龍宮神社(広島市佐伯区海老山町)塩屋神社末社

参拝の記録・記憶

鎮座地:佐伯区海老山町8-12

龍宮神社

【由緒】
創建は明治26年
五日市漁港に鎮座。
平成二年(1990)に塩屋神社へ合祀。

間もなく相殿から小祠(境内社)へ遷座。
塩屋神社境内末社
例祭:旧三月十日

【祭神】
 『廣島縣神社誌』の編纂時には塩屋神社の相殿神に「龍神」が登録されていたが、合祀された翌年(1991)設置の案内板では「豊玉姫命・玉依姫命」となっている。
 この表記変更については、①『廣島縣神社誌』の情報が間違っていたので訂正した。②「龍神」と「豊玉姫命・玉依姫命」を同定し表記だけ変更した。③「龍神」を祭神から外し「豊玉姫命・玉依姫命」を祀った。といった可能性が考えられる。(本記事では表記のみ変更されたものとして扱う)

【神徳】
延命長寿、良縁、安産、出世、海上安全等

 

 祭神の表記だけでなく掲示された神徳からも明らかなように、龍神的要素はかなり後退し、龍宮要素を前面に出している。
 塩屋神社の公式サイトでは、平成三年12月に龍宮神社を摂社として遷座したとなっていて[1]、龍神の合祀そのものが記録されていない。
 『廣島縣神社誌』の記述が正しいとするなら、平成二年にいったん合祀し、社殿を移設または新造したのち、平成三年十二月に塩屋神社から遷座して境内摂社とした、と推定できる。

 

塩屋神社

【由緒・祭神】
創祀年代不詳。
一説に源氏が祀ったという。
永享三年(1431)厳島神社の客人神社再興をなした湯蓋道空ゆぶたどうくうが、摂社である当社の再興にも関与したとされる。
延享三年(1746)社殿修復時、海老山の木の間から湯蓋夫妻の木像が見つかり合祀。
平成2年、五日市港の龍宮神社を合祀。

 『廣島縣神社誌』の編纂時には祭神を猿田彦神、相殿神を龍神塩椎神しおつちのかみ・湯蓋道空・湯蓋道昌としていたが、現在は主祭神:猿田彦神、相殿神:塩土老翁神とし、相殿の龍神は境内末社「龍宮神社」へ遷され、表記は「豐玉姫命・玉依姫命」に変更されている
また湯蓋道空・道昌は境外末社に遷座。

 

2000年代辺りまで境内地は広く、両部鳥居があり、高床の廻廊が付いた社殿があった。


2000年代の塩屋神社

 現在はその社殿のあった境内地が道路と駐車場になっていて、湯蓋道空・道昌を祀る社殿は造替され飛び地のような場所に建っている。(令和六年確認)
巫女が多いが、神職は少ない。
御朱印:あり(書き置き)

 また縁結びを大々的に打ち出していて、祭神の説明と神徳の強調ばかりで神社の由緒はほとんど記述が無い。ただこれは書けることがなさ過ぎるため致し方ない側面もあるし、敗戦後に国家の統制から外れた神社神道は宗教化することへ舵を切ったのでその意味では間違ってはいない。
 だが都合の良い神話や拡大解釈ばかりで肝心の歴史的な記述がほとんど見られず、祭神や神社・社殿の変遷がまったく把握できないのは残念である。
 神域の大規模な修改造は、末社の完成が「平成二十五年」(2013)とあるので[2]、同年か、本社の境内を優先するとの判断に立てばその少し前であろう。

 


五日市漁港という小さな港があった辺り(フェンスで囲まれた部分)。
今ではかなり沖合まで埋め立てられ、その面影は見出せない。

広島市ホームページによると、平成15年8月(2003年)から埋め立てが始まり、平成19年1月に沖合までが埋め立てられたようである。[3]

 朧な記憶を辿れば、漁港といったイメージは既になく、小さな入江に白い小舟や漁船が連なって潮の干満に上下していたことが思い出せる。
 またこれも曖昧な記憶だが、塩屋神社のお祭りに行ったとき、人形流しか灯籠流しをやっていて、それらは後日まとめて沖合に流すというような説明だったと記憶している。遙か昔は恐らく社頭から流していただろうが、埋め立て前がどういう状況だったのか、我々には知る由もない。

 

【参考】
『廣島縣神社誌』、境内案内板
[1]塩屋神社公式(https://www.shioya-jinja.jp/profile/index.html)2024年1月確認
[2]同上
[3]広島市ホームページ「埋立地の町の区域への編入(新たに生じた土地の確認)」(https://www.city.hiroshima.lg.jp/soshiki/1021/14943.html)2024年1月確認