水神社(車折神社末社)【京都の龍神祭祀社】

参拝の記録・記憶
鎮座地:京都市右京区嵯峨朝日町
(最寄り駅:嵐電嵐山本線「車折神社」駅)
裏参道から境内を抜けて表参道の鳥居を出てすぐ。

水神社(龍神様)

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昔、大堰川がこの近くまで流れていた頃、氾濫を鎮めるために水神様に祈願していたことに由来。
祭神:罔象女神
神徳:昇龍の如く運気上昇

 

車折神社

読み方:くるまざき-じんじゃ
旧称:車折大明神
旧社格:村社。(現:単立社。)

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駅のすぐ前にある裏参道。

 

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境内中央にある禁足地

【由 緒】

 高倉天皇に仕えた儒学者清原賴業(1122推-1189)を祀る。
 賴業公は舎人親王の子孫と言われる。(舎人親王は天武の子で『日本書紀』編纂の中心人物)
 文治五年(1189)賴業歿後に子孫が社殿建立し鎮祭。
 社号は「車裂」「車前」とも表記する。

 高倉天皇は後白河上皇の子で、母は淸盛の妹。上皇(父)と淸盛(義父)の板挟みで苦労なされたと言われる。
 二十歳で実子安徳帝(二歳)へ譲位。間もなく、淸盛と同じ1181年に亡くなっている。
 文治元年(1185)には平氏が滅亡しており、まさに日本史の節目に立ち会った学者である。

 賴業は政策顧問として実務家だったと言われる。
 社域は清原家の領地で元は廟だった。
 創建当初より賴業の趣向を鑑みて桜の植樹が行われ桜の宮と呼ばれていた。

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【社号の伝説A】(京都市設置案内板)

 昔、ある貴人が牛車で社前を通る際、牛が倒れ車が折れたので車折神社と呼ばれるようになったとの伝承がある。(典拠不明)
 また商人がこの神社の小石を持ち帰り、家に納め満願の際にこの石を倍数にして神社に返し、商取引の違約なきことを祈る慣習がある。

祈念神石
 社務所で神石を求め、神前で願望を祈念し、持ち帰る。
 願望成就の折に海・山・川などで石を一つ得て洗い清め、その石にお礼の言葉や祈願内容を書き、祈念神石とともに神前に返納する。

【社号の伝説B】(『神道大辭典』第一巻)

 ある人が車で社前を通った際、車がたちまち裂け砕けたので車折神社と呼ばれるようになった。(「船橋家蔵清原系図」)

【異伝C】(『神道大辭典』第一巻)

 後嵯峨天皇が大堰川行幸の際、社前で車が動かなくなった。御下問により賴業が祀られていることを知り、還幸の後、車前大明神の神号を授けられたとの説もある。(社伝)

<考察>
 天皇のお乗り遊ばされるお車を折るというのは只事ではない。
 神徳として学業成就のほかに、「約束を違えないこと」が挙げられているのが注目される。
 後嵯峨天皇は寛元年間(1243-1247)に在位した天皇。
 時代としては承久の変で隠岐に流された後鳥羽上皇が崩御して少し経ったころで、前代の四條天皇がわづか十二歳で急逝し、北条一族が執権などと称してのさばっていた時代にあたる。つまり、幕府によって擁立された天皇である。
 この天皇は何といっても南北朝分裂の遠因となった天皇として知られる。院政の乱れ、北条族の暗躍、宗教の乱立などあらゆる面で「正統」が蔑ろにされ、呼応するかのように天変地異の相次いだ時代であった。
 後嵯峨天皇のお車が社頭で折れたという伝承は、朝廷の分裂を暗示すると同時に、賴業を想起させることで板挟みで苦しむ者が居るということ、ブレーンには優秀な学者が必要だということも物語る。また祭神の賴業公が皇親政治を推していた天武の子・舎人親王の子孫であるという点からは、長屋王が藤原氏につけ込まれて滅ぼされた歴史の二の舞になることへの警鐘とも言え、「約束を違えないこと」を誓うことでその神徳が得られるという特殊な信仰の存在も、男系長子が皇統(院政)を継承するという慣例が破られることへの意味深長な示唆と言えよう。
 後嵯峨は仏教信仰を持ち、天台教学に興味を示し、和歌の才能もあったと伝わるが、執権政治を覆すことはできず、朝廷分裂の亀裂を拡大させただけであった。(参考:岡野弘彦・中村正明編『天皇文業総覧(下)』)

 

【神紋と昇龍守Card】

 二種類の紋がある。
 祭神の賴業公が桜を好み「桜ノ宮」とも呼ばれたことから下(左)の紋は「桜」かと思ったが、よく見ると花びらの先端が切れ込みでなく出張って居るので、桜ではなく「桔梗」紋である。美濃の土岐氏が用いた紋として知られ、その一門の明智光秀も採用している。(大枝史郎『家紋の文化史』)
 対して上(右)に重なる紋は「引き両」かと思えるが、これもよく見れば水平ではなく両端に空白があり、「一文字」にも似るが、左右の跳ねが一般的な筆勢と真逆(天地逆)という独特の紋である。
 賴業公を主祭神として本殿に祀り車折神社と称す神社は当神社だけであるという由緒書の主張を考慮すれば、一文字紋の可能性もある。

 しかしながら今挙げた各紋の内から、実は二つの紋で共通点を見出すことができる。それが足利尊氏である。足利氏は引き両紋を用いたが、同時に土岐氏とは同族でもあった。つまり足利氏をキーワードとすれば、桔梗紋と引き両紋の可能性がある。
 しかも足利尊氏は後醍醐天皇に謀叛し、光明天皇を擁立して持明院統(北朝)を築いた室町幕府の初代将軍である。
 これは後嵯峨天皇の車を折ったという伝承とも関わってくる。後嵯峨天皇は実子のうち弟の亀山天皇を優遇した結果、亀山は嵯峨に大覚寺統を建てた。(後に後醍醐天皇が神器をもって吉野へ降ると南朝と呼ばれる)
 象徴的に観れば、桔梗紋の方は下剋上であり、もう一方を引き両紋だとすれば、足利尊氏の謀叛や南北朝の分裂(不完全な引き両。左右の撥ねが上下)とも見做せる。また後嵯峨の車を折ることとキーワードの足利を重視すれば、北朝の支持を暗示するようにも見えるが、神号(一説には神階も)を賜ってそれを伝説として語り継ぎ採用し続けている点では南朝との繋がりのほうが深く濃厚である。
 ただ「約束を違えないこと」に注目すれば、尊氏や光秀の如き謀叛や下剋上、そして慣例を無視すること(弟が先に卽位。神器を持たないで卽位。下車せず素通り)への戒めの意味も充分に考えられよう。(社頭で下馬せず通過して落馬したり、帆を下ろさない船が暴風に遭うという伝承も少なくない)。
 なお、表参道は112号線に通じるが、禁足地を設けて分断してある。(画像06)

 

【末社(一部)】

辰巳稲荷神社
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(由緒不詳)
宇迦之御魂神
神徳:金運、良縁

 

大國主神社
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(由緒不詳)
大國主大神(大黒天)
神徳:金運、財運、金脈拡大

 

【主な祭礼(一部)】
歳旦祭:1/1
節分祭:2月節分
例大祭:5/14
三船祭:五月第三日曜
万灯祭:8/14-16

(参考:境内案内板、境内由緒書、『神社辞典』、『神道大辭典1』、『天皇文業総覧(下)』、『家紋の文化史』)

 

御朱印:あり
駐車場:あり

 

【備考】
 広島県内の賴業祭祀社としては南区の比治山神社(相殿:車折大明神)が知られる。
 文政三年(1820)に京都嵯峨より勧請し境内社として祀っていたが明治期に社殿大破を理由に合祀されている。(『廣島縣神社誌』)