映画『すずめの戸締まり』に関する一考察④―サブキャラの名前から読み解くテーマ―

考察

<全体目次>
映画『すずめの戸締まり』に関する一考察①―登場人物の名前の由来を中心に―
映画『すずめの戸締まり』に関する一考察②―大地震をもたらすエネルギーはなぜ「ミミズ」なのか―
映画『すずめの戸締まり』に関する一考察③―宗像草太の祝詞風呪文を中心に―
『すずめの戸締まり』に関する一考察(補遺1―原作小説の世界観を中心に)
小説『すずめの戸締まり』に関する一考察(補遺2―閉じ師関連の諸文献を中心に)

映画『すずめの戸締まり』に関する一考察④―サブキャラの名前から読み解くテーマ―

*注意* 世界観の核心や結末を含む物語展開、キャラの言動、演出等について言及しています(いわゆるネタバレあり)。考察内容は個人的な一つの見解であり、必ずしも原作者の意図と一致するとは限りません。

4,ダイジン、岡部稔、海部千果、二ノ宮ルミ、岩戸環

ダイジン

 ダイジンは猫の姿をした要石である。鈴芽が抜いてしまったことで動けるようになったが、再び封じようとする草太をイスに変えて逃げ回る。キャラクター設定[1]でも触れられて居るが、敢えてカナ表記にすることで意味を曖昧にしている。「大臣」でもあり「大神」でもある。
 「大臣」は古代では「おおおみ」であり、大和政権の執政官である。葛城、平群、巨勢、蘇我といった一族から任命されたが、やがて蘇我氏が独占するようになる。『日本書紀』はその蘇我氏を滅ぼした中臣氏が中心となって編纂された側面もある。
 「大神」表記ですぐに思い浮ぶのは大神神社であろう。大神神社は日本にある神社の中でも最も古いと言われる。三輪山を御神体とし、本殿を有しない黎明期の祭祀形態を今に継承している。主祭神は大物主神で、大己貴命(大國主神)と関連が深くほぼ同一視される。つまり、国つ神である。ただ大神神社に関連する動物は蛇と兎なので、特に接点は窺えない。
 このダイジンが要石にされていたわけだが、映画の全編を見る限り、恐らく位置づけ(裏設定)としては宗像一族と同じであろう。元々は人間であったが、猫の姿に変えられて、それから要石としての役目を担わされた。イスにされた草太も物語後半でその事実に気づき、自分が要石になることを一旦は受け容れる。
 ダイジンは鈴芽に只ならぬ好意を寄せる。一見それは自分を解放してくれたからとも受け取れるが、岩戸の血を受け継ぎ「ミミズ」が見えるということから、遙か昔に何らかの接点があったのかも知れない。それは草太に対する憎悪も同様で、「閉じ師」に対するというよりは、三角関係の敗者といった前世の念なども含まれて居るのかも知れない。このダイジンと鈴芽の関係性には、『千と千尋の神隠し』のカオナシと千尋の関係性に通じるものがある。すなわち無垢な人間の少女に恋をする異形の絶望的な哀しさである。無垢な優しさはそれを知らぬ異形にとって諸刃の剣であるのだが、少女はそれを知らない。故に少女は無垢だと言いうるかと言えば、小生にはいささか疑問である。

 ベッドに横たわる老人(草太の祖父)を見つめる窓際の猫(要石)――、その猫に祖父が話し掛ける短いシーンがある。何気ない一こまだが、先代の閉じ師と要石にただならぬ関係があることが観客にだけ示唆される。草太の祖父は何故そのねこを見てすぐに要石(ダイジン)だとわかったのか。
 草太が自宅で鈴芽に開かせる古文書の画にヒントがある。この画を見ると、閉じ師の活動は代々繰り返されてきたことがわかる。そうだとすると、要石も同じなのではないか。つまり草太が「イス」にされたように、ダイジンは「ねこ」にされたという仮説である。「呪いでイスにされた」というのはミスリードで、「要石にされた」というのが正解ではないか。

岡部稔[おかべみのる]

 岡部稔は鈴芽の叔母・環の同僚で、九州在住。漁協勤めである。
 「部」は部民であり、大化改新以前に豪族らによって所有された民を言う。つまり、宗像とか鈴芽は「神」を祖とする直系氏族(祭祀者)であるから、それをサポートする役目になる。
 「みのる」というのは一般的には稲穂や果物に用いる。そうでありながら「漁協」勤めという所に、名前と実態のちぐはぐさが暗示されている。これはアメノウズメに由来する「岩戸」姓をもちながら戸締まりをする鈴芽も同様である。草太の場合は、祝詞の内容からすると本来侵略し奪う天つ神の側でありながら山河を返すという真逆の行為をしているとも言えよう。

海部千果[あまべちか]

 海部千果は鈴芽と同い年で、四国に在住する民宿の女である。
 この人物も稔と同様に、「千の果(果物)」という名前を持ちながら、苗字は「海部」であり、ちぐはぐな組合わせになっている。これは長い時間の経過の中で、天つ神・国つ神、祀る者・祀られる者、あるいは平地の民と海山の民など対比的な属性の者らの混血が進んだという意味や、先祖伝来的な使命がほとんど失われていることを暗示して居るとも解せるだろう。いづれにせよ、部民であるから草太や鈴芽を助ける役割が与えられている。

二ノ宮ルミ

 二ノ宮ルミは関西(神戸)で鈴芽たちを一時的に助ける人物で、肩書きはスナックのママである。
 「二ノ宮」は一般的に一ノ宮に対する(関連する)用語である。諸国あるいは一郷または一社内で神社を格付けした呼称で、平安期頃から発生し広まったと解されて居る。特徴的なのは朝廷や国司などから上意下達的に付与された社格ではなく、崇敬範囲などから生じた極めて土着的な性格の序列という点である[2]。
 神戸のある兵庫県は北部の但馬と南部の播磨からなる。播磨国の二ノ宮は「荒田神社」である[3]。旧県社で、多可郡加美町に鎮座する。祭神は少彦名命、木花開耶姫命、素盞嗚尊とされるが[4]、『播磨国風土記』では天目一箇命(あめのまひとつのみこと)、道主日女命(みちぬしひめのみこと)としており注目される。兵庫県神社庁(公式サイト)によると、天目一箇命を主祭神とし、残りの四柱を配祀としている[5]ので『風土記』の伝承を重視していることがわかる。
 道主日女命について註釈では「系譜不明。土着の巫女神か」[6]としているのが、子供が居ながら夫が居ないらしいスナックのママというルミの属性と相俟って興味深い。現代では神ではなく客の相手をするママだが、鈴芽に目を留めて助ける辺り、やはり血は争えないというか古の因縁というべきか、一見ご都合主義のようで実は定めとしてその関係性は機能し続けて居ることが、互いの名前の考察から知れるのである。よく練られた世界観設定と言えるだろう。
 「スナックのママ」というのは、神話の時代に比べれば規模は劣るけれども「夜の世界の統治者」にも通じるだろう。また色気を出した出で立ちで歌(カラオケ)を歌い、酒を飲み交わすという行為にも着目したい。「お客様は神さま」といった使い古されたフレーズとは別のニュアンスで、案外このスナックの客達の中にも古の神の末裔が居るのかも知れない。
 外見描写で面白いのは、オンの時には髪を結い上げ、オフの時には下ろしていることである。こういった現代の日常にも髪にまつわる古代の呪力が、それと意識されないままに使われて居る。

芹澤朋也[せりざわともや]

 芹澤朋也は草太の友人である。東京在住。
 神話や神名ですぐ思い浮かぶものはない。東京という場所、チャラいキャラからして、既に能力が失われていると推察される。

岩戸環[いわとたまき]

 岩戸環は鈴芽の叔母である。実母を亡くした鈴芽を引き取って育てている。独身。
 「岩戸」については考察1で解説した。「環」については神話・神名とも特に思い当たるものはない。
 作中で現実的な母役を担うのはこの叔母である。叔母は文字通り母を演じている。この母を演じる叔母と鈴芽の心理的な距離感が逆に叔母の行動をリアルなものにしている。例えば家出したに等しい鈴芽を追いかけて東京へ行くという行動を実の母親がやると生々しくなるし、そんな子供(不良娘)を見つけた後そのまま東北へ向うというのは実の母の選択として恐らくあり得ないだろう。「母親を亡くした多感な時期の少女」という鈴芽の属性があるからこそ許容されている側面があると言える。
 二人の間の距離感は、叔母である環の「気をつかう」というセリフにも表れて居る。一般的な母と子ならそんなことはほとんどないだろう。そして二人が合流した後の旅の途中で、その緊張関係は一瞬崩れる。
 雨の降り出したサービスエリアで環と鈴芽が激しくぶつかるシーンがそれである。そこで環は「本音」を出す。ここの描写は複雑というか、何か配慮がされているようにも感じられるのだが、それを観客には「ツキモノ」であるかのように見せている。環に向かって「誰なの?」と問う鈴芽の凄いセリフがあり、続けて「叔母じゃない!」と断定するわけだが、実はこれこそが「本当の(普段は抑圧している)叔母」だろう。ふだんの叔母は「母を演じる叔母」であって仮の姿である。しかし鈴芽はその仮初めの叔母をこそ本物だと認識しているところに悲劇がある。到底信じがたい(受け容れがたい)鈴芽は、この叔母の変容をダイジンやミミズのような異形の仕業ではないかと疑う。その鈴芽の疑惑に同調させるかのように、ダイジンよりも大きく真っ黒な猫(サダイジン)を環の背後に演出する。
 だが、これがツキモノの仕業でないのは、その直後に発言を後悔させる描写を入れて居ることから判断できよう。ツキモノの関与は飽くまできっかけにすぎない。言うなれば、環の心の要石を抜いたようなものである。「本来の環(キャリアウーマン?)」と「母を演じる叔母」との間で積年たまり続けてきた「歪み」すなわち負の感情があふれ出す。
 叔母の本音を受けて鈴芽も本音をぶつけるが、当然これもツキモノに言わされたわけではなかろう。彼女(鈴芽)の場合はやっぱり自分で要石を抜いている。
 あふれ出る負の感情をぶつけた時、周りはダメージを受ける。これは「ミミズ」と同じ構造である。また見逃せないのは、環自身も傷ついて居るということである。何事も一面的なものなどない。加害者も、やはり何処かで被害者なのである。関係者でもないのに知った風な口で一方的に断罪するのは簡単だが、人の心はそれほど単純ではない。生れた時からの加害者など居ない。それは「歪み」が循環されなかったところに根本的な原因があるのだということを問いかけていよう。
 叔母は後悔するが、「本音」を出したことで、何かが吹っ切れる。自転車をこぐシーンが印象的だ。震災の影響は、主人公だけでなく、叔母も同じように受けて居たんだと(鈴芽も観客も)気づく。
 何かのきっかけで開いてしまった自分の扉は、自分で閉じる必要があるということであろう。そして自分が抜いてしまった他人の要石も、大事になる前に戻す(鎮める)必要があるだろう。

【おわりに】

 以上、四回に亘って『すずめの戸締まり』の登場人物を考察してきた。
 こうして見てくると、大化改新以前の古代の氏族とその崇拝する神々が、名残を薄めつつも、その関係性をほぼ踏襲した形で現代まで続いている――、といった世界観で描かれていることが理解される。
 この映画で主人公が出逢い関わっていく人びとは、「同居する叔母」であり、「異形」であり、「初対面の学生」であり、「通りすがりに声を掛けてきた女性」など、最初から一定の心理的な距離感をもつ人たちばかりである。「母と子」の描写があるが、これも厳密には「亡くなった母と幼子」であって、本人ではあるけれど過去の回想として半ば客観的に描かれている。
 しかし心理的な距離感をもつ他人同士が助け合う、惹かれ合うというところが、この映画のもう一つの大きなテーマではなかろうか。しかもそれは、SNSやインターネットなどを介した繋がりではなく、保護者(家族)やクラスメイト(学校)といった狭いテリトリィをも離れ、日本列島を自らの足で縦断しながら築いていった繋がりであり、女子高生に対して県外の女子高生、大学生、更には中年の女から老人、そして異形に至るまで極めて幅広い繋がりだという点が重要である。
 令和の現実の日本ではこれほど上手くはいかないかも知れない。それでも筆者は、若い人たちに対し、一足飛びに幽冥に飛込むのではなく、隣の町へその一歩を踏み出してほしいと切に願うものである。そして大人達も、傍観者の後ろ指を気にせず声を掛けてほしい。たとえ吊り橋のような疑似的な関係性だとしても、それは遙か昔からの縁なのかも知れないのだから。
 神さまがサポートするのは出逢いまでである。その縁を結ぶか否かは、あなた次第である。

補註
[1]「すずめの戸締まり」制作委員会編『すずめの戸締まり』パンフレット(東宝株式会社映像事業部/2022)二四頁
[2]薗田稔・橋本政宣編『神道史大辞典』(吉川弘文館/2004)七四頁
[3]下中彌三郎編『神道大辭典 第三巻』(平凡社/昭和十五年初版)八四頁
[4]白井永二・土岐昌訓編『神社辞典(普及版)』三版(東京堂出版/2005)一八頁
[5]「兵庫県神社庁」(https://www.hyogo-jinjacho.com/data/6312081.html)
[6]秋本吉郎校注『日本古典文学大系2 風土記』(岩波書店/S33)三三二頁

付論

【その恋は勘違い?】
 映画序盤のシーン。坂道で主人公・鈴芽は眼下の景色を目に留めて「きれい」と言う。そこでは対面から一人の男性が歩いてきている。そこでふと観客は「きれい」の対象が風景ではなく、その男性のことかなと思う(カメラもそんな撮り方をする)。しかしどうもこれは怪しい。
 というのも、男性に「きれい」という言い方はあまりしないだろう。今時の言葉なら「イケメン」とか「かっこよ」とか「イケテル」とかが自然体のJKのセリフであろう(中盤で出て来るコンビニの店員たちの草太を評した発言がまさにそうだ)。
 若い男子が化粧品など使うのはそれほど稀ではないから「きれいな男性」が居ないわけではないけれど、何かの調査で「男性のロンゲ」は女性から一番不評の髪型だという結果が出ていたのを記憶している。その男性(草太)はまさにロンゲであり、しかも垂髪のロンゲで肩にまで触れて居る。前髪は目に掛かるほどあり、服装も別段きらびやかではなく、ありきたりで、使い込んでる風のリュックを背負っている。背は高く引き締まった相貌ではあるが、やはり「きれい」という感想とは乖離を禁じ得ない。
 中盤、草太の家に這入るシーンでは、室内に埃のようなものが舞っている。長らく留守にしていた演出であることを抜きにしても、客観的に見て「きれい」という表現とはやはり結びつかない。ひょっとすると、このセリフには何か別の意図があるのではないか。
 そこで鈴芽が、「きれい」という言葉をどう使って居るかを確認してみると、旅の風景や移動先の土地で新海誠監督特有の「きれいな風景」が出て来る時に使って居る。更に決定的なのが景色を見て「ドキドキする」というセリフ。この景色=ドキドキはしばしば出て来る。さすれば序盤の「きれい」も実は景色にフォーカスしていたのではないか。

 心理学界隈で男女が吊り橋を渡ると恋に落ちるなどという有名な話(実験)があって、揺れる恐怖を恋愛的なことと誤認するからだと説明される。
 実際に行われた実験内容からすると、橋の真ん中で女性が男性にアンケートをして、後日電話をくれれば結果を伝える――、というものだったようだ[1]。
 揺れない橋だと、普通によくある街頭アンケートだが、揺れる橋の場合、説明中に女性がかわいく叫んで、男性が手を貸し、互いに微笑む――、といった状況が連想される。だから「(男性側の)恐怖心や緊張感」というよりも、実際は「(異性との)スキンシップや笑顔・感謝」を好意と錯覚したというのが解釈として正しいのではないかと思う。
 映画では「ドキドキ」に重点をおいた演出が随所に見られ、男性のほうにも「ドキドキ」は散りばめられている。典型的なのは「死ぬのが怖くないのか」というセリフ。このセリフは何度も出て来る印象的なセリフだ。鈴芽が死ぬんじゃないかというドキドキ(心理的恐怖)である。更には、一緒に走る。一緒に戸締まりをする→成功した後の安堵。一緒に「ミミズ」に乗る。自ら穴へ飛び下りる。鈴芽が観覧車から落ちそうになるなど、枚挙に暇無い。
 かように、「恐怖・緊張タイプ」と「触れ合い・笑顔タイプ」両方の吊り橋効果が使われているのだが、これに加えて、草太がイスにされた後、鈴芽はそのイス(草太)を「抱えて」移動する。つまり、女子高生から抱きしめられている状況だ。おまけに座られたり踏まれたりもする。これはややエロ的なドキドキと言えよう。
 そしてこうした心理効果はダイジンも同様に受けている。序盤で鈴芽がダイジンに対して「好き」と発言するが、これは不特定の「ねこ」に対する何気ない発言であって、特定の異性(ダイジン)に向けた告白ではなかろう。しかしダイジンにしてみれば、要石という絶望的な状況から救い出してくれたJKでもあるわけで、さらに追いかけっこ(つかまるとまた要石)というドキドキも加わるから、誤解なのだとしても憐れみを禁じ得ない[2]。
 そしてこの映画を観ている私たちもドキドキすることで、キャラクタァへの共感、更には作品そのものへの好意が高まっていくのである。

補註
[1]ウィキペディア日本語版(https://ja.wikipedia.org/wiki/吊り橋理論)
[2]かく言う筆者もこういったJKに惑わされたくちである。

初掲:2023/02/05