眞間地区にある弘法寺は日蓮宗の本山(教団にとって重要な寺院)だが、その由緒は複雑だ。
最初に建てられたのは小さなお堂で、今を遡ること1300年、奈良時代である。遙々この地を訪れた僧行基が、手児奈という美少女の逸話を聞き、その菩提を弔うため建立したという。
それから百年ばかりして、今度は空海が――、え?その美少女の話を詳しくしろ?
……手児奈については次回話す予定なので、本日は切腹の話でも聞いてってください。あとでカラスも見せますから。ほら、空海さんも待ちくたびれてますよ。
さて、次にやって来たのは弘法大師空海。
空海さんは「七堂伽藍を再建した」というから凄い。
伽藍ていうのは僧侶が居住する土地建物のことです。それって「寺」のことかと聞かれれば、ほぼ同じですね。ただ伽藍(僧伽藍摩)というほうが正式というか、古いです。
元々「出家」というように、修行僧は郊外の野山で暮らし建物に入るのは雨季だけでしたが、やがて僧侶が集団化して「教団」が形成されると、お金持ちの信者らが土地建物を寄付し、そこへ住むようになります。その僧侶の生活する場が「僧院」とか「僧房」と呼ばれる、いわゆる「お堂」です。
それとは別に、礼拝の対象として「塔」も建てられました。当初は仏舎利を納めてましたが、お釈迦様の御遺骨は限りがありますから、やがて「仏像」が主流となっていきます。この「仏塔」と「僧房」が伽藍の基本となります。
しかし教団が拡充し信者も増えてくると、講義をする建物や食堂なども造られていきました。七堂伽藍はそういった七種類の堂宇で構成される伽藍様式です。この七種類は宗派や時代や国によって違うようです。例えば南都の六宗(奈良時代に公認されていた六つの宗派)では、本尊を安置する金堂、講義を行う講堂、僧侶が寝起きする僧房、経典を収蔵する経蔵と、仏塔、鐘楼、食堂で構成されますが、寺院によって配置が異なり、建物同士を廻廊で繋いだパターンもあります。藥師寺なんかは塔が二つありますね。
空海さんは平安時代の真言僧なので、どういう七堂伽藍が再建されたのかは判りません。
手元に東寺(教王護国寺)の資料があるのでちょっと見てみますと、金堂、講堂、食堂、五重塔、庫裏(本坊)、灌頂院、大師堂、大日堂が比較的大きな建物です。そのほか鐘楼跡、経蔵跡なども確認できます。このうち大師堂は元は西院御影堂といい、空海の住房だったと言います。(「東寺発行パンフレット」)
天皇の全面的な支援を受けて都に建てられたほか、伽藍焼失・再建などもしてるので単純な比較はできませんが、だいたいこういった建物から選択されたものと推察されます。
それと、行基が一宇を建ててからわづか百年余りで七堂伽藍再建というのはちょっと不可解なのですが、次のような解釈ができそうです。
一宇建立をきっかけにして次々と施設が建てられ七堂伽藍にまで成ったけど、何らかの原因で一気に荒廃し、そのままになっていた。空海はそれを再建した。
この説の根拠として、行基が建てた時期を挙げることができる。寺の縁起(由緒)によると、天平九年(737)だったそうで、これは行基の晩年に当ります。
行基という人は寺でお経だけ読んでるような僧侶ではなく、あちこちで民衆を教化したり社会事業を勝手にやったりしてました(師匠の道昭という人もそう)。そのため法令に違反するとして一時期弾圧されましたが、731年頃から緩和され、745年には大僧正に任命されるほどの掌返しを受けました(『岩波仏教辞典』)。なので、民衆のウケが良かったのに加えて、政府も利用する方針に転換したので、行基の行動に表立って賛同する人たちも増えたものと考えられます。
ところが平安時代になって、いわゆる「南都的なもの」の価値が低下すると(桓武天皇は奈良の仏教勢力の介入を嫌って京都に都を遷したとも言われる)、法相教学(部派仏教)をベースとするような行基の仏教は下火になっていったのだと推察されます。そこへ最澄(大乗仏教,顕教)や空海(密教)が登場する(新たに持込む)という流れです。別の表現をすると、過去の時代に伝来された伝統的な哲学風の学問仏教よりも、派手な咒具や呪文を使い、功徳が甚大で、即身成佛も可能で、外国(中国)で今流行ってる系の仏教に天皇から僧侶まで一斉に飛びついた感じです。
中国では漢訳した仏典をまとめて使って新しい教義が立てられ、それが各宗派となっていったので、高度な体系化がされていて、部派の教義が破却されていったのも大きかった。特に天台宗はあらゆる経論を五時八教の理論で体系化して総合仏教の趣をもったので強かったです。
そんなわけで、平安時代に今度は「あの」空海が来た!ということで盛り上がり、再建相成ったと言うことのようです(行基の時と同じ展開)。少し検証してみましょうか。
これまた縁起によると、その時期は弘仁十三年(822)だという。再建に合せて寺号を「求法寺《ぐほうじ》」から「弘法寺《こうぼうじ》」に改称したそうです。
空海さんは816年に高野山の開創にとりかかり、金剛峯寺ができたのは819年。嵯峨天皇から東寺を賜ったのが823年(真言宗の根本道場となる)。出身は四国の讃岐(香川県)で、活動拠点は京都だったから、伝説が本当なら隙間時間に関東の千葉まで来たことになる。しかも前年に讃岐の満濃池を再興してる(『図説日本史通覧』)。山奥に大きな寺を建てたり、巨大な池を改修したり、教団を立ち上げ後継者の育成したり大忙しの中、どのような縁でここまで来て伽藍を再建したんでしょうかね。不思議です。
ちなみに、東寺の講堂は着工から完成までに十年を要したそうで、仮に空海がこの地で再建を指揮したとしても、完成まで見届けてはいないかと思います。
それから450年ほど経た建治元年(1275)、当時関東における天台の一大学匠と称されていた住持の信尊(了性法印)と、下総における日蓮の檀越の筆頭格だった富木常忍との間で法論(眞間問答)が発生、日蓮は弟子日頂を派遣し、信尊を論破せしめ、これにより法華宗(日蓮宗)へ改宗したとのこと。(『弘法寺縁起』)
これは日蓮宗界隈でも有名なエピソードなんですが、いつの間にか「天台」に宗派が変わっていますね。空海さんが七堂伽藍を再建して寺号を変えたなら当然「真言宗」の寺になったはず。
この点について『日蓮辞典』では、当初真言宗、鎌倉時代には天台宗だったとあります。したがって再建から400年ほど経った鎌倉時代に真言から天台へ改宗があった。住持が「関東における天台の一大学匠」と称されるほどの人物だったということからは、恐らく真言と天台との間で似たような法論があって、信尊がその天台側の当事者だったのではなかろうか。(当時は法論で論破された側が改宗するのが割と一般的だった。)
そして今度は、日蓮さんの弟子によって天台の僧侶(信尊)が論破されてまた改宗したというわけです。
まるで日本の仏教史をなぞっていくかのような展開です。
前置きが長くなりましたね。
表参道に目を移してみましょうか。
60段ばかりの石段ですが、次のような伝説があります。
涙石伝説
仁王門へ続く63段の石段の中に、いつも濡れている石が一つある。
それは弘法寺の檀那(パトロン)であった鈴木長賴が、日光東照宮の造営のため伊豆(神奈川県)で切出した石を船で運んでいる途中、根本という船着き場近くで突然船が動かなくなったので、石を下ろして弘法寺に奉納し、石段として使われた。幕府はこの行為を横流しだと糾弾し、長賴は石段で切腹したという。以来、その切腹をした場所の石だけがいつも濡れており、眞間の涙石と呼ばれた。[日角6、弘法寺縁起]
01
この写真しかないけど、向って左の中ほどでしょうか。一つだけ黒っぽい石があります。
02
仁王門
その後の弘法寺は、元亨三年(1323)に千葉氏から寺領の寄進があり、天正十九年(1591)には家康から朱印状を賜るなど、栄えたと言います。
家康から朱印状(領地を与える許可状)が出てたということは、この寺が徳川幕府に認知されていたことになりますね。
ところが家康が亡くなった後、例の事件が起きた。この事件は本当に石材の横流しだったんでしょうか。石に発生した異変を相当な無念によるものと語る口調や、捕えられて裁判沙汰になることもなく現地で切腹というのは、武士だとすればかなり異例のことに思えます。
日蓮宗でよく知られた法難の一つに「慶長法難」というのがあります。
慶長十三年(1608)、日蓮宗(法華宗)と浄土宗とで対論が行われることになった。日蓮宗側は当時破竹の勢いで天台寺院を論破しまくり、五十もの寺院を開いた日経が出ることになった。
ところが当日の朝、役人らに襲撃され瀕死の重傷を負う。そこへ城中からの呼出しが来たが日経は歩くこともままならない。弟子たちは延期を申し入れるも聞き入れられず、戸板に乗せられ対論の場へ引き出された。日経は満足にしゃべることもできなかったので、幕府は浄土宗の勝利として、日経の袈裟を剥いで、弟子たちもろとも拷問し、耳や鼻をそぎ落とし(これにより弟子の一人は殉教)、追放処分となった。
この法難の背景として、浄土宗側は対論の前に家康に訴え出ており、幕府側も将軍にすら改宗を迫るような強硬な法華の僧侶が目障りであったので裏で手を組んでいたとされます。(『日蓮辞典』)
つまり、家康は法華の寺に朱印状を出してるけど浄土宗の方にシンパシーがあったということです。また家康・秀忠・家光の三代にわたってブレーンを務めた天海は天台宗の僧でしたし、家康を東照大権現としてまつり上げたのも天海でした。
涙石伝説を構図として観れば、法華宗の信者である武士が、法華宗を弾圧した将軍の廟を造るのに協力せず、法華寺院へ寄付をしたわけです。弘法寺は不受不施派ではなかったようですが(朱印状も受取っている)、信者がそれに近い意識を持っていたとしても不思議ではありません。
ああ、ひょっとすると、家康の朱印状というのは、踏み絵代わりだったのかも知れませんね。不受不施派というのは、信者じゃなければお布施はいらないし助けもしないという強硬な一派で、キリシタンと共に禁教指定をされていました。
こうした点も考慮すれば、もっと複雑な宗教的事情に絡んだ事件だったのではないか、切腹の前に一悶着あったのではないか、という気もしてきます。(処罰を覚悟で横流しをしたなら、発覚しても無念の涙にはならないでしょう)
繁栄していた弘法寺ですが、明治二十一年(1888)、火災によって全山焼失したといいます。
それでも「日蓮宗最古の木像」という「眞間の釈迦佛」や、日蓮が修行時代に造像し晩年(五十五歳)まで護持していたという「大黒天像」があるとのことで、焼けたのは建物だけだったようです。「伏姫櫻」と呼ばれる樹齢400年の櫻も残っている。
04
日蓮手彫りの大黒天
「日蓮手彫りの大黒天」には、次のような逸話がある。
安房の東条松原(千葉県鴨川市)で襲撃を受けた日蓮は清澄の山中へ逃れる。そこで粟又(夷隅郡大多喜町)の狩人に助けられた。傷が癒えて鎌倉ヘ向う際に、お礼として手彫りの大黒天を授けた。[伝旅3]
この大黒天像が弘法寺の像と恐らく同じものかと思いますが、この逸話は俄には信じがたい。
というのも、東条松原での襲撃は一般に「小松原法難」といわれ、文永元年(1264)11月11日に襲撃されて殉教者が出たことを日蓮自身も書き残していて、今日でも日蓮系の寺院によってはこの日に法要が営まれています。ただこの時点の日蓮さんは、既に法華最第一を掲げているので、その救助の礼として渡すなら『法華経』になるはずです。百歩譲って仏像だとしても、『法華経』を説いた釈迦佛になるはずです。何故『法華経』にも出ない大黒天なのか。これでは狩人が大黒天の信者になってしまうでしょう。
この法難は複数の殉教者が出て、自身も額を斬られる大けがを負いながら奇跡的に助かっているので、後の日蓮伝でも附随する逸話が次々出て来るんですが(例えば鬼子母神が現れて地頭が落馬したから切っ先がずれたとか)、そういう「行者を守護する存在」という観点から考案された解釈のように思えます。
ちなみに、鬼子母神は「行者を守護する存在」として『法華経』に説かれているので伝記に採用されたのであって、私が知る限り狩人の話は伝記には見られません。
この二点から、ちょっと信じがたい伝説ですね。
本殿を撮影していると、カラスが舞い降りた。
一歩踏み出すと、すぐにまた飛び去っていった。
「君は道案内をしてくれないんだね。」
06
私は本堂にまっすぐ伸びる石畳を歩いた。
両脇に、銅で造られたと思しき灯籠があった。短い竹垣で囲われた石台の上に屹立する灯籠は、すべすべとした青磁器のようで、威風堂々とした佇まいの内に澄んだ静けさがあった。
笠と火袋には日蓮宗の寺紋「井桁に橘」が金色に耀いている。
しかし私の瞳はすぐに、柱にまといつく龍へと注がれた。
05
台座に浮き彫りされた獅子や麒麟も、追いかけっこをしている子犬の如き無垢な躍動感がある。
次の写真は雰囲気に惹かれて写した一枚だったが、よく観ると幟に「龍神」と染め抜かれているのを見つけて驚いた。
弘法寺で頂いた境内図で確認すると、龍神堂のようである。残念ながらこの龍神堂だけ由緒が記されておらず、どのような謂れがあるのか判らないけれど、原画像を具に眺めると、幟と神額に「里見」の文字が確認できた。
千葉で里見と言えば、やはり『南総里見八犬伝』であろう。(以下『八犬伝』と略す)
曲亭馬琴[1767-1848]の読本(小説)『八犬伝』は、全98巻、完成までに28年を費やした大作で、最後のほうは失明したため口述筆記で仕上げたと言います。
物語は里見家の姫が飼い犬の八房と契り、生れた八犬士が活躍する伝奇物です。
そういえば、その里見の姫の名が「伏姫」というので、境内にある櫻の名前と同じですね。この弘法寺は『八犬伝』とも何か所縁があるんでしょうか。ただ樹齢四百年が正しければ、馬琴が生れるよりも前に植えられたことになりますが。
手持ちの資料は中途半端で、里見と龍神、伏姫と櫻、そしてこの弘法寺との関係についても、一切不明でした。
伏姫と八房
姫と犬が契ることになった経緯は次の通りです。
城主が窮地に陥った際、飼い犬の八房に「敵将の首を取ってくれば姫の婿にしてやろう」と言うと、本当に犬が敵将の首をくわえてきて、そこから攻勢に転じて勝利するも、城主は約束を反故にして犬を殺そうとする――。
民俗学的な観点からは、人外の存在に娘をやることを約束して人間の能力以上の利益を得るが、約束を反故にしてその人外を殺す話は、伝説の一形式としてあります。(分類は不詳)
例えば京都府山城町の伝説(某寺の縁起)では、蛇が蛙を食べようとしてるのを見た男がとっさに「蛙を助けたら娘をやっても良い」と蛇に言う。蛇は蛙を放して姿を消す。その夜、娘の家にナニモノかが訪れる。主人は「三日後に来てくれ」といって一旦帰らせる。その間に藏を造り娘は籠もった。
また蛇がやって来たので今度は門を開けたが、娘は藏の中と知るや藏ごと締め上げて扉をたたき壊そうとする。娘はひたすら観音に祈っていた。夜が明ける頃、蛇の悲鳴がしたので恐る恐る来てみると、無数の蟹が蛇を切り裂いていた。その蟹は何日か前に食材にされるところを魚と交換して、娘が川へ逃がした蟹の一族であった云々。(『ふるさとの伝説七』)
『道成寺』の男版みたいな展開も出て来るけど、こういう風に約束を一方的に反故にされ、破られた方が悪者として殺される話がもてはやされるのを見ると、いかにも天津神を大々的に崇拝する国の民らしいなと思う。異形だろうが蛇だろうが、約束は約束として遂行するのが人としての道理であろう。私は詐欺に遭い殺された蛇に同情する。観音や蟹など拝む気にもならない。
蟹を助ける交渉をしたのは「男(人間)」で、その対価は「魚」でした。一方、蛙を助ける交渉相手は「蛇」で、その対価は「娘(人間)」でした。
ここでの祈願は単に助命ですが、伝説によっては猿に田植えの手伝いを願うとかもある。モチーフとしてはカミへの豊作祈願であり、人身御供に通じる。この京都の話がどことなく八岐大蛇の話をほうふつさせるのはそのためです。
祈願に対する対価が重荷に成る。すなわち信仰が低下することで、そのカミへの祭祀は放棄され、妖怪のように見なされる。民俗学ではこれが日本人の典型的なカミ観念とされています。
人と人の交渉は「魚」で済むけど、カミ(蛇)と人の交渉は「人」でないといけない。それはカミの方が上位で、人の価値観と異なるからです。カミを祀るのがいかに大変なことであるかがよく解るとともに、考えさせられる。
しかも娘とその家族は、殺した蛇の怨念を恐れて寺を建てている。身勝手な話です。
三島由紀夫が、約束とは契約ではなく信義なのだと述べて居るように、それは義務なのではなく、相手への敬意なわけです。だから購入した品物をいつまでも発送しない米国資本の大企業は、会員にならずお得意様でもない末端の顧客など欺して裏切っても問題無いと見下してるということです。
ただ『八犬伝』では、伏姫が約束を重視して、犬とともに城を出ていきます。たとえ相手が犬であっても、その犬は相手が約束を果してくれるものと「信じた」から依頼(敵将殺害)を実行した。その「信頼」をどう考えるかということでしょう。
しかし結局、逃避先の山中で犬は殺され、姫も自決するのですが、「伏姫」という名前が「人偏+犬」であり(「うつぶせ」とか「したがう」の意もある)、姫と犬の関係性がどうであったかを暗示しています。
つづく。
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(アクセス:京成本線「国府台」~750m)
ご朱印(ご首題):あり
【参考文献】
相賀徹夫 編『ふるさと伝説の旅3』(小学館)
伊藤清司監修『ふるさとの伝説 七 寺社・祈願』(ぎょうせい/1989)
黒田日出男 監修『図説 日本史通覧』(帝国書院/2014)
髙橋在久・荒川法勝『房総の伝説』(角川書店/昭和51)
中村元・福永光司・田村芳朗・今野達・末木文美士 編『岩波仏教辞典 第二版』(岩波書店/2002)
宮崎英修編『日蓮辞典』(東京堂出版)
「東寺パンフレット」(東寺)
「日蓮宗本山 眞間山弘法寺リーフレット」(弘法寺)