Kanagawa-Wandelinger第2話【相模三之宮と伯母様のねこ】

参拝の記録・記憶

 本厚木ほんあつぎ駅から再び電車に乗って、伊勢原いせはら駅へ向った。
 厚木市同様に、伊勢原市を訪ねるのも初めてである。

 伊勢原駅前には大きな青銅の鳥居があった。張り巡らされた電線と商業ビルを背景にして建つその鳥居は、長年の風雨によってか全体は黒ずみ、天辺だけが青白い。
 神額は無く、立て柱にそれぞれ「関東總鎮護そうちんご」「大山阿夫利おおやまあ ふ り神社」と記されたプレートが掲げてある。

 

 伊勢原を訪問した目的は、霊山「大山」に鎮座する阿夫利神社を訪ねることであった。その参道がここからもう始まっていることを実感させる。
 ここから大山まではおよそ10kmの道のりである。昔と比べて時間や距離の概念はずいぶんと変わった。隣の県を「国」と呼んでいた時代のように、村の人たちに見送られ命懸けで国内旅行をする人は恐らくもう居ないだろう。
 往時の参詣者にとっては、家を出てからのその長い長い道のりの果てにたどり着く霊山は、きっと現代人の想像を遙かに超えた人生体験だったのではないかと思う。

 一方で、二十一世紀を絶賛ふらふらしているさすらいは、地図を見てる時に面白げなものがあるとつい寄り道をしたくなるので、今日も少し寄り道。

 鳥居を撮りながらそばの立て看をふと見ると「横断歩道を渡りましょう 乱横断危険」と書かれてあった。道路標識以外でこんな注意看板を見たのは初めての気がする。どう見ても子供向けの注意喚起ではなくこの町の住人のアグレシッブさを垣間見る。

 

相模国三之宮さがみのくにさんのみや 比々多ひびた神社

 三之宮停留所で下車すると、すぐに案内板が目に入った。

 三之宮というのは、社格(神社の格式)の一種だ。諸国の神社の中から特に由緒のある神社や信仰の篤い神社が「一之宮」だと言われ、更に「二之宮」「三之宮」「四之宮」と順位が決められた。(「之」は「ノ」と書いたり省略して「一宮」とする表記もある)
 文献に出て来るのは平安期頃からで、当初は『延喜式えんぎしき』(律令についてまとめた文書。全50巻。927年成立)に記載されるような大社すなわち「式内社しきだいしゃ」が撰ばれたようだが、後世には信仰の推移などから変更された例も少なくない。また「一宮争い」なども発生し、一国に複数の一宮が存在する例もある。(一ノ宮に続く二宮や三之宮はもう少し時代が下るかも)
 いづれにせよ、敗戦後に社格制度は廃止されたため、いま力を持つのは文化財や口コミだろう。(ここでいう文化財は国や自治体が指定したものだけに非ず)

 


中谷戸橋

 路地へ入るとすぐに橋があった。御手洗みたらい川だろうか。
 覗き込んだ川の水は足首ほどしかなく、拳ほどの丸石が点々としている。川幅の三分の一ほどは土が堆積し雑草が茂って居た。
 橋名板には「鈴川」と記されている。地図で見るとこの川は大山を源流としていることが判る。


鈴川

 道案内を頼りに十分ほど歩くと、社叢しゃそうを背にした鳥居が見えた。
 三之宮と呼ばれるだけあって随所に人の気が満ちて居るのを感じる。

 


 打上げ花火のように咲いた紫陽花アジサイに目が留まり写真を撮る。その様子を狛犬が血走った眼でじっと見ている。「こ、こんにちは・・・」

 

「《`゚皿゚´》」
「サーセン・・・」
 先ほど(第一話)の金田神社の狛犬も赤目だったが、この辺りでは狛犬の眼を赤くする風習があるのだろうか。

 

比々多神社(相模国三之宮)
読み方:ひびた-じんじゃ(さがみのくに さんのみや)
鎮座地:神奈川県伊勢原市三之宮1468
御祭神豊国主とよくにぬし尊、天明玉あまのあかるたま命、稚日霊わかひるめ命(稚日女尊)、日本武やまとたける命、大酒解おおさかとけ神・小酒解神(大山祇おおやまつみ神・木花開耶媛このはなのさくやひめ神)
御神徳:子供の成長・縁組み、家庭安穏、産業発展
例 祭:4/22
人形感謝祭:3/17

 

 御祭神のラインナップもなかなか珍しいが、御神徳の説明で豊国主尊とよくにぬしのみことの属性(国土創造)からつなげて「子供の成長・縁組み」を筆頭に強調するのもあまり例がないように思う。

 

天明玉命[amano-akarutama-no-mikoto]
 『日本書紀』の神代第七段一書第三に「中枝には玉作が遠祖伊弉諾尊の児天明玉が作れる八尺瓊やさかに曲玉まがたまを懸け」と語られる。玉作部たまつくりべの祖神については諸説があり、伊弉諾いざなぎ尊の児とする記述もここだけである。(『日本書紀1』p85)
 比々多神社ではこの神の御利益を「霊力発揮・子宝」としている。
酒解神[sakatoke-no-kami]
 京都市右京区の梅宮大社(旧官幣中社)の祭神で橘氏の祖神とも言われる。
 『神社啓蒙』(寛文十年)などでは大山祇神のこととするが不明な点がある。(『神道史大辞典』)
 大・小を親子と解してか小酒解神には木花開耶媛神が宛てられている。
 比々多神社ではこの二柱の神の御利益を「酒類業・山火鎮護/縁結び・子授け」としている。

 

【由 緒】

神武天皇六年に創建。
崇神天皇の御代、神地神戸を奉られる。
大化元年(645)、木彫り狛犬奉納(伊勢原市重要文化財)。酒解神を合祀。
天長九年(832)、相模国総社として冠大明神の神号を奉られる。
建久三年(1192)、源賴朝神馬奉納。
南北朝・室町時代、戦乱で神領の大半を失い衰微。
江戸時代、家康が社領寄進(十四代まで続く)
明治時代、郷社となる。

 


 白百合がみずみずしい花弁を広げていた。

 

 神紋は菊紋(十六葉)と桐紋が見られた。この組合わせで有名なのは豊臣秀吉だ。単体ではいづれも天皇と関係が深い紋である。(但し公開されて居る由緒にこれらの神紋と結びつく要素は見られない)

 

伯母様のねこ

 さて、次の目的地は大山だが、この辺りから大山へ向うバスは無いので県道611まで歩くことにした。
 少しばかり遠回りになるがその途次に見たいものもある。

 




伯母様停留所

 この奇妙な名の由来は、1550年代後半に戦国大名北条氏康が布施弾正だんじょう左衛門康則に当村を所領として与え、その布施氏の伯母梅林理香が当村を所領したことにより伯母様村と言うようになったのだという。(参考:現地の石碑)

 そんなユニークな土地をさすらっていると――


伯母様で出逢った猫

 旅先で出逢う人はお互いにストレンジャーの関係で、多くは記憶にすら残らない存在だが、同じく旅先で出逢うねこや鳥には何か得も言われぬ不思議な感懐をいだくことが稀にある。
 鳥は神話の時代からモチーフになっており、様々な伝説の中でも暗喩のような形で登場することがある。最近でも映画『君たちはどう生きるか』で種種の鳥が意味深に登場していた。
 また猫は干支にも入らず神使にもならず(極少数の例を除く)、やがては招き猫や化猫として席巻する辺り、古来より身近でありながら捉え所の無い存在として認知されていたのだろうかと思わせるものがある。

 このような道端でなく、神社でもねこを目撃することがある。さすらいはそのようなねこを「神社ぬこ」と呼んでいる。いつか神社ぬこ写真集を出したいが、まあ話題にもならんだろう。
 神社ぬこで思い出したが、玉澤たまざわ妙法華寺みょうほっけじ(静岡県三島市)を訪ねたときに呼び鈴を押したら「はーい」と声がして猫が出て来たのは良い想い出である。
 しかも毎日『法華経』を聴いてるせいか異様なオーラをまとった猫で、住職に要件を話すまでは狛犬のようにじっとして近付きがたい雰囲気だったのに、住職が立ち去るとスッと寄ってきて撫でろと言わんばかりに背中を見せるのでそっと撫でたらしっぽが立った。
 あの猫はまだ源氣だろうか。

 


石倉橋交差点

 石倉橋交差点まで歩いて来た。約二十分ほどの道のりだった。

 ここからもう少し道路沿いに北上すると、論社の比々田神社がある。
 地図上には神社の表記が無いが、「明神前」という停留所がある。
 論社というのは、『延喜式』神名帳などの古記録に記載された神社であると推定されるものが複数存在することを言う。
 こちらは旧社号を子安神社といい、江戸時代にはかなり有名であったらしい。(『神社辞典』)

 三之宮比々田神社の社頭掲示板で、御神徳のトップ表記が「子供の成長・縁組み」なのが不思議であったが、論社の比々田神社に対抗しての表記なのだとすれば合点がいく。
 だが先に述べたように、もはや社格自体に大した意味は無い。それは廃止された制度だから言うのではなく、飽くまで「当時」において「朝廷・国司・貴族・武士・政府」など一定の有力者によって支持された神社という格付けだからである(明治以降、いわゆる国家神道が問題となったのもここに原因がある)。神社の社格と祭神の神階も当然異なる。
 自分にとっての一ノ宮を見つけることこそ最大事である。

 

(第二話終り)

(次回、『雨降る霊山』)

 

【主要参考文献】
小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守 校注訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀1』(小学館/1994)
白井永二・土岐昌訓 編『神社辞典』普及版三版(東京堂出版/2005)
下中彌三郎 編『神道大辭典』第二巻(平凡社/S14)
薗田稔・橋本政宣 編『神道史大辞典』(吉川弘文館/2004)
『日本紋章事典』(S53/新人物往来社)