【Chiba-Wanderings01】国府神社のコウノトリ伝説【千葉県市川市】

参拝の記録・記憶

 列車は江戸川の上を軽快に走った。川面かわもに響く鉄橋の音はどこか懐かしかった。
 東京では乗り降りにせわしない人たちと立ち並ぶビルばかりの環状線か、時折り不快な金属音を立てる薄暗い地下鉄ばかりに乗っていたから、移動の過程を楽しむ余裕があるのは良い事だった。

 そんなことを思う間もなく、渡河してすぐの駅「国府台こうのだい」で降車した。
 小さな改札を抜けて県道まで出ると、北へ向った。
 目的地を目指すなら東へ往くのが正解だったが、近くに神社があるようなので寄り道をするのだ。
 地図を見ながら目的地へのルートを考えてる時に面白そうなものを見つけて、何の予備知識もなしに立ち寄って、驚いたりがっかりしたりするのが好きだった。
 東京へ出て来る前は、そんな気ままな徘徊はいかいに付き合ってくれる友達が居た。彼らは今、私の代わりに自分の新しい家族を乗せている。

 行き交う車。私を追い越して行く自転車。色褪いろあせた自動販売機。風に揺れる奇妙な風船――。
 知らない町で見つけたものを一緒に観てくれる人はもう居ない。
 私だけが変わらない。

 この世では、めまぐるしく変わるのが当たり前で、十年前に買ったおきにいりの服などを着て、誰もが手にしていくようなものをいつまでも所有しない私は、芸能人のような着こなしで髪を染めたりデジタルガジェットを華麗な指さばきで操作するでっぷりと腹の出た友人たちから奇異な目で見られる。
 「実年齢より若く見えます」と言ってくれた学生たちも、自分の親と比べたからかすぐに余所余所よそよそしくなる。
 「このうさぎの服とメタルTシャツのせいか?」と、ゲイリー・オールドマンが演じる伯爵はくしゃく風の格好で行くと、授業中にも関わらず知らない学生から写真を撮られた。

 玉手箱をもらっていない私には、このずれてしまった今をどうすることもできないが、いよいよ天涯てんがい孤独の身になった暁には、八百比丘尼びくにのように全国をさすらって、いろんな土地の昔あったことを語りたいと密かに想い、誰も見向きもしないようなことをあれこれと調べている。
 そう、いつの日か君も、龍を観たことがあるなどとのたまう年齢不詳の男に出くわすかも知れない。そんな時には物怖ものおじせずに声を掛けてご覧なさい。いかした龍のカードがもらえて学校の人気者になること間違いなし――、などと心持ちがたかぶってきたところで、短い石段の上に鳥居を見つけた。

 

 道すがらにのぞいただけだったが、この辺りは『古事記こじき』や『日本書紀』の登場人物であるヤマトタケルがしばらく滞在した地だそうで、コウノトリが江戸川の渡り方を教えたという伝説地だった。
 何となくこの伝説の背景には亡くなったオトタチバナ姫の影がうかがえる。
 ヤマトタケルが「水が走ってる!あれは走水はしりみずだ!」と噂になっていた海峡(浦賀水道)を渡る際、海神わたつみを軽んじたため海が荒れ全滅しそうになった。帯同していたきさきのオトタチバナ姫は海神をなだめるために入水じゅすいした。海はしずまりヤマトタケルの一行は海を渡った。その後姫のくしなどが流れ着いた場所(茂原もばら市)にたちばな神社が建てられている(茂原は内陸部であるが、遺留品を移動させたらしい)。ここまではよく知られた話なのだが、次のような伝説がある。

 入水したオトタチバナ姫は、その時身ごもっていた。その霊魂は近江国おうみのくに安土町あづちちょう(滋賀県近江八幡はちまん市)の「老蘇おいその森」に飛来して留まり、女人の安全を永遠に守ると言い残した。そこから安産の神徳があるとも言われている。この森に隣接して鎌宮かまのみや奥石おいそ神社)という神社があるが、その名の由来は、ヤマトタケルが所持していた鎌を森にまつったからだと言われる。(『近江の伝説』『近畿 流浪と信仰』)
 なぜ相模さがみ(神奈川)や上総かずさ(千葉)から遠く離れた近江にこのような伝説があるのか。姫の霊はなぜこの森に留まった(と語られる)のか。それは次の出来事と恐らく関係がある。

 「老蘇」はかつて湿地帯だった。それを石辺(石部)大連おおむらじが松や杉を植えて森林に変え、その一部が残る場所にこの神社が建てられた。(祭神:天児屋根命あまのこやねのみこと
 湿地を森に変える工事は古代にいてとても大変な事業だったに違いない。そのような水気のある場所に松や杉を植える(=立てる)という行為からは、どうしても「人柱ひとばしら」を連想する。何故なぜなら松や杉は長生の常緑樹であることから神の依代よりしろになることが多いし、また非業ひごうの死をげた者のために植えられるのも松や杉が多いからである。そしてそこへ神社を建てたのは、その必要があった(その森が神霊のいつくもりだった)からだ。「ヤマトタケルが所持していた鎌を森に祀った」という伝説は、オトタチバナ姫の慰霊いれい鎮魂ちんこん)の意味だろう。しかし実際は、オトタチバナ姫のように入水した女性のために語られたことではなかったか。
 ヤマトタケルは出立の際に天皇から「おのまさかり」を授かり、伊勢神宮いせのじんぐうで叔母から「草薙剣くさなぎのつるぎ」を受取る。斧鉞ふげきは権威の意味もあるが、死刑の隠喩メタファーでもある。草薙剣は神器じんぎであるが、武器でもある。それに対し「鎌」は農具である。この地で犠牲(人柱)となった女性のため、夫を象徴する物である「鎌」が合せ祀られたわけである。当事者を伝説的な人物に挿げ替えたことで、「伝説」になってしまった一例と言える。

 コウノトリはツルに似た白い大型の鳥だ。ヤマトタケルは死後、白鳥になって河内(大阪)の方へ飛んで行ったという伝説があるように、大きな白い鳥は霊魂や化身けしんに観立てられる。「老蘇の森」に飛来したというオトタチバナ姫の霊魂も、きっと大型の白い鳥として観想されたことだろう。
 川を前に煩悶はんもんするヤマトタケルに助言したのがコウノトリだったという伝説に、タケルの身代わりで死んだ姫の影を観るというのはこういうことである。
 もっとも、川を渡り終えたヤマトタケルはそのお礼に、駐屯ちゅうとんしていた台地をコウノトリにあげたから「コウノダイ」という地名になったという尾ひれが付いたことで、そのコウノトリは姫の化身ではあり得なくなってしまった。
 そんなコウノトリも、明治以降に激減し、今では絶滅危惧種に指定されている。それもまた近代以降の日本人の神霊観を象徴している、と言うのは果して言い過ぎであろうか。

 そんな風なことを熟々つらつらと考え、暇そうにしてる狛犬こまいぬの写真を撮って境内けいだいを出ると、東に進路を変えて住宅街に入った。

 

 ここに、当日の日記があるので読んでみる。

7月2日(じん
再び松原団地の大川家具へ行き、机とイス購入。千葉県の眞間弘法寺ままぐほうじ参拝。暑いがまだ風がある。近くの国府こくふ神社で初セミを聴く。かっこいい狛犬あり。手児奈てこな霊堂に寄って中山の法華経寺ほけきょうじへ。奥ノ院まで行ったが戻り道で少し迷う。ご朱印帳満了。

 

 気温やセミのことは全く記憶に無かった。
 温度や風、セミの声などは写真に遺せないものだから貴重な記録といえる。
 狛犬は、アングルの異なる写真が何枚もあった。昔は獅子ししや狛犬を探しに神社へ行っていたが、今は獅子狛犬にあまり興味はない。
 家具屋へ行った記憶も無かったが、購入した机というのは、今私の後ろで物置になっている台のことだろう。イスは引っ越しの際に処分した。
 もっと勉強がしたかったな、と不意に思った。
 先生やゼミ仲間に直接疑問をぶつけて納得行くまで議論したり、入手困難な本や論文をすぐに無料で読むことは、もうできない。
 私がしていた四年間の勉強とは結局何だったのか――。
 その答えをうまく出せないまま、弘法寺の表参道に着いた。10分ほど歩いたようだった。

 

つづく。

 

国府神社
鎮座地:市川市市川4ー4ー18
創建は寛治元年(1087)二月。
祭神は日本武尊やまとたけるのみことだそうだが、旧称は鳳凰大明神ほうおうだいみょうじんと称し、御神体はコウノトリのくちばしである。
大鳥大神とも称し、陸軍兵営設置のため現在地に遷座せんざ(時期は不明)。
末社:稲荷神社、天満神社
(以上、市川市教育委員会設置案内板、境内掲示板より)
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「国府台」という地区は、神社がある「市川」の北に隣接する。大学や病院、公園などが密集している。更に川を上れば矢切やぎりの渡しがある。ご朱印や駐車場は不明。