伝説分類の研究(人柱伝説を中心に)

伝説分類の研究
 筆者が今取組んでいるのは人柱・人身御供伝説についての研究であるが、研究に先立って便宜的に設定する分類の参考とするため、先行研究者の伝説分類を確認し比較考察する。
 なお筆者は民俗学について独学であるため、学術的に不十分・不正確な点や、確認資料の不足等が多々あることと思うが、個人用の一里塚の如きものとご寛恕願いたい。
 また書誌データのみの参照で現物の確認ができていない情報も含む。(表記、巻数、刊行年等の正確性はこれを保証しない)
【更新履歴】
2023/06/16:高木敏雄『日本傳説集』の分類を掲載。
2023/06/18:柳田國男編『日本伝説名彙』の分類を掲載。
2023/06/23:藤澤衛彦『日本民族伝説全集』(『日本伝説叢書』)の分類を掲載。
2023/08/19:糸井粂助『少年日本傳説讀本』の分類を統合掲載。
:朝倉治彦・井之口章次・岡野弘彦・松前健 編『神話伝説辞典』の分類を統合掲載。
2023/09/08:シリーズ『日本の伝説』(全50巻)の分類を掲載。
:相賀徹夫編『ふるさと伝説の旅』(全13巻)の分類を掲載。
:伊藤清司監修『ふるさとの伝説』(全10巻)の分類を掲載。
2023/09/14:吉成勇編『日本「神話・伝説」総覧』の分類を掲載。
:『日本の伝説を旅する』の分類を掲載。
:『怪異・妖怪伝承データベース』を掲載。
:総論を記載。

A:高木敏雄『日本傳説集』の分類(T2[1913]/郷土研究社)


1:説明神話
2:巨人・兩岳背競(大太法師)
3:九十九
4:樹木(巨木・二本木・杖立・縁起・箒木)
5:石
6:城跡・長者
7:金鶏咒詛
8:椀貸穴
9:抜穴
10:沈鐘(純粋・変形・鞍掛沼)
11:水界神話(水界:「龍蛇・蜘蛛・河童」/湖沼:「人沼・人蛇・湖沼退治」/龍宮・機織)
12:犬神・人狼
13:英雄
14:妻争
15:船橋
16:神婚(豐玉姫式・弟日姫子式・精霊・三輪山式)
17:義犬塚 一名 猿神退治
18:縁起(宗教的、地名、湧泉、石芋・水無瀬、神跡)
19:民間信仰(咒詛、怨靈・姥池、雜)
20:人柱
21:民間説話
22:天然
23:准天然

 本書は一昨年(M44)の暮れから昨年(T1)夏までの期限で東京朝日新聞社が募集した「民間伝説」と「童話」の中から、「伝説」250余篇を分類し収録したものである。
 高木の分類は人や現象に重点が置かれ、更にその現象のバックボーンとして語られるモノ(信仰)を含めて一つの項目として立てている。
 話形や題材による分類が主軸となっていると言える。
 「人柱」が単独の項目で立てられて居る。
 もう少し大きなカテゴリを設置し振り分けることもできそうだが、他の分類との比較はある程度出揃ってから改めて行う。

分類についての解説

 最も顕著な特色を「標準」として假分類をしているが、これは「研究のための分類」という考え方による。
 本書の分類は必ずしも一定していないと著者は述べる。
 また厳密な区分や一定の標準を確立することは不可能とも述べる。その理由は「神話と傳説と童話とは或點に於て互に其性質を融通しているばかりでなく、其形式に於てもまた、互に共通してゐるところがある」からだという。
 その上で高木が着目したのは「性質、特色、名称、成分、モーチーフ」などである。
 分類学の手法では外見上の形質特性、習性、DNAが基本となるが、これに当て嵌めて補足してみると次のようになるだろう。

「外見上の形質特性」:「特色・名称」(外形的要素)
「習性」:「性質」(行動的要素)
「DNA」:「成分・モーチーフ」(遺伝的要素・主題)

 その上で、どの要素で括るかが問われてくるわけだが、できるだけ多くの要素を抽出しその共通点によって腑分けする方法と、遺伝子のような絶対的な核となる要素をもとにグループ化する方法とがある。
 前者は判りやすいけれども主観的になるきらいがある。しかし生物と違って、「物語」の範疇に含まれる伝説を科学的に解析するのはほぼ不可能と言えるだろう。何故なら、文字化される以前からその伝説は存在していた可能性が高いからである。また、伝播の過程で合理化という名の進化を伴う傾向にありながら、それは語り手ごとに異なるという極めて主観的な変位だからである。
 したがって後者の場合は、できるだけ単純に構造化した上で、何を言わんとしているかの分析になるだろう。しかしそれだけでは、人柱伝説とその他の伝説の分類はできても、人柱伝説A~人柱伝説Zの分類はあまり有効とは言えないだろう。何故と言うと、人柱伝説自体が一定の物語構造を有するからである。柳田は、伝説には定形が無いと主張して居るが、それは昔話と比較したらの話であって、単純構造化してみればそこにはディスクールが見出せる。その場合、絶対的な核といえるのはテーマよりもむしろ「舞台(土地)」ということになるだろう。

 次に、解説の中から主なものを以下に掲出する。

1, <説明神話・説明傳説>
 自然界の現象、動植物の起原、形態その他の事實を説明したもの。説明を目的(メイン)にしたものと、末尾に取り付けただけのものとに区分できるとする。
1, 説明神話的傳説
 國民神話の性質が顕著なもの
22, 天然傳説
 動植物の起原や形態の説明を目的とするもの
→「目的とする」という言い方は少し引っ掛かるが、これは伝説というより神話の部類であろう。
18, 宗教的傳説=縁起傳説
 創立宗教の色彩を帯びているもの
10a, 沈鐘傳説
 沈んだ原因は種々だが罪惡や咒咀が伴う。或條件の下で沈んだ鐘が浮上るとか、鐘の音が聞えるのが特色。沈沒の動機が水神の羨望其他の意思に基くものもある。
 「貴重なもの、珍奇なものは、海神に羨望され、欲求され、その運搬は海神もしくは龍神の感情を刺戟し、或は其怒に觸れる、と云ふやうな思想」
10b, 鞍掛沼傳説
 鞍の沈んだことを説くが、形式が具わってゐるから別に一項目を立てる。
→数量よりも独自性を重視している。

3, 九十九傳説
 九十九は不完全單位數。原因が妨碍にある場合は「妨碍モーチーフ」

6, 城跡傳説
 長者傳説と共通。埋金傳説が付加。埋金には咒咀が伴う。

8, 椀貸穴傳説
 膳碗などを貸す穴に關する傳説で、この恩恵は必ず人間の方の過失、罪惡、破戒によって消滅する。穴の種類は一定しない。(関連:抜穴傳説)

→以上の諸伝説は、次に掲げる水界神話的伝説や人柱伝説と関係するものもある。

11, <水界神話的伝説>
蜘蛛傳説(関連:河童駒引傳説)
駒引傳説(河童傳説)
 河童が駒の手綱を引いて、河へ引込まうとする。
英雄傳説式怪物退治
 河童退治の方法が、古代の英雄傳説の大蛇退治、惡鬼退治などに似ている場合。
人沼傳説・人蛇傳説
 人間が沼に成り、また蛇に成る譚
湖沼退治傳説
 湖沼(の主)が獨力で又は他の力を借りて、他の湖沼(の主)を退治する譚
片眼魚
 湖沼傳説に附随する説明傳説的分子→別解釈
機織
 特別の形式を具えているが、性質と説明は保留する、としている。

→これらは物語の粗筋に重点が置かれて居る。善悪の対立構造が鮮明なものが多い。

16, <神婚傳説>
 人間と人間以外の者との交婚を説く説話。神または超自然的存在が相手の場合。
怪婚傳説
 人間と動物の交婚譚
豐玉姫式神婚傳説
 女が蛇で、舞臺が人間界
弟日姫子式神婚傳説
 男が蛇で、舞臺が水界
三輪山式神婚傳説
 苧環(おだまき)モーチーフ

20, <人柱傳説>
袴籤モーチーフ
 袴の籤によって人選を決した場合。
通掛モーチーフ(人柱に限らず世界的に多いという)
 通り掛かった最初の者を人柱に立てる場合。

 「一種のマジツクとして人柱を立てたかのやうに、説いてゐるものがあるのは、注意すべき事實」
→この文が具体的に何を言わんとしているのかはよく判らないが、実際の分類タグを見てみると以下の如くである。

①鶴市神社(人身供犠傳説/袴籤モーチーフ)
②源助柱(人身生埋マジツク/袴籤モーチーフ)
③阪田ヶ池片端梅(人身生埋マジツク/咒)
④備前道丁(人身生埋マジツク)
⑤一言の宮(人身生埋マジツク/通掛モーチーフ)

 「人身供犠傳説」も「人身生埋マジツク」も解説が無いので読解してみると、「人身供犠傳説」は「水神に(命を)捧げる」というのが人柱の動機になっているので「人身供犠」である。
 それに対して「人身生埋マジツク」は、少なくともここで挙げられている四種の伝説に神は一切登場せず、ただ難題解決のために「人柱を立てる」という行為が當然の如く(禁断にして伝家の宝刀の如く)採用され、難題が(多くは永劫に)解決する。管見の限りでは難題の八割は「水害・治水(堤防・架橋)」に関することで、二割が「築城・土木」関連である。(そこから伝説の成立に技術者の関与を指摘する説もあるが、筆者はその立場を採らない)
 一方で、①④⑤は対象者を祀っているので、別の分類も可能である。また別項で述べるが、筆者は対象者による分類を一つ考えて居る。選定方法による分類は踏襲できる。
 ③の「咒」というタグは、後日譚として語られる、発生した不可思議な現象(梅の実の形質異常)に人柱対象者の「咒」の影響を観た点を指している。
 以上を勘案するに、高木の人柱伝説の分類は「主題(固有名)」、「選定法(形式)」、「付加要素(関連伝説)」から成っていると言える
 しかし「信仰」という観点に留意すれば「主題」の解釈が変わったり、「付加要素」が独特なものでなく一定数あれば一形式として機能するので、伝説の数が多ければ多いほど違う分類が成り立つ余地があるだろう。
 「人身供犠」に関連して「人身御供」というタグもあるのだが、「供犠」と「御供」を使い分けているのが注目される。「供犠」には死が暗示されているが、「御供」は基本的には神事の後に払い下げられる。入水を匂わす話も多いが結婚の様相がある点に留意すべきである。
 高木の分類で「人身御供モーチーフ」があるのは<義犬塚 一名 猿神退治傳説>であるが、これも構造化してみると次の如くになる。

[一]長年悩まされる問題:起因
[二]部外者が関与する:打破
[三]祭祀対象(神事)が変更される:結末

 以上が基本形となり、人柱傳説とほぼ同じなのである。しかも人身御供は龍蛇神の恩恵を引き出す特別な御供という性質をもつケイスが多いのに対し、人柱伝説では水害を鎮めるための犠牲、すなわち水神への供犠(というより人間の水神化)を企図している。水神が視覚化され力でねじ伏せる前者と、水神が観念的で一種の宗教儀礼となっている後者という風に、近縁的なカテゴライズも可能なのである。
 猿神退治傳説で有名なのは『今昔物語集』に収載の二つの逸話だと思うが、その原形はスサノオの八岐大蛇退治であろう。さすればその主題は、神婚とその阻止(略奪婚)である。つまり、人身御供=神婚(一体化)と観ることも可能なのだが、その「信仰」が失われた(あるいは神事を中絶する)ことの正当性の主張(言い訳)として惡神殺し(カミへの責任転嫁)が語られるのである。そこには共同体内部の疑念(信仰低下)と外部の者がもつ「信仰的観念」が癒着した宗教闘争(カミ殺し)譚の側面がある。もっと単純に権力者の交代説話の場合もある。それは文末で退治者が新たな統治者となる場合である。
 また猿神退治傳説は確かに有名だが、数の上では少数であって、全国レベルで多いのは龍蛇への人身御供傳説である。ところが本書には「人身御供傳説」は独立項目として立てられていない。これは「人身御供」という行為よりも、「退治(阻止)」の方に重点があるからである。しかし神婚によるカミとの一体化と、人柱による人間の神格化とは、事象的に観ればどちらに主体性が残るかの差異でしかない。

 

B:柳田國男編『日本伝説名彙』の分類(S25[1950]/日本放送協會)

1:【木の部】「木」/蕨・芋・菜・薄・萱・葦
2:【石・岩の部】石・岩
3:【水の部】「橋・清水・井」/「湯・池・川・渡」/「堰・淵・瀧・水穴」
4:【塚の部】塚・穴
5:【坂・峠の部】「坂・峠・山(岳・岡)」/「谷・洞(崖・窟・澤・島・碓[礁か]・瀬)」/「屋敷・城趾(屋・田・村・森・畑・原)」
6:【祠堂の部】「地蔵」/薬師・観音・不動(仁王・毘沙門・大師・権現・閻魔・如來・佛堂・鐘・辨天・稲荷・大明神・神社・宮)

 柳田は伝説の主体を「コト」であると看做すので、伝説に付随するオブジェクト(由緒物)や地処による分類を試みている。
 また「○○橋」(A県、N県)という風に名称ごとに振り分けている。但し個別固有の名称(地名等)ではなく、民話などで見られる動作名称や普遍名称が多い。これは民俗学の調査手法が念頭にあるからであろう。
 六つの「部」を基本とし振り分けているが、【坂・峠の部】に「屋敷・城趾」があり、更に「森」や「原」まで含めてある。数は相対的に少ないのだろうし「屋敷」の延長と見做せなくもないが、「森」については【木の部】に含めるか、「山」と合わせた方が良いようにも思える。

 筆者の研究と大きく関わってくるのは【水の部】であるが、三つの中カテゴリに分けられている。しかしこの中カテゴリ分類もやや疑問がある。「橋」と「井」は人工物だが、同じく人工物である「堰」を別にしている。同カテゴリの「淵・瀧・水穴」は人里離れた場所にありそうだが、「堰」は人里に近い方ではないか。「橋」と「川」が別なのも気になるところである。それと「海」が無い。
 【祠堂の部】は地蔵か地蔵以外か、といった分類が豪快だが、それだけ地蔵の伝説が多いということでもあろう。それは道祖神と習合した外に、個人の墓代わりとして路傍へ単体で設置される例も少なくないからである。その意味で言えば、「石」の伝説とも関わる部分があるだろう。人柱伝説においても、対象者のために地蔵を設置したという話が若干ある。それは地蔵の縁起を説明するという機能も果しており、実際タイトルに地蔵を冠していたりもする。オブジェクトという観点では「地蔵」の伝説と言えるが、物語の観点では「人柱」がメーンテーマと言えるだろう。
 「薬師・観音・不動」の中に「大師」があるが、これは本来「神」として認識されながら「貴人」のように語られたことで、「貴人」なら「大師」だろうと置き換えられていった変遷過程(柳田の伝承理解)を踏まえたものである。

 「人柱」については項目が無いだけでなく、採録自体がされていない。情報の偏りについては既に指摘がされているが、焚書や検閲が行われた占領下である点は留意すべきである。
 採録された伝説の典拠は文献記録が多く、文献名が併記されている。

 全体的に素朴な印象を受ける分類だが、この分類の利点は時代や伝承者に左右されにくいという点であろう。「現象」を人々がどのように観て、いかに名づけたかが如実に分かる、まさに「日本民俗学(民俗伝承学)」的な分類と言えよう。またほとんどの伝説は、その舞台が一箇所(一地域)であるため、地域的な特色がより出やすく把握しやすいであろう。

 

C:藤澤衛彦『日本民族伝説全集』の分類(1955-56/河出書房)


1:東京
2:関東
3:東北・北海道
4:中部
5:近畿
6:北陸
7:中国
8:四国・九州
9:京都・大阪・奈良
別:概論

 本編全9巻で別巻が附属。エリア別の分類である。
 時代としてはようやくGHQの本土占領が終り主権回復から落着いた頃である。なお、沖縄は八巻に収録されている。
 郷土の民俗を再確認するかのような分類であり、題名に冠された「日本民族」の一語にもそれが表れている。
 別巻には『日本伝説概論』が附属。その『概論』の中で、過去の著作に当る『日本伝説叢書』(T5[1916]国別・13巻)に収載の「日本伝説分類表」が紹介されている。
 『日本伝説叢書』については関根綾子の論考がある。(残念ながら現時点では閲覧できる環境にないため未見である)
 国立国会図書館の書誌データでは、全13巻の内訳は次の如くなっている。


T6
①北武蔵
②阿波
③信濃
④上総

T7
⑤伊豆
⑥播磨
⑦明石
⑧佐渡

T8
⑨下総
⑩安房
⑪讃岐
⑬伊賀

T9
⑫和泉

 随分と偏りがあるが、例えば⑪「讃岐の巻」を繙いてみるに、「(前略)始めに高松市・大川郡・木田郡と(*小豆郡を)合せて一市三郡の傳説を蒐集してある。他の讃岐の後半、香川・綾歌・仲多度・三豊の四郡は、巻を新にし、金毘羅の巻として提供する豫定である。」(p2)とあって、当初の予定通りには刊行が果たせなかったことが推察される。
 しかし一地域あたりの収録数は平均150-250で、数だけで云えば圧倒的な量である。
 目次は個々にページが振られ、頭註に分類名が付記されているので、どういうタイプの伝説か概ね判るようになっている。
 ただ、ざっと見た限りこの分類の一覧表は見当たらず、また『概論』で示された一覧表には見られない分類も若干ある。したがって大正六年時点で、ある程度分類の骨格(作業仮説的な分類)はできていたが、昭和三十年刊行の『日本民族伝説全集』の段階ではバージョンアップ(改定)が図られていたと判定しておきたい。
 以下に掲げるのはその『日本民族伝説全集』の別巻『概論』に収載されている「日本伝説分類表」である。

『日本伝説概論』―「日本伝説分類表」

1:説明(起源・地名・事物・時代・天然・神話的・人間・動物)
2:神話的(諸神出現・活動・降臨・昇天・治水・神戦・神婚・妖怪退治)
3:開闢(開闢・陸地出現・陥沒・橋杙・神跡)
4:巨人(巨人説明・巨人出現・大太法師・百合者・足跡・手痕)
5:英雄(説明・出生・自尽・徘徊・隠遁・戦争・妖怪退治)
6:美人(貞操・処女・受胎・船橋・妻争・小町式・咲耶姫式)
7:天女(羽衣・天女・乙姫・機姫・星姫・佐保姫・虹姫)
8:長者(長者趾・出現成功・陥落不成功・日輪招戻・如意宝珠・金紐・宝競・埋金・柩持込・民間運命信仰・朝日夕日・漆千盆朱千盆)
9:小人(小人・倭人・一寸法師・田蜷子[にな。カワニナ科の淡水の巻き貝]
10:金鶏咒詛(財宝呪詛・竜宮・血餅・金縛)
11:九十九(妨碍・天邪鬼・鶏啼・物争・力競)
12:宗教的(縁起・霊跡・高僧伝・再生・教化・霊杖・崇罰・呪詛)
13:祭神(諸神説明・縁起・神跡・人文祖神・邪神・福神・崇罰)
14:義犬(猿神退治・義犬塚・動物報恩)
15:鬼魔(鬼・鬼女・天邪鬼・鬼賊・鬼神・天狗・魔女・魔神)
16:妖怪変化(妖怪退治・魑魅魍魎・通り魔・怪獣・妖鳥・怪魚)
17:怪奇(七不思議・人影・化身・蛇身・分身・痣黥[いれずみ]・火柱・怪光・怪火・魔水・頭白上人式・人狼・天狗・雪女・濡女・ウブメ)
18:山姥(山父・山姥・山童・山男・髭坊主・毛坊主)
19:幽霊(幽霊・怨霊・報恩・依頼・子育・生霊・死霊・人魂・泣声)
20:犠牲(人柱・身代・人身御供・贄供・人身生埋・[嫁殺し田]・犠牲)
21:城跡(城跡・居所・城将・戦争・守護神・落城・白旗・白鳩・旗立・焼米・[白米城]・武器)
22:白馬(白馬・神馬・白馬白装束・名馬・馬蹄跡)
23:墳墓(墳墓・物塚・糠塚・比翼塚・貝塚)
24:古穴(人穴・拔穴・底無・怪住・岩戸・涌出・風穴・椀貸穴・宝庫)
25:天界(太陽・月陰・星辰・雷電・風雪・虹)
26:水界(水神・湧泉・霊水・名水・潮吹・渦巻・水無瀬・女波男波)
27:龍宮(竜宮・浦島式・水底機織・蜃気楼)
28:養老(養老・子也清水・酒泉・蟻通)
29:姥捨(棄老・姥捨)
30:八百比丘尼・人魚(長寿・不死・徐福式)
31:河童(河童・河童薬・河童駒引)
32:山岳(山の神・山岳出現・精霊・両岳背競・戦争・双子山・變態・行者)
33:湖沼(出現・主・湖沼退治・姥池・鞍掛沼・龍蛇・人蛇・物影・投身・片眼魚・機織沼)
34:沈鐘(沈鐘・泣声・捨鐘)
35:岩石(化石・奇石・力石・子持石・霊石・成長・神石・陰陽・呪痕・石芋・石泣・望夫石・馬蹄石・傾城石)
36:草木(巨木・神木・霊木・精霊・怪草・霊禾[か。穂を出す穀物の総称]・御木・森林・二本木・名木・杖立・箒木・飛木・目標・何じゃもんじゃ・片葉・筆塚・樹木出血・箸立・矢立・龍燈松・夜泣松)
37:民間説話的(口碑・童話・お国自慢・頓智・薄馬鹿・夢・化され・人喚・魔術的・祕授・歌謡・俚諺説明・民間信仰・風俗・禁呪卜占・治療)
38:天然(動物比喩・動物戦争・変身・屍体・化生・植物比喩)
39:史伝的(史伝的・稗史伝的・逸話的・御幸・歌舞伎)
40:特種動物(鰐・百足・蛸・蟹・猫・鼬・蜘蛛・狸・狐)
41:音楽的(祕授・笛伏・鸚鵡式・山彦・馬鹿囃子・ポンポン山式)
42:器物(器物精霊・鏡・剣・曲玉)
43:洪水(洪水・治水・予言・築堤・犠牲)
44:憑物(犬神・蛇神・オサキ狐・クダ狐・ゴンボ種・トウビウ・スイカツラ)
45:言語(天声・遺言・密告・隠語・器物発声)
46:魔所・隠れ里(恐山・神仙・神仙境・天狗・蓬莱・徐福式)
47:天馬(天馬・羊太夫式・聖徳太子式)
48:アマンジャク(巨人・天柱・祖形人類・瓜子姫式)
49:呪術逃走(呪衛・潔祓)
50:畸形(畸形人・畸形児・変形人・その他)

 高木敏雄が提示した分類を更に幅広くかつ細分化した感がある。ここにきて分類は完全に「語りの主体になっているモノ」で考案されている。
 更に「類別分類すれば二百型に上る」としている。
 高木が採録しなかった種類の伝説を多く追加し、再編した印象で、伝説の「主体」による分類を柱としている。(高木の名誉のために付言するが、高木の『日本傳説集』は新聞紙上で募集されたものの中から採録されている)
 このような「主体」による分類は、現在市販されている伝説本(伝説を収載した本)でスタンダードな分類であるが、この分類の強みは人や現象のみであっても成立できる点である。つまり、神話・説話・民話・昔話といった各分野にも寄せるというか、それらと同一の枠組みで伝説を捉えようとしており、文学的な分類とも云える。
 そしてそれらと伝説との最大の相違点は、時代や舞台(土地)が特有という点である。だからこそこれだけの分類を設定しながら、国別(地域別)で収載する方法が採られているのである。
 但し、この分類法の背景として、藤澤の解説(解釈)は諸外国の民俗学(Folklore)との比較を前提としたものである点は注意を要する。新谷尚紀の言葉を借りれば、柳田に始まる日本の民俗学は「民俗伝承学(The Study of tradition)」すなわち「変遷の過程」に重点を置いた研究である。
 対して藤澤のこの分類は「点」で捉えたものと言える。構成要素の分析はどちらかというと、ミクロ的な研究であって、やはり諸外国の伝説との比較が中心となる。

 「人柱」については、20番の「犠牲伝説」に包含されており、「人身御供」も含む点は評価できるが、「物語構造」の観点から同列化する筆者の考えとは大きく異なる。また33番や43番との違い・区別も曖昧になりそうである。逆に言うと、20、33、43番は「物語構造」的な分類によってほとんど一つにまとめることができる。

 参考までに、藤澤がこの辺りの伝承をどう捉え、また解釈しているか、『概論』から引用する。
(第四章「日本民族の自然感と自然説話」― 第四節「海洋説話」より)
 この節では次のような段落が設定されている。

「海の人身御供伝説」
「沈鐘伝説」
「泣鐘交婚伝説」
「入水伝説、妻争伝説」
「海の怪物とその退治伝説」
~(中略)~
「妖怪退治、英雄伝説、島の移住者」

 つまり、20の「人身御供」、34の「沈鐘」、2の中の「神婚」や27「龍宮」、33の中の「投身」、6の中の「妻争」、33の中の「龍蛇」や40の中の「鰐」などが、「海洋説話」で括れることを示して居る。
 ところが、伝説のジャンルによって微妙な温度差がある。その部分はちょうど「人柱・人身御供」に関わるので、もう少し詳しく見てみよう。

「(-前略-)海洋を司配する海神を信じて、海洋そのものと別に観たことは、(-中略-)太古における一種の宗教的進化である。
 たとえば、海路の旅に、風起ち、浪荒れて、航海困難に、船沈まんとする時、これ、海神の成すところとして、犠牲者を出して海神の荒ぶる心を鎮めるという思想は、海が飢えて荒れ狂うという信仰から、人身御供を獻じて、海神を慰める思想であって、こうした思想は世界共通の思想であった。古代のドイツ民族は、この重大事件を決するに筮木ぜいぼくを用いた。ヨナの物語中、この海の犠牲者を選定するに、水夫らは叫んだ。『皆来い、籤を引け、この災難は誰のせいだ』そうして彼らは筮木を投じた。それはヨナに当ったと。同じ思想に、人身御供を海中に投ずることを歌った英国の民謡には、投げられた黒籤が不孝娘に当ったことが歌われている。古代のスコットランド人も、また、船の操縦困難になれば、筮木を投げて、神の忌諱に触れたものを探し出し、その者を海中に葬ったことが記録されている。(-中略-)ところが、日本の弟橘比売命の場合では、夫君日本武尊のみために、走水海の海荒れに、尊に代って、われから進んで、その海の犠牲に成っている。
 こうした人身御供の転化から入水する人を救うことは、海が要求する犠牲に対して、妨碍を加えるもので、神罰の当るものであると信ぜられ、オークやシェルムラントの船人達は、決してその溺れる者を救わなかったということであるが、日本においても、同じ傾向にあった。」(『概論』pp.110-111)

「海神の犠牲を取ることが、人間から、物に移ったのは、人間の犠牲は残酷であるとされた時代に代ったもので、往々、海神や、水神が、鐘を要求したということなども、その痕跡であろうか知れぬ。ことに、人柱などの犠牲が、なおわが戦国時代においてまで行われ、毛利元就によって、それが、『百万一心』と彫られた石によって代えられたなどいわれる説話は、明かに、人間としての犠牲が、いかに永く迷信として廃せられずに得たかを暗示することでもある。」(『概論』p.111)

 こう述べた藤澤は沈鐘伝説に話を移し「仏教縁起作者の作為が交渉され」と言及するが、毛利元就の逸話がまさに作為の産物であろう。というのも元就の人柱中止は人柱伝説の中で特異な例外だからである。物質による代替が行われたと語られる伝説はすべて中止要請者が著名人という共通点がある。つまり元就の『百万一心』は「人柱」という要素が出ては来るが、本質的には「毛利元就伝説」に分類されるものである。
 藤澤の一連の記述には、人身御供が外国にも多く見られる思想といって相対化しつつ、日本の人柱伝説も戦国時代には既に中止が企図された「迷信」だと示唆しているように感ぜられる。しかし実際には江戸時代に行われたという話が複数あるし、西洋の人身御供思想と日本の人身御供概念が果して同様の「犠牲」的思想と断定できるのだろうか。上に挙げられた西洋の事例と弟橘媛の事例は、海上を舞台に交通にまつわる伝承である。しかし元就の逸話は陸地における土木工事の完成を目的としたものである。これは「犠牲」というくくり方によって生じる致命的な齟齬である。
 また次のような記述もある。

「日本においても、たとえば湖沼主が、美しき処女を徴す伝説を沢山に伝えているが、これらをもって、ただちに、人身御供の伝説と見ることはできない」

 これは「泣鐘交婚伝説」と銘打って紹介しているドイツの伝説を引いての主張である。その伝説はかつて水の精と契った騎士が誓言を反故にして結婚したため、その帰途に橋で暴風雨に遭い、急流に消え、また妻子の行方も不明になり、嵐の夜にその土地では女と幼児の泣声がするという話で、これを「犠牲死の埒外に出でて、水の主が、人間と誓約すること」が主題の物語とする解釈に基づく。
 つまり「湖沼主が、美しき処女を徴す伝説」は、水神との契約(交婚)というのが藤澤の観立てである。
 たしかに、人身御供には「提供者」が存在する。契約は提供者と水神の間で交わされる。しかし日本では、御供の対象者や入水者がそのまま龍や大蛇に化すパターンも相当数ある。それらは変身伝説というような、まったく別種の伝説なのだろうか。
 これらは皆、諸外国の伝説から類似のものを主軸に据えて、そこから立論しているせいで陥った瑕疵である。

「在来の伝説において、女性が、美しい意味の投身の場合には、二つの傾向があった。それは人身御供的の場合と、犠牲的の場合とで、ともに、自動的進行の場合において最も美しい伝説を成さしめている。弟橘比売命が、走水の海に入水遊ばしたのは、その第一の場合の例であり、手児奈の入水はその第二の場合の例に当る。(-中略-)手児奈の投身伝説は、処女投身伝説には違いないが、また妻争の犠牲となったもので、確に妻争式伝説といわるべき一形式であったものである。」(『概論』p113)

 この弟橘比売の逸話というのは、日本武尊が相模から上総へ海を渡ろうとした時に、海の中ほどで急に波が荒れて船が沈みそうになった際に、これは海神の意志によるものと弟橘媛が判断し、入水したところ、海が静まったという話であるが、いくつかのポイントがある。
 この媛は「従ひまつる妾(をみな)」であり、自ら「賤しき妾(やつこ)」の身を「王の命に贖へて」と発言してることである。(小学館版『日本書紀①』p375)
 では、海が急に荒れ出した、すなわち海神が怒ったのは何故かといえば、王が「是小海ちひさきうみのみ。立跳たちはしりにも渡りつべし」と海神を見下して不敬の態度をとったからに外ならない。
 しかし藤澤はこれを「海神が餓えて荒れるという信仰から」生じた思想であると看做し、山間部における猿神の生贄譚も同様としている。(『概論』p235)
 また「自動的進行の場合において」という但し書きを付けることで強制的なものを端から除外している。弟橘媛も真間の手児奈も比較的古い成立で有名ではあるが、やはり特例的である。ここでも「点」と「点」の比較手法が採られている。最も古い記録を基準として重視する態度は、どちらかと言えば「史学的」な研究態度である。

 「人柱」に関する距離感・温度差は実際の伝説紹介文にもよく現れている。
 例せば『日本伝説叢書』―「信濃の巻」―「人柱伝説/水内橋」の項がそうで、八頁半に及ぶ長文であるが、様々な歌集に詠まれていること、呼び名が豊富であること、最古の記録は『日本書紀』にあって、その設計・加工が特殊であることを延々と記した後で、ある報告者から一つの伝説を教えられたとして「考證を止めて(-中略-)全文を載せて置く」(『伝説叢書』p99)として丸投げに記述される。その文章は『英文みだれ草』なる書を典拠とするらしいのだが、極めて「物語」的であり、長柄橋伝説の亜流の如き内容で、「人柱」という語と「人身御供」という語も交ぜ書きになっている。また特に注目されるのは冒頭部分で、橋が壊れるのは河神の怒りが原因だと村民に語らせている箇所である。この村民の解釈は、藤澤の理解とまったく同一である。文章はいわゆる「引用文」ではないので、原文の表記とは異なる可能性がある。
 同書「妖怪退治/岩見重太郎」などに到っては、神社に伝わる伝説で有名にも関わらず「稗史の生みだした転訛の説のやうに思はれる」とわずか四行余りの記述で実に素っ気ない。

 全体的に悪い意味で「伝説」を読んでる感じが希薄で、歴史書か文学書を読んでるような感が強い。極論すれば伝説はすべからく「稗史の生みだした転訛の説」の如きものであり、また歴史もその中の最も真実らしき説に過ぎない。にも関わらずこうあからさまに、しかつめらしく特定の伝説だけを作り物と決め付けるのは、学者の態度として如何なものかと思う。「歴史の研究」ならまだしも「民俗・伝説の研究」と言えるだろうかという疑問である。(事實か否かの判定が研究の主眼だったのだろうか? そうだとすれば、それはやはり歴史の研究というべきものである)

 最後に、「狭義の伝説区分」というのがあったので、合せて掲載しておく。

①国民伝説と呼ばれる神話的伝説
 大蛇退治型:素戔嗚尊、那須国造
 白鳥化型:日本武尊
 英雄型:義経
②民間伝説と呼ばれる、特定の地方に所産される伝説
 白鳥処女:羽衣
 龍宮:海幸山幸、浦島
③宗教伝説(高僧、縁起)
 石芋・杖立
 社寺の神仏信仰
④地方伝説、特有の地方に胚胎存続される伝説
 ものぐさ太郎
 羊太夫
⑤移入伝説(遊行)日本に移入されて日本化された伝承
 要石、百合若、牛王

 この狭義の区分は、「語り手が誰であるか(どういう属性か)」という観点から試行されたものと云える。
 ②と④の違いが判りにくいが、②は複数の決まった場所に点在し、④は一定のエリア内にだけあるといったところか。②はいづれも「伝説」というに相応しいが、④の「羊太夫」は寡聞にして知らず、「ものぐさ太郎」は御伽草子である。

 以上、藤澤衛彦の伝説分類を概観してきた。
 大正期の『日本伝説叢書』をテコとして、主権回復後に満を持して日本全国版『日本民族伝説全集』を出した藤澤の、伝説に対する信念が垣間見られた。
 なお、『日本民族伝説全集』(全10巻)は、『日本の伝説』(全9巻)という名で2019年に再版されているが、肝心の『概論』は含まれず、目次からも分類項目名が削除されている。

 

D:糸井粂助『少年日本傳説讀本』の分類(大同館書店/S13[1938])

 刊行年では先後するが、ここで糸井粂助いといくめすけを紹介したい。
 「少年」と銘打っているように青少年向けながら、内容は高度である。
 序文には糸井の伝説観がよく示されて居る。

「日本の説はが非常に山ありますが、どれも皆日本人の傳統的精神を如にあらはしてゐるものばかりです。」(そしてそれらの中には諸外国の伝承を採り入れたものも混じっているが)「どれもこれもすつかり同化されて日本の傳説になりきつてゐます。」と述べる。(p序1)

 この「同化」は日本文化全般にわたる非常に重要な観念である。
 漢字や仏教がその最たる物であるが、伝承についても「日本化」という視点は肝要で、単純に比較し類似点だけあげつらってもあまり意味はない。むしろ差異にこそ着目し、その意味性をこそ読解していくことが「日本の伝説」理解の、一つの方策ではないかと思う。
 一方で、伝説が時代ごとにもつ「特異なゆかしさ」が与える印象は「傳説が我々日本人の祖先の姿をありのまに傳へてゐるからです。いひかへると、民の性格や趣味の反映であり、日本人の姿の生きしだからなのです。」(pp.序1-2)とも述べる。
 ここには柳田以来の「伝説は合理化されていく」という文学的な観念は見られず、やや危ういイデオロギーが底流しているようにも感ぜられるが、そこがまた昔話や物語とは異なる「伝説」がもつ魅惑的な力とも言えよう。「國民精神動員のこの非常時局」における刊行である点も考慮が要る。
 編纂については「日本の傳説を歴史的にしらべて(-中略-)代表的な傳説の面白いもの珍しいものをならべ」たとし、更に伝説の研究・出版は先行者が多数居るが、「傳説を史的に調べたものはまだないと思ひます。」と自著を称揚している。(p序2)
 自己の興味をそのまま青少年へ推薦する編輯方針と言えよう。

 青少年向けにしては知的レベルが高いと指摘したが、その片鱗は目次からも一目瞭然であるので、次にその目次の前半部分の概要を掲げる。

本書の目次(前半)


【第一篇】序説
Ⅰ:傳説の研究に就いて
Ⅱ:傳説と神話及び童話及び昔話
Ⅲ:日本民族と傳説
【第二篇】日本傳説略史
①:日本傳説史概説
②:日本傳説の起り
③:上代傳説/古書に出た日本傳説、日本傳説の特異性、大陸傳説の輸入
④:平鎌傳説史/傳説文達、英雄傳説の起り、軍記物と傳説
⑤:室町傳説史/お伽草子の出現、お伽草子の内容、お伽草子と傳説、謡曲と傳説
⑥:江戸傳説史/江戸時代と傳説、民間説話の發達、傳説の集中大成、江戸時代の物、江戸時代の説話文學と傳説、傳説の考
⑦:近代傳説史/明治時代の傳説、明治初年の兒童讀物、小波のお伽噺

 第一篇は伝説全般についての概要的記述である。「語り物」の中で伝説がどう位置づけられるか、そして日本人にとって伝説はいかなる意味をもつかといったことを、伝説を紹介する前に説いて居る。
 第二篇は「日本傳説史」に関する記述で、なかでも特筆すべきは「第五期 近代傳説時代(明治以後)」を設定している点であろう。つまり、過去から現在に到るまでの動線がしっかりと意識されている。但し実際に収載する伝説には時代的な偏りがある。これについては後述する。
 逆に気になる点としては「第一期は傳説の無意識吸収時代であつた。即ち印度や南洋やアジア大陸の傳説が、日本民族の努力なしに、續々と我國に流れこんで來た。」「第二期は意識的な輸入時代であつた。」という風に、文献(文字)が確立される以前の時代がまったく無視されていることである。また文化の移動経路が一方向的であるが、果してそれは断定できるのかも疑問である。
 ある時期に大陸から渡来した民族のあったことは確かだとしても、その時代、ルート、ベクトルは単一ではないだろうし、渡来する以前にも列島上に「伝説」はあったはずである。それは当時の「歴史書」に位置づけられる記・紀の編纂時点において既に「諸説」が乱立していたという状況からも明白である。つまり、当時においても「流れこんで來た」話との比較を通して既存の伝説が解釈された可能性である。
 民俗学や伝承学は史学ではないのだから、史学が黙殺する文献や文献以外の遺物なども駆使して考察すべきということである。(この辺りは筆者もまだ研究途上であるのでこれ以上は控える)

 伝説については45種を採り上げ、私見を交えながら紹介している。
 項目によっては関連する伝説も同時に紹介されており、実数としては45よりも多い。但し典拠が不明なもの(というより民間習俗的な話)も若干ある。
 記・紀から採録した伝承が見られる一方で、いわゆる「記紀神話」(神代の逸話)は収録していないのが注目される。これは「伝説」と「神話」を明確に切り分けているからと言えそうだが、糸井の伝説観についてもう少し探ってから判定するのが良いだろう。

 本編の序説には、序文よりも一層詳細かつ赤裸々な糸井の伝説観が述べられている。少し長くなるが名文でもあるので「一、傳説の研究に就いて」の冒頭部分を紹介する。

「私たちが懐しの森をさまよひ、又或時は野原に遊び、川を渡る。その時、森や野原や川の影には、きつと色々な傳説が隠されてゐるであらうと思ふ。
 又私たちの足跡も、それは昔巨人や麗人がふんだと同じ地上にあるのだ。過ぎさつた昔の色々の事柄が、傳説といふ流の中に渦を巻いてこの地上につてゐるのである。
 そして山間僻村へきそんの爐邊(ろへん)に、天狗や、人狼の傳説等の昔話を物語つたり、又浦の苫屋(とまや)で妖怪化の話をして、その恐しさに驚きの眼を見はらせ、そしてつきない面白味をそゝり立てるのである。
 小道のふちに繁つてゐる桔梗の草むらに、花は咲かないけれどもゆかりのある美人の傳説や、そこの田圃たんぼで活躍して、誇らしく弓等を射た鄕土の古英雄の遺跡や、さては名も知れない六部さんの人柱や、高僧の行脚あんぎゃや、長者の盛衰や、女の投身や、その他鳥獣・魚・草木の不思議な傳説にひきつけられて來たのである。
 このやうに傳説といふものは、何ともいへない引きつける力を持つてゐるし、その内容でも、まんざら根も葉もない話ばかりではないのである。
 さて傳説といふものは民族の心理が産み出したものであるとも、史的傳承の口碑であるともふから(後略)」(pp.1-2)

 ここには土地(空間)や時間が、伝説当時の過去から今に到るまでずっと連なっているのだという意識・感覚がある。それも「同じ地上にある」「この地上に殘つてゐる」といった表現から、単に記録文献があるという受け止めではなく、より実感的に認識して居ることが理解される。
 その心理の根底にあるのは、妖怪に対する「つきない面白味」であり、「六部さんの人柱」や「處女の投身」が有する「何ともいへない引きつける力」であろう。そしてそれらを「民族の心理が産み出したもの」という風にも受け止めている。
 つまり、かつて生きて居た日本民族への尽きない興味でもあるわけだが、そこに「現在(現代)」を上位に置いて過去を見下す態度は無い。それは「民族の心理」に寄り添おうという意識があるからではないか。そしてそれができるのは、土地(空間)や時間が断絶して居ないという「民族意識」があるからであろう。
 わざわざ「日本民族」などといった文言を掲げずとも、この冒頭の文章だけで糸井が日本人に誰よりも一心同体となって伝承を受け止めようとしている姿勢が伝わってくる。言うなれば、語り手や作者に同化することで物語を理解しようとする読み方である。
 それは学術的客観的でないという批判があるかも知れない。しかしあらゆる物語は解釈の産物であることを免れない。どんなに客観を粧っても「歴史」すら解釈の産物というのが紛れもない事実である。
 そうであるならば、「民族の心理」に着目する糸井の態度こそ、伝説理解の最適な手法ということになるのではないか。これは何でもかんでも外国との比較で日本の伝説を読み解こうとすることへの痛烈な批判ではないか。

 そしてこれはまた、伝説が変化するのは民族の心理が変化したからだということにも繋がってくる。
 糸井はこうした変化や新たな創作の心理的ベースを端的に「信仰」と表現している。この理解の仕方は柳田國男の「伝説は国の信仰の推移を知るための極めて貴重なる文化財であることを忘れてはならない。」(柳田国男、関敬吾『新版 日本民俗学入門』p374)という戒めをよく踏まえたものであろう。

【神話についての見解】

 糸井は神話の特色を「政治的の色彩が強い!! つまり神話が政治上の必要から、それに都合よく作りなほされたやうな所がある。」と述べている(p6)
 その一方で伝説については「昔の事實か、又は事實と信ぜられたものである。時代の遠いもの程神話に近く、時代の下る程事實を想像的に現はしたものが多い。」と述べる。(p6)
 いささか矛盾的な表現だが、もう一度確認しておくと、伝説を支えるのは「信仰」ということであった。それは換言すれば、信じる者にとっては真実だが、信じない者には虚構という二面性があるということになる。
 ここで重要なことは、神話・伝説には「役割」があるということである。それは何かを説明するためのものといった「機能説」ではなく、「記憶(経験)の共有」といった、歴史に準ずる意味である。
 筆者が伝承の構造に着目し、テーマを重視するのもそれがためである。それが単なる真偽論の考察とは明確に違う点である。「信仰の世界」を読み解き理解するのに必要なのは、外国の伝説との比較ではないと思うゆえんである。

【伝説と昔話の違い】

 糸井は伝説を植物に、昔話を動物にたとえているが、ここの比喩が上手くて解りやすいので紹介する。

「元來傳説といふものは、或一定の土地に根をはつてゐて、さうして常に成長をつゞけて行くのである。一方昔話はどうかといふと、これは方々を飛び歩くので、何處どこへ行つて見ても、同じ姿を見かけることが出來るものである。(中略)動物の雀や頬白は、皆同じ顔をしてゐるが、植物の梅や椿は一本一本に枝振りが變つてゐるので見覺えがある。」(p10)

 この考え方が、印度、南洋、大陸等の外国所産の伝説を輸入しても、それを「日本的に鎔化する」という視点へと通じていく。そこから国家的アイデンティティの芽生えに応じて「純日本産傳説が勃興」していくという流れは、文学に限らずあらゆる文化の趨勢であろう。
 それは大乗仏教が更に「日本仏教」となったようなものである。それを原始仏教と比較して「大乗非仏説」という学者も居たが、筆者はそういった立場を採らない。なぜなら本質を重視するからである。仏教も伝説も、その本質は「信」である。

【伝説の分類】

 「文字となつて古典文學の中に記録されてゐる(もの)」と、「口傳へに傳承されて、長い年月をて、今日に傳つたもの」とを分けて、後者を「口碑傳説」としている。(p14)

 続いて「代表的著名ナモノ(伝説)」を年表で示している。
 そこに設定された項目は次の五項目である。
「名称」
「天皇」
「種別」
「代表文献」
「伝説地」

 その年表から「名称」と「種別」のみを次に掲げる。(漢数字は年表のみの収録、「*」印は筆者による補足)

【上代】
01:比治山天女 /白鳥處女式(*羽衣系)
二:因幡の白兎 /神話式
03:少彦名命  /小人傳説
04:白鳥沼   /白鳥處女式(*日本武尊と弟橘姫)
05:浦島太郎  /仙鄕淹留妖婚
06:小子部栖輕ちいさこべすかる /英雄傳説(*雄略天皇の近臣)
七:八百姫   /不老長生
08:大太郎法師 /巨人傳説
09:眞間手兒奈 /妻争式
10:羊太夫   /人文祖神式(*天武朝の頃の人物?)
11:役行者   /修驗道行者
12:阿古耶姫  /樹木精(*松の精)
一三:養老の瀧 /養老孝子(*酒泉)
14:高麗王   /人文祖神式
一五:白鳥天女 /白鳥處女式
一六:中將姫  /蓮の曼荼羅(*観音縁起、貴種流離)
一七:處女塚  /妻争(*入水)

【平安鎌倉時代】
一八:百合若大臣/英雄傳説
19:物臭太郎  /譚式[?]
20:道成寺淸姫 /人龍蛇
21:菅公怨雷火 /怨靈傳説
22:平將門   /分身傳説
二三:姥捨山  /棄老傳説
24:三庄太夫  /人身賣買(*長者没落)
25:葛の葉   /人獣交婚
26:百足山秀鄕 /妖怪退治英雄
27:鬼女紅葉狩 /鬼賊退治英雄
28:酒てん童子  /鬼賊退治英雄
29:羅生門   /鬼賊退治英雄
30:うぶめ   /雪女傳説
31:梅若丸   /人身賣買
32:殺生石   /妖狐傳説
33:鵺退治   /妖怪退治英雄
三四:苅萱かるかや石童 /宗教的縁起
35:辨慶法師  /英雄巨人
36:牛若丸   /英雄傳説
三七:扇の的  /白鳥片影名人騎手(*平家?)
38:與市與成よいちよなり  /妖怪退治英雄(*兄弟による怪物退治、縁起)
39:鉢かつぎ  /出世傳説
四〇:一寸法師 /小人傳説
41:猿神退治  /人身御供

【室町時代】
42:ちごヶ淵  /兒争(縁起)(*悲恋)
四三:人魚  /人魚傳説
44:義犬塚  /人身御供
四五:築城犠牲/築城犠牲

【江戸時代】
46:皿屋敷/皿數へ
47:雪女 /不老長生

 これを見ると、「伝説」か「口碑伝説」かは考慮されていない。
 分類名は藤澤衛彦の設定を踏襲した風で、現象や主体による命名である。個別の分類に対する説明は特になく、半ば自明の物として使って居る。
 各伝説の時代を明確に区分し(多くは天皇まで特定)、「時代順」に並べている。これが序文で述べて居た「傳説を史的に調べたものはまだないと思ひます。」という特徴である。

 個別の解説でも典拠は何かといった、「根元の記録」に言及している。但しこれらは飽くまで文献の成立に基づいた時代判定である点は注意を要する。
 逆に、年表には無いが本編で収録されている伝説は次の八種である。

A「雷の生捕」(*小子部栖輕関連)
B「鴛鴦おしどり亡露[*靈]傳説」(*出家説話)
C「梅若丸」(*薄幸の子供、あるいは班女、亡霊)
D「御曹子島廻り」(*牛若丸関連)
E「富士の人穴」(*洞窟)
F「雛鶴姫の傳説遺蹟」(*護良親王の寵姫)
G「七夕傳説」
H「兎の餅つき」

 各時代の特性を示してそれぞれを重視する一方で、採録する伝説自体は室町時代以前が圧倒的多数である。
 縁起、物語、御伽草子、謡曲などからも採録されているが、主要な記録文献がいつ頃成立して居るかが判る点こそが、この年表の最大の価値であろう。
 本編で収録が無い伝説をみると、おおむね類似のもの(一五→01、一七→09、四〇→03)、特定宗派的なもの(一六、三四)、道徳倫理に関わるもの(二三、四五)、不老長生テーマのもの(七、四三)といった特徴を見出せる。また「一三」は分類が「養老孝子」となっているが、酒ばかり飲んだくれてる男が登場するし、本編で採り上げながら内容について記述が一切無い「19」も、毎日ごろごろ寝てばかりいる男が出世する話であって、国家総動員の時代にそぐわないと判断された可能性がある。後者については、分類も誤植なのか「譚式」となっていて意味が通じない。
 ところが「白鳥沼」(これは日本武尊と弟橘姫の伝承をさす)の紹介では、「走水海へ御投身なさつて尊の御身代りとなられたといふ美しい物語」(p75)などと述べていて、同じ「犠牲」的なテーマでも「四五」と「04」とでは評価が異なるようである。

 「人身賣買」という分類があるが、これは判りづらいというか、内容を読む限り伝説の主要テーマとは言えない。「人文祖神式」というのもよく判らないが、柳田の苦言によれば西洋の学者が提唱した分類名らしい。
 「兒ヶ淵」も僧侶が稚児に懸想して後追いをするのであるから「兒争」よりも「悲恋」が適切であろう。
 「因幡の白兎」が「神話式」というのもよく判らない。素直に「神話」で良いように思うが、恐らく海外の伝説との類似といった意味で、形式的なものと言いたいのか。
 全般的には化物を退治する系の話や、貴人・武士を主人公とする話、入水や流離譚などがメインで、「少年」向けらしいといえばらしい編纂である(イラストや写真もある)。しかし宗教的なもの(縁起)となると、高僧では役行者のみである。
 本書とは直接関係が無いが、巻末に『少年史傳叢書』というシリーズ本が広告されていて、そのラインナップから日本の仏教に関連が深い人物を拾うと、「聖徳太子」「良寛和尚」「僧空海」「日蓮上人」「一休禅師」「太政入道淸盛」「弓削道鏡」が刊行されている。つまり糸井はこれらの人物を「少年向け」とは異なる理由で本書から外していることが判る。そしてここには無い「役行者」を加えている。発行元が同じなので、敢えてかぶらないように配慮した可能性もあるが、「神話」同様に「宗教的伝説」や「縁起」も、一般的な「伝説」とは区別し過度に採り上げなかったと見るべきであろうか。
 糸井は伝説全般に「特異なゆかしさ」を覚えるという一方で、個々の解説ではどちらかというと真偽に言及し否定的に観ている。それは「傳説を史的に調べ」るという研究態度に由来するのであろう。元々伝説研究には「縁起」を自派の宣伝と看做す傾向があるので、糸井もその立場の研究者と言えよう。

 筆者の研究と連関する部分では、「猿神退治」と「義犬塚」を「人身御供」に分類している点が注目される。
 「人柱」は文言が無いが、「築城犠牲」が恐らく相当するだろう。これも分類を「築城犠牲」としている。
 水界に関する伝承が少ないが、それには理由がある。「富士の人穴」の解説で次のような記述がある。

「渦巻が人をとるのは、水の底にある穴が人をとるのであつて、そこの主が人をとるのだと考へた。上總の國の神崎では利根川の渦巻水、つまり川の主がいけにえとして人をとつたといふ風にいひ傳へてゐる。しかしそういふ場合には、いけにえになつたものが、人であらうと物であらうと、それは水の底の主とは何の係もないことで、そこの渦の下にある深い神秘な穴の中に落ちて行くのであつて、つまり穴にさゝげられたのであつた。」(p409)

 ここには龍蛇的な水神の存在を否定する解釈が見られる。これを他の収録した伝説群と比べれば、糸井にとって龍蛇は退治されて然るべき存在だということを暗に物語っている。

 

E:『神話伝説辞典』の分類項目(S38[1963]/東京堂)

1:神話
2:伝説
3:昔話
4:説話
5:歌謡
6:信仰

 編者は朝倉治彦・井之口章次・岡野弘彦・松前健。
 辞典という性格(50音順)もあってか上記のような最低限のカテゴリのみである。
 このカテゴリ内で著名な伝説を項目として採り上げて、解説する構成である。

 項目として「人柱」はあるが「人身御供」はない(「猿神退治」の項で言及がある)。
 伝説カテゴリに収録されているものをオブジェ(項目の名詞)別に見ると、次のものが確認できる。

杉、松、銀杏、
岩、塚、石、
長者、村、寺、地蔵、著名人、落人、井戸、里、異形神、家、
山、坂、峠、
淵、池、水、川、島、橋、
その他。

 しかし収録数で言えば、植物系と岩石系が圧倒的に多く、伝説総数230項目中樹木は58、岩石は60で、この二項目だけで全体の半数を占めている。
 ただし、オブジェでの判定なので、その由來を主体にすると鬼や河童や高僧等の伝説としても分類可能なものが含まれている。例えば「腰掛石」は「誰かが腰掛けた石」というだけのものであるが、石の伝説なのかその人物の伝説なのか判定が難しい(というより一概に言えない)。
 その判定は、その人物がそこに居た(来た)ということが主題なのか、それともここに特定の石が残されていることの説明が主要テーマなのかで変わってくると言える。
 前者は「コト」を重視し、後者は「モノ」を重視しているとも言えよう。柳田國男の分類は後者の立場に依るものであり、本書も九割以上で上記のような項目名詞が付くので、それをある程度踏襲していると言える。

 「伝説」という項目の中の[分類]という段落では「いくつかの分類案があるが未だ理想的なものは見あたらない。」としつつ、記念物や物品などによる形式分類は容易だと述べている(p321)。これは「モノ」の共通項で括っていく分類案である。これと対照的なのは「コト」すなわち物語構造の共通項で括る分類案である。
 また同項目では「はなはだ不十分なもの」と前置きした上で「内容と変遷」に着目し、次のような分類案が提示されている。

『神話伝説辞典』の伝説分類案


「神霊が木や石に憑依して顕現するという信仰にもとづき、その依代が形をかえて伝説化したと思われるもの」
「神霊の祭りに際しては、臨時の祭場を設けて祭ることが多いが、そういう祭場の名残りと考えられる事物に関する伝説」
「神霊の来臨以外にも、祭儀や呪法を背景としたと思われる伝説」
「神霊が他所から訪問してきてあらわれるという信仰にもとづき、英雄・武将・高僧・貴人の巡回・来遊を記念すると説明している伝説」
「長者伝説。(富の獲得や成功の部分を伝えるものは少なく、没落の機縁や廃墟を説明するものが多い)」
「地名伝説。(地名の由来を説明するための伝説、また地名に結びつけて伝わる伝説)」
「昔話その他の口承文芸の伝説化したもの。(伝説が他の口承文芸化したものももちろん多いが、ある土地に定着して伝説となったものがある)」(以上p321)

 これらは言うなれば伝説の「機能」による分類であり、その思想的背景にあるのは、伝説を完全にフィクションと看做す意識である。
 しかしそう単純に割り切れるものだろうか。
 例えば⑥だが、地名の由來(伝説)が説明のために「作られた」話だとするなら、その地名はいつ誕生したのかという問題が生じる。
 つまり、最初にそう名づけた人たちが居たという事実が見落とされてしまう。これは「出来事(事件)」→「地名」という事実の存在可能性を一切無視する態度である。そこには「歴史」だけが唯一の真実だとする強迫的観念がありはしないだろうか。なぜ「伝説」という形式で語り継がれているのかといった視点が無いし、A地点、B地点、C地点の各伝説の発生要因が同一ということにもなってしまう。それは「伝説」の一つの特徴でもある「舞台の独自性」を失うことになる。
 こうした考えの根底にあるのは、伝説が「語り部」の様な者たちによって伝播された口承文芸に過ぎないといった認識であろう。
 柳田も寝太郎伝説を採り上げて「ほとんど日本の全土の何處どこにでも知られて居り、又往々にして土着して傳説でんせつに化して居るのは、かりに全部が惡七兵衛の末流の所業で無いまでも、少なくとも話そのものが、始終旅をして居た證據証拠といふことは出来る」(柳田國男『桃太郎の誕生』pp.270-271)と主張するが、筆者にはどうしても解せない。
 語り部によってもたらされた話なら「別の土地の話」として定着するはずである。どうしてそれが「自分たちの土地の話」になるのか。自分たちの土地の記憶は誰より共同体の構成員が知るところのものであろう。
 筆者はむしろ、何らかの共通項をもつ異なる話が、一つのキーワード(固有名詞)や文芸的装飾を拝借することで相対化しただけなのではないかと考える。つまり言語的に言うと、伝説の平均化標準化である。

 例えば、近年災害に関連して「蛇」という文字を含む土地と水害との関連性が注目されたが、それは「蛇」という文字を含む土地に水害が多いのではなく、水害が多かった土地に「蛇」の文字を含む地名が生れたと解すべきではないのか。
 言わば水害を蛇に仮託したのであって主題は水害である。それを大蛇の真偽を主体に解してしまえば、大蛇など居ないし何となく心持ちの悪い言葉だから変更しようという流れになって、「水害が多い」という真に伝承すべきことが脱落してしまう。
 無論、一つの地名に一つの伝説とは限らないので、中には牽強付会的な説もあるだろう。しかし両者を単に「地名伝説」(地名の説明のための伝説)として括るのは、やはり伝承ごとのテーマを見落とすことになるであろう。「地名の由来を説明するための伝説」と「地名に結びつけて伝わる伝説」は分けた方が良く、それを分けるためには別の分類法が必要である。

 ④も同様である。「神霊が他所から訪問してきてあらわれるという信仰にもとづき」という前提は、訪れた者がすべて仮託された者だと決め付けることを意味している。
 しかしそういう伝説が多いのだとしても、全てがそうだとは言い切れないし、その区別をどうするのかが考慮の埒外になっている。逆に言うと、真偽の判定ができないからすべて虚構と看做すに等しい。それは日蓮研究で喩えると真蹟遺文しか認めないという態度と同類である。そこにはやはり「記憶の共有」といった当事者(伝承者)の観点が欠落していると言わざるを得ない。現代を起点とした観測者の視点だけである。
 それでは「歴史」のような一面しか把握することはできないであろう。一面がいかに事実だとしても、それは決して全面ではなく、故に真実ではない。歴史では判らない事象を浮かび上がらせるための伝説研究に、史学的な手法だけを採用するのは本末転倒というものである。
 伝承行為を支えるのは「信」なのに、その伝承自体が単なる「機能」でしかないとなると、誰も伝えなくなるだろう。
 そういう意味では、本書の分類案に対する筆者(さすらい)の物言いは「伝説の合理化」と言えるかも知れない。

『神話伝説辞典』の「人柱」について

 本書の「人柱」については、辞典という性格上その語義を説明するものになっているが、次のように説明されている。

「川の堤防や橋や城を作るとき、人を生きながら埋めて犠牲とし、丈夫なものを作ったという伝説的行事およびその伝説。人の霊をもって柱を強化しようとするもので(後略)」(p384)

 ここで主体となっているのは、完全に「人」である。
 穿った見方かも知れぬが、こういった認識の仕方が結局「少なくとも日本では一般的な現実習俗の投影であったとは認めにくい」(p384)といった評価に繋がってくるのではないか。
 本書に限った話ではないが、この問題は「人身御供」についても同様で、それが【殺しても差し支えない邪神】というカミ殺しの語りになってくる。

 話を人柱に戻すが、定義の中に水神や海神といった要素が含まれないのは「築城」の事例を考慮しての判断かと思う。
 これはまた土木工事の成功が、神仏ではなく人に左右するという解釈説明でもある。その力学は対象者の選定にも表れていることが多く、特定の宗教者らが媒介する神託よりも村民による協議というパターンが多い。対象者を指定した当人が対象者に成ってしまうというのも、特定の提言者の排除と読み解くこともできる。
 しかし「人の霊をもって柱を強化」することと、一部の伝説で語られるような<犠牲者の供養や怨霊化>は相容れないし、人柱を中止して人以外の代替物でも機能したと語られるような例もある。
 それらを特殊な事例とすることは簡単だが、もう少し包括的な説明も可能なのではないかと愚考する。
 今は人柱研究の前段階としての分類考察であるから結論は留保するが、次の点は指摘できる。
 本書で実際に採り上げている伝説例を見ても、河川は年に一度氾濫し毎年被害が出て作り直すといった事例[A](伊豆狩野川)や、対象者を氏神に祀ったという事例[B](津山嵯峨井堰)がある。最古の事例として紹介される茨田堤は二人が河神への贄に指名されながら、実行されたのは一人で、かつ有効であった[C]。
 事例AとBの間には微妙な断裂があり、BとCとは決定的な隔絶がある。要するに氏神や産土神の問題である。
 そして人柱対象者の多くは部外者か子供であるが、本書の定義では対象者がまったく無視されている。これら二つの問題を考慮しないままで良いのか。無論、伝説が派生し合体し改造されるものであることは承知して居るつもりだ。だからその定義の考察としては「基本形」を定める作業でもある。(筆者の研究課題でもある)

 

F:『日本の伝説』(全50巻)の分類(S51-55[1976-1980]/角川書店)

1:京都
2:沖縄
3:信州
4:出羽
5:讃岐
6:房総
7:愛知
8:大阪
9:佐渡
10:甲州
11:鹿児島
12:加賀・能登
13:奈良
14:秋田
15:東京
16:阿波
17:北海道
18:埼玉
19:近江
20:神奈川
21:広島
22:土佐
23:奄美
24:富山
25:青森
26:熊本
27:上州
28:長崎
29:岡山
30:静岡
31:宮崎
32:伊勢・志摩
33:福岡
34:美濃・飛騨
35:山口
36:伊予
37:茨城
38:佐賀
39:紀州
40:宮城
41:越後
42:岩手
43:兵庫
44:栃木
45:福島
46:若狭・越前
47:鳥取
48:出雲・石見
49:大分
50:離島

 都道府県と旧国名をごちゃ混ぜに使いつつ全県別にした分類である。
 全50巻の大著だが、いろいろ課題も多い。
 各都道府県を更に内部のエリア(例えば房総なら下総・上総・安房)で分割し、それぞれの地域の伝説を羅列していくスタイルである。ところが文体はエッセイ風で(土地の状景や歴史、交通に関するリード文から始まる)、そのような「現代の状景」を綴った文章からそのまま伝説を語り始める構成になっており、また一連の文章であるから当然項目ごとに目次が立てられているわけでもないので、筆者のように特定の伝説だけ調べたい向きには至極不便である。
 伝説名も伝承されている題名や民話風の題名をそのまま使ったものが多いので、駆け出しの筆者なぞにはぱっと見何の話か判らない。例えば「鬼の城」とか「龍宮の池」では内容は想像できても何処の話だか判らないし「火除けさん」ではお手上げである。
 これらは恐らく「本書を片手に現地を歩いてみよう」的な編集コンセプトが原因であって(附録の地図まである)、純粋な伝説本というよりは紀行文などに近い物である。言い換えると、伝説が学者の手を離れ文筆家の手で扱われるようになったとも言えよう。

 こういった研究利便性の面から考慮すると、伝説の名称・表記については、やはり固有名よりも「地名・舞台名+カテゴリ名称」の方が良いと考える。例せば「羅生門の鬼」とか「阿武山の大蛇」といった具合にネーミングに規則性を持たせるわけである。たとえ羅生門や阿武山が判らなくとも都道府県別にしておけば調べる手がかりは提示されているし、目次の段階でほぼ特定できると言えよう。
 伝承の主体を明示すれば分類にも便利であるし、舞台の明示は「場所の怪異」といった切り口での研究にも便利であろう。分類はそれ自体が目的なのではなく、その先を見据えた視点が不可欠であろう。

 地域別分類についても何故かナンバリングがばらばらでまとまりが無く、上記の如く巻数順に並べたら地域で調べたい時に甚だ不便である。
 各巻200頁を超すが、後ろの半分ほどは前半の中から「物語風」に語り直した伝説を「十選」として再紹介しているので、実質的には半分である。

 本書の面白い点としては、他の伝説本でも見られるような伝説が、何故か若干内容が異なっているケースが少なくないことである。ただし一部を除き典拠についての記載は無いので、その異説が何処から採録されたのかまでは分からない。

 

G:相賀徹夫編『ふるさと伝説の旅』(全13巻)の分類(S58-59[1983-84]/小学館)

1:北海道
2:東北
3:関東
4:東京
5:中部
6:北陸
7:近畿
8:京都
9:奈良
10:中国
11:四国
12:北九州
13:南九州

 「北海道」「東京」「京都」「奈良」だけを単巻とし残りはより広域の地域で分けた分類である。
 先年刊行された角川版『日本の伝説』シリーズの欠点をことごとく改良したような内容・構成になっている。
 都道府県別の刊行ではなく、より大きな地域に包括し全13巻にまとめている。それぞれのエリアからの分割も都道府県レベルまでである。
 このエリア分類は藤澤衛彦の分類[C]を増広した感があり、すっきりとしてバランスも良い。沖縄は12巻の南九州に含まれて居る。
 ナンバリングも北から南で整っているし、「北海道」「東京」「京都」「奈良」だけ単体なのも、日本という国の文化的な地域特性が垣間見えるようである。

 伝説ごとに物語(概要)と解説を付けたものをメインに構成し、コラム的な読物や地名由來の紹介を挟んで、巻末には都道府県別の簡易な伝説リストが掲載してある。
 メインの方は、題名の他にサブタイトルを付けることで内容を判りやすくする工夫がされ(例えば「絶壁を打ち破った僧―青の洞門」「身代わりの人柱―鶴と市太郎」)、項目ごとに頁数が振られて居るので、読みたいものを撰びやすく、調べたい時にも便利である。
 巻末のリストは読まないと判らないものもあるが、リスト化されているし、三行程度の梗概だけで余計な文章が無いので確認は容易である。このリストは各地元の新聞社が編輯を担当している。但しほとんどは典拠が不明であって、どの程度の要約が為されているのか俄には判らない。
 巻頭には一枚刷りのカラー写真を掲載。この写真は美しく見応えがある。
 あとは、ほぼ九割の漢字にルビが振ってあるので世代を問わず楽しめると思う。

 ソフトカバーの本書はサイズもデカすぎず、地域の主要な伝説をざっと確認する上で非常に重宝するシリーズといえる。

 逆に残念な点としては、やはり典拠がほとんど示されていないことである。本編の方は解説が付くので初出文献について言及されることが比較的多いが、巻末リストの方はほとんど調べようがない。郷土誌辺りを参照してるかと推察するばかりである。
 編輯段階で何らかの文献を調べてると思うのだが、それを明記しないせいで次世代の研究者がうまく引き継げないのはやはり残念である。

人柱伝説について
 本シリーズの人柱伝説については、巻末リストも含めてすべてチェック済みである。概要文がどこまで適切に要約されているのか確認できない点に難があるが、筆者が設定する分類の比較項目には概ね当て嵌まり、統計対象に含めても誤差は僅少と判断する。

 

H:伊藤清司監修『ふるさとの伝説』の分類(1989-90/ぎょうせい)

1:愛・悲恋
2:英雄・豪傑
3:幽霊・怨霊
4:鬼・妖怪
5:名人・奇人
6:高僧・長者
7:寺社・祈願
8:城・合戦
9:鳥獣・草木
10:地名・由來

 80年代末に刊行された10巻本である。
 伝説本はしばらく地域別分類での刊行が相次ぎ定着したかに思えた中で、再び「語られるモノ(伝承主体)」に焦点を当てた分類である。
 昭和期の伝承主体分類で筆頭を占めて居た「樹木」や「岩石」は個別項目から消えて居る。
 「樹木」は「草木」として、「鳥獣」とセットで第九巻の扱いである。
 第四巻を別とすれば、一巻から八巻までは概ね「人」を中心とした伝説と言えるだろう。またその四巻も「退治」という観点では「人」が主体に成り得る。
 第十巻の「地名・由來」も人の生活と密接な分類名称である。[B-5]で違和感のあった分類を再編した結果とも言えよう。

 こうした変化は自然に関するものを中心に、伝承オブジェが急速に喪失したり省みられなくなった社会的な背景が影響していると考えられる。
 ただし、項目立てが変わっただけで、実際の伝説はこの分類法によって分散・再編された可能性も残る。(本書は全巻のチェックが出来ていない)
 また、カラーの図版を中心に編纂されているので、そういうヴィジュアル面で映える(差異化しやすく図画資料の多い)伝説が主軸に採録された可能性も指摘しておきたい。

 「霊」や「妖怪」はこれまで見られなかった項目である。読本、浄瑠璃、歌舞伎など江戸の大衆芸能で怪談として流行して以来、近代的先進国と化してなおその人気が衰えていないことを物語っていよう。しかるにその人気は史実性を具えた伝説としてのはやり信仰ではなく、生成と消費を繰り返すエンターテイメントとしてのものである。
 高木の分類[A]では「龍蛇」「河童」が見られたが、それらは「神話」というくくりであった。それは大正時代に「龍蛇」や「河童」がまだ神の範疇において語られる存在であったことを示している。
 しかし本シリーズでの分類である「幽霊・怨霊」や「鬼・妖怪」というカテゴリからは、「神」の要素はまったく見出せず、「妖怪」として一括りにされている。これも一つの大きな変化と言えるだろう。それは「畏きモノ」と定義され恐れられたカミが、その実在性を半ば否定され、世俗的な利益をもたらす信仰対象としての表面的な神と成り、また闇に潜んで個人を驚かすだけの妖怪と化し、ついには人間を基底とする解釈・認識であらゆる怪異を語るが如く、完全に文藝化された感がある。
 神道のカミが神社という一つの建物に押し込められたのと同様に、妖怪もまた漫画やゲームの中だけでわちゃわちゃするだけの存在となった。そして伝説は、それを信じる者の意識の海原に、ささやかな常世の海鳴りを響かせているのである。

 

I:吉成勇編『日本「神話・伝説」総覧』の分類(1992/新人物往来社)

1:神話
2:英雄伝説
3:聖者伝説
4:異界・精霊伝説
5:由來伝説
資料:人物事典、用語事典、関連文献リスト
付:都道府県別一覧

 激動の昭和が終り、日本社会の構造を政財界が結託して破壊し始める平成に突入して間もなく刊行された小型のムック本である。西暦的にも2000年へのカウントダウンが始まり、世紀末を象徴するような大事件の発生や、個人単位でのパソコンの普及、インターネットによる情報の加速化を数年後に控えた時代である。

 それぞれの項目ではまづ「概説」を掲げ、続いて該当する神話・伝説を採り上げ、各担当者があらすじ、歴史的な解釈、分布地域、参考文献を定型的に示している。
 これらの執筆面で特筆すべきは、再び伝説の「語り手(紹介者)」が学者に戻ったということである。
 そのことを印象づけるように、学術的な根拠を踏まえた解説に重点が置かれていて、研究者や初学者にとってもその伝説の研究略史が知れるなど、成立段階からその伝説がどのように扱われてきたかを把握するのに有意義な構成となっている。
 極めて学術的要素が高い内容でありながら、見開き1ページの定型的な記述なので簡潔であり、特段難解な点は無い。

 2の英雄伝説は「神武東征伝説」に始まり、武将を中心に23種を収載するが、「天草四郎」が含まれて居るのが特異な印象を受ける。最後は「宮本武蔵伝説」となっており、近代以降の人物は含まれていない。

 3の聖者伝説は「聖徳太子伝説」に始まり、僧侶を中心に19種を収載するが、「小野小町」や「和泉式部」も含まれて居る。最後は「蓮如伝説」となっており、やはり近代以降の人物はいない。

 4の異界・精霊伝説は「浦島太郎」「夷・大黒」「鬼」「河童」「聞き耳頭巾」「巨人」「ザシキワラシ」「徐福」「天狗」「天女」「年神様」「八百比丘尼」「桃太郎」「雪女」などの19種を掲載する。

 5の由來伝説は「兄妹始祖伝説」から「椀貸淵伝説」まで37種を収載するが、「犬祖伝説」のようなあまり聴き慣れない(本州で見られない)ものが採り上げてあったりする。
 「人柱伝説」はここにあるほか、記紀の「三輪山伝説」も何故かここにある。

本書の人柱伝説
 人柱伝説は「長柄橋」と「築島」をメーンに構成している。どちらも有名ではあるがやや特種な事例である。分布については高木敏雄が紹介したものがほとんどで、内容までは触れていない。その高木が紹介した伝説の「名称」や「内容」からしても、人柱伝説を「由來伝説」で括るのは無理がある。

 以上、神話を除く四項目の内訳をざっと確認したが、やはり違和感のあるものが散見される。これはやはり分類の柱が少なすぎるのが根本原因であるが、別の言い方をすれば、本書は伝説の分類にほとんど注意をはらっていないとも言えよう。ジャンルを設定し体系的な観点から読み解こうとするのではなく、むしろ個々の伝説で主体を為すものがそのまま一つの独立したジャンルを構成するものとして捉えられている
 これは分類案が多岐に亘って定まらないという事態を、特性として逆手にとったとも解せる。だから例えば「三輪山伝説」の解説で、祭祀者が祭神を祖とする伝承と説明される一方で、異類神婚譚であるとか、蛇聟入り・苧環型でもあると指摘されるわけである。最初にジャンルを設定して一箇所に当て嵌めようとするのでなく、その「主体的要素」を持つ伝説はどのような観点でどのように把握できるかを示したと言える。このような分類は、目次の大分類こそやや雑ながら、個別には非常に安定的であろう。
 「人柱伝説」についても、「人柱伝説」としてジャンル立てすることで、あらゆる人柱モチーフの伝説を包括することができる。改めて思うのは、高木敏雄が既に大正二年の段階で「人柱伝説」を一つの分類項目として立てていたその慧眼の凄さであろう。

 

J:『日本の伝説を旅する』の分類(2005/世界文化社)

1:京都1
2:江戸・伊豆七島
3:北海道1
4:鎌倉
5:天草・高千穂
6:岐阜・大津
7:那須・福島
8:加賀・越前
9:河内・摂津
10:武蔵野
11:甲斐・信濃
12:京都2
13:津軽・男鹿
14:駿河・伊豆
15:北海道2
16:尾張・三河
17:博多・薩摩
18:出雲
19:大分
20:佐賀・長崎
21:松島・平泉
22:沖縄
23:松山・土佐
24:房総
25:因幡・伯耆
26:庄内・佐渡
27:筑波・秩父
28:宮島・総社
29:奈良
30:屋島・小松島

 全30巻。大判のフルカラー週刊誌である。様々なサイズのカラー写真を多数掲載した35ページほどの薄い本である。
 伝説を扱った本というより、伝説地を観光する本といった雰囲気で、その土地の季節の花や温泉、祭から土産までも載って居る。同じ様なコンセプトだった『日本の伝説』シリーズとは隔世の感があり、歴史や寺社に興味がある若い女性なども手に取りやすいだろう。ただ地名がマニアックすぎて筆者ですら何処だかよく判らないものが幾つかあるし、刊行順も適当である。
 本書は全巻の確認がとれていないが、例えば第25巻では、「因幡の白兎」「うわなり神事由来」「お藤・井左衛門」の三種がメイン記事である。見開きの伝説地マップでは「幽霊滝」「投入堂」「赤松池の大蛇」「羽衣石山の天女」など11種の伝説が紹介されている。
 「名所巡り」は特に伝説の有無と関係なく紹介。

 

補足:国際日本文化研究センター運営『怪異・妖怪伝承データベース』(開設年不明)の分類

「検索ページの絞り込み」は以下のカテゴリから行うようになっている。
1:地域
2:呼称

 現在も更新中のWebのデータベースである。
 採録は「伝説・世間話・体験談」といった文字化された民間伝承であり、「昔話」は除外されている。
 いわゆる怪異現象による分類である。この分類は地域や語り手(伝承者)によってかなりの個別化が生じる。
 むしろ特定地域のオリジナルな伝承として記録する意図があるようである。つまり、伝承ごとの地域的な差異を尊重した分類といえるが、どちらかというとその名の通り「データベース」然としていて、足がかり的なものであろう。(典拠の記載あり)

 

<総論>

 以上、十種ばかりの伝説本の分類を概観してきた。
 単一の伝説といえども、複合的な要素を持つものも少なくない。そういった伝説は、どの切り口で見るかによってカテゴリが変わる可能性が高い。従来の研究者が分類法に頭を悩ませてきたのも、アチラを立てればコチラが立たないの言の如く、何を主題と見做すかで属性が変わり得るものが多かったからである。
 しかしながらウェブサイトの特性として、容量を気にする必要が無いので、それぞれの分類法をすべて掲載したり、タグによって管理(個人による取捨選択)をすることも可能である。

 筆者は伝説を「物語構造」の観点から把握するが、物語には必ず「テーマ」(Thema)がある。テーマは語り手によっても左右されるが、ひとまづこれを「伝説の合理化」(の一つ)と言うことができる。
 高木敏雄が「モーチーフ」(motif)による区分も試みていることは確認した。Themaはドイツ語、motifはフランス語で、どちらも創作物の題材や中心となる主題といった意味である。
 しかし伝説は説話などと異なり、どちらかというと「歴史的事実」に寄せて淡々と記録されるものであろう。言うなれば原因・目的・結果を骨組みとしたものである。(それ以上でも以下でもない)
 その「語り」が真に事実のみ(現象のみ)を直截に伝えて居るのかといった判断は困難であるが、定着しあるいは伝播しているという事実が一定の信頼性を持たせていると看做すことはできよう。
 しかるに重要なのは、受け手の「信」である。「信」ある限りその「語り」は踏襲される。「信」が低下し疑念が芽生えたとき、新たな解釈の余地(合理化の模索)も生じる。筆者は伝説の変遷をこのように捉えている。

 現時点での研究においては「信」の低下そのものの是非については論じない。されどそこに注目することで分類の一つの指標になるとは思う。例えば人柱伝説の場合は、人柱行為に対する積極性・消極性がそうである。
 また最初の宣言の通り、この分類研究は人柱・人身御供伝説を研究するためのものである。故に、伝説全般の分類試案についても特に踏み込まない。

 まづは、「人柱伝説」を一つの項目として立て、「人身御供伝説」も同様に立てる。それから物語の構成要素を抽出する態でリスト化を実施していくこととする。リスト化の後、構成要素の数量的分布から諸伝説の分類(仕分け)を試みる。この假分類を基底として考察を行い、また構造的類似伝承や人身御供伝説との比較を行う。

 


【参考文献】
藤澤衛彦『日本伝説叢書』信濃の巻(T6[1917]/日本伝説叢書刊行会)
藤澤衛彦『日本伝説概論』(1956/河出書房)
新谷尚紀編『民俗伝承学の視点と方法』(吉川弘文館/2018)
山口佳紀・神野志隆光 校注訳『新編日本古典文学全集1 古事記』(小学館/1997)
朝倉治彦・井之口章次・岡野弘彦・松前健 編『神話伝説辞典』(S38/東京堂)
柳田國男『桃太郎の誕生』(三省堂/昭和17年)