清水谷神社(広島市東区)【広島県の龍神祭祀社】

民俗伝承[日本]

鎮座座標:広島市東区温品8-13-2

【主祭神】
高龗神
別雷神
帶中津日子命
品陀和気命
息長帶日売命

<相殿>
大穴牟遅神
彌都波能売神
赤根龍神(あかね)
大地主神(おおとこぬし)
市杵島比売命
伊弉冉尊
奥津日子神
奥津比売神
大田命
天照大神
火之迦具土神
大山津見神
事代主神
大年神
国之常立神
猿田彦命
少彦名命

【由緒・伝承】
神功皇后滞在伝承地。
神功皇后は九州へ向う途上、当村金碇に船を止め、当社上の白地岩にて三夜滞在し清水で洗米した。
帰途も立寄ったが、その時白髯(しろひげ)の老人から、この清水で諸病を癒やし長寿を保つべしとの夢告を得たという。これによりこの地に社殿を建て京都石清水八幡より祭神を勧請した。

弘仁十四年(823)雨乞成就の伝承。
弘安四年(1281)永町城主温品左衛門尉が社殿再建。
永禄七年(1564)本殿建立
元禄九年(1696)拝殿建立
寛政十二年(1800)本殿再建

明治4年、村内の十二社を合祀。
大正4年、社殿の向きを西から北へ変える。

末社:稲荷社
(参考:『廣島縣神社誌』)

 主祭神には高龗神と別雷神も含まれるが、その由来については記載が無い。
 石清水八幡の勧請については詳しく述べられているも、勧請前に「清水(霊水)」のキーワードが提示されており、八幡神よりも先に産土として水神が祀られていたと考えられる。(文章の流れと結末の繋がりが不自然で伝承が改変されている可能性が高い)
 弘仁十四年の雨請いも普通に実行されており、清水の伝承で祀られたのは実は水神で、石清水八幡は源氏の氏神なので、鎌倉時代に城主が再建した際に合祀されたのではなかろうか。そこで八幡神がメインの祭神(城の守護神)として扱われ、伝承もそれに準じるようになったものと推察する。
 この説の根拠として呉市豊町久比の篠原神社の例を挙げておく。篠原神社も創建年不詳ながら神功皇后立寄祈願の伝説があり、室町期に小早川氏が大崎下島を領した際、神功皇后伝説地である篠原に八幡神を勧請奉祀したとされる。旧称は篠原八幡宮であるが、祭神は伊邪那岐神・伊邪那美神・品陀和気命となっている。つまり、清水谷神社と同様に神功皇后伝説と八幡神勧請祭祀の由来だけ異様に詳しく、岐・美二神についてはまったく記載が無い。これが意図的に消されたり隠したりしたものでないとすれば、八幡神の勧請以前より岐・美二神は祀られて居て(創建年不詳)、後世に八幡神が合祀されたと解す方が自然であろう。伝説は合祀神の八幡を箔付けするために利用されたわけである。
 更に補足すると、広島県内の天満宮の大半は、菅原道眞の来訪伝説と結びついており、素直に道眞公を主祭神としてそのまま祀っている。つまり、伝承の主体が自然にそのまま祭神および由来となっている。わざわざよその土地から神霊(分霊)を勧請などしていないのである。そしてそれは「伝説」があるからこそ可能なのである。(そのまま祀ったり建てたりすることが伝説・神話の真実性の証明になっている)

 
 こう考えると、あるいは神託云々というのは、権力者・為政者等の命令によって主祭神変更のあったことを暗示しているのかも知れない。
 なお、石清水八幡宮の祭神は誉田別尊・息長帶比売命・比咩大神でタラシナカツヒコは含まれて居ない。また石清水八幡宮は宇佐八幡より勧請して成った神社である。(860年創建)
 加えて、神功皇后自身が自分や息子を勧請して祀るというのは意味が解らず時代的にもあり得ない。
 奇しくも弘仁十四年は宇佐神宮に神功皇后が併祀された年であって[1]、息長帶日売を勧請奉祀するとなると必然的に最速で823年、石清水からの勧請ならば860年以降となるだろう。

[1]『神道史大辞典』809頁