日本龍蛇神回向の旅07 奈良県「龍神の瀧(丹生川上社中社東の瀧)」

参拝の記録・記憶

 東吉野の丹生川上社中社にふかわかみしゃなかしゃへは40分ほどで到着した。境内の一部が駐車場に充てられていて、七、八台の車があった。
 「中社」というのは、近隣(3ヶ村)に同様の神社が二社あり、その区別のため「上社かみしゃ」「中社」「下社しもしゃ」と呼んだことに由来する。
 だがこれはあまり良い逸話ではない。名神大社みょうじんたいしゃに列すほどの古社でありながら中世以降に衰退し所在に関する記録も失われたため、明治初期に復興運動が起きるも選定をめぐって錯綜し、近隣三社の間で祭神も変更されているからだ。

 明治以降の動きをもう少し詳しく追ってみる。
 復興運動に伴う騒動というのは、中世以降に衰退した「名神大社の丹生川上神社」を復興する機運の中で生じた。
 明治四年、下市町しもいちちょうの丹生大明神に特定する。(しかし疑義が出される。)
 同七年、川上村の高龗たかおかみ神社を「丹生川上神社奥宮」とし、下市町の丹生大明神は「丹生川上神社本宮」とする。
 同二十九年、本宮を「下社」に、奥宮を「上社」へ名称変更。
 すると東吉野村にある蟻通ありどおし神社から請願が出され、「中社」に認定される。
 祭神は中社を罔象女神みづはのめのかみとし、上社を罔象女神から高龗神、下社を高龗神から闇龗神くらおかみのかみへ変更した。また社務所は中社へ遷し、上・下社を統括する形とした。
 しかし敗戦後にはそれぞれが独立するに至る。
 また上社はダム建設のため移転を余儀なくされた。


手水龍と本殿

 以上は主に『神社辞典』を参考に筆者がまとめた由緒だが、いろいろな思惑が錯綜しているし何処まで正確かは判らない。
 中社が配布している資料では、
「[-前略-]戦国時代以降はそのような祈願も中断され、丹生川上雨師神社もいつしか蟻通神社と呼ばれ、ついには神社の所在地さえ不明となってしまいました」として、蟻通神社への比定を近代以前の事実と主張している。
 また大正十一年に「中社」に認定されたことで三社体制となったが「官幣大社丹生川上神社としては一社であります」とも述べている。

 こういった場合ヒントになるのは摂社・末社の存在である。
 そこで中社の末社を見ると、上・下社の祭神を祀る「水神社」がある。
 そして摂社は「丹生神社」で、祭神はミヅハノメとなっている。これは本殿と同じ祭神だ。(但し表記は変えてある)
 この摂社の祭神は、川向かいの山の麓(旧社地)に鎮座し「本宮」と呼ばれて居たそうだ。するとこっちが本来の水神ミヅハノメだろう。

 「蟻通」という名は天皇の吉野御幸みゆきからの命名とのことだが、少々理解に苦しく「蟻の熊野詣で」とかの牽強付会のようにも思える。
 蟻通しというと、実は有名な説話があり、大阪泉佐野市に由来の神社がある。そこの祭神は大名持命と思金神である。
 そしてまさに、ここ中社の東殿にオモイカネ、西殿に大國主神が祀られているので、元来の蟻通神社は水神ではなく、この二神が主軸であったと推察される。
 そこへ上・下社の官幣大社指定があり、摂社の「丹生神社」も便乗し認められたが、境内の広い蟻通神社のほうへ移築し、御分霊として主祭神とし、従来の祭神(オモイカネ、大國主神)は別の社殿へ遷したのではないか。
 つまり「蟻通神社」を丹生神社化したことで、上・中・下三社の中で最も遅い登場ながら一気に主役へ躍り出たわけである。

 あと注意しておきたいのは、実際の地理上の鎮座位置と「上・中・下」の呼び名が一致していない点である。地図上で一番右(北)にあるのが「中社」で、三社の中間にあるのが「上社」である。

 参拝後、「東の瀧」(ひんがしのたき)へ向う。
 この瀧は神社が配布する資料等で「龍神の瀧」と紹介されている。


川中に龍頭が映じて居る!

 丹生川上社選定騒動の時に蟻通神社が主張したのは、「川」だった。つまり、付近を流れる高見川が古代の丹生川だと主張して認められたわけであるが、恐らくそれを裏付けるのがこの「東の瀧」の存在である。
 最初に下市町の丹生大明神(現在の下社)が認定されたのは、付近の川が「丹生川」である点も大きかったと思う。しかし社名は丹生「川上」神社なので、丹生川の「上」(上流)に位置したはずである。
 上社は現在、付近の川がダムになってしまったが、ちょうどその堰のある辺りに「大滝」という地名が残っている。「瀧」の存在が「川上」を示唆している。

 この神社が「雨師うしの明神」と呼ばれて朝廷から崇敬されたのは雨請いと雨止の効験が高かったからである。しかしそれほどまでに重要視されていた神社が何故突然見放され、所在地すら判らなくなってしまったのだろうか。
 それには都が奈良から京都へ遷った影響があるだろう。
 京都には内裏の傍に神泉苑が造られ空海を筆頭に頻繁に雨請いが行われた。
 また四神相応の地に観立てられた京都だが、その東の青龍に充てられた鴨川の上流には貴船神社が鎮座していたため、請雨祈願は吉野の丹生川上社との二社体制となった。
(貴船社は平安・中世期に朝廷より殊遇を受けた二十二社に含まれ、『延喜式』の名神大社でもある)

 元の道へ戻り少し歩くと、吊り橋があった。
 吊り橋を渡るとすぐに滝壺へ出た。瀧の正面に橋があり、そこから瀧や滝壺が間近に拝めるようになっている。滝の上の方には小さい祠が見える。

 川の合流地点はひらけていて明るく、寒さもほとんど感じない。全体的にさわやかな感じだ。ただハエが多く閉口する。これは御神体の瀧や祠より高い位置にキャンプ場があるのが原因かと思う。
 滝や川は素晴らしいので必見だが、滝から先はお好みでどうぞ。


ここの川面には白龍が映じて居る!

 

鎮座座標:吉野郡東吉野村小968
水神祭:6/4
例大祭:10/16
御朱印:あり
駐車場:あり