屋着にしてみる
→捨てる・売る以外にも選択肢はある
 学生時代、ぼろいダウンを部屋着にして暖房代を浮かした。

逆に、縁起の悪いモノは縁切り決別。

 例えば、その服装の時にトラブルに巻き込まれた、具合が悪くなった、けがをしたなど。
 また何かに引っかかってキズがついたカバンや服は「身代わり」になってくれた可能性が高いので、丁寧に感謝し早めに処分する。(バスや電車でよくあります)
 引っ掛かりやすい服やくつは場合によっては大けがや命に関わることもあるので、見直してみて。
 バイクに乗る人は、あなたに激突して死んだ虫たちの妄念が・・・今のは冗談だけど、スーツケイス買ったら寺社の交通安全付けるのはガチでおすすめしときます。

最後に

「未來を想像する」
 人間の人生にとって、現状変革するためにも、とても重要なことです。
 そのモノと自分の関係性を見つめ直す。

「いつかそれを使って、こうなるというヴィジョン」

→もしそれが見えたら「永遠に来ない」などと言って試しもしないで諦めるのではなく、それを叶えるため今すべきことを始める。
→活力となる目標ができる。新たな発見があるかも知れない。
 良い想い出は感謝へ変わる。モノを作った人も、モノ自体も、浮かばれる。それがまた「モノ作り」の活力となる。

 日本のモノ作りが低迷していったのは、使い手が対話を忘れ、値段に飛びつき、そのモノの向こうに作り手を観なくなったからだ。(その逆も然り)
 使い手がどこまでこれを意識できるか、改めて問いたい。

 出会いも別れも「モノ」と対話し吟味する――そんな消費者でありたい。


[1]柳田國男『日本の昔話』(角川ソフィア文庫/pp.70-72)