【夢記001】かみ憑く大蛇と白い龍

9月11日
 「滋賀の龍神祭祀社」を公開した日の夜にこんな夢を視た。

 なぜか中学校に居る。校舎内をぐるぐる歩いて居る。放課後でかなり薄暗い。教室に入りドアの陰に潜む。やって来た廊下の生徒たちにお化けの真似をして驚かす。
 生徒たちが通学バスに乗り込む。自分は下駄箱にくつが無く、誰かのくつを借りて履く。革靴でなぜかサイズはぴったりである。ついでに傘を拾う。紳士物の高級な傘である。通学鞄にノートなど入れると大雨が降り出す。学校に居たはずが、いつの間にか自分の家に居る。外へ出て、傘を差そうとしたところで雨が上がる。空が一気にあかるくなる。
 近くを小さい川が流れている。その川沿いの道の上を這うように白い龍が居る! むくむくと次々現れて三体になる。大きさは2~3mくらいである。全体雲のようにもこもことして地面からわずかに浮いている。
 川の向こうに誰かが居る。家族連れ風の人たちだが、その人たちにはこの龍が見えていないらしい。自分は撮影しようとポケットを探るが、カメラが無い。慌ててカバンの中を探すがなかなか見つからない。その間にも白い龍たちはゆっくりと、雲がたなびくように動き、今にもその象が崩れていきそうだ。
 「おい!龍が居るよ!」誰かに向って叫ぶ。濡れたアスファルトに日が当り、湯気のように立ち昇る。それがわだかまって濃い龍になると、手の届きそうな所をゆっくりと移動する。それは感動的な光景であった。物凄い歡喜であった。傘は不要になった。ただカメラが見つからないことが悔やまれる。これを自分しか観て居ない。誰もその存在を知らないのだ。一抹の哀しさが去来した。
(以下内容の考察が10行あるが省略)
 夢のつづきが視たくなった。

 

九月(日付けは不明)
 記事の完成間近にはこんな夢を視た。

 人の脚ほどもある大蛇に肩や背中などを何度も食いつかれる。そのたびに誰かが引きはがしてくれる。痛みはほとんど感じないが、飛び掛かり喰らい憑く衝撃は凄く、また自力では剥がせない。

 以下は観想である。
 この夢はあまり良い夢ではなさそうだと即座に感じた。お祓いに行ったほうが良いかなとも思った。

 

 けれど、11日の完成後の夢を視て救われる思いがした。

 この大蛇については少し思い当たることがある。
 記事を最終調整してる段階で、凡例の「龍神」という言葉の定義の中に「蛇」の扱いを追記した。そこで普段は「龍蛇神」という言葉をよく使っている(タグもある)にもかかわらず、「蛇神は除外する」と記した。
 これには理由があった。
 まづ「龍蛇神」という用語について言うと、これは龍と蛇が同一という意味ではない。同格という意味である。だから本来の意味に沿うなら「龍神・蛇神」と表記すべきところである。

 そして滋賀県には八岐大蛇を祀る大きな神社のあることが判った。八岐大蛇はやはり特別な存在である。採り上げるならきっちり(筆頭格で)扱いたいという思いが勝った。その時期は当然「巳年」が相応しい。

 それ以外にも蛇にまつわる伝説を有する神社は何社かあった。しかしそれらはどれも退治するといった話ばかりで、祭神として祀ったものは無かった。龍神との差は明白であった。
 人身御供伝説もそうだが、殺された側のカミではなく、殺すモノ(殺神者)を祀る問題は、私の中でずっと大きな位置を占めていた。個別に特集したほうが良い、否、すべきだと強く感じた。
 それが件の記事から蛇神を除外した理由である。これは排除ではなく、満を持すという意識からの決定であった。

 殺されて祀られることもない荒神たる蛇神たちが、私に牙を剥いた。だが、誰かがそれを引きはがしてくれた。
 それはきっと、スポットライトを当てた龍神たちが、見棄てられたまま荒ぶるカミをたしなめてくれたのだと、今では思って居る。