映画『すずめの戸締まり』に関する一考察―登場人物の名前の由来を中心に①―

考察

この考察文は、いわゆるネタバレを含みます。

目次

【はじめに】


 新海誠原作・脚本・監督作品『すずめの戸締まり』(2022年公開)は、「日本各地の廃墟を舞台に、災いの元となる”扉”を閉めていく少女・鈴芽の解放と成長を描く現代の冒険物語」[1]である。また2011年3月11日に発生した東北大震災を念頭に置きつつ、場所を悼む作品にしたい、という企画段階での構想もあった[2]。
 自然災害とも称される不条理な現象がもたらす大規模なエネルギーの暴発は、人を含めた多くのイキモノと過去からの記憶を宿した大地、そしてその上に建てられた家屋とを、容赦なく傷つけ破壊し奪い去る。人が生活を営んでいた土地からその営みが消えた時、遺されるのは建造物の残骸たる廃墟か更地である。人は当然姿を消す。では、そこにあった記憶や思念はどうなるのか。
 近代的な解答としては、記憶や思念といった行為を人間の専売特許とみなして疑問自体を退けるであろう。しかしそれは同時に、「場所を悼む」といった行為を可能ならしめるのもまた人間の専売特許ということになるのではないか。遺された者たちが「場所を悼む」ためには、そのような土地に記憶や面影を観る必要がある。
 寺社や墓苑とは別に、高層ビルのひしめく一等地の狭間に将門にちなむ塚を遺したり、再開発もとっくに終り復興して何十年も経つ爆心地に産業奨励館の崩れた骨組みを遺し続けるのも「場所を悼む」行為に外ならない。小松和彦は伝説(過去にその土地で起きたと信じて語られる話)が語られ続ける条件として、伝説の付随するオブジェの重要性を指摘して居る[3]。逆に言えば、「場所を悼む」ためには、その土地に語るべき記憶をもったオブジェが必要だということである。そうであればこそ、徳川幕府や明治政府が大半の城を破却させた理由も、長崎市議会の意向を無視して教会側が浦上天主堂を解体した意図も、透けて見えるであろう[4]。
 筆者は、全てではないが神社もそういった「語るべき記憶をもった土地」に建てられたものだと認識している。

 こういった、土地に対するある種の宗教的な感覚は、古代の日本人の意識上にも垣間見ることができる。例えば、記紀神話の「国譲り」の段がそうである。
 葦原中國あしはらのなかつくにを造った地祇ちぎ(国つ神)は、その土地で政治や生活を営むことを希望する者(天つ神)に対し、神殿を建てることを条件として「国を譲り」、自らは国の平定のために必要な神器を差し出して「遠い遠い果ての地へ隠れる」――この記述の本質は何であるか。何を言わんとして居るのであろうか。
 少なくとも言えることは、記・紀はその「国譲り」を強要した側が編纂した歴史書だということである。結果、偉大なる神・大己貴命おおなむちのみことは幽冥を想わせる場所に隠れ去り、これを契機として天孫族による「まつろはぬ鬼神かみ」や「邪神あしきかみ」の征討が開始される[5]。

 祭祀者(必ずしも支配者に限定されない。帰順し「改宗」した者も含む)は、「まつりごと」を行うことで誅戮ちゅうりくされた神を慰霊し、また共同体の記憶共有を図った。その「まつりごと」のための常設の祭壇が、後の神社である。神社は、征された神々を悼む場でもあったわけである(無論、すべての神社がそうだというわけではない)。
 それは、かつてそこで生活を営んでいた国つ神たちを帰伏させ、その土地を追いやってなお、そこに国つ神たちのおもいが強く残るという畏れに裏打ちされた行為でもある。また天つ神系の古社で、帰伏の徴たる神器を祀る行為とちょうど対になる。
 開拓する土地の拡大に呼応して、両者の社は増えていくことをも意味するが、時代の変遷と伴に、その土地の記憶は為政者が生活していた土地の神を勧請し、社殿を建て替えることで上書きされていくようになる。かつての記憶は、記録を許されぬ歴史――すなわち伝説(口伝)として語られていく。

 神道では土地の穢れ・祓いといったことが重視され、現代に於いても家屋の造営や山河の掘削時に浄めの儀礼が行われることが多い。そこで相対する神は、基本的に産土神うぶすなのかみ鎮守ちんじゅ)である。産土はその土地に古くから居る神であり、言わば国土を造った神でもある。大蛇の棲む池や大蛇が造った渓谷というのも、その類である。
 「大蛇」と聞くと、我々は醜悪なる化物を想像しがちであるが、娘の元へ通う素性不明の男に正体の開陳を請うと、蛇身を顕わして神南備かむなびへ去るといった神婚説話に照らしても、蛇と神とは元来親和性の高いものである。そこに明確な線引きが為されて「化物」として退治される所以ゆえんは、柳田國男が言うように、古い信仰が新しい信仰に圧迫されることに起因する[6]、すなわち信仰の変化である。信仰の変化はまた、祭神の挿げ替えでもあり、史実の伝説化でもある。何故と言うと、その変化の多くは権力者による共同体への強制性を伴うものだからである。その淵源が八岐大蛇やまたのおろちにあることは論をたない。
 では、そのような土地に突如として現れる(もたらされる)「自然災害」に、我々はどう向き合うべきなのか。
 新海氏は東北大震災を念頭に「場所を悼む」という宗教的なテーマを掲げつつ、主人公の役目としては「災いの元となる”扉”を閉めていく」という行為によって自らが獲得する「解放と成長」に、それを重ね合せて居る。ここに既に作品の全体像・世界観は示唆されているが、改めて本論考では、作中の登場人物に注目してそのことを確認してみたい。

1、岩戸鈴芽[いわとすずめ]


 先に述べた日本の神道的な観念は、作品のテーマに留まらず『すずめの戸締まり』の随所に散りばめてある。例えば監督は登場人物の名前について「日本神話にちなんでい」[7]ると述べて居る。
 本作の主人公は「岩戸鈴芽」である。その名前の由来は「天照御大神(アマテラスオオミカミ)が隠れた岩戸を開くきっかけを作った天鈿女命(アメノウズメノミコト)」[8]であるが、苗字が「岩戸」で名前は「鈴芽」である。つまり、二つの要素からワードが撰ばれていることがわかるのだが、「ウズメ」から「スズメ」に改変してある。
 この改変については、主人公が物語世界の「現代」に生きる人物であることや、記紀神話との関連性を暗示しつつも同一ではないことを表す意図もあろう。また町中で目にする機会の多い「雀」と音が重なる点からは、活躍する主人公という立場にありながら、何処にでも居るであろう少女といった普遍性とのダブルミーニングになっている。つまり、「普通の少女」が災害に遭い、家や家族を失い、土地を追われた過去と向き合はねばならないのであり、かつまた「普通の少女」が望まぬままに重要な使命を担はねばならないということでもある。これは多くの観客にとって、キャラクターへの感情移入の敷居が低いことも意味する。
 この理不尽を、時に「自然」といい、時に「カミの念」と観てきたわけであるが、現代ではこの二つの観念の間に深い断裂があるように思える。後(*別記事)でも述べるが、映画は後者の観点を主軸にした描写をしつつ、監督は前者の視点も重視している。作中で後者の観点を持つのは「閉じ師」を生業とする一族とその関係者、そして主人公に限定される。しかるに、映画を観る者は、現実世界では作中の部外者と同じ立場にありながら、鑑賞している間のみ両方の視点を持つことになる。誤解が無いよう言い添えておくが、これは原因に対する時代相応の解釈と言うべきものであって、どちらが正しいといったことではない。しかし監督はこれを断絶・矛盾していないように見せているのが芸術的(文芸的)である。

 ところで、監督は「日本神話」[9]という言い方をされている。一般的には『古事記』『日本書紀』(両書は「記・紀」と略称される)の一部が「日本神話」に該当するのだが、その場合は「記紀神話」という場合が多い。「記・紀」が何であるか判らない人にも判りやすいように「日本神話」と言い換えた可能性もあるが、「記・紀」の記述だけに限定しないという意味もあるかもしれない。
 「記・紀」以外で代表的な「日本神話」文献が、『風土記』である。『風土記』は和銅六年(713)に元明天皇の詔によって諸国に提出を求めた公文書で、郡郷の名称、郡内の物産、土地の状態、地名や山河の名称由来、土地に纏わる伝承等についての報告書である[10]。天武天皇が主導した『古事記』が成立した翌年に、天智天皇の皇女である元明天皇が『風土記』を編纂させたことは多分に意味深長であるが、ここではそれ以上触れず、ただ「記・紀」と同時代の公的文書で、神々についての記述も見られるので、「日本神話」の掲載文献として加えて良かろう。
 以上の三種の文献は古代に成立したもので、概ね日本神話の初出となる文献に該当する。

 さて、天鈿女命であるが、既に監督が説明する如く、「天岩屋戸」の段に登場する神である(『日本書紀』正文及び『古事記』)。また「天孫降臨」の段でも登場し(「第九段一書第一」)、道を塞ぐ強大な神に対し胸を露わにするアグレシヴな女神である。
 この神の名前は「髪飾りを付けた女性」を意味する。『古語拾遺』では「かんざし」と註釈されるが、『古事記』では「蔓草」とされる[11]。どちらも髪をまとめる用途をもつが、武力よりも呪術に長ける国つ神との戦いに際してくしを用いたスサノオの如く、髪をまとめることには何某なにがしかのまじない的な力があると言えよう。劇中ではポニーテイル(まとめた長髪を後頭部のやや高めの位置で縛って後ろへ垂らす髪型)の鈴芽と、縛らない長髪の草太(もう一人の男の主人公)とが対比的であるが、結局大きな災いと対峙する草太にとって鈴芽が重要な作用(手助け)を為したという点でスサノオとクシナダヒメとの関係を髣髴させるし、そうであるならば草太の鈴芽に対する感情というのも大方想像できるだろう。

 話を戻すが、岩屋戸の場面における天鈿女の役割としては、ほかの神々と協力して岩屋戸に隠れた天照大神を引き出すことにある。『古事記』と『日本書紀』とでその描写に違いがあり、『古事記』では「神懸りて、胸乳むなちを掛き出だし、の緒をほとにし垂れき。」[12]とかなりエロティックに語られるが、『日本書紀』正文には神懸りした後の描写が無い。いづれにせよ、天鈿女命の神懸りが、岩屋戸を開く(天照大神に戸を開けさせる)契機となる。
 この主人公の名前が面白いのは、天鈿女は岩戸を「開く」カギ的な役目なのに、鈴芽は「戸締まりをする」キャラということである。もっとも、今回の騒動を起すきっかけ(要石かなめいしを抜く)をしでかしたのは鈴芽であるから、そういう意味で「開く人」と言えなくはないが、そこから出て来るのは日神ひのかみなどではなく、「ミミズ」である。

(②へつづく)


[1]「すずめの戸締まり」制作委員会編『すずめの戸締まり』パンフレット(東宝株式会社映像事業部/2022)一頁
[2]前掲パンフレット/一四頁
[3]小松和彦「神話・伝説の読み方」―『日本「神話・伝説」総覧』所収稿(新人物往来社/1992)二九頁
[4]但し広島市中心部の大半の神社も被爆倒壊したが、その大半は当地で再建されている。地場の崇敬者という観点で議論の余地はあるか。しかし基督教が原爆を用いた側でメジャーな宗教であり、同教会がその決定をしたという事実は厳然として揺るがない。被害者の立場としては声高に非難したり滔々と説教するよりも、ただ黙してこれを維持し続けることこそ痛烈なメッセイジになるのだと信じる。我々が聞くべきは死者の声なき声である。だが恐らくはこうした観念の有無にこそ、基督者と伝統的日本人との宗教観(死者を信者か否かで差別する前者と、往生の様相で区別する後者)の最大の違いがあるのだと言えよう。
[5]小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀』(小学館/1994)一一九頁
[6]柳田國男『一目小僧その他』(小山書店/S9)一六頁
[7]前掲パンフレット/二二頁
[8]同上
[9]同上
[10]秋本吉郎校注『日本古典文学大系2 風土記』(岩波書店/S33)九―一〇頁
[11]斎部広成撰・西宮一民校注『古語拾遺』(岩波書店/1985)七五頁、山口佳紀・神野志隆光校注訳『新編日本古典文学全集1 古事記』(小学館/1997)六五頁
[12]前掲『古事記』六五頁

初掲:2023/01/27

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