浅草神社(東京都台東区)

社寺建築[細部意匠]

浅草神社 あさくさ-じんじゃ

鎮座地:台東区浅草2-3-1
(最寄り駅:銀座線・伊勢崎線(東武スカイツリーライン)/浅草駅)
祭神:土師眞[直]中知命、檜前濱成命、檜前武成[竹成]命、
(徳川家康?、倉稲魂神?、大國主神?)

【概要】

 なんの神さまか、端的に言えば、観音様と縁のある漁師と知識人(役人)です。
 漁師の兄弟(濱成はまなりさん・武成たけなりさん)は何度網を投げても同じ仏像が揚がるのでとうとう持ち帰るのですが、それがお寺の本尊となり、僧侶・武士・貴族らもこぞって寄付をしました。
 小さなお堂はあっという間に巨大な寺院となり、多くの参拝者でにぎわうようになりました。
 そうしてついに仏像をすくいあげた漁師の兄弟と、すごい仏像だからまつった方が良いといって自宅を寺にした知識人(土師はじさん)も、神さまとしてまつられました。
 何を感じるかは人それぞれですが、おそらく「強運」とか「出世」という点で信仰の対象となったものと思われます。
 またこの仏像に大漁を祈願すると大漁になったとも言われます。それは生きるための殺生を観音菩薩が認めたとも解釈できます。

 個人的には「兄弟」というのが面白いですね。神話・伝説では弟が成功するパターンが多いなかで、兄弟そろってというところが注目されたかも知れません。
 漁で仏像をすくいあげる話は日本の各地にありますが、そのほとんどは仏像に焦点が当てられ、仏像の御利益ごりやくが宣伝されていきます。浅草寺せんそうじでも、日本史の教科書にも出るような慈覺大師じかくだいしを中興の祖(途中で盛り上げた僧侶)として大きく扱い、天台宗の影響を受けるなどして後に徳川家康らを合祀したといった説も出て来ます。
 しかし、下町と呼ばれる地域に住まうイキでイナセな浅草の民たちにとっては、やはり地元出身の漁師や知識人の方を御輿でかつぎたいんじゃと、そういう思いが強かったのかなと思います。

<由緒A:境内参道の案内板>

浅草総鎮守。祭神は
土師眞中知命(はじのまなかちのみこと)
檜前濱成命(ひのくまのはまなりのみこと)
檜前武成命(ひのくまのたけなりのみこと)

推古36年(628)3/18朝、漁師の濱成・武成兄弟が浅草浦(現隅田川)で漁をしたが魚が一匹も捕れない。投網に掛かるのは人型の像だけで、幾度か海に投げ入れ場所を変えてもまた掛かる。不思議に感じた兄弟は駒形の辺りで陸に上がり、槐(えんじゅ)の切り株に置くと、知識人として知られて居た土師眞中知に見てもらった。するとこの像は聖觀世音菩薩だと判る。
そして眞中知は出家し、自宅を寺にすると、この像を本尊として祀った。これが浅草寺である。
後に、土師氏の子孫は夢告を得て、寺の傍に眞中知と漁師の兄弟(三者)を郷土の神として祀る「三社権現」を建てる。
明治元年、社名を三社明神とする。
M5年、郷社に列す。
M6年、浅草郷総鎮守に定められ、浅草神社と改称。

現在の社殿は慶安二年(1649)徳川家光が建立したもの。
S21年、国宝指定。
S26年、国宝指定解除し重文指定。
S36-38年及びH6-8年に修復。(以上主意)

<由緒B:台東区教育委員会設置の案内板>

創建年不詳。
明治初年の文書によると祭神は土師眞中知命(はじのまつちのみこと)・檜前濱成命・檜前竹成命・東照宮である。

濱成と竹成は隅田川で漁の最中に網で観音像を引き上げた人物で、土師眞中知はその像を浅草寺に奉安した人物。三者を祀るところから「三社様」と通称される。
慶安二年(1649)社殿再建し、家康を合祀。三社大権現となる。
明治元年(1868)三社明神に改称。
M6年、現社名に改称。

社殿は国の重要文化財指定。(以上主意)

<由緒C:『江戸東京はやり信仰事典』―三社さま>

祭神は
土師直中知はじのあたいなかとも
檜前濱成
檜前竹成
東照権現(徳川家康)

東照権現は寛永八年(1631)、寛永十九年(1642)と相次いで焼失。
慶安二年(1649)家光が社殿造営するに合せて合祀。三社権現と呼ばれる。
明治元年、三社明神社へ改称。
祭礼は仏像が掛かった3/18に隔年で行われて居たが、現在は5/17以降の週末三日間。(以上主意)

<由緒D:『神社辞典』―浅草神社>

旧郷社。俗に三社様、三社権現と称す。
祭神は土師眞仲知命(はじのまなかちのみこと)、檜前濱成命、檜前武成命、東照宮、大國主命

創立年不詳。
社伝によると、推古天皇の御代に隅田川から観音像を引き上げた漁師の兄弟濱成と武成を祀ったことに始まる。
(この仏像は浅草寺の本尊となっているが、二人が祀られるのは寺の開創からしばらく後とみられる)
祭神については諸説があり「土師眞中知」はこの時堂を(観音堂か?)造営した人で、後に三人を祀って三社権現となったという説もある。
現社殿は慶安二年(1649)家光が建立。明和四年(1767)、M8年(1875)に修繕。
M5年郷社。
M6年浅草神社に改称。(以上主意)

<由緒E:『神道大辭典(第一巻)』―浅草神社>

郷社。
祭神は東照宮、土師眞中知命、檜前濱成命、檜前武成命、倉稲魂神

もと浅草寺の所管で専堂坊、齋頭坊、常音坊により社務を執行されていたが維新後に分離。
M6年現社名に改称。
土師眞中知は「武蔵国造の遠裔で推古天皇の御宇、浅草千束郷を開墾した」人物とする。
三社の名の由来は「三者」からと推察。
東照宮は寛永年中に堂後の林中に創建せられたのを、のちに本社に合祀したものである。
徳川幕府は慶安二年、明和四年に社殿造営している。(以上主意)

<由緒F:『神道史大辞典』―浅草神社>

旧郷社。
祭神は土師眞中知命(はじのまなかち)ほか四柱。
明治以前は三社権現と称したが、神仏分離令により三社明神と改称。
M6年、現社名に再改称し、徳川家康・倉稲魂命を合祀
三社権現は浅草観音の像を拾い上げた漁夫(檜前竹成・檜前濱成)とそれを教え諭した土師眞中知の三者を祀ったもの。
中世での状況は不明だが、『浅草寺縁起』(近世初期)には「三所護法」や「三所権現」と表記され、『江戸名所記』(浅井了意、1662)も「三所の護法神」としている。
『紫の一本ひともと』(戸田茂睡、1682)辺りから「三社権現」と記述。(以上主意。コトバンク及び国立公文書館のサイトから書誌情報を補足)
(典拠は松平定常『浅草寺志』、網野宥俊『浅草寺史談抄』)

【考察】

 同じ境内にありながら、由緒Aと由緒Bの表示に若干の差異がある。
 由緒Aでは「眞中知」を「まなかち」と読むが、由緒Bは「まつち」と読んでいる。
 また「たけなり」の表記が由緒Aは「武成」とし、由緒Bは「竹成」としている。
 祭神も由緒Bは家康が合祀されていて実質四社とするが、由緒Aは家康について全く触れて居ない。
 最も大きな違いは、由緒Aが浅草寺の開基を土師眞中知としているのに対し、由緒Bは浅草寺に仏像を奉安した人物としている点である。
 由緒Aには社殿を平成6-8年に修復したという記述があるので、台東区の教育委員会が平成6年に設置した由緒Bよりも後に作られたものと推定できる。
 つまり、由緒Bの内容の一部(相違部分)を否定する意図が籠められて居ると解せる。(但し由緒Bを修正せずそのままにしてあるので消極的否定と言える)

 由緒Cは「眞」を「直」とし、名前の一部ではなく国造の姓としている点が注目される。また「たけなり」を「竹成」とする点は由緒Bと共通する。
 由緒Dは祭神の項で「仲」とするが、本文では「中」と表記しておりどちらかの誤字の可能性もある。注目すべきは祭神に大國主命が含まれて居ること、典拠を「社伝」としていることである。由緒Aが社伝を典拠としていた場合、祭神から家康と大國主神を除外していることになる。

 由緒Eは祭神に倉稲魂神が含まれているのが特異である。
 また多くの人がそう考えるであろう「三者」→「三社」という指摘だが、これだけ祭神に諸説があるのは逆に「三社(三つの神社の合併)」→「(浅草寺に纏わる)三者」だったのではないか。つまり、浅草寺の注目(信仰)が高まったことによって浅草観音にちなむ三人を前面に打ち出したという仮説である。家康や倉稲魂神と違って大國主神についてはまったく経緯があきらかでないが、あるいは産土としてこの辺りに祀られていたのかも知れない。土地の鎮守・守護神を任せるに足る神という観点からすれば葦原中國を平定した大國主神は最適の存在である。ただ「三者」を祀って「三社権現」と称して居る点(由緒A)を鑑みれば、「本地」が別に想定されていたであろうことも想像に難くない。この仮説を詰める前に、由緒Fを考察しておく。

 由緒Fも家康と倉稲魂を含むが、合祀の時期を明治六年としている点がポイントだろう。
 家康と稲荷神をほぼセットで祀り、当地の国津神を消した事例として、広島の東照宮がある(合祀されていた大穴牟遅命が消され、稲荷社は末社として背後の二葉山に遷座)。由緒DとFを信頼するなら、ここでも同様に家康の背後で国津神が消されていることになる。由緒Bの典拠が「明治初年の文書」ということを鑑みれば、家康の合祀は明治期の可能性が高い(その場合、「社伝」をもとに縁起を記述し「家康」に触れないのはある意味間違いではない)。

 ただ気になる点も幾つかある。浅草寺境内の東照宮(浅草東照宮)は寛永十九年(1642)に浅草寺の本堂ともども焼失し、この時に浅草神社(三所権現)も焼失している。そして慶安二年(1649)に家光が社殿を造営した。その社殿は「権現造」であり現存する社殿である。つまり、再建は一社分(三所権現)しかされていないことになる。この時に東照宮の祭神はどう扱われたのかが判らない。由緒Eでは、「寛永年中に堂後の林中に創建」したのを後に合祀したとあるが、由緒Cではこの再建時に合祀としている。
 上野東照宮の略縁起によれば、寛永十九年の浅草の火災以降、大名は浅草東照宮ではなく、上野東照宮へ参拝するようになったという[1]。上野東照宮の勧請は寛永四年(1627)、社殿造営は慶安三年(1650)である[2]。三社さまの人間時代の肩書きは漁夫と国造である。「合祀」の場合大名が参拝を避けるのは理解できる。加えて家光の思惑はどうだったろうか。広島の東照宮同様に、家康を主祭神とする考えが無かったと果して言い切れるか。しかし庶民の間で三社さまの信仰は篤く「三所権現」はそのまま維持されたのではないか。

 もう一つ気になるのは、『浅草寺縁起』に当社を指して「三所護法」「三所権現」といった記述をしている点である。これは明治期に家康を合祀したから「三社権現」になったという説を覆すものである。そして浅草寺が天台宗に属した点からすれば、護法神として山王権現が勧請されたのではないか。その大物主神がほぼ同一神たる大國主神と記述された。浅草観音が天台宗になったのは慈覺大師が関与したからである[3]。その意味では一概に護法神=大物主神に比定できないのだが(詳しくは拙サイト「牛嶋神社」の記事を参照)、それでも延暦寺に直属する別格本山だった(現在は単立宗派)。
 その天台宗との関係性が切れたのは明治初年である。広島の東照宮も創建される前の土地に(というか、その地を選定するにあたり)天台宗・比叡山の陰が見え隠れするのだが、結局浅野氏が重んじた五寺(五宗派の寺)のうち、天台の寺院だけが廃寺となった。ここには恐らく、徳川政権の影響力を断ち切りたい明治維新政府の宗教的な対策があったのではないか。更にそれは、天皇(天津神の系譜)を主軸とする「明治神道」を前面に打ち出すため産土や国津神、習合神道を排除する動きにも連動する。神仏分離政策に民衆が加担して廃仏毀釈が先鋭化したのはよく知られるところだが、その原因は徳川政権による宗教政策によって特権化していた仏教への反発である。そして最も繋がりが深かったのは、「東照大権現」を実現した天海が象徴する如く、天台宗である。

 しかるに現代、神社側は浅草寺に纏わる三者へのこだわりが強いことが境内の大きな説明板の表記から窺える。それは窮屈な時代の流れの中で、民衆の信仰のうねりが育んできた「日本随一の観音霊場」という自負の現れでもあるだろう。なお、公式サイトでは『浅草寺縁起』を典拠とした由緒を載せており、これによって境内参道案内板(由緒A)が『浅草寺縁起』に基づいたものだと比定できる。家康等ほかの祭神については全く言及は見られない。

<由緒比較表>

祭神表記 祭神の読み 東照宮の合祀
台東区教育委員会設置板
(H6)
土師眞中知命
檜前濱成命
檜前竹成命
東照宮(徳川家康)
はじのまつち 慶安二年(1649)
参道説明板
(不明。H8以降)
土師眞中知命
檜前濱成命
檜前武成命
はじのまなかち 記載なし
神道大辭典[第一巻]
(S12)
東照宮
土師眞中知命
檜前濱成命
檜前武成命
倉稲魂神
はじのまなかち 寛永年中以後
江戸東京はやり信仰事典
(1998)
土師直中知
檜前濱成
檜前竹成
東照権現(徳川家康)
はじのあたいなかとも 慶安二年(1649)
神社辞典[普及三版]
(2005。初版は1997)
土師眞仲知命
檜前濱成命
檜前武成命
東照宮
大國主命
はじのまなかち 記載なし
(祭神のみ)
神道史大辞典
(2004)
土師眞中知命
檜前竹成
檜前濱成
徳川家康
倉稲魂命
はじのまなかち 明治六年(1873)

【狛犬】

 

 
表参道、待機型・石造/文三郎

 
 

 
社殿前、待機型・青銅製、S38年

【木鼻】

 

 
拝殿、獅子・彩色・玉眼

【麒麟と應龍】

 

 
欄間の部分を板張りにして麒麟と鳥のような形状の龍――應龍(おうりょう)が描かれている。

 

御朱印:あり


[1]新倉善之 編『江戸東京はやり信仰事典』(北辰堂/1998)五二頁
[2]同上
[3]前掲書『江戸東京はやり信仰事典』六二頁

参考文献
白井永二・土岐昌訓 編『神社辞典』普及版三版(東京堂出版/2005)
新倉善之 編『江戸東京はやり信仰事典』(北辰堂/1998)
薗田稔・橋本政宣 編『神道史大辞典』(吉川弘文館/2004)
下中彌三郎 編『神道大辭典』第一巻(平凡社/S12)