終点「貴船」~
バスを下りて目についたのは大量に伐採された山肌。この貴船山は国有林となっており、全域が風致地区、一部が保安林になっているほか、檜皮の採取試験地にも設定されている。この写真の辺りは平成三十年(2018)の颱風で大規模な被害が出た地域らしい。(近畿中国森林管理局「フォレスト・ニュース」令和二年十月号参照)
この颱風は結い社の神木を倒し、本殿にも被害を与えたというから尋常でない。
ここから本宮へは5分程度の道のり。
バスは比較的本数多い(12分に1本くらい)
よく写真で上げられている石段も思ったほどではなく、割と余裕でした。(段差が低く百段もない)
貴船神社本宮
絵馬発祥の社
旱天で雨が欲しい時は黒馬を、霖雨で雨を止めたい時は白馬(あおうま)または赤馬を捧げていましたが、時に生馬に代えて板馬を奉納した。これが現在の絵馬の原形と言われる。
【本宮由緒】
創建年は不明ながら、延暦十五年(796)に藤原伊勢人が貴船明神の神託を受けて鞍馬寺を建立したとの伝承があるため、それ以前と推定される。
社伝によると白鳳六年(677)に社殿の造替をしたとされる。
永承元年(1046)水害で被災したため、天喜三年(1055)本宮の地に遷座。
平安期には賀茂別雷(上賀茂)神社の摂社となっており、深い関係性が看取されるが、そのきっかけが上述の水害による社殿流失及び再建だったとする説がある。(『神社辞典』)
(*広島県内の神社でも似通った事例が散見される)
嘉永元年(1106)賀茂別雷社炎上し、御神体が貴船社に遷される。
保延六年(1146)正一位に昇叙。
『延喜式』の名神大社。
祭神は高龗神で、闇龗神や罔象女神とする説もある。
『神道大辭典』では本宮を闇龗神(高龗神、罔象女神とする説も載せ)、奥宮を高龗神としている。
古くは「貴布禰」と表記したほか「黄船」「木船」「木生嶺」「氣生根」なども見られる。
明治四年、賀茂別雷神社から独立し官幣中社となる。
平成17年(2005)本宮社殿再建
平成24年(2012)奥宮本殿解体修理
例祭:6/1
本宮では湧き水を持ち帰るためのボトルなども販売されてました。
結い社(中宮)
貴船社本宮から結の社まで5分程度。
磐長姫命が祀られているが、社頭やサイトに掲示されているイワナガヒメの伝承は記・紀の伝承とは異なる点に注意を要する。
一般に磐長姫命は呪詛の神であり、人の寿命が儚いことを説明する逸話をもつ。後世には美人薄命のコノハナサクヤ姫に対し、その長命属性(容貌醜い代わりに命が長い)が強調され信仰されるに至ったが、同様に、「縁結び」信仰の基底にあるのは「縁が叶わなかったこと」である。つまり破局や除去によって縁を引き寄せる要素が強いので注意したい。
特に有名なのは橋姫の伝承で、貴船明神に願掛けをして神託を受け、ついに鬼女と化し、自分を棄てた男や相手の女を亡き者にしたと語られる。伝承のベースには天皇などの貴人(あるいは男神)とその通いを待ち続ける女性(または女神)の逸話があるとも言われるが、民間では丑の刻参りなどの邪道な信仰も生み出すに至っている。そしてそれが長らく残り語り継がれているのは効果があると信じられてきたからであろう。(奥宮境内には場違いな防犯カメラが何台も設置されていた)
貴船大神の鎮座伝承に、玉依姫が船で川を上り祠を建てたというのがある。この玉依媛は鴨川での禊中に上流より流れきた丹塗りの矢で懐妊した逸話が知られる(玉依媛は下鴨神社に祀られる)。そして宇治の橋姫のほうも神が川沿いに(あるいは対岸から)通ってきたという伝承がある。
龍神と女性がセットで祀られる謎にこの交婚が関わっているとするなら、人身御供伝説も祭祀者という観点から説明することもできそうである。
玉依姫とは字義的には魂の依代となる女性(神霊を下ろし憑ける巫女)であって、記・紀においても複数の玉依姫が登場する。貴船神社のほうは「皇母」といっているので綿津見神の娘である。一方、上賀茂神社が貴船神社を「摂社」としたのは、祭神である賀茂別雷命の母親の玉依姫(賀茂健角身命の娘)が想定されているからである。(両者は別神とするのが通例)。
イワナガヒメの鎮座伝説は貴船の地の信仰(または和泉式部信仰)に裏打ちされた独自な説話であって、その時代性や普遍性を問うのはお門違いなのかもしれない。
ただ神話の属性を忠実に受取るなら、女性が見初められたり多産を祈るには、コノハナサクヤヒメやタマヨリヒメの方が相応しいだろう。むしろイワナガヒメは男性が長寿・安定不変を祈るのに最適である。まして相手の破局や略奪を願うような祈願はやめたほうが無難である。和泉式部は復縁が叶ったそうだが、筆者は勧めない。
(ちなみに、コノハナサクヤヒメは末社に祀られているそうだが、境外社のほうは駅から本宮までのバスで上がる道にあり、バスを使った場合は参拝ができず、境内社のほうは本宮の裏手のほうに「牛一社」という名で牛鬼も合祀するとか、いわくつきの神社で、公式サイトでも末社の紹介は全くされていない。これはつまりイワナガヒメを推してるということでもある。この全く目立たない末社についてネットに詳しい解説記事があり、それによると、貴船神が奥宮の地に丑年丑月丑日に降臨したというもう一つの鎮座伝説と大いに関係している(神に随伴し後に社家の筆頭となった)とのことである。何故「丑」なのか、筆者は陰陽五行の線から探っていて行き詰まっていたが、合点がいった。背景には明治を境とした神社や社家の勢力図が垣間見えてくるわけである)
貴船神社奥宮
結の社から奥宮まで5分(撮影しながらで10分)
道は舗装されていて坂もなだらか。右京区へ抜ける県道があって一応車でも行ける。(駐車場はあるが少ない)
【奥宮由緒】
当初社殿を創建した土地とされる。
社伝によると、
「反正天皇の御代(五世紀初頭)に玉依姫命が黄船に乗って浪速から淀川、鴨川、貴船川をのぼって上陸し、水神を祀った」とされる。
社伝の脇にある「船形石」はこの伝説にまつわるもので、小石を持ち帰ると航海安全に御利益があるとされた。この船形石自体が「長い磐」の形状をもつのであって、磐長姫命と龍神(貴船社)との関係性を暗示している。また境内の北西(戌亥)にある点はどことなく「撫で石信仰」をほうふつさせる。
本殿下には巨大な龍穴があり、文久年間(1861-1863)本殿改修時に大工がノミを落すと俄にかき曇りノミを空中へ吹上げたとの伝承がある。(境内案内板)
『氣生根』(No67)にはもう少し詳しい記述があって「吾は皇母玉依姫なり。恒に雨風を司り以て国を潤し土を養う。また黎民の諸願には福運を蒙らしむ。よって吾が船の止まる処に祠を造るべし。」と宜て、大阪湾から船に乗り淀川、鴨川、貴船川を遡上して奥宮の地に到り、清水の湧き出る霊境吹井を見つけて祠を建てた、とされる。
そのほか、宇治の橋姫伝説と和泉式部が同列に挙げられていたが、和泉式部も美貌の才媛で多恋の女性であって、恋愛がうまくいかず鬼女となった橋姫とは対照的である。
(和泉式部と貴船神社との詳しい関係は手持ちの資料ではみつからなかった。結い社の境内に歌碑があるとのことだが、この時は「復縁」を祈願しておりやはりただの良縁祈願ではない)
奥宮境内に暫く滞在し龍の気配を探っていたが、船形石の廻りをぐるぐる回る女性や修験者?らしき一行が社殿前で儀式をするなど風変わりな参拝者も見られ、神秘さよりも独特な雰囲気が強めであった。
個人的には貴船川のほうに微かだが良い気を感じた。(参拝後の帰り)
参拝ガイド
【参考】
「貴船神社境内案内板」
「古事の森第一号 鞍馬山・貴船山国有林」/京都大阪森林管理事務所17(https://www.rinya.maff.go.jp/kinki/koho/koho_si/mail_magazine/mail/pdf/kyoto.pdf)
「氣生根」67号/貴船神社
下中彌三郎 編『神道大辭典』第一巻(平凡社)
白井永二・土岐昌訓 編『神社辞典』三版(東京堂出版)
駒敏郎・中川正文『京都の伝説』(角川商店)
「貴船神社本宮その5」―『徘徊の記憶』2020/11(https://visual.information.jp/blog/2020/11/02/202011-article_2/)2023/12閲覧