龍王社[貴船神社]
【鎮座座標】
呉市西辰川2-9-10
最寄り駅:JR呉線「呉」駅北口~広電バス/辰川線「辰川」停留所
左手に稲荷社
右手に荒神社と下り坂(これが境内に最も近づける道。表参道は石段)
祭神と由緒[A](『廣島縣神社誌』)
【祭神】
髙龗神
髙城入毘売命
庄山田村の山上にあったが荒廃し、龍王石のみ残っていた。
延宝年間(1673-81)、村民雨請いし、霊験あるによりて同八年に祠を造り宮原村の八幡社境内に祀る。
享保四年(1719)現在地に社殿建立。
元文五年(1740)本殿再建。
寛延二年(1749)拝殿建立。
二河川の滝から龍神が水を呑み竜巻を起し雨を降らせたという伝承がある。
例祭:11月3日
狛犬
待機型の狛犬は明治期のものでしっぽの先が背中にくっついてる。
「推定」としたのは「原」の字の左の払いが下の「丈」のところに刻まれているようで字形が崩れているように見えるから。「藤原丈平」ではなく「藤京文平」の可能性もある。
本殿
入母屋造・平入。
大きく迫り出した破風が特徴的。
祭神[B](龍王神社氏子総代会設置の案内板)
こちらの方が祭神や伝承が詳しい。御神体の態様のほか、祭神に闇龗神が含まれる。この御神体は『廣島縣神社誌』で「龍王石」とあったものであろう。
【祭神】
高龗神
闇龗神
髙城入毘賣命
御神体:竜形の御影石(90cm)
【神徳の説明】
高龗神は山上の龍神で祈雨・豊穣・国土繁栄
闇龗神は谷川の龍神で治山・治水
髙城入毘賣命は女性の苦悩の身代わり、縁結び、安産、厄除け、長寿
【祭礼】
1/1:歳旦祭
11/2:宵宮祭
11/3:例大祭
11/23:新嘗祭
12/31:大祓祭
由来[B](龍王神社氏子総代会設置の案内板)
西辰川町の中央の高台に鎮座。石段は九十九段ある。
延宝年間(1673-1680)二度の大旱魃を受けた際、当時の庄屋の呼びかけで当社に雨請いを行うと、二河の滝壺から龍が現れて大雨を降らせたという伝説があり、龍王神社という名称はこれにちなむ。この時の雨請い神事では人身御供が使われている。
創建年は不詳。本宮の亀山神社の記録によれば延宝三年には莊山田村、莊村の丘の上に小祠があったと記される。
延宝五年(1677)社殿造営
延宝八年(1680)宮原村八幡神社境内に遷座。
享保四年(1719)現在地に遷座。
元文五年(1740)本殿再建。
寛延二年(1749)拝殿建立。
大正十四年(1925)社殿の改修
敗戦前はお百度参りが見られた。
昭和五十八年(1983)社殿、境内地、石段等の改修。社務所、祈念碑の建立。
平成十三年(2001)社務所、狛犬、石灯籠、玉垣、石段等が大被害を受け復旧。
平成十四年、案内板の設置。
特に逸話のある人物ではないが、身代わりなどの神徳は人身御供伝説に由来するものと思われる。ただその場合だと実際に人身御供にされたのは「お稲」という娘であり、タカキイリビメではなかろう(そもそも時代が違いすぎる)。タカキイリビメ合祀の経緯が不明であるが、呉市内の神社の何社かで祀られているのが確認でき、源氏の影響か異色の八幡信仰と言えそうである。(一般的には応神の母と言われる神功皇后を祀った例が多い)
龍王社が「貴船神社」に改称されているように、本来の祭神(お稲)から髙城入毘賣命に改変された可能性も指摘できるが、京都の貴船神社(総本宮)では本宮に高龗神、結い社に磐長姫命、奥宮に高龗神(一説に闇龗神、罔象女神)を祀るので、磐長姫命が選択されても良さそうだが、敢えて髙城入毘賣命なのは、社殿を造営したわずか三年後になぜか八幡社境内へ一度遷座しており、その辺りの経緯が関係しているのではなかろうか。
拝殿意匠
蟇股・木鼻(拝殿)
蟇股の中央部分はかなり特異な意匠で、神紋のようにも見えるが屋根瓦に左三つ巴がある。
[2024/08/26追記]鐙瓦の巴紋は水流の意を採った防火信仰にちなむ意匠で特に神紋というわけではない。
【奉献品(一例)】
神木で作られた記念の額。
昭和57年の銘が入っている。
龍王社の人身御供伝説
今から三百年ほど前の夏、龍王を祀る丘の上で村人たちが雨請いをしていたが、満願の日を迎えても雨は降らなかった。
五年前に行われた雨請いでは、龍王が二河の奥の雄滝の水を飲んできて村に大雨を降らしてくれたが此度はその気配も無い。
庄屋の松右衛門は、二河の滝壺に棲む龍王に「生きたそなえ物」をするべきだといって、この村の美しいむすめをひとり、龍王に捧げることを提案する。
反対する者は居なかったが、申出る者も居なかった。そこで社頭でおみくじをして、当った者が差し出すことに決まる。
甚助の一人娘「お稲」に決まる。
二人は泣いていたが夕方になるとお稲に白装束を着せた。
白木の箱が用意され、お稲を入れると、四人でかついで一人が先導しながら二河の山道を登った。
白木の箱は滝壺の前の平台に置かれる。五人の村人は山を下りた。
滝壺の上に観音堂がある。そこに茂八という若い堂守が居て、娘を連れ出そうとする。
お稲は覚悟を語り、村のための自己犠牲を説いたが、若者は否定する。
しかししつこい若者に押されてついに村を見棄てる行動に出る。
すると突如地鳴りが起きる。
二人は八畳岩に這い上がる。
村人が様子を見に来てお稲が居ないことを確認すると、地鳴りは人身御供の逃走による龍王の怒りと解釈される。
村人らは岩上の二人を見つけ説得するが、二人は答えない。
やがて二人は滝壺に飛び下りる。
しばらくすると雷鳴が走り雨が降り始めた。(→共同体の危機の脱却)
八畳岩の下には二人を弔って二本の松が植えられた。この松は八畳岩の女夫松と呼ばれた。
村人たちは人身御供の雨請いをやめることにした。(「お稲と龍王」―『広島の伝説』より梗概)
①五年前の雨請いは成功したのに、何故今回は当初成功しなかったのか。
②若者の思考に時代感が希薄。(合理主義・無神論的・個人主義的な思考)
③人身御供は成功したのに以後やめるという展開。
④題名が「お稲と龍王」なのに龍王の存在感が希薄。
→龍の出現も退治も語られないのに、神事が中絶する流れ。
また人身御供伝説一般に言えることだが、貴船神社(総本宮)では生馬献上による雨請い祈願の効験が知られていながら、生馬ではなく女性が神饌に採択されていること。
二河の観音堂については、次のような伝説もある。
『夜泣き観音』
昔、呉の二河峡の奥の観音堂が火事になったとき、本尊の観音像が滝壺に飛込んだので焼けなかった。
翌日、堂守の喜太郎が滝壺を探したが像は見つからなかった。
それから何年か後、呉浦の漁師が焼け焦げた観音像を網にかけ、油屋長九郎という古物商に売り渡した。
その観音は毎晩「帰ろう帰ろう」と泣き、喜太郎もうなされた。
やがて噂が広まり、喜太郎が出向いて引き取ると、夜泣きは止んだという。
二河滝(二河峡)
二河滝(にこうだき)
遊歩道の橋の上からのぞむ。
別名「男滝」ともいう。
「女滝」
休憩所の奥に八畳岩があり、石段を上がると滝見台がある。
観音堂
由緒不明。
観音堂蟇股
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