【研究ノート】滋賀県の龍神祭祀社

信仰・儀礼

はじめに
 この記事は日本の龍神(水神)信仰史の研究の一環として、龍神を祭祀または龍の伝説を有する滋賀県内の神社をまとめ、若干の考察を加えたものである。


<凡例>
■龍神祭祀社とは次の二種をいう。①社号(新旧問わず)または祭神(主客問わず)に「龍神」「龍王」「
(淤加美)」を含む神社。②祭神の創祀や伝説に「龍」や「龍王」「龍女」などが登場する神社。①・②のいずれも社殿の規模や神階、祭祀の先後(主客)は問わない。なお、古来より龍と蛇を同一視するきらいがあるが、蛇神については龍神とは別に扱う(対象に含まない)。

■由緒・神事等に龍の伝承を持ちつつも、現在の社号や祭神から龍神祭祀社と認めがたい神社については[伝]を付記し区別する。[未]は『滋賀県神社誌』に記載が無い神社を示す。

■境外社が龍神祭祀社に該当する場合で、鎮座地が不明なものは省略した。

■雨神及び貴船社の祭神はオカミ系の神を通例とするが、例外も存するため明確に龍神の要素(記述)が無い限り除外した。雨宮、雷神なども同様である。

■底本として滋賀県神社誌編纂委員会編『滋賀県神社誌』(滋賀県神社庁/昭和62年)を参照した。そのほかに①『日本の伝説19 近江の伝説』(角川書店/S52)から採録した。伝説については②『ふるさと伝説の旅7 近畿 流浪と信仰』(小学館/S58)も参考とした。①を[日角19]、②を[ふ伝7]と略号で示す。

■祭神表記の順は、主客の別がない場合、由緒に沿うように糾した。

■由緒の記述は文献からの完全引用ではなく、本意を損なわない範囲で再編した。また可能な限り関連情報を補足した。情報の取捨は龍神祭祀との関連性や信仰の推移を重視した。

■段落頭に[φ]のある記述は、筆者によるメモ(補足・考察)を表す。

■『滋賀県神社誌』は刊行から三十五年以上経っており、現在までの間に祭神や鎮座地、例祭日、由緒等が変更されている可能性がある。公開時点で現地調査は実行しておらず、道路地図(『滋賀県広域詳細』/昭文社/2007)との照合のみを行った(最寄り駅名も同地図に因む)。

■所在地の表記は現行の町割り及び名称にある程度修正したが、番地などの細かい表記は正確でない可能性を含む。間違いが判るように、各セクションの市町村名は現行の市町村名と底本の表記(旧市町村名)とを並列で記した。

■年号に併記する西暦は一部を除き年代考証を行わず筆者がそのまま補足した(『滋賀県神社誌』には年号しか記載が無い)。固有名詞もそのまま表記し、一般的な表記と異なるもの・不可解なものには[まま]を附した。国語上のあきらかな誤字のみ修正した。

■同名の神社が複数ある場合などに、区別の便宜を図る目的で社号の前に鎮座地の字名を附した場合がある。

■社号欄に附すアルファベット(大文字)は、筆者作成の「龍神MAP」に対応する。

■近代以降の年号は一部略号を用いた。「M(大文字)」は明治、「T」は大正、「S」は昭和を表す。この略号は数字が附属する年次にのみ用いる。

■《 》内のローマ字は漢字の読みを表す。ただし「神社:ジンジャ」「神:(ノ)カミ」「命:ミコト」「尊:ミコト」の部分は省略した。漢字の正字・略字は考慮せず用いた。

■[m(小文字)]はメートルを表す。この略号は数字が附属する距離にのみ用いる。距離は実測値ではなく、直線距離(参考値)である。

■[c(小文字)+数字]は個人用の管理記号を表す。


<滋賀県龍神MAP> ver.1.00
 

 
このMAPから特定の神社の記述を参照したい場合は、キーボードの「Ctrl+F」(二ボタン同時押し)で検索窓を表示し、該当するアルファベット(半角大文字)と数字(半角)を入力して実行してください。(WindowsPCのみ有効)

 

犬上郡甲良町[CB]

《Inukamigun-Kourachô》

雨也神社《Amenari-》[CB1]
鎮座地:甲良町長寺712《Osadera》 [c54-0]
主祭神:天津児屋根命[まま]
配祀:髙龗神
神紋:左三つ巴
例祭:4/15
由緒:不詳。

[φ]
 「天津児屋根命」は恐らく天児屋根命。藤原氏ノ祖神である。
 髙龗神が配祀神に位置づけられているが、社号は「雨」+「也」である。「也」の字義は「一説に流れる音をもち女陰が本義という。長くのびた它[hebi]などの形に似る。」とあり(『現代漢語例解辞典』小学館)、意味は断定である。また音訓は「鳴り」に通じるので、「雨」+「鳴り」で激しい雷雨を思わせる。髙龗神祭祀を強く反映させた社号と言える。

 


小河原神社《Kogahara-》[CB2]
鎮座地:甲良町小河原499 [c46]
(最寄り駅:近江鉄道本線「尼子」・「高宮」~1500m)
主祭神:須佐之男命
配祀:髙龗神
神紋:五瓜
【由緒】
 建武年間(1334-1336[1338])、大洪水があり、いざや川上流の大滝村樋田地区に祀られていた伝聖徳太子作の牛頭天王像が小河原宮瀬に漂着したため、願照寺の境内に勧請したのを創祀とする。

[φ]
 地図では「小川原」地区に二つの「小川原神社」が確認される。一つは願照寺に隣接し、もう一つは600m北側の県道543号沿い。両社の間を犬上川が流れている。「いざや川」「大滝村樋田」については不明だが、多賀町に髙龗神を祀る大瀧神社があり、更に遡上すると犬上川沿いに大字樋田がある。川向かいは佛ヶ後《Hotokera》という地名で大瀧大師堂がある。

 


龍神社(山王大宮神社の境内社)[CB3]
鎮座地:甲良町池寺37 [c46,54-0]
祭神:詳細不明。
由緒:詳細不明。

[φ]
 山王大宮神社については仁明天皇の御代(834ー851)に西明寺建立の折、山王権現を鎮守神として勧請したもので(現祭神は天津兒屋根命)、仁寿三年(853)に現在地へ遷座。
 西明寺は池にちなんだ開創縁起があり池寺とも呼ばれる。山号は龍應山。宗派は天台宗。(参考:「西明寺略縁起」-『西明寺公式サイト』https://saimyouji.com/history/)

 


犬上郡多賀町[CA]

《Inukamigun-Tagachô》

大瀧神社(瀧の宮)《Ootaki-》[CA1]
鎮座地:多賀町冨之尾1585 [c55]
祭神:髙龗神、闇龗神
神紋:左三つ巴
例祭:5/5
【由緒】
 創祀年代不詳。『淡海落穂草』に記載の、大同二年(807)坂上田村麿将軍の御領にて建立した「大瀧三社(の御舘野の札所)」と関連ありとする。
 寛永年間(1624-1644)、徳川家により社殿造営。
 M14年、郷社。

[φ]
 地図では同名の神社が藤瀬地区にある(社頭の停留所名は「大滝神社」)。富之尾地区の停留所名は「滝の宮」。
 由緒はほぼこれだけだが、大蛇淵伝説犬胴塚伝説がある。
 小白丸という名犬をもつ猟師がいた。あるとき狩に出て、この渓谷の岩陰で一休みしようと横になると、小白丸が狂ったように吠え始めた。驚いて起きるが特に異変は無い。再び横になるとまた激しく吠える。猟師はいい加減腹が立ち、小白丸の首を斬った。その首は飛び上がり頭上の木の茂みへ紛れるや凄まじい音がして大蛇が垂れ下がった。その喉元には斬られた小白丸の首が噛みついていた。大蛇はのたくりながら眼下の淵へ落ちていった。猟師は小白丸の胴体を社のそばに葬って一本の小松を目印に植えた。この犬胴塚は右岸(まま)の道路から少し引っ込んだ所にある。目印の松は巨樹となり犬胴松と呼ばれていたが今は枯れて根株だけが残る。[ふ伝7]
 これは義犬伝説と呼ばれるタイプの伝説であるが、筆者は人身御供伝説との関連で注目している。特にここの伝説は龍神を祀った神社の傍というのが面白い。有名な愛犬赤伝説などは犬を祭神として祀ったと語られるが、ここでは首は大蛇と一緒に淵へ沈み、胴体を埋めて犬胴塚と称している。神社や龍神は登場せず、最後にわずか「社のそばに葬って」と語られることで、神社にかなり近い場所だったということが暗示される。義犬伝説には大蛇の居場所が「鳥居の上」というのもあって(この場合は土地神殺しと関連してくる)興味が尽きない。これらの考察は記事を改めて行いたい。
 この辺りは渓谷風で水青く大変眺めが良いとのこと。車かバスでないと行けないが一度は訪れてみたいですね。
 補足として、長浜市平方町の天満宮境内に小白丸の親「目建解」《Metatekai》の墓がある。[ふ伝7]

 

愛知郡愛荘町(旧:愛知郡愛知川町)[D]

《Echigun-Aishochô》←《Echigun-Echigawachô》

八代龍王社(まま。豊満神社の境内社)[DA1]
鎮座地:愛荘町豊満392《Toyomitu》 [c53・54]
(最寄り駅:近江鉄道本線「愛知川」~1200m)
祭神:詳細不明。
由緒:詳細不明。

 

旧:愛知郡秦荘町[DB]

《Echigun-Hatashochô》→《Echigun-Aishochô》

下八木神社《Shimoyagi-》[DB1]
鎮座地:愛荘町下八木49 [c54]
(最寄り駅:近江鉄道本線「愛知川」~2000m)
御祭神:大綿津見神、天目一箇命
神紋:左三つ巴
例祭:3/15(現:第三日曜)
【由緒】
 当地は田の用水が無かったので、M25年旱魃の折に龍神を祀り祈願を行った。
 M35年、一目連神社(多度大社別宮)から分霊を勧請合祀。

[φ]
 多度大社は多度の神を祀る名神大社。この神は天照大神の子・天津彦根命とされるが、この神社が古来より崇敬されたのは「祈雨」の霊験であり、加えて「海上の風難」「水火の災」への効験であった。
 天目一箇命は天津彦根命の子であるが、神器の制作に携わるなど金属加工の神として崇敬されている。この神と神社について柳田國男が興味深い報告を寄せて居ることを以前紹介したことがある(「Hiroshima-Wandelinger第7話【多度神社の一目連】」)。同記事から引用する。

「伊勢桑名郡多度山の権現様、近世江戸人の多くの著述に一目連と記す所の神は、雨を賜ふ霊徳今尚最も顕著であって、正しく御目一箇なるが故に、此名ありと信ぜられて居る。現在は式内多度神社の別宮であるが、曾ては本社の相殿に祭られて、往々にして主神と混同する者があつた
 新らしい社伝には祭神を天目一箇命《Ama-no-mahitotu》とある。即ち亦神代史の作金者《kanadakumi》と同一視せんとする例であつて、此推測には些しの根拠はあつたが、雨乞に参詣する近国の農人たちは少なくともさうは考へて居なかつた。神は大蛇である故に之を一目龍と謂ひ昔山崩れがあつた後、熊手の尖が当つて片目龍となり、それから今の権現池に入れ奉つて祭ることになつたなどゝ言ふさうである。兎に角に畏こき荒神であつて、大なる火の玉となつて出でゝ遊行し、時としては暴風を起して海陸に災ひした
 即ち雨師といふよりも元は風伯として、船人たちに崇敬せられて居たらしいのである。最初は恐らくは海上を行く者が、遙かに此山の峯に雲のかゝるを眺めて、疾風雷雨を予知したのに始まり(後略)」(柳田國男「目一つ五郎考」―『一目小僧その他』(小山書店/S9年)八四―八五頁/国立国会図書館公開版)


 最初に「龍神」を祀りながら、その十年後に再び祈雨で名高い神を勧請しているのが注目される。しかも貴船社の髙龗神などではなく、北伊勢とも称される多度大社から「天津神の子孫」と謳う神なのが明治という時代と相まっていろいろと考えさせられる。天津彦根命ではなく一目連とか一目龍と呼ばれた天目一箇命なのがポイントである。

 

近江八幡市安土町(旧:蒲生郡安土町)[FA]

《Oumihachimanshi-Aduchichô》←《Gamougun-Aduchichô》

[伝]活津彦根神社《Ikutuhikone-》[FA1]
鎮座地:安土町下豊浦4272《Shimotoira》 [c52]
(最寄り駅:東海道本線「安土」~1200m)
祭神:活津彦根命
神紋:横木瓜
例祭:四月五日(四月第一日曜)
【由緒】
創祀年代不詳。豊浦莊の産土で龍神大明神と呼ばれた。

[φ]
 活津彦根命は天照大神と素盞嗚尊がウケヒをした際に、素盞嗚尊が天照大神の珠を噛んで吹いた狭霧の中に生じた神。所有物の方が優先されるので天照大神の御子神と語られる。
 このような神社は判断が非常に難しいところである。どこかのタイミングで社号の変更があったことは間違いないとして、祭神がどう扱われたかが不明。表記変更のみと云には無理があるが何とも言いがたい。

 

大津市[R]

[伝]石坐神社《Iwai-》(八大龍王社)[R1]
鎮座地:大津市西の庄15ー16 [c7]
(最寄り駅:京阪石山坂本線「錦」~150m)
主祭神:彦坐王命、海津見神、豐玉比古命、天命開別尊(天智天皇)、弘文天皇、伊賀采女宅子媛命(弘文天皇の母)。
【由緒】
 近江の初代国府・治田連が祖先(彦坐王)を祀ったのが創祀とされる。
 天智天皇八年[まま]の旱魃のさい、毎夜湖水から御霊殿山に龍燈が飛んだ。勅使が派遣されると龍燈は少童の姿になり「我は海津見の幸魂である。旱を除いてやる」と託宣した。そこで山上に海津見神を祀った。御霊殿山は彦坐王の埋葬地(茶臼山)の奥。
 毎年九月九日に祭礼を行い、旱天のときには熾火を点じて登山し雨乞したがいつも霊験があったという。
 朱鳥元年(686)、天智天皇ら近江朝の三神霊を合祀。

[φ]
 茶臼山は神社から南へ二駅ほどの秋葉台地区にある茶臼山古墳(公園)か。
 御霊殿山については不明。「湖水」というのも不明(琵琶湖か?)。また現在は西ノ庄地区にあるので、どこかの時点で遷座がされているがその時期も不明(これについては後述)。
 「天智天皇八年」という年号は、668年に卽位され、三年後に崩御、実子が即位(これが引き金となって翌672年に壬申の乱)という流れなので甚だ不可解である。もしこれが間違いでない(意図的なもの)とすれば675年に該当する。壬申の乱の勝者となった天武天皇の御代である。弑されたのは弘文天皇(天智の子・大友皇子)であり、大海人皇子(天智の弟)は飛鳥浄御原宮に遷都して卽位された。これを快く思わず天武天皇三年と言うべきところを敢えて「天智天皇八年」と判官贔屓で称しているのであろうか。仮にそうだとすれば、気持は解らなくもないが史実の詐称というべきものであり、翻って本書の記述に虚構性含有の疑惑を生ぜしめることになるだろう。

 龍燈は、一般には夜間の海上に現れる怪火の連なりをいう。伝承としては海中から山や寺社に移動するとか、松に掛かるとかいうものが多い。火だけ登場するもののほか、火をもたらす人物が龍神であると告げるパターンもある。
 『近江の伝説』([日角19])にもほぼ同様の伝承を載せているが、「八大龍王社の名で祈雨の神として信仰されて来た」とか「龍燈のかかっていた大檜のかたわらに、一宇の社殿を建てた。これが石坐神社の起こりで、持統天皇の代に山から現在の場所へ遷したもの」といった情報は『神社誌』には無い。
 「琵琶湖」「龍燈」「祈雨」「八大龍王社」といったキーワードから「海津見神」が出て来るのは些かちぐはぐな印象を受けるが、「龍神」が文献上に出るのは平安期以降であることや、豊玉姫が出産時に龍に成った逸話などから、龍の概念は海神であることのほうが古いとも言われる。ただし筆者はそのように龍を単一の概念で捉える立場にはない。

 


小椋神社《Ogura-》[R2]
(別名:田所神社)
鎮座地:大津市仰木町4737 [c58]
(最寄り駅:湖西線「雄琴」~2200m)
主祭神:闇龗神、猿田彦神
神紋:左三つ巴
【由緒】
 創建年不詳。
 社伝では貞観元年(859)惟髙親王が創祀。同五年(863)、従五位下の神階。延喜式内社。
 貞元二年(977)ころから源満仲が崇敬したほか、後水尾天皇の息女賀子内親王も崇敬。

 天智天皇が志賀の大津宮遷都の際に随従した嘉太夫仙人が、天皇崩御後も大和へ帰らず仰木の山麓に住し、大和の丹生川上神社の分霊を祀り滝壺神社と称したとする説もある。

[φ]
 「惟髙親王」は平安時代の皇族。Wikipediaによると、承和十一年(844)に生れたとある。皇族が十六歳の時に国津神を祀ったことになり、社伝が正しいとすればかなりの異例のことであろう。なお同Wikiによれば、近江と関係してくるのは貞観十四年(872)に出家された後のようである。(但し諸説ある模様)
 式内社としての歴史と、惟髙親王にまつわる伝説とが絡み合ったものと推察される。

 


貴船御霊神社《Kifunegoryou-》[R3]
鎮座地:大津市大石曽束町197《Ooishisotukachô》 [c88]
(アクセス:京滋バイパス「南郷IC」~1800m)
主祭神:罔象女神、秦武智麿公
配祀:髙龗神、大山祇命、誉田別命
例祭:4/16
【由緒】
不詳。
武智麿公は秦川勝ゆかりの地ということで合祀。

[φ]
 「秦武智麿」で検索すると、滋賀県立図書館のレファレンス・データベイスがヒットした。そこでは貴船御霊神社の男神と女神の木像がそれぞれ秦武智麿と罔象女神であり、男神は御霊神社の祭神、女神は貴船神社の祭神としている(この回答の典拠は『大津の文化財』)。(参照:「レファレンス協同データベース」(https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000102713&page=ref_view)
 つまり、祭神だけの合祀ではなく、貴船神社に御霊神社を合祀したことがわかる。しかしながらこの木像の存在は、男神と女神を併せ祀ることが強く意図されており、滋賀県内で比較的多く見られる異例の男女神を祀るタイプの神社であることもわかる。

 


髙龗社(篠津神社の境内社)[R4]
鎮座地:大津市中庄1ー14ー24 [c7]
(最寄り駅:京阪石山坂本線「中ノ庄」~80m)
祭神:詳細不明(推定髙龗神)。
由緒:詳細不明。

 


龍神社(那波加神社の境内社)[R5]
鎮座地:大津市苗鹿1ー8ー1《Nouka》 [c58-0]
祭神:詳細不明。
由緒:詳細不明。

 


龍神社(神田神社の境内社)[R6]
鎮座地:大津市真野普門3(真野普門町942) [c11]
(最寄り駅:湖西線「小野」~1500m)
祭神:詳細不明。
由緒:詳細不明。

 


和田神社 [R7]
鎮座地:大津市木下町7ー13 [c7]
(最寄り駅:京阪石山坂本線「錦」・「膳所本町」~450m)
御祭神:髙龗神
【由緒】
 社伝では白鳳四年[まま]創祀という。
 朱鳥元年(686)ころから元天皇社とか八大龍王社と呼ばれ、承和二年(835)から正霊天王社とも呼ばれた。
 明治維新で改称。
 本殿は国の重文指定。蟇股が有名らしい。

[φ]
 「白鳳四年」について、白鳳文化ならあるが白鳳は年号では存在しない。美術史などで白鳳時代ということはある。一応645ー710年の文化をいうらしいが、年号代わりに用いるのは歴史の記述として正式なものではない。
 旧社号に「天皇」や「天王」という語を含み、現社号が「和田」で、祭神が髙龗神のみなのは逆のパターンで珍しい。

 


[未]龍王宮・秀鄕社 [R8]
鎮座地:大津市瀬田 [c9-0]
祭神:龍神[推定]/藤原秀郷[推定]

[φ]
 滋賀県で最も有名な龍にまつわる伝説は、俵藤太《TawaranoTouta》(藤原秀郷)の逸話であろう。しかるにそこでの龍神の役割は、藤太に大百足の退治を依頼するという風変わりなものである。重要な意味をもつのは、龍宮へ連れていく(その場所としての琵琶湖)と、贈与された宝物のうちの鐘が三井寺に奉納されたこと、そして藤太は勅命により下野の押領使に任じられた(と語られる)ことである。
 ここで俵の藤太伝説や三井寺の鐘の縁起を細かく見ていくと話が纏まらないので端折るが、大津市の瀬田という地区に「唐橋」という有名な橋があって、この橋の上で藤太は龍神に遭ったと言われる。現在この橋の杭が龍神(竹生島の龍女の姉)の依代とされ、東の畔に「龍王宮」と藤太を祀った「秀鄕社」があるとのことだが([ふ伝7])、この社は『滋賀県神社誌』には記載が無い。
 ここに我々は、神社本庁(宗教法人)に所属する神社と、そうでない神社の二系統を確知するのである。

 唐橋の龍神と秀鄕社については『近江の伝説』([日角19])にも詳しい記述がある。それによると、唐橋は宇治橋・山崎橋とともに三大橋と称されてきたが、S50年末からの架け替え工事で「完全に姿を消し、小橋だけを残す」。そして「古来瀬田の唐橋の中央には竜神の霊代として一本の橋杙が打ちこんであって、上下する舟もその場所だけは避けて通るようにしていたようだ。橋全体が神社だったわけである。架けかえの時は、その神霊を橋のたもとの仮宮に移していたのだが、いつかひとつの社として社殿が設けられるようになったのだろう。(中略)唐橋は大正十二年コンクリートの近代橋に姿を改めた。神霊の橋杙もその時に移されて、今は竜王宮と秀鄕社とのあいだに安置されている。今度の工事で古い橋脚を撤去していると、橋のちょうどまんなかあたりの川底から、一体の石仏が掘り出された。(中略)そこで、竜王宮の鳥居の前の広場に祠を建てて、橋の方を向けて祀ることにした。石仏は室町時代のものらしく、高さは四〇センチほど、橋守地蔵の名で真新しい祠におさまっている。」とある。(pp.22-23)

 また秀鄕は日野の在住で、三井寺に参詣する途次のことであり、その時期は延喜十八年(918)十月二十一日とする説を載せているほか、元は500~600mほど東南にあり近隣の者も祭神を知らないほどであったが、寛永十年(1633)に秀鄕の末裔蒲生忠知が「先祖を祀った社があるはずだといって探させた上、現在の場所に移させた」と記している。(p.23)
 カミの退治者と依頼者(の女)が並列で祀られるのは、八岐大蛇の伝承における素盞嗚尊と稲田姫命をほうふつとさせる。
 それとは別に注目しておきたいのは、橋杙が神霊の依代だったという点と、その水底から石仏が見つかったという点である。これは人柱を髣髴させるものであると同時に、人柱とは何かを考える上で一つの参考となるものと推察する。

 

旧:滋賀郡志賀町[RB]

《Shigagun-Shigachô》→《Ootushi》

水分神社《Mikumari-》(旧:八大龍王社)[RB1]
鎮座地:大津市栗原446 [c48]
(最寄り駅:湖西線「和邇」~2700m)
祭神:天水分神
神紋:左三つ巴
【由緒】
 社伝では康元元年(1256)創祀。元は八大龍王社と称し和邇莊全域の祈雨霊場だったが、後に栗原村のみの氏神となる。

 

蒲生郡竜王町[FB]

龍神社(苗村神社の境内社)[FB1]
鎮座地:竜王町綾戸467 [c62]
(アクセス:名神高速道路「竜王IC」~3000m)
祭神:詳細不明。
由緒:詳細不明。

[φ]
 苗村《Namura》神社は、式内社の長寸《Namura》神社の論社。この名は、天日槍《Amanohiboko》(新羅の王子)が天皇に自ら帰順するため渡来し、住む場所を自由に探すことを認可され諸国をめぐった逸話(『日本書紀』垂仁天皇三年の条)に出て来る「近江国吾名邑」《Anamura》の転訛だとする説がある。
 祭神は那牟羅彦神・那牟羅姫神とあるが委細不明(ほかに国狭槌尊、大國主神、素盞嗚尊も併せ祀る)。国狭槌尊は安和二年(969)に大和の金峯山より勧請合祀。大國主神については記述が無く不明。
 『神社辞典』(東京堂出版)では那牟羅彦神・那牟羅姫神ではなく事代主命としている。

<竜王町について>
 伝説本[日角19]では竜王山と呼ばれている「雪野山」の麓に竜王寺がある。この寺は元は雪野寺と称したが再建時に名前が変わったという。三井寺の鐘の伝説に能く似た伝説があり、大蛇の女が別離の際に残した鐘が伝わる。関連:御澤神社

 

草津市[P]

[伝]小槻神社《Otuki-》[P1]
鎮座地:草津市青地町873《Aojimachi》 [c12-0]
祭神:於知別命、天児屋根命
【由緒】
 創祀年代不詳。延喜式の栗太郡に載る八座の一社。
 天徳三年(959)、志津池の畔に遷座し池宮と称した。伝来の龍王像があり神池に浸す雨乞で崇敬された。
 於知別命は不詳。天児屋根命は藤原氏の祖神で中世の合祀。

[φ]
 この龍王像は祭神と関係なく、恐らく独自の信仰対象と思われる。

 


龍宮神社(旧:八大龍王神社)[P2]
鎮座地:草津市新浜町50《Shinhamachô》 [c69]
(最寄り駅:東海道本線「瀬田」~1300m)
祭神:豊玉姫命
境内社:貴船神社、嚴嶋神社
神紋:左三つ巴
【由緒】
慶長八年(1603)鎮座。
明治九年、八大龍王神社から改称。
S49、拝殿造営。

 

甲賀市甲賀町(旧:甲賀郡甲賀町)[HB]

《Koukashi-Koukachô》←《Koukagun-Koukachô》

龍王神社(佐治神社の境内社)[HB1]
鎮座地:甲賀町小佐治1958《Kosaji》 [c83]
(最寄り駅:草津線「甲賀」~4000m)
祭神:詳細不明。
由緒:詳細不明。

[φ]
境内西側にあるという。

 

甲賀市甲南町(旧:甲賀郡甲南町)[HC]

《Koukashi-Kounanchô》←《Koukagun-Kounanchô》

八大龍王社(寺庄日吉神社の境内社)[HC1]
鎮座地:甲南町寺庄583 [c93-0]
祭神:詳細不明。
由緒:詳細不明。

 


[伝]檜尾神社《Hiou-》[HC2]
鎮座地:甲南町池田54  [c93]
(最寄り駅:草津線「甲賀」~950m)
主祭神:天津彦火瓊瓊杵尊[まま]
配祀:菅原道眞公、伊邪那岐命、蛭子命、素盞嗚尊、應神天皇
神紋:丸に三つ柏
【由緒】
 社伝によると、滝村・池田村の総社である正一位火尾大明神[まま]が、天津彦火瓊瓊杵尊大龍となって雲中に垂現し、またある時は滝池の辺りに炎気の尾を垂れるに及び、これを祀って社号を火尾大明神[まま]と改めた。その後、火災が多かったので檜尾大明神と再改称。防火・方除けの神として信仰されたという。
 四月八日(現在は三月二十一)の例大祭では五穀豊穣のほか、猿田彦大神の方除けならびに悪魔除けの神事が伝承されている。

[φ]
 伝承はどれも興味深いのだが、社号変更の前後で同じ名称だったり、祭神欄に猿田彦の名が見られないなど、全体的に不可解な記述である。
 天津彦火瓊瓊杵尊は『日本書紀』の表記に近い(正確には「彦」を連ねる。『古事記』も「ひこひこ」)。この「火」は『古事記』に「番」とあるように「ほ」と読み、「穂」の意味であるから、「火」の伝説と結びつくのは少々安直な印象である(火神の代表格はカグツチ)。
 水神としての龍と天津神の合体のようにも観れそうだが、「火尾大明神」と改称する前の呼び名が不明(同じ)なため何とも言いがたい。ただ「滝村・池田村」「瀧池」といった呼称に伴う「総社」となれば、やはり元来は水神が地主神だったと考えるのが自然であろう。表記ミスでないとすれば、どこかの段階で祭神か伝承が改変されたものと考えられる。

 

甲賀市土山町(旧:甲賀郡土山町)[HD]

《Koukashi-Tuchiyamachô》←《Koukagun-Tuchiyamachô》

大宮神社 [HD1]
鎮座地:土山町黒川1040 [c95]
(最寄り駅:草津線「油日」~9000m、第二名神高速道「甲賀土山IC」~5400m)
主祭神:大國主神
配祀:綿津見神
神紋:左三つ巴
例祭:四月十五日
【由緒】
 永禄年間(1558-1570)、黒川玄蕃佐[まま]が城の守護神として勧請、後に産土となる。八王子権現と称した。
 文政年間(1818-1830)、火災で社殿焼失。再建。
 明治以後改称。
 綿津見神は同じ黒川地区に龍神社として鎮座していたものを大正六年七月に合祀。

 

甲賀市水口町(旧:甲賀郡水口町)[HE]

《Koukashi-Minakuchichô》←《Koukagun-Minakuchichô》

日吉神社 [HE1]
鎮座地:水口町下山108 [c72-0]
主祭神:大山咋神
配祀:髙龗神、應神天皇
神紋:左三つ巴
【由緒】
日吉大社の十禅師権現を勧請し、十善神社と称した。
明治元年、改称。

[φ]
配祀神の経緯については記述が無く委細不明。

 


[伝]八阪神社(旧:龍ヶ森社)[HE2]
鎮座地:水口町杣中461 [c82-0]
祭神:素盞嗚尊、伊弉冉尊
【由緒】
 創祀年不詳。祇園の牛頭天王を奉祀し龍ヶ森社と称していた。雨乞の神事が名高いという。

[φ]
 祇園から牛頭天王を勧請して「龍ヶ森」と称したことと、雨乞の効験とを併せ見れば、信仰の主体は祇園龍穴の祭神だったか、あるいは牛頭天王と一緒に勧請されていた后神(龍女)や八王子(蛇毒気神)のほうではなかったか。稲田姫の代わりに伊弉冉尊が合祀されているので、前者のほうが可能性が高いか。祭神変更の経緯と境内社の詳細が気になるところである。

 蒲生郡日野町西大路にある落神神社(主祭神:素盞嗚尊。配祀神:天御中主尊、鳴雷神)の由緒も、応永十二年六月七日に祇園牛頭天王を勧請し遷宮祭を挙行の折、雷雨となったという伝承をもち、これにちなんで落神大明神と称しており、わざわざ祇園社の牛頭天王を勧請したとしながら牛頭天王や祇園の社号を用いていない。更に寛保元年七月の旱魃時、藩主市橋直挙が神前にて一首の和歌を献じて雨を乞うと俄に雨が降ったという伝説もあり、やはり雨乞の効験を謳っている点が共通する。

 


龍王神社(加茂神社の境内社)[HE3]
鎮座地:水口町虫生野392《Musyôno》 [c83-0]
祭神:詳細不明。
由緒:詳細不明。

 

湖南市(旧:甲賀郡甲西町)[H]

《Konanshi》←《Koukagun-Kousaimachi》

貴船神社 [H1]
鎮座地:湖南市菩提寺(旧:甲西町菩提寺1096) [c71-0]
祭神:髙龗神
神紋:三つ巴
例祭:五月第一日曜
由緒:不詳

 


龍王社(下田日枝神社の境内社)[H2]
鎮座地:湖南市下田(旧:甲西町下田3259) [c72-0]
祭神:詳細不明。
由緒:詳細不明。


龍神社 [H3]
鎮座地:湖南市菩提寺(旧:甲西町菩提寺2093) [c71-0]
祭神:綿津見神
神紋:三つ巴
例祭:七月第一日曜
由緒:不詳

 

高島市安曇川町(旧:高島郡安曇川町)[U]

《Takasimasi-Adogawachô》←《Takasimagun-Adogawachô》

貴夫禰神社《Kifune-》[U1]
鎮座地:高島市安曇川町四津川846《Yotugawa》 [c39]
(最寄り駅:湖西線「安曇川」~3300m)
祭神:髙龗神
【由緒】
創祀年代不詳。
文明十三年(1481)には本庄村大字四津川字今在家の氏神と言われていた。

[φ]
 「今在家」は停留所名に見られる。琵琶湖西岸に面した地域で神社は松ノ木内湖の傍に建つ。

 

長浜市[A]

五所神社《Gosyo-》[A6]
鎮座地:長浜市小堀町174 [c33]
(最寄り駅:北陸本線「長浜」~2400m)
祭神:大國主命ほか四柱[まま]
【由緒】
 不詳。
 総持寺(真言宗)の諸記録によれば祭神は梵天・帝釈・諸龍・弁才天・荒神の五柱。
 明治維新時に改称。明治八年、現在地へ遷座。

[φ]
 大國主命以外をどんな神に当て嵌めたのかがすごく気になる。諸龍は複数形だけど一柱でカウントされてる。これは滋賀県内の神社でよく見られるように八大龍王を一柱と見なすのと同じ。大國主命は通俗的には大黒天と同一視されることが多いが、ここでは割り当てが異なり興味深い。(恐らく梵天か)

 

旧:東浅井郡浅井町[AA]

《Higashiazaigun-Azaichô》→《Nagahamashi》

貴船神社《Kibune-》[AA7]
鎮座地:長浜市飯山町《Iyamachô》(旧:浅井町飯山107) [c31-0]
祭神:髙龗神
例祭:1/24
【由緒】
天暦元年(947)創祀。

 


貴船神社《Kibune-》[AA8]
鎮座地:長浜市大門町《Daimonchô》(旧:浅井町大門107) [c31-0]
祭神:髙龗神、軻遇突智神
神紋:梅鉢
例祭:1/15
【由緒】
口伝によれば応安年間(1368-1375)の創祀という。

 


白龍神社《Hakuryû-》[AA9]
鎮座地:長浜市高山町(旧:浅井町高山143) [c25-0]
祭神:髙龗大神
例祭:4/13
【由緒】
 S27年暮れから翌年正月にかけて、石灰製造者・萩原善兵衛宅に毎夜数個の光玉が出現し上下したという。善兵衛は神の降臨と感得し祠を建立した。
 かつて、堂来という地に湧水があり、その傍に樹齢三百年ほどの大樹があって、村人はそこに龍神が住むと信じ礼拝を欠かさなかったともいう。

 

旧:東浅井郡びわ町[AB]

《Higasiazaigun-Biwachô》》→《Nagahamashi》

[伝]都久夫須麻神社《Tukubusuma-》[AB1]
鎮座地:長浜市早崎町(竹生島。旧びわ町早崎1665)
(アクセス:今津・長浜・彦根などから客船)
祭神:浅井姫命、市杵島姫命、宇賀御霊命
境内社:天忍穂耳神社、厳島江島神社、大己貴神社
神紋:玉龍
例祭:6/15
龍神祭:6/14)
【由緒】
 竹生島明神とも呼ばれた。
 雄略天皇三年(458)に浅井姫命を祀る(『風土記』)。式内社。
 縁起によると、神亀元年(724)、天照大神の神託により竹生島に市杵島姫命が祀られ、天平三年(731)には聖武天皇が社殿を新造し、社前に天忍穂耳命と大己貴命を祀った。
 天平宝字八年(764)、従五位の神階受納。
 平安期に神宮寺として宝厳寺(観音堂)が建てられ、以後天台の僧が度々社参、本地を弁才天とする信仰も盛んとなる。
 貞永元年(1232)・享徳四年(1455)・永禄元年(1558)に火災に遭うが、つど再建。
 現社殿は慶長七年(1602)に伏見桃山御殿の一部を移築したもので、M32年国宝に指定される。
M4年、社号改称。
M9年、郷社。
M32年、県社。
S5年、境内地および社領一帯が史跡名勝地となる。

[φ]
 厳島神社(広島)、江島神社(神奈川)と併せて日本三大弁才天とも称される。
 浅井姫命については伊吹山の多多美比古と力比べをして、自ら造った竹生島へ逃れたという伝説もある(『色葉字類抄』)。こうした伝説の背景としては、伊吹山と竹生島がほぼ東西のラインで直線上に並ぶことが関係していそうである。伊吹山は1377mの高山である。小島の女神と高山の男神は対称関係にあり、それが「力比べ」に直結し、東西のラインが「逃避(カミの移動経路)」へ繋がってくる。実はこの東西ラインは日本にとって非常に重要で、伊吹山から更に東へラインを伸ばすと日蓮宗が聖地とする七面山(七面大明神は龍女と言われる)があり、そのすぐ先が富士山なのである(その先も相模の一ノ宮や上総の一ノ宮に当る)。また竹生島から更に西へラインを伸ばすと、天台宗及び修験道で霊山とされる大山があり、その先が出雲大社に当るのである。
 伊吹山の伝説は伊吹三郎が有名で、八岐大蛇を祀る伊吹大明神に祈って得た遺児伊吹童子(酒呑童子)は、山中にて不老不死の霊草の露をなめて神通力を得て、居場所を求め雲とともに西方へ飛ぶが神仏に追い払われ、大江山に至ったなどと語られる。(いわゆる賴光四天王の酒顛童子退治伝説の前哨譚に該当)。

 

長浜市高月町(旧:伊香郡高月町)[AC]

《Nagahamashi-Takatukichô》←《Ikagun-Takatukichô》

井宮神社《Imiya-》[AC1]
鎮座地:高月町落川469 [c24-0]
御祭神:髙龗神
神紋:笹竜胆
例祭:9/11
【由緒】
 創祀年代不詳。高津川上流の井堰組の水神として、京都二条城の辺りの龍神宮より分霊を勧請奉祀された。落川・高月・宇根の三区に亘る稲作用灌漑水利の守護神である。
 境内は河川改修・道路拡張のため狭隘を余儀なくされた。

[φ]
 地図では最寄りの川は高時川となっている。京都二条城辺りの龍神宮というと、神泉苑の善女龍王社だろうか。(神紋は一致しない)

 


[伝]大表神社《Oomote-》[AC2]
鎮座地:高月町柳野中48 [c23-0]
祭神:應神天皇
神紋:左三つ巴
例祭:4/13
【由緒】
 社伝によると、慶雲二年(705)、大和葛木の水分神(八大龍王)を奉祀し、祈雨太水分神と称した。
 貞観十五年(873)、社殿造営。
 文永二年(1265)、佐佐木近江守氏信が八幡宮を合祀し大表八幡宮と改称した。
 当社は式内社の太水別神社の論社である。

[φ]
 「大和葛木の水分神」については委細不明であるが、葛城山の西側(大阪側)に「水分」という字名が見られるほか、東南(奈良側)の関屋地区に水分神社が確認できる。
 『滋賀県神社誌』では祭神表記が應神のみとなっており、水分神の所在が不明である。

 


[伝]横山神社 [AC3]
鎮座地:高月町横山297ー1 [c24-0]
祭神:大山祇命、少彦名命、泉龍大神
例祭:4/1
【由緒】
 光仁天皇の御宇(770-781)、真人三船が勧請したという。
 天正年間(1573-1592)、戦火に遭い社殿焼失。

[φ]
 「真人三船」とはいわゆる淡海三船《OuminoMifune》のことらしい。淡海三船[722ー785]は奈良時代の文人。大友皇子の曾孫。真人《Mahito》は八色の姓の最上位で、それが与えられたことで淡海真人を姓とした。「淡海」は近江のことで、天智方の人だから滋賀県に所縁の偉人ですね。
 「泉龍大神」については委細不明。龍神と思われるが一応「伝」の扱いとする。

 


龍神社(神高槻神社の境内社)[AC4]
鎮座地:高月町高月1 [c24-0]
祭神:詳細不明。
由緒:詳細不明。

 

長浜市余呉町(旧:伊香郡余呉町)[AE]

《Nagahamashi-Yogochô》←《Ikagun-Yogochô》

丹生神社《Niyû-》[AE5]
鎮座地:余呉町下丹生1087 [c98]
(最寄り駅:北陸本線「余呉」~3600m)
御祭神:髙龗神、丹生津姫命
例祭:4/3
【由緒】
 天平宝字八年(764)春、創建。丹生郷の総社で丹生明神または大梵天王と称した。
 勧請当時は丹生川の西岸丹保髙山の麓、神楽野という地(現社地から東南へ九町ほど)に鎮座していたが、度々洪水の害を蒙るによりて貞観十二年(870)に氏子ともども現在地へ遷った。旧社地には神楽野明神と呼ぶ祠があり、年に四回氏子中が参詣し祭典を行う。
 社殿は文明二年(1470)に焼失し大永年間(1521-1528)に再建、寛文七年(1667)に改築を施したものが現在の本殿である。
 『延喜式』神名帳の「丹生神社二座」に比定されるという。
 明治維新に伴い改称。

[φ]
 「丹保髙山」「神楽野」はいづれも不明。地図で確認できる最寄りの河川名は高時川。1200mほど北の上丹生地区にも丹生神社がある。

 

東近江市(旧:八日市市)[E]

御澤神社《Osawa-》[EA1]
鎮座地:東近江市上平木町1319ー1(旧:八日市市) [c62]
祭神:市杵嶋姫命
境内社:弁天社
神紋:稲妻
例祭:8/22
【由緒】
 明細帳によれば、推古天皇十二年(603)に豊聡耳《Toyotomimi》皇太子(聖徳太子)が創立。農業を奨励し蘇我馬子を奉行として蒲生郡長光寺村から比良木村にいたる荒れ地を開墾し、水源地とした御澤の畔に鎮座という。

[φ]
由緒はこれだけだが、神社の池に大蛇および八大龍王にまつわる伝承がある
【伝説A】
 平重盛の遺児三和姫は奸臣に陥れられ福原の都から流浪の旅に出た。近江の蒲生野へ来たとき、小野時兼という者に出逢い夫婦となる。しかし時兼は「芦摩津地という大蛇が取り憑いた化身」だったので、三和姫もまた芦摩千也という大蛇に取り憑かれてしまった。二人は池に沈んで蛇身となった。それでもなお三和姫は人の役に立ちたいと八大龍王に祈ると竜王が現れて、平田のお沢の池を与えるので人々のため水を守れと告げたという。また御沢神社の池は「濁り池」と「澄み池」があり、濁り池の水は三和姫の化粧品がとけて流れたためいつも白く濁っていると言われる。[日角19]

 神社の池は地図上では確認できない。
 「平田」は上平木町の北隣に平田町がある。平田町内にも目立つ池は無い。大宮神社があるが祭神は天照大神で関連する伝承は無い模様。御澤神社の西にある日吉神社は元八王子権現と称し大山咋神ほか四柱を祀るが、ここの由緒に「この地は延暦寺領であった」とある。そして江戸期には旗本石河蔵人の所領となったという。
 「長光寺村」は上平木の北隣に長光寺町がある。境には瓶割山という山があり古墳群も確認できる。この山を囲うように神社が点在している。

 この御澤神社から南へ3300mほどの地点にある竜王寺にも関連する伝承がある。
【伝説B】
 大和の吉野から病気平癒の祈願に訪れた小野時兼は川守の里で美しい女と出逢い夫婦となる。ところが三年ほど経ったある日、女は突然、自分は平木の池に棲むモノで人に非ず、宿縁尽きて池に戻らないといけないのでこれを形見にしてほしい、と言って玉手箱を渡して去った。時兼は女が忘れられず平木のお澤池に毎日通ったところ、九十九日目に池から大蛇が現れた。その日帰宅してから玉手箱を開けると紫雲とともに梵鐘が涌き出たので、この鐘を竜王寺に寄進したという。
 この梵鐘には火災の時に水が噴き出したとか、女性が鐘の真下に立つと吸い込まれるなどといった話もあるそうで、現在は鐘の下に鏡を置き御幣を立て、龍頭(鐘の頂部)は白布で包んでいて、雨乞の時に使用するという。[日角19]

 


善女龍王神社(皇美麻神社の境内社)[EA2]
鎮座地:東近江市八日市町(旧:八日市市八日市町3ー18) [c15]
(最寄り駅:近江鉄道本線「八日市」~450m)
祭神:詳細不明。
由緒:詳細不明。

 


羽田神社《Haneda-》[EA3]
鎮座地:東近江市上羽田町(旧:八日市市上羽田町2257)《Kamihanedachô》 [c62]
(最寄り駅:近江鉄道八日市線「市辺」~2100m、近江鉄道本線「大学前」~2700m)
主祭神:素盞嗚尊、大國主命
配祀:奇稲田比賣命、大山積神、髙龗神、弘文天皇、應神天皇、菅原道眞公
神紋:木瓜、左三つ巴
【由緒】
 社伝によれば、倭姫命が甲可日雲宮から坂田宮に御幸のときの行宮《angû》という。
 文明九年(1477)、社殿造営。
 慶長六年(1601)、伊達氏の領地となり、慶長十二年(1607)、社殿造営。
 正保三年(1646)社殿再建。

 

旧:神埼郡五個莊町[EB]

《Kanzakigun-Gokasyouchô》→《Higashioumishi》

雨宮龍神社《Amemiyaryû-》[EB1]
鎮座地:東近江市五個荘石馬寺町(旧:五個荘町石馬寺857)《Gokasyouishibajichô》 [c53-0]
祭神:①大山祇神、②級長津彦命、③級長戸辺命、④彌都波能賣神、⑤大綿津見神、⑥底中上津綿津見神[まま]
神紋:左三つ巴
例祭:7/20(第三日曜)
【由緒】
降雨明神、雨明神、八大龍王降雨大明神と呼ばれた。この神出現の地は当山の麓伊庭の庄湖水の辺りで、その跡が残る。近隣九ヶ村の雨乞のほか天災除けの信仰もある。

[φ]
 祭神の中のどの神がこの由緒の「雨明神」なのかはよく判らない。①は山の神である。②・③は風の神である。④は水神である。⑤は海神である。
 ⑥は禊や川の流れに関係するワタツミ神のようである。『古事記』ではイザナキが禊祓えをした際に底津綿津見・中津綿津見・上津綿津見の三神が生れたとし、三柱を併せ祀るのを通例とする。この⑥の表記が一柱ではなく三神の省略表記なのだとしたら、祭神数は八柱となり「八大龍王」の「八」と合致する。つまり全部併せて雨明神ってことか。
 「雨」や「龍」を強調する名前でありながら龗系の神が含まれていないのは、同じ五個荘町内に鎮座する貴船神社に単身で祀られていることと関係があるか。

 


貴船神社  [EB2]
鎮座地:東近江市五個莊山本町 [c53]
(最寄り駅:近江鉄道本線「河辺の森」~1200m)
祭神:髙龗神
神紋:左三つ巴
例祭:4/3
【由緒】
創祀年代不詳。
天保十四年(1843)、社殿再建。

 

旧:蒲生郡蒲生町[EC]

《Gamougun-Gamouchô》→《Higashioumishi》

龍神社(雨神社の境内社)[EC1]
鎮座地:東近江市市子殿町(旧:蒲生町市子殿258)《Ichikotonochô》 [c63,73-0]
祭神:詳細不明。
由緒:詳細不明。

[φ]
 雨神社の祭神は瓊瓊杵尊《Ninigi-》としている。創立年は不詳。この社号で請雨祈願が為されたというので十禅師権現の隠り神と関連するか。(日吉十禅師の祭神は玉依姫命、瓊瓊杵尊、大己貴命など一定しない)

 

米原市(旧:坂田郡山東町)[B]

《Maibarashi》←《Sakatagun-Santouchô》

清滝神社《Kiyotaki-》[B1]
鎮座地:米原市清滝312 [c108-0]
祭神:髙龗神、孝元天皇、崇神天皇、武内宿称[まま]
例祭:4/15
【由緒】
 保延四年(1138)創祀。山城国醍醐寺にある清滝宮の分霊を祀り清滝大権現と称した。北近江の祈雨霊場として崇敬された。

 

守山市[L]

龍神社(小津神社の境内社)[L1]
鎮座地:守山市杉江町495 [c59]
(最寄り駅:東海道本線「守山」~4000m)
祭神:詳細不明。
由緒:詳細不明。

[φ]
オンラインの地図では「荒龍神社」という表記も見られる。

 


龍宮神社(樹下神社の境内社)[L2]
鎮座地:守山市今浜町146 [c59]
(最寄り駅:東海道本線「野洲」~6000m)
祭神:詳細不明。
由緒:詳細不明。

[φ]
 樹下《Jyuge》神社は十禅師権現社と称し祭神は玉依姫命。日枝神社からの分霊とされる。この十禅師権現と玉依姫の比定関係はよく解らない。山王神道独自の神か。
 樹下家は日吉神社の二宮の社家職を世襲。聖帝《Syoutai》造りまたは日吉造《Hiedukuri》と呼ばれる独特の社殿は床下に下殿《Geden》という参籠施設があり、樹下神社の下殿には井泉が湧いている。(『神道史大辞典』)
 これは祇園天神社(八坂神社)の本殿下にある龍穴を想起させる。

 

野洲市(旧:野洲郡野洲町)[K]

《Yasusi》←《Yasugun-Yasuchô》

貴布禰神社《Kifune-》[K1]
鎮座地:野洲市中北128 [c61]
(最寄り駅:東海道本線「篠原」~3000m)
祭神:髙龗神
神紋:左三つ巴
【由緒】
 創祀は康応年間(1389-1390)。伝之亟(丞か)なる長者が庭園内に祀って居た。
 応永年間(1394-1428)に地域の産土とした。

[φ]
 神社のすぐ傍に淸盛に寵愛を受けた美貌の白拍子祇王・祇女に所縁の祇王寺がある。この姉妹はこの里に生れたといい、白拍子として淸盛に見初められると、故郷へ灌漑用水を引くよう要請し受諾されたとの伝説がある。淸盛が関わった水路開削譚の一つであるが、そういった伝承と果して関係があるのかは不明である。

 

[伝]三上神社《Mikami-》[K2]
鎮座地:野洲市妙光寺1 [c50,70-0]
祭神:天之御影命
神紋:釘抜紋
境内社:若宮神社、十禅師神社
【由緒】
 天之御影命は孝霊天皇六年(前284)、三上山に降臨した。神裔の三上祝らは三上山の岩の磐境(祭壇)を神体山として奉祭した。この山は標高428m。麓から頂上にかけて岩盤が連なり山頂に大きな磐座がある。三上地区の御上神社(官幣中社)を本宮とする。
 現社殿は寛文六年(1666)造営。同時期に築造された妙光寺池の守護神。神事として龍王祭がある。

[φ]
 天之御影命《Amanomikage》は天津日子根命の子・天目一根命とされる(『神道大辭典』)。天目一根命は一目連や一目龍とも呼ばれる神である(一ツ目の龍は実は結構観る)。詳しくは下八木神社の項で述べた。
 三上山については、俵の藤太が退治した大百足が棲んでいた場所とされる。

 

栗東市(旧:栗太郡栗東町)[N]

《Rittôshi》←《Kuritagun-Rittochô》

龍王社(五百井神社の境外社)[N1]
鎮座地:栗東市下戸山(安養寺山山頂)[c70-0]
祭神:詳細不明。
由緒:詳細不明。

[φ]
 五百井《Ionoi》神社の祭神は木俣神(御井神)。
 木俣神は大國主神と八上比売の子であるが、正妻の八上比売は嫡妻の嫉妬を恐れて産んだ子を樹の俣に挟んで生国に帰ったため、その子は木俣神と呼ばれた。この神を御井神と呼ぶのは、この神が各地に井戸を掘ったことに由来する。(『神道大辭典』)
 木の股というのは要するに二股の木である。二股の木は山に入る人々から神聖視され、伐ることを禁忌とする例が多い。
 山頂には山王社の祠もあるとのことで、恐らく本来は山頂の神々が信仰対象だったと思われる。

 


 

統計

◆滋賀県の龍神祭祀社の総数
52社(文献による推計最低値)。

◆延喜式内社の数
3社(R2・P1・AE5)。論社と「AB1」は除く。

◆龍神祭祀社の分布
 主要河川沿いにあると言えるのは、長浜市を流れる草野川の上流部(AA9)と中流域(AA7・AA8)である。それ以外(高時川、愛知川、日野川、野洲川)では顕著な特徴は見られない。犬上川沿線では犬上郡甲良町に集中しているが、この区域は河川の規模が縮小している地域に該当する。

◆龍神祭祀社の無い地域(推定)
 彦根市、蒲生郡日野町、東近江市の東部(旧:神崎郡永源寺町)、甲賀市の西部(旧信楽町など)には見られない。

◆鎮座地の傾向
 琵琶湖の北東部及び南西部に集中して見られる。南西部は沿岸地帯ではなく、やや内陸よりで、犬上郡から大津市南部へかけてほぼ満遍なく並ぶ。内陸なのはやはり「雨乞」の信仰によるものであろう。
 それに反して琵琶湖の西側エリアは南方(大津市の北部)に若干あるものの、比良山以北から旧西浅井町まではわずかに高島市の一社(U1)のみである。

◆祭神と社号
髙龗神:18(うち貴船系統7)
闇龗神:2
泉龍大神:1
浅井姫命:1
市杵島姫命(市杵嶋姫命):2
豊玉姫命:1
大綿津見神(海津見神):4
天目一箇命:1
罔象女神(彌都波能賣神):2
天水分神:1

不明(龍神):8
不明(龍王):5
不明(善女龍王):1
不明(八大龍王、八代龍王):2
不明(諸龍):1
旧称(龍神):1
旧称(八大龍王):4
旧称(龍ヶ森):1

 現社号及び旧社号で「龍神」と表示するのが9社に対し、「八大龍王」が6社あり、「龍王」が5社ある。「善女龍王」と「諸龍」も仏教系の呼称で、寺院と関係した龍王信仰のほうがやや多いと言えそうである。(寺院についてはほとんど調べるに及んでいない)

◆祭神の分布
 龗系の神を主祭神とする神社の分布には、特に偏りは見られない。
甲賀市は中央部に龍神祭祀社が集中するが、龗神は北部の湖南市境界付近に相殿で祀られる(HE1)のみである。

◆龍神のみを祀る神社:28社(約半数)
◆由緒・伝説・神事にのみ龍が見られる神社:4社

◆祭神の詳細が不明の神社:15社(R8を除く)
◆由緒の詳細が不明の神社:21社(R8を除く)
[φ]これらは半ば忘れられた神社と言って過言でない。

 

<合祀神の内訳>
大國主神(大國主命):3
大山咋神:1
少彦名命:1
大山祇神(大山祇命、大山積神):4
級長津彦命:1
級長戸辺命:1
軻遇突智神:1
底中上津綿津見神:1
猿田彦神:1
伊邪那岐命:1
伊弉冉尊:1
蛭子命:1
宇賀御霊命:1
丹生津姫命:1
天児屋根命(天津児屋根命):2
須佐之男命(素盞嗚尊):4
奇稲田比賣命:1
天津彦火瓊瓊杵尊:1
誉田別命(應神天皇):5
活津彦根命:1
彦坐王命:1
豐玉比古命:1
天之御影命:1
天命開別尊(天智天皇):1
弘文天皇:2
伊賀采女宅子媛命(弘文天皇の母):1
孝元天皇:1
崇神天皇:1
菅原道眞:2
武内宿称:1
秦武智麿:1
於知別命:1
不明:4

 
 一定数を占めるのは大國主神、大山祇神、素盞嗚尊、應神天皇である。このうち前三者は相互に関係が深い祭神である。(大山祇神の娘の婚約者を素盞嗚尊が殺して夫の座に就き、その系統から大國主神が生れたとされる)。
 そのほかに関連性が高いのは軻遇突智神(血液から龗神が生じた)、伊邪那岐命(軻遇突智神を斬り殺す)、伊弉冉尊(軻遇突智を生んで身罷る)。
 由緒では雨の神徳に関する記述がありながら、これらの神(多くは人格神)が主祭神に据えられている神社も少なくなかった。これは為政者の信仰態度(祖神崇拝や武士による戦勝祈願)や、里人の祈願の多様化の影響によると考えられるほか、治水技術の発展による水神信仰の変容も考えられるであろう。龍神は基本的には祈雨・止雨の目的で創祀されてきた。それは治水工事の語りの中で龍神の影(存在感)が極めて希薄であることからも指摘できる。広義には水神と認識されながら、龍神に治水工事の完成や治水施設の守護を祈る例は少ない。それ故に人柱の生じる余地があると言える。

 滋賀県内の人柱の伝承としては、旧山東町池下の三島池の人柱が有名である。原因は渇水で、対象者は領主佐々木秀義の乳母である。伝説本ではこの池に最も近い神社は三島神社(三嶋神社)となっていて、境外に供養塔があると記している([日角19])。三嶋神社の祭神は大山祇命である。
 三島池から東南へ4200m辺りの地に龍神祭祀社がある(B1)。「B1」の清滝神社は北近江の祈雨霊場として崇敬された神社である。しかしそのような神社や池に隣接する神社へ祈願がされることなく(祈願がされたと語られることなく)、「占い」を媒介として人柱は選択実行されている。
 佐々木秀義は平安時代末の武将というので、その頃には既に龍神信仰は衰退していたことが窺える。しかしながら、人柱により池は満水となり渇水の危機は脱している。ここには神道や仏教とは異なる異形の信仰が垣間見られる。そしてそれは間接的には「領主佐々木秀義の乳母」への信仰へ通じるものである。ところが結果的には神社の社殿へ祭神として座すことなく、「供養塔」の下に甘んじている。平安期に神社神道や龍王信仰と乖離するのは末法という時代性と念仏(浄土信仰)の流行を想起させてやまない。乳母の御前が自ら入水したとするタイプの語りや、池の底から機織の音がするなどといった語りはそれを裏付けるものと言えよう。

 長浜市平方町の天満宮(『滋賀県神社誌』未掲載神社)には人身御供の伝説がある([日角19])。人身御供を要求する怪物は琵琶湖から現れ境内へ侵入する。その正体は「年を経た川獺」だったと語られる。退治者は犬で、境内に墓が残る。ここには英雄が退治して祀られるといった語りはない。怪物も「川獺」というように矮小化(合理化)されている。問題はその「怪物」が琵琶湖から来るという点である。そこには最早龍宮の観念は微塵も無い。琵琶湖の底に本当に龍が居るか議論になり勇猛な男が一人確かめに潜り、やがて青ざめた顔で戻って大鯰がたくさん居たとだけ語る話も同様である。龍のポジションに鯰が座るのは近世(元禄期)に流行する大津絵に顕著である。
 水神の観念が著しく退化した伝説を有す神社が、『滋賀県神社誌』に未掲載というのは、地域の信仰史という観点から連関があるものと推察される。人身御供が本当に行われて居たかは兎も角、琵琶湖の水神に対する信仰と儀礼があったことは疑いない。この伝説はその断絶を意味している。

 

◆創祀の古い龍神祭祀社BEST3(R7と[伝]を除く)
1位:「EA1」(推古天皇十二年/603)
2位:「AE5」(天平宝字八年/764)
3位:「R2」(貞観元年/859)

◆近代以降に創祀された龍神祭祀社
「DB1」(明治二十五年/1892)
「AA9」(昭和二十八年/1953)

 創祀年代を明示している神社はすべて含めて15社ある。九世紀以前とするものが7社で、あとは十二世紀から二十世紀までまばらで偏りは見られない。

 

 


【後書き】

滋賀県について
 何故滋賀県なのかについて簡単に述べると、以前に琵琶湖周辺の街道や関所などを調べる機会があって、その時に見たオンライン地図の琵琶湖周辺に、龍神・龍王・龍宮などを冠す神社がかなりの数確認され、三大弁才天の一つである竹生島弁才天と合せていつか詳しく調べてみたいと思ったからです。(2023年に琵琶湖の南部をスクショした画像では15社ほど見られる)
 しかしそれらのほとんどは『滋賀県神社誌』には掲載が無かったです。それはつまり、神社庁に未加盟の神社か、そうでなければ宗教法人として登録されてない神社ということになります。そしてそれらが地図上に見られるということは、ある程度の社殿規模(境内)を有することと、社号のわかるようなものが掲げてあることを意味します。更に言えば、近代の神道政策で変更され旧称として知ることの多い「龍神・龍王」といった言葉を、そのまま冠して現代に至っている(あるいは敗戦後に復した)ことを意味します。
 もちろん、実際に現地へ行くなどして調べてみないことには、あまりはっきりとしたことは言えません。もしかしたら割と最近に建てられた神社の可能性もありますし、古くからある神社のようでいて、その実態は新興宗教団体が土地ごと買い取って運営してるようなケースもあります。また個人や企業が所有する「屋敷神」という場合もあるかも知れません。
 次の項でも述べますが、オンライン地図でこれだけ確認できる割に、滋賀県には竜神祭祀にまつわる伝承が少ないです。龍神を祀る神社もそこそこあって雨乞が有名と言われるけれど、伝説は少ない。
 けれども様々な文献を渉猟することで、少しづつですが、見えなかったモノの影というか痕跡が観えてきたようにも思います。
 琵琶湖や竹生島に龍の残り香だけが微かに漂うのは、厳島と同じですね。

『滋賀県神社誌』のこと
 通読して気になった点として、編纂方針が影響していそうな由緒の内容(伝承の少なさ)と、誤字の多さを指摘できます。
 また私見の限りですが、年号に西暦が附していないのも歴史書の類ではかなり稀であり、補足する手間が掛かったことよりも、年号が間違っていた場合に修正ができない点が気になりました。(近代以前の年号は同音異字や似通ったものが多いので、両暦併記は読者の便というより二重チェックの意味が強い)

 神社神道を広義の宗教と見なす小生からすれば、収録神社の大半の由緒が「社伝によれば」という書き出しにもかかわらず、神徳にも絡む民間信仰であるところの伝説や奇瑞をほとんど記録しないのは全くもって解せません。この点において『廣島縣神社誌』は「歴史(信仰史)」をそのまま次代に引き継ごうとする姿勢が明確であったと言えるでしょう。

 

【補足1】祭神と関係する伝説がありながら、それを記載していない例

 祭神と関係する伝説がありながら、それを記載していない例を三つ示します。

1, 富士神社(封込神社)《Fûji-》
鎮座地:東近江市今代町175(旧:八日市市) [c64]
主祭神:木花開耶姫命
配祀:雷神
神紋:左三つ巴
例祭:4/16
【由緒】
創祀年代不詳。

[φ]
 伝説本[日角19]では「雷獣を封じこんだ神社」とされる。伝説は次のような内容である。
 昔、この里では不思議と雷がよく落ちた。或時、旅の修験者が通り掛かり、それは里に潜む雷獣のせいだから捕えて進ぜようと言い、麻で編んだ大きな網を作らせて里の外れの森に仕掛けた。すると程なく乱雲ふくれあがり遠雷が響き渡るなか、どこからか赤黒いケモノが現れ、網の上を飛び越えようとしたので即座に捕えた。そのケモノは一見犬のようだが、黒い嘴と鋭い爪をもっていた。修験者はそのケモノを鉄杖で打ち殺した。以来、落雷がなくなり里人は森に祠を建て「封込《Fûji》神社」と呼んだ――。この話の典拠は『近江むかし話』となっている。また、神社の近くにある薬師堂には雷獣のミイラがあるとの説も載せている。
 『滋賀県神社誌』では雷神は配祀神の欄に記載され、封込神社という旧称についてはまったく触れていない。木花開耶姫命は浅間神社(富士山を神体とする浅間信仰)の祭神なので、「封込」が「富士」になったところから想定されたものと考えられる。その根拠は雷神を記紀神道の神に比定するだけであれば、木花開耶姫命にはならないからである(木花開耶姫に雷の属性は無い)。

 

2, 柳ヶ瀬八幡神社《Yanagase-》
鎮座地:長浜市余呉町柳ヶ瀬267(旧:伊香郡余呉町) [c97]
(最寄り駅:北陸本線「余呉」~5400m)
祭神:誉田別命

[φ]
 配祀神、境内社、由緒ともに記載は見られないが、「狼の社」が合祀されているという説が『近江の伝説』([日角19])に見られる。
 伝説内容は、旅人が狼の群に襲われて木に登ると「太郎の母を呼んでこい」と狼たちがいって、やがて大きな狼が現れ木に登ってくる。そこで斬りつけると落下し狼は散り散りになる。宿へ行くと主人の母親が怪我をしたといって騒いでいる。主人の名は太郎ときいて、先ほどの怪異を話し、化けた狼を打ち殺した――、というものである。
 伝説本にはこの妖怪伝説と「狼の社」との関係について説明はなく委細は不明である。

 

3, 奥石神社《Oiso-》(鎌宮)《Kamanomiya》
鎮座地:近江八幡市安土町(旧:蒲生郡安土町) [c53]
祭神:天児屋根命
神紋:四つ木瓜、左鎌
【由緒】
式内社。社伝によると、崇神天皇の御代、四道将軍を差遣ありしとき、吉備武彦が武運祈願のため勧請した所という。
また孝霊天皇三十年、石部大連という翁が社壇を築いたことに始まるともいう。
鎌宮と称した起源は不明であるが、T13年に県社となるのに併せて鎌宮から改称した。

[φ]
 鎌宮と称す起源は不明とのことだが、『近江の伝説』([日角19])では次のように明記されている。
「この神社(註:奥石神社)は中古以来鎌宮の名で呼ばれて来た。神紋も珍しい鎌紋である。これは日本武尊が東国を征したあと、持っていた鎌をこの森に祀らせたからだという。海神に身を捧げて尊の海路を護った弟橘媛の霊は、この森に飛来して留まったので、女性の出産を安らかにする神徳があるともいわれている。」(pp.91-92)

 この記述の典拠は不明ながら、神紋の由来と神徳までをも説明しきっている。しかるに現在の祭神は天児屋根命のみとされている。
 ところが神紋は二種類あり、旧称が鎌宮で鎌の紋も存在するのにそちらが一切不明で、それより古そうな事蹟がやけに明確に書いてあるという奇妙なことになっている。由緒の記述もやや不明瞭で「武運祈願のため勧請した所。」というのは土地(鎮座地)の説明であり、何を勧請したのか、勧請した神を祀った(勧請神=天児屋根)なのか、それとも吉備武彦が「武運祈願の神」を勧請した場所に新たに天児屋根命を祀ったという意味なのか曖昧である。

 土地に関しては次のような記述も見られる。Oisoは「老蘇」であり、かつては湿地帯だった。それを石辺大連が松や杉を植えて森林に変えて、その一部が残る場所にこの神社がある。(『近江の伝説』p.91)神社の由緒と「べ」の字が異なるが同一人物とみて差し支えなかろう。
 「吉備武彦」は景行記四十年の条に日本武尊の側近として登場し、越国に派遣される人物。
 日本武尊は東征に当たり天皇から「斧と鉞」を授かり、伊勢神宮で叔母の倭姫命から草薙剣を受取る。この東征譚の分水嶺となるのが近江胆吹山(伊吹山)での荒神との邂逅である。この伝承において鎌を所持していたというような記述は無く、また弟橘媛の入水も相模であるし、姫を偲ぶ逸話も長野の辺りの碓日嶺(碓氷峠)で海の方角である東南を見た云々とあるので『日本書紀』に照らせばまったく独自の伝承と言える。日本武尊は伊勢で亡くなった後、白鳥となって河内へ飛んだと語られているので、弟橘媛が近江に留まるというのは一つの大きな謎である。
 一方、由緒の方も既に述べた通り、吉備武彦は景行天皇の時代(71―131)の人であって、崇神天皇の御代(前97―前29)に存在し得たかは不明である。(崇神天皇の最晩年に二十歳だったとして景行天皇四十年の段階で160歳である・・・)

 『近畿 流浪と信仰』([ふ伝7])では弟橘媛は入水時身ごもっており、老蘇の森に霊となりて留まり女人の安全を永遠に守ると言い残した、としている。しかしこの伝承も奇妙なもので、浦賀水道の航海安全や日本武尊の守護ではなく、何故遠く離れた森で「女人の安全」を護ると宣言した(と語られる)のか。
 この「女人の安全」は「弟橘媛の犠牲」と対になるものである。自ら犠牲になることを志願した彼女の意志を汲めば「女人の安全」という概念は出て来ないはずである。つまりこの語りには弟橘媛の無念さや入水(人身御供)の強制性が静かな形で暗示されていると言える。
 また「神社は杜である」という神道の観念からすれば、人工社殿の祭神としてではなく、神社に附属する森に留まる神霊の重要性も看取されてくる(隠されているキーワードは地主神、鎌、女人の犠牲)。
 この問題は御霊信仰の御霊が圧倒的に男性が多いことや、犠牲者が恨みで大蛇と化す小夜姫の説話などと合せて考えてみる必要があるだろう。

 以上三例を示した。(本記事で既に見たように御澤神社も伝説未記載に該当)。
 こうした事例からすると、「語られない伝説」というものが相当数あるのではないかという懸念がぬぐえません。

 


【補足2】滋賀県の神社(神社庁加盟、法人登記社)の特徴

<祭神>
φ日吉神社(または日枝神社)が多い。ただし祭神は一定しない。
φ菅原道眞公を祀る天満宮が多い。(伝説も多い)
φ素盞嗚尊を祀る神社で「牛頭」ではなく「牛尾」という社号を用いる神社が散見される。(牛尾は日吉神社の主祭神大山咋神と関連する)
φ祭神は土地に所縁の人格神が圧倒的に多く、自然神が少ない。
φ神仏習合の度合いが濃厚な神社がある。多くは寺院の鎮守として天部や菩薩を祭神として祀ったもので、傳教大師(最澄)の名も処々に見られる。
φ男神・女神を併せ祀る神社が比較的多い。
φ川沿いの神社に謎の姫神を祀る神社が多い(小楯姫、玉依比売、奥津島比賣、鈴鹿姫など)。玉依比売は神霊の依代となる巫女とするのが通例である。「鴨」を冠す場合は京都の賀茂社の玉依比売である。

<由緒・伝承等>
φ皇族が創建に関わったとする神社が散見される。
φ天智天皇と関連する神社が多い。(667年の近江大津の宮遷都に由来。)
φ式内社が多いが、その論社も多い。(式内社とは10世紀成立の『延喜式』神名帳に記載されてる神社。論社とは該当するとされる神社が複数あり特定できていない「推定式内社」あるいは「自称式内社」)
φ牛頭天王を祀っていた由緒をもつ八坂神社が多い。
φ藤原氏と関連した春日神社が比較的多い。
φ戦国時代の兵火等で記録類とともに焼失(あるいは流失)したとする神社が非常に多い。
φ五月に例祭を行う神社が多い。
φ人柱や人身御供の伝承がまったく見られない